映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

「映画を読む」ということについて

このブログを始めて三か月が過ぎて、記事もいくつか書いてみて、なんとなく自分なりの原則というか指針のようなものができてきたような気がする。ブログのタイトルも登録時の「Filmreview」から少し前に「映画を読む」に変えたのだが、これは私が今後も映画について書いていく際のモットーのようなものになると思う。なので、それについて私自身のスタンスというか、考え方のようなものを、簡単に書いておきたい。

 

読まれるものとしての映画、現実の映し絵としての映画

映画というものは、特定の時間と場所で、特定の条件下で制作される。そこに描かれる内容も、またそれを表現するための技術や方法も、特定の歴史的条件に制約されている。それは逆に言えば、映画のなかには、ある特定の歴史的文脈で生じた諸々が織り込まれているということでもある。ある映画におけるテーマやコンセプト、或いはその映像や音楽は、その時代その場所そのコンテクストを含みこみ、映し出しているのだ。

もちろんそれは、当時の歴史そのものではありえない。映画製作者による事実の捻じ曲げや単純化、特定のイデオロギーや思想の投影といったことも、映画のうちではしばしば生じている。さらに言えば、20世紀文化産業の申し子たる映画は、商業的な利害関係と無関係に制作されるものではなく、興業上の成否もまた映画の内容に反映されている。映画は決して、純粋に現実を知覚するものでも、利害関心から自由なものでもない。

重要なのは、このような捻じ曲げや投影、利害関係の反映それ自体もまた、やはり時代の産物だということだ。端的に言って、映画はその時代の写し絵であり、その映像のうちには——意識的にであれ無意識的にであれ——多彩なものが織り込まれている。このイメージの織物からは、ある種の時代の写し絵を読み取ることができるだろう。「映画を読む」と私がいうときの映画とは、このような意味での読みもののことだ。

 

…以上のことはもちろん、あらゆる芸術作品に共通することではあり、映画にのみ言えることではない。それでも映画に特有なことがあるとすれば、それは、映画が20世紀という時代の産物であるということだろう。

映画技術それ自体は既に19世紀に生まれているが、映画が実際に人々の間に広がり、良くも悪くも一大文化産業となり、それを作る人々や鑑賞する人々の生活を左右するようなものになっていったのは、20世紀のことだ。20世紀という時代はそれ自体決して一義的なものではないが、それでもそこには今の私たちの生活世界とある程度まで連続した近代性、社会性があり、そのことが映画制作をも規定している。

21世紀に入っても、今のところは、映画はその存在感を失っていないように見える。今後どこまで映画という表現メディアが生きていくのかはわからないが、少なくとも現時点では、映画は、20世紀から21世紀という時代——近代から現代と呼ばれる時代——における諸々のイメージを写し取るものとして機能しているように思える。この意味で、「映画を読む」ということは、同時に、我々の生きている今に連なる時代を読むということでもあるだろう。

 

映画を「読む」ということ、その制約

ところで「映画を読む」というそのことは、映画の筋や内容、あるいはその映像を、単に客観的に叙述するということではないだろう。というのもそこには、イメージを「読む」というある種主観的な行為が介在するからだ。目や耳を通して知覚したものを、理解し、考え、解釈する、というプロセスを経て、私ははじめて映画について何かを書くことができる。

このプロセスは、少なくとも私にとっては、テクストを読み、それについて何かを書くことと似たような作業だ。読むという作業において私は、テクストのうえに織り込まれたものに依拠するわけだが、しかしテクストに書かれている文字を手掛かりにして、直接には書かれていないことまでをも考えることができる。例えば時代背景や筆者の意図を考慮することができる。さらには書かれている文字やその布置関係が——ときには筆者の意図を超え、またときには筆者の意図に反して——どのような解釈可能性を開いているかを、読み込むこともできる。映像だけでなく、言葉や音から成る映画のイメージ群もまた、このようなものとして「読む」ことができるはずなのだ。

この「読む」という作業は、読みものとしての映画に依拠するものであると同時に、読み手にもかかっている。つまり読み手である私のもっている知識や経験によって、読まれ方は大きく変わってくるだろう。同じ映像を見ても、それをなんとも思わない者もいれば、そこに重要な解釈契機を見る人もいるだろう。

