映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

「素敵な女性」とともに描かれる、変動する西ベルリンのポートレート(ウィル・トレンパー「甘い戯れ/プレイガール白書」/Will Tremper "Playgirl" 1966年)

ウィル・トレンパー「甘い戯れ/プレイガール白書」(Will Tremper "Playgirl" BRD 1966 88 Min. DCP)を鑑賞。

 

あらすじ

西ベルリンにやって来た写真モデルのアレクサンドラは、元恋人のヨアヒムに会おうと彼が勤める建設会社のオフィスを訪ねる。しかし仕事で忙しいヨアヒムは彼女の相手を面倒に思い、部下のジークベルトに街を案内させることにする。命じられるままアレクサンドラと時間を過ごすジークベルトだったが、誘惑されるうちに彼女に恋心を抱いてしまい、婚約者を捨てて彼女と結婚しようとする。そのことを知ったヨアヒムは、アレクサンドラは一人の男に留まることのできない女だと忠告する…

 

※DVD版のトレイラー。ドイツ語で字幕なしだが、映像だけでもその独特のリズムや洗練された雰囲気を楽しめるのではと思う。

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「素敵な女性たちとともに素敵なことをする」というモットー

監督のウィル・トレンパーは、1960年代当時台頭しつつあったニュージャーマンシネマの潮流からは距離をとりつつ、彼なりの仕方でドイツ映画の新しい表現を模索していた監督だという。プログラムに載っていた説明文によれば、トレンパーは50年代のヌーベルバーグの映画から「素敵な女性たちとともに素敵なことをする」(Mit hübschen Frauen hübsche Sachen machen)というエッセンスを読みとり、それをモットーとして制作されたのがこの映画「甘い戯れ/プレイガール白書」なのだそうだ。

実際この映画は、アレクサンドラという若く野心的な写真モデルの奔放な生活を西ベルリンを舞台に描いただけのものだと言えなくもない。彼女は「プレイガール」として男たちを利用し、魅惑し、拘りなく乗り換え、軽快に気の赴くまま生きようとする。彼女の描かれ方はきわめて肉体的かつ直感的で、よく練られた構図とも相まってリズムのよい洗練された映像表現を構成している。当時のドイツ映画のコンテクストを考えれば、アレクサンドラを中心としたこの洗練された身体描写は、ただそれだけでも尖鋭的なものとして受けとられたのかもしれない。

 

変動する西ベルリンのポートレート、そのエネルギーのなかで交差し合う人々

とはいえこの映画の魅力は、アレクサンドラという女性に尽きるものではないだろう。というのもこの映画は、アレクサンドラをめぐる物語を通して、その舞台である西ベルリンの姿をも生き生きと描き出しているからだ。むしろ彼女や彼女をとりまく男性たちのエネルギーは、西ベルリンという街に引き寄せられその中を動くことによって成立しているものであるとさえ、言うことができるかもしれない。

もちろんこの「甘い戯れ/プレイガール白書」は、政治や社会を直接の主題とした映画ではない。しかしそれでもこの映画には、戦時の破局から復興し、経済的な発展を遂げつつある西ベルリンの変動のダイナミズムがはっきりと記録されている。アレクサンドラをとりまくヨアヒムやジークベルトという二人の男性が勤める建設会社はまさしくベルリンの再開発に従事しているのであり、大がかりな建設工事が映画のなかで映し出される。ベルリンは動き、変化し、エネルギーを生み出している。

人々は、このエネルギーのうねりに巻き込まれるように、目的も拠りどころも不確かなまま、変動する街のなかをあてどなく交差し合う。アレクサンドラもまた、自分が何をしたいのか、誰を本当に愛しているのかもよくわからないまま——そもそも誰か一人の男性を愛すべきなのかどうかもよくわからないまま——蠢く西ベルリンの街をふらふらと動き回る。政治や経済の様々な利害関心が織りなすうねりのただなかにあったこの街を漂い、カメラの前でポーズをとり、そして踊る「素敵な女性」の姿を魅力的に描いたこの映画は、1960年代の変動する西ベルリンのポートレート映画としても充分に魅力的なものであるだろう。