映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

架空の絵空事ではなく、現実の映し絵としての、SF映画(フリッツ・ラング「メトロポリス」/Fritz Lang "Metropolis" 1927年)

新年早々、フリッツ・ラング「メトロポリス」(Fritz Lang "Metropolis" DE 1927)を鑑賞。

ドイツ映画史上の古典でありかつSF映画の先駆、というくらいのことは知っていたが、その評判に違わないというか、それ以上のインパクトのある映画だった。

端的に言って質の高い映画で、物語を通底する世界観や思想も、それを表現する映像と演出も、時代の制約を超えて観る者に迫ってくるものがあった。映画館で通して観たが、145分という時間は全く長く感じなかった。

鑑賞してとりわけ印象に残ったのは、SFものの先駆けということでよく名前のあがるこの「メトロポリス」のイメージの世界が、単に未来の世界を架空の絵空事として描いたものに尽きてはいなかったということだ。むしろこの映画は、一貫して現実の世界の映し絵であろうとしているように思えた。それどころか、現実の社会を戯画化することで、今そこにある問題を告発しようとしているようにも思えた。そしてこの映画に描かれている問題はおそらく、1927年のドイツという歴史的な場所において極めてアクチュアルなものであったのだろうと思う。この意味では、目の前にある現実を写し取り告発することに「SF」映画の出発点があったのだとさえ言える。空想を描くということは、少なくともこの映画においては、現実と対峙することであったのだ。

 

以下、簡単な(やや恣意的な)あらすじ。

この映画中で世界は、地上と地下とに分割されている。地上は華やかな資本家の世界で、着飾った人々が、享楽にふけりつつ、幸福そうに生活をしている。それに対して地下は陰鬱な労働者の世界で、汚れた労働服に身を包んだ人々が、疲れ切った虚ろな顔で行き来する。労働者たちは、決まった時間に地上に赴き、休みなき機械労働に身をやつし、資本家の生活を支えている。映画中で資本家は「脳Hirn」に、労働者たちは「手Hände」に喩えられる。自らの生を享受する「脳」は、「手」たる労働者の生の充実のことなど一顧だにしない。この世界の「脳」にとって「手」は、使い捨ての道具以上のものではないのだ。ここでは両者は決定的に断絶されている。映画中の言葉を借りれば、「彼らは同じ言葉を話しているのに、お互いを理解し合うことがない」のだ。ここではバベルの塔の物語が逆向きにされている。言葉は同じであるのに、人々はお互いに疎外され、コミュニケーションは断絶されている。

この断絶された世界のなかに現われるのが、マリアである。明らかにキリスト教の聖母を暗示している彼女は、労働者たちに、現状の問題とその克服の可能性を説く。つまりばらばらになってしまった「脳」と「手」を結びつける「仲介者Mittler」が必要であるということを説く。マリア曰く、この「仲介者」とは「心Herz」である。とはいえ頭脳と手足を仲介する「心」は、未だ彼らのもとに現われていない。そこでマリアは、そのような「心」たりうる者が現われるのを待たねばならない、と強調する。このマリアに心を奪われるのが、地上の支配者の息子、フレーダーである。フレーダーは、地上の支配層の生まれでありながら、労働者が置かれた悲惨な状況に同情の心を寄せ、地下の世界まで自ら足を踏み入れることをした。それゆえに彼は、マリアから、待望された「心」になることができる者だと名指される。彼ならば頭脳たる資本家と、手足たる労働者を仲介することができるというのだ。

とはいえ、物語はそう単純には進行しない。フレーダーの父であり地上の支配者である資本家フレーダーセンが、マリアと労働者たちの集会を知り、自分たちの生活を脅かす危険因子であるとして問題視するようになるのだ。そこでフレーダーセンは、ヒト型ロボットの開発に取り組む発明家ロートヴァングに、マリアと同じ顔のロボットを作ることを命じる。ロボットのマリアを操って労働者たちの団結を無力化させようと企てるのだ。ロートヴァングは命令通りにマリアを誘拐し、開発中の人型ロボットにマリアの顔を与える。しかしロートヴァングはかつての恋敵であったフレーダーセンの言いなりにはならず、ロボットのマリアに労働者たちの反乱を扇動するようにけしかける。ロボットのマリアは、「手」たる労働者たちに、労働のための機械を破壊し、「脳」たる資本家たちを打倒することを教えるのだ。「仲介者」など待っていても来やしないのだから、「手」が自ら「脳」に取って代わらねばならない――。

物語の後半、ロボットのマリアに先導された労働者たちは地上に押し寄せ、メトロポリスの心臓部たる発電機を破壊する。これによってメトロポリスの電気系統は打撃を受け、大規模な停電が起こり、それを見た労働者たちは歓喜する。しかし同時に地下の彼らの世界では、それ以上の悲劇が起きる。発電機の破壊の影響で、地下の世界は崩壊し、浸水によって水没してしまうのだ。労働者による資本家の打倒は、資本家の世界を確かに小さく傷つけはしたが、それ以上に労働者たち自身の世界に大きな打撃を与え、自らの破滅を招いてしまう。労働者たちは、自分たちの子供を地下に置いてきてしまったことに気付く。資本家の支配者フレーダーセンもまた、自らの息子が地下に取り残されていることを知る。自らの子供がいなくなるということに気が付いて彼らはようやく事態の重要さに気付く。労働者たちは怒りを、自分たちを扇動したマリアに向ける。

