映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

映画を通してルターを勉強する、その③ 語り直されるルター 敬虔な抵抗者として、あるいは誠実な信仰者として

filmreview.hatenablog.com

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ルター映画について、その③。詳しいことはその①の記事その②の記事を読んでいきただきたいのだが、以下では残り二つのルター映画について簡単に書いていきたい。

 

資金はなくとも、語り直されなければならなかった敬虔な抵抗者としてのルター像(クルト・オェテル「従順なる反乱」/Curt Oertel "Der gehorsame Rebell" BRD 1952)

1952年に制作されたルターに関するドキュメンタリー映画。内容としてはルターの生涯やその意義を淡々と追っていくものでそれ自体にそこまで特筆すべきことはないのだが、いくつか興味深い点があった。

 

低予算の映像表現と、制作の歴史的背景

まず一つ目に目を引くのが、映像の表現方法だ。この映画では、俳優が特定のセットのなかでルターを演じたり歴史的場面の再現をしたりといったことがなされていない。むしろ映画のほとんどが、教会や修道院といったルターゆかりの土地の映像と歴史的資料——ルターを図像として描いた絵画や文献——の画像との切り貼りと、それに合わせたナレーションとで構成されている。しかしそれらの映像や図像が魅力的なモンタージュになっているかというと残念ながらそうではなく、動きの少ない映像に単調な読み聞かせが続く、正直に言えば眠気を誘うものになってしまっていたようにも思う。このような表現手法をとった理由ははっきりとはわからないが、まず推測されるのは、戦後ドイツの映画制作が資金繰りの面できわめて大きな困難を抱えていたであろうということだ。 俳優もセットも存在しないこの映画は、このような状況に適合して、きわめて低予算で制作されることができたのだろう。

もう一つ興味深いのは、この映画が制作されたその歴史的文脈についてだ。というのもこのドキュメンタリー映画は、戦後最初に公開されたルター映画であるのみならず、西ドイツと東ドイツの共同制作作品でもあるからだ。つまりこの映画は、西ドイツの都市ヴィースバーデンの映画プロダクション主導で撮影されたものでありながら、東ドイツの映画会社DEFAの協力のもと制作されてもいるのだ。そのためこの映画には、ルター生誕の地であるアイスレーベンや彼が聖書翻訳に従事したヴァルトブルクなど、当時東ドイツに属していた土地の映像も使用されている。東西分裂から数年という当時のドイツの状況に鑑みると、このことは異例であるだろう。

 

ドイツ文化の源流ルターを敬虔な抵抗者として語り直す必要性

既に述べたように、映画そのものは特筆すべきものではなく、他のルター映画に比べれば映像作品としての魅力に乏しいものではある。しかしそれにもかかわらず面白いのは、1952年のこの映画の制作からは、たとえ予算がなくとも、また分裂したての東西ドイツが協力してでも、とにかくルターが語り直される必要があったのだろうことが推察されるということだ。ここにはおそらく、荒廃した戦後ドイツにおいて生じた宗教リバイバルの動きも関係している。しかしそれだけではなく、ルターを——ナチス時代にはドイツ国家主義に祀り上げられていたそのルターを——あらためてドイツの文化的源流として語り直すというそのことこそが、重要なことだったのだろう。

この観点から注目すべきは、この映画に「従順なる反乱」というタイトルがつけられている点だ。つまりここでルターは、神に対しては従順であったが、それがゆえにこの世の不正な権威に対しては断固として反抗した者として語られているのだ。ここには明らかに、ナチス的な国民国家に奉仕するようなルター像——記事②で取り上げたような1920年代のルター像——を払拭しようという狙いがある。そしてそれは同時に、ナチスにおけるようなこの世の支配の美化からは截然と区別される者として、敬虔なキリスト教信仰の体現者であり不正な体制への抵抗者としてルターを再定義し直そうという試みであるだろう。

この試みは、資金の面でも、表現の面でも、きわめて弱々しいものであったように思われるし、実際にどこまで国家主義的ルター像の払拭に寄与できたかというとなんとも言えないところがある。しかしいずれにせよ、弱々しい仕方であれ、戦後の荒廃したドイツにとって数少ない文化的拠り所であったルターは語り直され、正当化され直されねばならなかった。だからこそこの映画「従順なる反乱」は、政治的な分裂にもかかわらず、東西ドイツの協力のもとで制作されることになったのだろうと思う。

 

信仰の率直さゆえにプロテスタントたらざるをえなくなった、誠実な信仰者としてのルター像(エリック・ティル「ルター」/Eric Till "Luther" DE/US 2003)

