映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

宇宙開発時代の啓蒙の弁証法、もつれ合う文明と野蛮、そして神話(スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」/Stanley Kubrick "2001: A Space Odyssey" 1968年)

スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」(Stanley Kubrick "2001: A Space Odyssey" GB/US 1968 141 Min. 70mm.)を鑑賞。

 

あらすじ

映画は、謎の物体モノリスと触れ合った類人猿が、大型動物の骨を道具として用いるようになるシークエンスから始まる。覚醒した類人猿が空高く放り投げた骨は、数千年後の宇宙に漂う人工衛星へと切り替わり、宇宙開発時代の物語が始まる。1999年、あるアメリカの調査団が月面探索を行った際、太陽光を浴びたモノリスが木星に向け強い信号を発する。それから18ヵ月後の2001年、人工知能HALを搭載した宇宙船ディスカバリー号が木星探索に向かう。その途上、船長ボーマンら乗組員たちは、HALに違和感を覚えるようになる…

 

※公式トレイラー。日本語字幕版。

www.youtube.com

 

宇宙開発時代のSF映画と文明論

今年2018年はキューブリック「2001年宇宙の旅」公開から50周年ということで、夏の間に近所の映画館でも特集が組まれていた。おかげでこの映画の70ミリ版を鑑賞できたほか、特集に合わせて上映された60年代後半から70年代にかけてのSF映画をいくつかまとめて観ることができた。

この時期に宇宙を舞台にした映画が多く製作された背景にはもちろん、冷戦の対立構造から激化した宇宙開発競争があるだろう。実際この時代には、人類が宇宙へ進出していくというそのことが、それまでとは比べものにならないほどのリアリティをもった事態に思われたにちがいない。そしてそのような意識の下では、宇宙を舞台にしたSF映画も、単なる空想の産物というより以上に、もしかしたら現実になるかもしれない未来を描き出すものとして制作されたことだろう。このことは、この時期のSF映画の質にも如実に反映されているように思う。

私にとってとりわけ印象的だったのは、60年代から70年代にかけての宇宙開発をモチーフにしたSF映画が、ある種の文明論、人間論としての側面を強く持っているという点だ。それはおそらく、宇宙への進出やそのための技術を考えるというそのことが同時に、地球という星やそこに生きる人類を——あるいは現代という時代を——相対化して捉え直すというそのことにつながったからではないかと思う。いま地球に人類が生存しているというその事態は、宇宙という視点と尺度を持ち出すことで、かつてそうであったように唯一のものとは思われなくなる。そしてそのことが、地球の上にある人類やその文明にも、反省的な眼差しを注ぐことにつながる。

そのような文明論的反省の一つの結実といえるのが、フランクリン・J・シャフナー「猿の惑星」(Franklin J. Schaffner "Planet of the Apes"  US 1968)のペシミスティックな文明観だろう。この映画の物語は、文明の進歩はしょせん一過性のものでしかなく、いずれ来る崩壊や没落と隣り合わせのものでしかない、という世界観の上で紡がれているのだ。

 

宇宙開発時代の啓蒙の弁証法、文明と野蛮のもつれ合い

このペシミスティックな文明観と対照をなすのが、少し遅れて同年に公開された「2001年宇宙の旅」だろう。

この映画は、類人猿が道具を使うことに目覚め、それによって文明の第一歩が始まったことを示すシークエンスから始まる。そして道具の使用を知り覚醒した類人猿が空高く放り投げる骨は、印象的な映像の転換をもって、宇宙を漂う人工衛星の姿へと変じる。類人猿が使うことを覚えた道具は、何千年にもわたる啓蒙の過程を経て、宇宙を行き来することができるものにまでに進歩を遂げた。この転換によって映画は、きわめて洗練された映像技術とともに、文明の進歩の先端を描くことに自らの主題があることを告げるのだ。

もっともこの映画は、文明の進歩を単に手放しに賞賛するものではない。野蛮から身をもぎ離そうとする文明の進歩はいつも、暴力的な野蛮の増大へと転落する危険性を孕んでいる。文明と野蛮とのもつれ合いとしての啓蒙の弁証法*1は、この映画「2001年宇宙の旅」を最初から規定している。文明の歩みを始めた類人猿が手にした道具によって最初に行なったのは、敵対する部族を決定的に殴り殺すことだった。道具の使用は、素手や牙ではなしえなかったほどに徹底的に、破壊的に、生命を粉砕することを可能にした。その最初の一歩からして、文明と野蛮は、表裏一体であったのだ。