そのとき地下では、本物のマリアとフレーダー(そしてフレーダーセンの元部下)が命からがら崩壊から子供たちを助け出していた。彼らが地上に姿を現したとき、マリアは労働者を扇動した魔女だとして追い回されることになる。本物のマリアが逃げまどうなか、姿を見せたロボットのマリアが労働者たちに捕えられ、魔女として火あぶりにされ、ロボットの姿を露わにする。他方でフレーダーは決闘の末ロートヴァングを制する。そして全てが終わった後で、「脳」たる資本家の頭フレーダーセンと、「手」たる労働者の頭とが、「心」たるフレーダーの仲介で手を握り合うシーンをもって、物語は終わる。

 

以上の物語のあらすじからしても明らかなように、この映画はきわめて寓意に富んでいる。基本的には「脳」と「手」とが「心」によって結び合わされることが主題になっているのだが、これはまさしく、資本家と労働者がお互いを許し合い、認め合い、そして協力し合うような在り方のことだろう。このような寓意は、1920年代ワイマール期のドイツが持つ歴史的意識を如実に反映しているように思う。19世紀後半から20世紀といえば、技術や産業の進歩が必ずしも人間の幸福につながらないということがはっきりと自覚されていった時代だ。もう少し具体的に言えば、技術・産業の急速な進歩が資本家による富の独占と労働者の搾取という結果に陥ってしまった時代であり、それに対して労働者の手による革命を説く者もいれば、そのような革命は無力だとして文明自体の没落を説く者もいた時代だ。このような時代のただなか、さらには第一次大戦後の経済不況で窮地に陥っていたドイツにおいて、自分たちがきわめて危険な状態のなかにいるという歴史的意識が支配的だったことは想像に難くない。そこで「脳」と「手」とが断絶されてしまっているという意識が決定的だっただろうことは、この「メトロポリス」なる映画が証言しているところだ。

ところで、この物語を理解する上でもう一つ、見逃せないことがある。それはこの物語の全体が、極めて宗教的(もっと言えばキリスト教的)な含意でつらぬかれているということだ。メトロポリスは聖書のバベルの塔を裏返しにしたような世界として描かれるし、マリアは明らかに聖母を暗示した存在だ。また「仲介者」という言葉も、「待つ」という行為も、きわめて宗教的、キリスト教的な含意をもっている(ここで触れた以外にも、七つの大罪についてなど、様々な宗教的モチーフが登場する)。これは単に、この映画の作り手が信心深かった、ということを意味するわけではない。面白いのは、この映画が現実の社会問題に対して解決の可能性を示しつつも、そこにある種の神学的響きを残している、ということだ。このことが端的に表れているのは、マリアが決して拙速な行動や激情的な革命のようなものを扇動せず、「仲介者を待つ」ことを労働者たちに教えているという場面だろう。仲介は、同情の心を備えたフレーダーのような現実の人間によってなされるとは言われる。とはいえそれは、短絡的な暴動による階級の転覆によって獲得されるものではなく、あくまでその時を待たれねばならないことなのだ。この意味でこの映画の示す道は、単純化された教条的マルクス主義とははっきりと異なっている。マリアの説く「待つ」行為には、最後の神学的含意が残っている。もはやそれは実際的な宗教ではないのかもしれないけれども。

ここから、ロボットのマリアの位置づけもあらためて理解される。ロボットのマリアは、人間の技術によって生み出されたものであり、それでいてマリアという宗教的存在を騙っているものである。つまりロボットのマリアにおいては、人間によって作り出された科学技術それ自体が神の位置にとって代わるという事態が象徴されているのだ。ロボットのマリアは、人々を扇動し、破滅にもたらす。まるで歯止めを失った科学技術が、或いは地球上に作ることができるとされたユートピアの設計図が、人々を世界史的な悲劇へと煽り立てたように。とはいえこのマリアは人間そのものではない。だからこそ人々は、このロボットを魔女として火あぶりにして、誰も責任をとらぬままに、自分たちはその被害者であると主張することができてしまう。もともとは人間の手による技術が技術として神となり、人を支配するというその事態のグロテスクさをも、この映画は描いている。

 

このような感想を書きたくなるくらいには、「メトロポリス」なる映画の奥行はとても広いものであったと思う。ここに書ききれない着想もいろいろあった。例えばこの映画から当時の西欧マルクス主義思想の反映を読み解くこともできるかもしれないし、後にナチスを逃れてアメリカへ赴く監督ラングの人物史や彼の影響史からこの映画を読み解くこともできるだろうと思う。勿論、映画そのものの表現・技法についても、言及されるべきことはいくらでもあるだろう。

歴史的制約について言えば、無声映画作品であり、セットや衣装、背景装置などが、現代のそれと比べてひどく安っぽいものであることは否定できない。高層ビルから見下ろすメトロポリスも、それを支える発電機も、どうみてもぺらぺらの書き割りでしかない。しかしそれでも、当時としては莫大な予算と労力を投じて作られただろうイメージの世界は、観る者がそこに目と感情を奪われるに十分な奥行と動きと質を持ったものとして提示されていたように思う。歴史的な条件というのは作品が表現するものにとって二次的なものでしかない、ということを再確認させられる。その意味でこの映画は、今なお全く失われない説得力を持っているように思う。