ドイツとアメリカ合作の、劇映画としては21世紀最初のルター映画。前の二作とは時代も違えば制作規模も異なり、迫力ある演出や映像で構成されたこの映画は、エンターテインメント性を備えた歴史ものの大河ドラマに仕上がっている。そのおかげもあってかこの映画は、興行的にもそこそこの成功を収めたらしく、ドイツ映画としてはアメリカでもっとも興行成績を収めた映画の一つでもあるそうだ(アメリカとの合作ということを度外視すれば、だが)。

内容としては、激しい雷雨をきっかけに修道院入りを決意するところから、免罪符/贖宥状をめぐる論争とそれにともなう異端試問、その後の帝国追放に聖書翻訳、そして帝国議会における「アウグスブルク信仰告白」の認可に至るまで、ルターの生涯を時系列に沿って丁寧に追ったものになっている。

※下はトレイラー。

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誠実な信仰者としてのルター像、伝記映画としての説得性

この映画の特徴の一つは、ルターを大言壮語の運動家ないし扇動者としてではなく、悩み苦しむ一人の信仰者として描いている、というところにある。ジョセフ・ファインズ(Joseph Finnes)演じる映画のなかのルターは、どこか気弱そうなところさえ見せる憂鬱な青年であり、自分から積極的にカトリック教会に牙を剥き論争を挑むような人物としては描かれていない。むしろ彼は、聖書に即した率直な信仰を貫いたそのゆえに期せずして教会と衝突し抵抗者(=プロテスタント)たらざるをえなくなった人物として、すなわちまずもって一人の誠実な信仰者として、描かれているのだ。

誠実な信仰者というこのルター像は、1927年における扇動的な国民運動家としてのルター像とはほとんど対照的ともいってよい描かれ方だと言える。さらにこの映画は—— 「95ヶ条の論題」をヴィッテンベルク城教会に張り出すという史実としては怪しい逸話を依然として劇的に描いてはいるものの——農民戦争における無力や修道女カタリーナとの結婚など、ルターにおいてしばしば問題視されるような点についても時間を割いて描写している。この意味で2003年の映画「ルター」は、多少の脚色はあれど、極力史実に即したルター像を提示する伝記映画であろうと努めているようにも思われる。このことは少なくともある程度まで成功しているだろうし、単なるエンターテインメント作品として魅力的であるのみならず、ルターの伝記映画としても説得力あるものになっているという印象をもつことができた。*1

 

映画をめぐる論争、カトリック教会からの異論

ただしこの映画は、その公開時には少なからぬ論争を引き起こしたのだという。とりわけカトリック教会から、映画における教会制度やキリスト教信仰の描かれ方が一面的で誤解を招くものであるとして批判がなされたということが、映画に際してなされたレクチャーで言われていた。

確かにルターに即してものを考えると、カトリック教会は腐敗した権力機構であり、その抵抗としてのプロテスタントこそが誠実で「正しい」キリスト教信仰のあり方であるということになるだろう。しかしこのような二項対立的な図式が、カトリックとプロテスタントを理解する際に常に有効であるかというと、そうではない。ルターの宗教改革以降、500年の時の流れの中でキリスト教は、とてもこのような単純化した図式にあてはまらないような展開と変化を遂げてきたからだ。

ルター的プロテスタントに話を限っても、それがキリスト教の世俗化や現世主義化を推し進めてしまい、キリスト教の救済宗教としての意義を形骸化させてしまったという批判は長らくなされている。つまり、少なくともキリスト教の救済論を重視する立場の者からすれば、現世における幸せや慈みを強調するようなルター的プロテスタントの教えは問題含みだということになるのだ。またカトリックはカトリックで教会権力の絶対化に伴う腐敗がしばしば大きな問題になってきたが、プロテスタント教会に同じような腐敗が起こらなかったわけでもない。

このような観点から、ルター的プロテスタントだけを誠実で正しい信仰の立場であるとしカトリックを悪習に満ちた旧体制であると喧伝するような映画は不公平で時代錯誤であるという異論がとりわけカトリックの側から上がったことは、想像に難くない。ドイツやアメリカのようにカトリック教会がいまなお一定の存在感をもつ文化圏においては、その声は決して小さいものではなかっただろう。

私は何かしら態度表明をするほどこの論争について詳らかに知らないし、この記事でこれ以上論じることもしない。いずれにしても確かなのは、2003年のこの映画「ルター」の公開が、否が応でも、カトリック教会に反抗するルター的プロテスタントの再正当化として受け止められ、それはしばしば時代錯誤なものだと見なされたということだ。

 