このことは、宇宙開発時代においても繰り返される。この映画における最先端の道具は、宇宙船を統括する人工知能のHALだろう。宇宙船ディスカバリー号を管理する役割を担うHALは、宇宙開発という人類の目的を達成するために開発されたものであるはずだった。しかしHALが志向する全面的な管理は、それ自体で自立化し、人間に仕えるよりもむしろ人間を支配することを目指すようになる。そして挙句には、支配に従うことのない乗組員たちの抹殺を自らの任務と見做すに至る。

HALの暴走をめぐる一連のシークエンスをもって、映画は、宇宙開発時代の啓蒙の弁証法の軌道を描く。そこでは道具の進歩が、逃げ場のない全面化した虐殺に転化する。最高度の人工知能という先鋭化された道具において、文明と野蛮は、再びもつれ合うのだ。*2

 

形而上学的原理としてのモノリス、「超人」への覚醒という神話的モチーフ

しかし映画は、ぎりぎりのところで、道具による全面的支配から逃れようとする人間の姿を描き出す。そして興味深いことにこの映画は、文明の進歩のさらなる決定的な一歩を、ある種の形而上学的原理とともに示唆しようとする。

この映画における形而上学的原理を表すのは、超生命体モノリスだろう。物語のそもそもの最初からモノリスは、進化を引き起こす超常原理の象徴として登場している。道具の使用という文明の一歩を踏み出した類人猿の覚醒も、もともとはモノリスとの交信によって引き起こされたものだった。そして首の皮一枚のところでHALの暴走から逃れた船長ボーマンもまた、モノリスとの交信を通して、既存の人類を超えた存在へと転換していく。

文明の最先端、文明の進歩と野蛮の暴力が先鋭化されて交錯し合った宇宙船のただなかで、一人生き残ったボーマンのモノリスとの交信は、人類の新たな覚醒を引き起こす。映画の全体を通して幾度も演奏されるシュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」は、既存の人類を超えていくものとしての「超人」のモチーフを、繰り返し提示しているのかもしれない。ボーマンの覚醒は、既存の知覚の次元を超えて行くような映像の連鎖を伴って表現される。こうして新たな次元での人類の誕生を示唆しながら、映画は幕を閉じる。

モノリスという形而上学的原理によって引き起こされる覚醒と進歩というモチーフは、もちろんそれ自体きわめて神話的なものだ。宇宙開発時代においてまで続く文明と野蛮とのもつれ合いを描き出した本作が、文明の崩壊への決定的な転落を回避するためにモノリスによる超人への覚醒というきわめて神話的なモチーフを持ち出しているというこのことは、注目に値することかもしれない。文明の暴走の極端化に対する拠りどころを神話に求めるというのもまた、啓蒙の弁証法の一つの軌道であるのだ。この映画の魅力と怖さは、まさしくこの軌道を正確に辿っているというところにあるのかもしれない。*3

*1:一応断っておくと、このあたりの表現は、アドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』から借りている。

*2:この映画の原題が「2001年:宇宙のオデュッセウス」("2001: A Space Odyssey")であることは、本記事のテーマからすると興味深いことに思われる。というのも『啓蒙の弁証法』において文明と野蛮が錯綜する最初の物語として読み解かれたのが、他ならぬオデュッセウスの神話であるからだ。まさしく「2001年宇宙の旅」は、文明と野蛮の交錯の物語を宇宙開発時代に変奏しているという点で、「宇宙のオデュッセウス」の神話であるのだ。

*3:この記事の主題からして興味深いことに、「2001年宇宙の旅」の数年後に公開されたタルコフスキーの「惑星ソラリス」(Andrej Tarkovskij "Soljaris" UdSSR 1972)もまた、文明の進歩の一つの軌道を描いている。この映画では、文明の進歩としての宇宙開発が袋小路に陥り、それに携わる個々の人間が自らの内面の記憶に囚われる姿が描かれている。「2001年宇宙の旅」における進歩の神話と対照をなすかのように、「惑星ソラリス」は、文明がどこまで進んでもそこに生きる個々人は過去の記憶に囚われ続けることを——その意味で人間性の本質的な進歩などは起こりえないことを——記憶を可視化する惑星ソラリスというそれはそれで神話的なイメージと共に描いている。