映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

カトリック教会のイメージ戦略と、宗教権力の機能転換のドキュメントとのはざま(ヴィム・ヴェンダース「ローマ法王フランシスコ——自らの言葉を生きる男」/Wim Wenders "Pope Francis: A Man of His Word" 2018年)

ヴィム・ヴェンダース「ローマ法王フランシスコ——自らの言葉を生きる男」(Wim Wenders "Pope Francis: A Man of His Word [Papst Franziskus – Ein Mann seines Wortes]" DE/IT/CH/FR 2018 96 Min. DCP. ドイツ語ナレーション+字幕版)を鑑賞。近所の映画館での上映時に監督ヴィム・ヴェンダースがゲストとして来ており、上映後には映画に関する質疑応答もあった。

 

概要

カトリック教会から委託を受け制作された現ローマ法王フランシスコのドキュメンタリー映画。清貧の理想を讃えたアッシジの聖フランシスコの名を冠し2013年に着任した法王の姿を追っている。映画は主として、様々な催しや対話のために世界中を巡る法王の姿、監督により直接行われた法王へのインタビュー映像、そして合間合間に挟まれるアッシジの聖フランシスコに関するサイレント映画風の映像から構成される。これらの映像を紡ぎ合わせながらヴェンダースは、法王フランシスコがいかなる理念をもち、それに基づきいかなる活動を行っているのかを提示する…

 

※英語オリジナル版の公式トレイラー。

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経済原理と衝突する清貧の理念、その政治的ポテンシャル

ドキュメンタリー映画「ローマ法王フランシスコ——自らの言葉を生きる男」は、ローマ法王の生涯を時系列的に追った伝記映画ではない*1。むしろ本作は、現ローマ法王がいかなる理念をもちいかなる原理原則のもとで活動しているのか、という点に主題を絞っている。映像の見せ方として奇抜な表現こそなかったが、全体の構成の仕方は洗練されており、前提知識がそこまでない私のような鑑賞者も退屈せずに見られるものになっていた。この記事で映画の内容の全てを再構成することはできないので、個人的に印象に残ったテーマに即して紹介がてら書いていきたい。

私にとって特に印象的だったのは、法王フランシスコが——彼の名前の由来であるアッシジの聖人を引き継いで——「清貧」の理念を強く打ち出していることだった。公的な催しでの説教でも監督によるインタビューでも、法王は繰り返し、地上の生において金銭にとらわれることの愚かさを非難し、経済的成功は彼岸の救いと無関係であることを強調する。そしてそれによって彼は、現世においては貧しさの中で清らかに生きるべきであることを説くのだ。

興味深いのは、この清貧の理念が、一方ではこの世で貧者や病者に身を寄せ苦しんだキリストの受難の物語に基づくものでありながら、他方では現実の世界に対する批判的原理として機能することができる、ということだろう。法王フランシスコは明らかに、世界を支配する資本主義原理やそれによって拡大する貧困や階級格差、民族分断の問題を念頭に置きながら、清貧の理念を説いている。人々が少しずつ貧しくなることができれば、世界中の全ての人が決定的な貧困からは救われるのだというのだ。ここには明らかに、社会主義や共産主義の階級闘争やそれによる「革命」の理念にさえつながりうるような、政治的な含意が響いている。*2

そしてローマ法王が、世界最大の宗教権力を担う者の一人として理念を語るとき、彼の言葉は一定の政治的な影響力を持ちうる。言葉の上では宗教的な公正さを説くときでさえも、その言葉は社会における公正さを問いただすことにもなる。誰よりも法王フランシスコ自身が、自らの言葉の政治的ポテンシャルを充分に意識した上で、アッシジの聖フランシスコに由来する「清貧」の理念を自らの行動原理として掲げるのだ。

 

カトリック教会のイメージ戦略という側面、映画が道具化される潜在的危険

見逃してはならないのは、このドキュメンタリー映画それ自体がカトリック教会のイメージ戦略に寄与する側面をもっているという点だろう。そもそもこの映画の制作自体、ヴェンダース側から構想したものではなく、カトリック教会からの委託という形で成立したものだったという。ここには明らかに、実力と知名度のある監督によって魅力的なローマ法王の姿を提示したいという教会側の意図が、見え隠れする。もちろん教会がセルフプロデュースをすることそれ自体が悪いわけではないが、とはいえ踏まえるべき諸点はあるだろう。

歴史上、時の権力者を撮影した映画は、往々にして特定の権力機関の正当性を主張する手段として機能してきた。わかりやすい政治的主張を直接に喧伝するプロパガンダ映画はもちろんのこと、一見そうは見えない作品でさえも、間接的に何か特定の権力機関に奉仕することがある。宗教的主題もその例外ではなく、むしろ観る者の熱狂を掻き立てる一要素として利用されることがある*3。何か特定の権力機関やそこに属する人物を主題とした作品が鑑賞される際には——もちろん過剰に批判的にならなければならないというわけではないのだが——その作品がイデオロギー的な喧伝のための道具へと堕していないかという点は、ある程度センシティブに反省されるべき問題であるだろう。

ヴェンダースのドキュメンタリー映画も、カトリック教会権力の長たるローマ教皇を映すものである以上、この問題と無関係ではない。ヴェンダースもおそらくはこの点を意識して、カトリック教会をとりまく現代的ないくつかの問題——カトリックの祭司が為した児童への性的虐待の問題や、同性愛をめぐる問題——を扱うことで、一定の距離感を保とうとしているようには見える。

