映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

寓話として描かれる不公正、苦しみの担い手としての驢馬(レゾ・チケイジェ、テンギズ・アブラゼ「青い目のロバ」/Tengiz Abuladze, Rezo Tschcheidze "Lurja magdani" 1956年)

レゾ・チケイジェ、テンギズ・アブラゼ「青い目のロバ」(Tengiz Abuladze, Rezo Tschcheidze "Lurja magdani [英題:Magdana's Donkey]" UdSSR 1956 67 Min. 35mm. オリジナル+ドイツ語字幕版)を鑑賞。近所の映画館でジョージア映画特集が開催されており、その枠で観ることができた。

 

あらすじ

小さな山村に三人の子供と慎ましく暮らす未亡人マグダナは、毎日はるばる山道を越え、街の市でヨーグルトを売ることで生計を立てている。そんなある日子供たちは、山道で衰弱して倒れている驢馬を見つけ、村の顔役が苦笑しながら通り過ぎる傍ら、この驢馬に水と餌を与える。彼らの献身もありやがて元気を取り戻した驢馬はルージャ(ルルジヤ?)と名づけられ、マグダナの家に引き取られる。そこでマグダナは、回復したルージャにヨーグルトの壺を担わせ街に出ることにする。ルージャのおかげでいつもよりも多くの壺を持って街に出ることができたマグダナだったが、偶然にもルージャを山道に捨てたもとの持主である商人と出くわしてしまう。彼はマグダナが自分の驢馬を盗んだと主張し、裁判所に訴え出てしまう…

 

※Youtubeではトレイラーが見つからなかったが、マグダナが町に出てルージャの持主と出くわすシーンの映像があったのでそれを貼り付ける。…映画全編もアップロードされているようだが、ここには貼らないでおく。

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寓話として描かれる不公正、富を持つ者に持たざる者が抱く怒り

1956年のカンヌ国際映画祭にて最優秀短編映画賞を受賞したという本作「青い目のロバ」は、どこか寓話めいた物語を通して、社会の不公正を描いている。可愛らしい子供たちの描かれ方や、登場人物が口ずさむ歌のメロディーもまた、物語の寓話らしさを演出している。そしてそれだけに、物語の後半において顔をもたげる不公正の描写は、痛々しいものとして提示されることになる。

寓話らしく、登場人物たちは、リアリティに拘った精確な描写がなされているというよりは、単純化された図式の上を動いているように見える。貧しい村人たちは、善良で人を思いやり精を出して働くが、彼らの生活は向上しない。吝嗇で下品な街の商人は、使用人や荷運びのロバに対してひどく粗暴に振舞い、自らの財産を独り占めにする。この寓話は、富を持たざる者は善意で動いているのに幸運を享受することができず、富を持つ者のみが利己的に幸福を独占することを許されている、という社会的図式のなかで展開されるのだ。

粗暴な商人は、過度な荷を負わせて弱らせてしまった驢馬を、使用人の少年に命じて山道に捨てる。この驢馬を子供たちが見つけ、愛情に満ちた世話で助け出したことによって、マグダナの家族には一筋の幸運が舞い込んできたように見えた。驢馬のおかげで多くのヨーグルトを街まで運ぶことができるようになり、今までよりも生活が楽になるかもしれない。そう思ったマグダナは、一番下の娘が欲しがっていた赤い靴を買ってやると約束して街に向うのだ。

しかし街でマグダナと偶然会った商人は、彼が捨てたはずの驢馬を彼女が連れているのを見て憤慨する。商人はマグダナのことを泥棒だと罵り、終いには裁判所に訴えでてしまう。彼にとって驢馬はもう用済みで捨てたものであったはずなのに、その驢馬によって他の誰かが——ましてや貧しい未亡人が——利益を得ることには我慢がならないのだ。マグダナは、彼に対して自らの公正さを証す術を知らない。それに対して商人は、裁判という場において、法的正義のみかけの上で、自らの独占的な利益を守る手段を知っているのだ。

裁判においても、公正さは働かない。山村の村人たちはマグダナのために出廷し、問題の驢馬が瀕死で路傍に捨ておかれていたこと、それをマグダナの子供たちが助け出したことを口々に証言する。また驢馬を捨てさせられた使用人の少年も、商人が驢馬に対していかに非道な扱いをしていたかを暴露する。しかし有力者である村の顔役は、驢馬に関する事情を知りながらも、商人に不利となる証言を控える。そして裁判所は結局、マグダナは驢馬を不当に手に入れたのであるから、元の持主である商人に返却しなければならない、という判決を下してしまうのだ。

司法の場でも、そこで有効となる振舞をするか有力な者の証言を得ることができなければ、公正さは働かない。貧しき者たちはそもそも、公正さに与る可能性からも締め出されているのだ。こうして驢馬は、見せかけの公正さのもとで下された判決に従って、粗暴な商人の手に戻っていく。商人に強引に連れられて行く驢馬の姿を見送って、村人たちは山村へと戻っていく。諦念と、憤怒をたたえて。こうしてこの映画は、富を持つ者に対して持たざる者が抱く社会の不公正への怒りを、少なからず単純化された寓話的図式によって、描き出すのだ。

 

苦しみの担い手としての驢馬、利害関係から疎外されたものへ注がれる子供たちの眼差し

個人的に印象に残ったのは、富を持つ者と持たざる者とを図式化しつつ社会の不公正を暴き出さんとするこの映画において、驢馬のルージャが、そのどちらにも翻弄されながら苦しむ存在として描かれていることだ。ルージャは、商人によっては軽んじられ、鞭うたれ、瀕死になれば捨て置かれる。村人たちには愛されているように見えるが、それでも結局は壺の運び手として利用されることが期待されることになる。そして最後には、再び自らを軽んじる者に強引に引かれていくことになる。この翻弄の只中でルージャは一言も発しはしない。ただただ無言で苦痛と重荷に耐え、何かしらの利益を生むことができなければ無用だと見なされるルージャの姿は、社会の利害関係が生み出す苦しみを一身に担っているかのように見える。*1

この映画のなかで、ルージャをただ無条件に労わり、愛情を注ごうとするのは、驢馬から直接の利益を求めることのない子供たちだけだ。富を持つ者と持たざる者との間の二項対立的な図式のなかで動くこの寓話のなか、驢馬のルージャは、利益と不利益、公正と不公正という既に認められた枠にすら入りこめないで、ただただ社会の利害関係の只中で翻弄される。軽んじられ、足蹴にされる驢馬の姿は、その苦しみの表象をもって、どこか宗教的なイメージを連想させるものでさえある。いずれにせよ、苦しみの担い手として描かれるルージャの存在を、既存の社会の枠からはみ出した何ものかとして見ることはできるだろう。彼に注がれる子供たちの眼差しは、社会の利害関係から疎外されたものを認めようとする何かしらの思いを、暗示しているのかもしれない。

*1:苦しみの担い手としての驢馬、というこのモチーフは、ロベール・ブレッソン「バルタザールどこへ行く」(Robert Bresson "Au hasard Balthazar" 1966)を思わせるものだ。このモチーフは、少しこだわって考えてみると面白いかもしれない。