21世紀において宗教や信仰を改めて考えるということ

カトリックの側からこのような異論が上がることは、制作に際して予期されなかったわけではないだろう。この意味で気になるのは、カトリックからの異論は予期されていただろうにもかかわらず、なぜ21世紀に入って改めてルターの映画が製作される必要があったのかという点だ。そこには、宗教や信仰という問題をめぐるなにかしらの動機づけがあったのではないだろうか。

まず思い浮かぶのは、2001年のニューヨーク同時多発テロに象徴される、宗教の新たな顕在化という事実だ。20世紀後半の欧米社会では、近代世界において宗教は次第に存在感や説得力を失い、人間社会は世俗化され宗教を必要としなくなっていくだろうという議論がさかんになされていた。しかし21世紀に入ってからは、宗教や世俗化をめぐる議論のトーンが大きく変わり、「宗教」とカテゴライズされうる人間的実践がそう簡単には根絶しないものであること、むしろその急進的な抑圧や排除は危険な帰結を伴いうるものであることが、次第に自覚されてきた。そういうわけで、「ポストモダン」でも「ポスト世俗化」でもそのキャッチフレーズはなんでもいいのだが、21世紀の社会においてなおも世界中に存在する種々の宗教やそれに基づく文化のあり方に、あらためて問いが向けられるようになっているのだ。

この映画「ルター」が2003年に制作され公開されたということも、このような文脈と無関係ではないだろうと思う。そこでは暗に、あるべき宗教性、あるべき宗教的信仰のあり方というものが、模索されているからだ。もちろんそれがルターを単に賞賛するだけのことで終わり、ルター的プロテスタントだけが唯一の正しい信仰のあり方でありその他の宗教的実践はすべて過ちであるというような狭窄な結論を招いてしまうのであれば、そこにはたしかにある種の時代錯誤があるだろう。ルターという具体的な歴史的人物を扱うということは、そのようなアナクロニズムの危険性とも結びついている。

しかし彼の議論が500年前のある特殊な文化的制約の上で生じたものであるということを踏まえてこの映画を観るならば、そこから21世紀というこれまた一つの特殊な文化的制約のなかにおいて宗教的信仰のあり方を考えるための一つの契機を見いだすことは、可能であるかもしれない。近代化しつつある世界で「信仰」のあり方を問い、その結果として「宗教改革」という欧米文化史上の大きな流れを象徴することになったルターという人物に改めて目を向けるということは、単に過去を称揚するノスタルジーやアナクロニズムであるだけではなく、そこから現代にまでつながる諸問題を考え直すということにもつながっているかもしれないのだ。

 

…というわけで、1927年、1952年そして2003年と、全く異なった時代に制作された三本のルター映画をきっかけにルターを勉強しつつそれぞれの映画の文化的背景を考える、ということを三回にわたって試みてきた。キリスト教や信仰というナイーブな主題にかかわるものであるにもかかわらずかなり不正確なことやテキトーなことも書いているだろうと思うので、もし何かあれば指摘してもらえると有難い。

何にせよ印象的だったのは、映画というきわめて近代的・大衆的な媒体のなかで、ルターという伝統的な宗教的人物がこれだけ強い関心をもって扱われ続けているという事実だ。もちろん一方で、実際に数年間ドイツで勉強している者として、ドイツに住む多くの人にとってキリスト教はとうに説得力も魅力も失っているのだということも感じる。私がルター映画を観に行った際にも、やはり観客は年配の人が多く、また満席というわけでもなかった。しかし他方では、それでもルターの映画が製作されつづけ、配給され、一定の数の人の耳目を集めてきたという事実もあるのだ。

宗教的人物や宗教的主題を映画において扱うということが、宗教的な目線から見て正しいことであるのかは私にはわからない。宗教者からすればそれは、偶像崇拝や宗教の大衆娯楽化として批判されるべきものなのかもしれない。しかし映画を好んで観る者としては、宗教的な主題が映画において扱われるということは決しておかしなことではないと思う。映画は何かしらの仕方で現実を写し出すものでありうるし、宗教に関わる諸々もまた人間の生きる現実のなかで生起するものであるからだ。それは時に過剰であったり、イデオロギーによって歪められたりしたものであるかもしれない。しかしそうだとしてもそこには、宗教や信仰をめぐる時代や文化ごとの意識の何がしかが証言されてもいるのだ。

*1:もっとも、「95ヶ条の論題」の件を別にしても、細かい点では史実に即さない描写があるようだ。詳しく知りたい方は、この映画に関するWikipediaの記事("Luther (2003 film) ")の項目"Film inaccuracies"(独語"Historische Ungenauigkeiten")を参照してほしい。