とはいえそれでも幾つかの箇所においては、映画が、魅力的な教皇像を提示するための手段になりかけているようにもみえる。インタビューの際に法王フランシスコは、明らかにカメラの向こうの聴衆を意識し、過剰なまでにカメラに視線を向ける。彼の微笑みや身振りには、ドキュメンタリー映画をカトリックの教会の外に向けた自己PRの場として利用しようとするヴァチカン側の意図が見え隠れする。繰り返しになるが、イメージ戦略のための映画が制作されることそれ自体が悪というわけではない。ただし映画を観る者は、この点はある程度割り引いて鑑賞する必要があるだろうとも思うのだ。*4

 

宗教権威の機能転換のドキュメントとしての側面、21世紀の公共圏における教会権威のあり方

とはいえこのドキュメンタリー映画からは、カトリック教会側が意図していたであろうイメージ戦略という側面とは別の側面をも読み取ることができるように思う。それはこの映画が、宗教権力が21世紀の国際社会において経験せざるをえない機能転換を記録するものになっているという点だ。

そもそも宗教そのものは、社会や俗世から身を離そうとするその身ぶりにもかかわらず——或いは他ならぬその身ぶりによって——現実社会の世俗的原理との一定の関係において成り立つものであり、これまでもそういうものとして存在してきた。この点を考えるうえで重要なのが、宗教的な聖性の原理と世俗的なこの世の原理との緊張を孕んだ関係は、時代や場所、論じるコンテクストによって変化しうるものであるということだ。両原理の布置関係は、文化や歴史を超えた一義的なものとしては規定されえない。聖性に関わる宗教権威は、世俗の領域において、その機能を転換させるのだ。

ヴェンダースのドキュメンタリー映画はまさしく、ローマ法王の活動や言説を通して、カトリックの教会権力が21世紀の世界においてどのように機能するか——機能しなければならないか——を記録するものになっている。宗教権力は、国際社会という公共圏において一定のプレゼンスを保っていくために、望む望まないにかかわらず一定の政治的役割を果たさざるを得ないし、公共的な政治的公正さを充たすことを求められる。だからこそローマ教皇フランシスコもまた、「清貧」の原理に基づいて国際的な諸問題について発言をなし、それによって国際的な公共圏から権威であり続けることを承認されなければならない。また逆に、教会権力が公共圏の規範を逸脱するときには、緊張が生じもするのだ。

また教会権力はしばしば、政治的機能としての影響力を意識的に行使することを求められもする。だからこそ法王は、世界中を飛び回り、そこここで期待される役割を果たさざるをえない。各国の首脳や要人と会談し、民衆の前に歩み出て説教をし、慰霊や慰労の場にも姿を見せる。また時にはキリスト教の外の——ユダヤ教やイスラム教、仏教などにおける——宗教権力とも対話の場を持ち、相互承認によって宗教間の紛争を和める象徴的な役割を果たす。現在のローマ法王が期待される役割を十分に果たしているかどうかという問題はさておき、ヴァチカンの教会機構が21世紀においてなお宗教権力として自らを保とうとする以上、このような国際政治上の機能を果たすことは法王に課せられた義務となり、それはしばしばキリスト教の厳格な教義内容から逸脱しさえするのだ。

この記事の枠で詳述できることではないが、時に「ポスト世俗化の社会」と呼ばれる21世紀の国際社会において、宗教権力が次第にその力を失っていくだろうという旧来的な世俗化論の予想は裏切られ、依然として宗教権力が一定のプレゼンスを示している。注意しなければならないのは、そこにみられる宗教権力のあり方は、中世のそれとも、あるいは100年前のそれとも異なっているという点だろう。この映画は、宗教権威のこの機能転換のドキュメントとして、興味深く観られるものだと思う。

*1:法王フランシスコの半生を描いた伝記的映画としては、ダニエーレ・ルケッティ「ローマ法王になる日まで」(Daniele Luchetti "Chiamatemi Francesco - Il Papa della gente" IT 2015)という映画があるようだ…が私はまだ観ていない。

*2:法王フランシスコ自身、貧困の問題に言及する際に「革命」という言葉を用いて自らの理想を説く。もちろん彼は社会転覆や労働者階級の独裁に通じる教条的マルクス主義の「革命」ではなく、あくまでキリスト教信者としての内面的な道徳の革命を語っているのだろう。が、それでも彼はおそらくこの言葉がもつ政治的、社会的含意を十分に意識して用いているのではないだろうか。興味深いことに、監督ヴェンダースは上映後の質疑応答で、このドキュメンタリー映画で提示されるローマ法王の理念が「共産主義的」だとする(とりわけアメリカのプロテスタントの)聖職者の側からの非難があったということを語っていた。法王自身がそこまで語ることはなくとも、キリスト教が社会に対してもつある側面は、共産主義や唯物論思想のある側面と、重なり合うことがあるのだ。

*3:以前このブログでも、1920年代にルターやキリスト教のモチーフがドイツ・ナショナリズムと結びつくものとして表現されていたことを取り上げる記事を書いた。関心のある方は、ハンス・カイザー「ルター、ドイツ宗教改革の映画」についての記事を参照してほしい。

*4:とこの記事を書いている間に、ちょうどローマ法王が妊娠中絶を「殺し屋に頼る」ことに喩えたという報道が出た。妊娠中絶に関する彼の思想そのものの是非はさておいても、このような発言は、このドキュメンタリー映画で提示されたローマ法王の姿、科学による問題解決や人間の権利尊重を原則として支持しているかのような姿とは、異なった印象を受けるものだろう:

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