もっとも、読まれるものたる映画が歴史的・社会的制約のなかにあるのと同じように、読む者たる私もまた、ある特定の歴史や社会のコンテクストの中に——望む望まないとにかかわらず——巻き込まれている。日本で生まれ日本で育ち、ある程度年をとってからたまたまドイツで勉強することになった私がドイツ映画を観るまなざしは、たとえばドイツで生まれヨーロッパを出ることなく育った学生とは違うだろう。或いは生まれ育ちの状況は似ていても、映画に関してはまったく違う見方をするということはしばしば生じる。時代や場所、知識や経験に制約された一個人として、たまたま観ることになった映画を読み、その感想や印象を文章に定着させていくということ、私にできるのはこれ以上のことではない。

もっともこれは、恣意的な思い付きとは違うものであると思っている。「読む」ことは、その映画とその鑑賞者だからこそ可能になる特殊な事柄ではあるのだけれども、そこには同時に、個人的な感想に還元できない何かしらの質がかかっているはずだと思う。私は、今の自分にできる範囲でではあるが、ある種の質を担保できるような映画の読み方ができればいいと思っているし、その質を伴った感想や印象を反映した文章を書くことができれば、と思っている。

 

私の「読み方」について

最後に少し私自身のことについて。

私はどうも、何かを「読む」際に量をこなすということが苦手な人間のように思う。いわゆる「遅読」というやつで、本を読む際、流し読みしようと思いながらページを繰っていっても、読んでいるうちにだんだんとそれができなくなっていき、メモをとったり書き込みをしたりして、読み終わるまでかなりの時間を要してしまう。だから量がこなせない。そのくせ、ある作家がいつどこで何を書いたかとか誰と友人だったかとか、或いは本の概要がどうだったかとか、そういう基本的な情報を覚えることも苦手だ。すぐ忘れてしまい、読んだ時の印象だけがぼんやりと残る。

このことは、私の映画の観方にもあてはまる。私は自分のことを「映画好き」と自称することが苦手なのだけれど、それもこの点に関係する。私の知る限り、いわゆる「映画好き」の人たちは本当に大量の映画を鑑賞しているし、監督や俳優のこと、映画にまつわる賞のこと、映画史や映画理論にまつわる諸々のことを本当によく知っている。或いは映画技法や音楽、制作過程について体系的な専門知識を持っている人もいるだろう。私自身その種の情報を読む際には面白く感じるし、そういうことをよく知っている人をうらやましいとも思う。しかし私はどうもその能力が弱いようで、映画もそこまでの量をまとめて観られないし、映画に関する情報を記憶のなかに保存しておくことができない(このブログ上に出てくる細かい情報などはその場で調べて書いたもので、私のなかに定着しているものとは言い難い)。この点に関しては引け目を感じてもいる。

そういうわけで、私の映画の読み方というのは、或いはそれに関する文章の書き方というのは、どうしてもその時その時に観た映画に定位する、というものになる。ある特定の映画の鑑賞を通して読み取ることができたものが、文章の基本になる。監督のスタイルの変遷とか、映画史的な問題設定とか、技法的な問題とかは、書ける範囲では書きたいけれど、それについて私は、おそらくそこまで実のあるものは書けないように思う。私はそれについて専門的に勉強したわけでもないし、情報としての知識もない(いつか時間ができれば、一度ちゃんと勉強したいとは思っているのだが)。だからこの点を求める人にとっては、私が映画について書く文章というのはあまり読み甲斐のないものかもしれない。

ただそれでも、私なりに映画から読み取れたものを、私なりに知っている事柄と関連づけつつ文章に定着していく、という作業はしていきたいと思っている。現実の写し絵として映画を読むという方針からも、また私自身がこれまで勉強してきたものとの関係でも、私が何かを書きたいと思う映画は、どうしても近現代ヨーロッパ、とくにドイツの文化や社会に関するものが多くなってしまいがちで、そのことは少し一面的だなとは思うのだが(逆にとてもよいと思った映画でも、うまく印象や感想を言葉にすることができず、また印象や感想を文章に定着させる十分な手掛かりもなくて、記事が書けないということがある。それは端的に残念なことではあるのだけれど、さしあたっては仕方がない)。

願わくは、映画について、ある種の質を伴った印象や感想をそこに反映したような文章を書ければとは思っている。もっともそれは半分以上、自分自身のためのものではあるのだが(その時の印象や感想を忘れないように、そのとき考えた事柄をあとで思い出すよすがになるように)、自分が書いたものを、たまたまここに辿り着いた誰かに読んでもらえれば、それは端的に嬉しいことだ。そして万一そこから何かを感じたり考えたりしてもらえたならば、それ以上のことはないと思っている。

今後も少しずつ更新していければと思っているので、もし時間と関心があれば、よろしくどうぞ。