映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

見つめる者と見つめられる者、眼差しを介した自他境界の溶解(イングマール・ベルイマン「仮面/ペルソナ」/Ingmar Bergman "Persona" 1966年)

イングマール・ベルイマン「仮面/ペルソナ」(Ingmar Bergman "Persona", SE 1966 85 Min. 35mm, オリジナル+英語字幕版)を鑑賞。

 

あらすじ

ある日の舞台出演を境に一切の言葉を発さなくなってしまった女優エリザベートと、入院先で彼女の担当となった看護師アルマ。二人は、治療の一環として海沿いの別荘で共同生活を始める。笑顔は見せども頑なに沈黙を守るエリザベートに対して、アルマは自分の過去を熱心に語りかけるようになる。やがて二人の自我は、互いが互いに惹かれ合いつつ溶け合うような、不思議な共鳴関係に入っていく…

 

※「ペルソナ」のトレイラー。英語版。

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人格の同一性をめぐる問い、自我の非連続性と感応性

タイトルが示しているように、基本的には人間の人格のあり方を主題とした映画だ。上に書いたようなおおまかなあらすじはあるにはあるが、実際の映画において物語の筋はそれほど重要ではない。立場の異なる二人の女性が出会い、互いに互いの自我へと影響を与え合う、ただそれだけの話だと言ってしまうことさえできるかもしれない。とはいえ二人の相互影響の様相は、ベルイマンによって独特の映像表現にもたらされている。この映像表現だけでも、この映画は一見の価値のあるものになっている。

その中心にあるのは、人間の自己や人格が、他者との関係のなかでどう形成され、また変化しうるのか、という問いだろう。もう少し平たく言ってしまえば、アイデンティティーをめぐる問い、人間一人一人がもつ(とされる)人格なるものは果して自明かつ同一のものなのか、という問いがそこにある。ある種実験的な状況に置かれた二人の主人公の相互影響を通して、この映画は、人格がもつ(ように思われる)同一性が実はきわめて不安定なものであることを示している。

実際、映画中の二人の女性は、それぞれがそれぞれなりにある一定の社会的役割を果たしてきた、一定の自己同一性=アイデンティティをもった大人だ。しかしそれぞれの人生において彼女たちは、表現することを憚られるような経験や罪悪感を抑圧してきてもいる。話すことを止めた女と、話し続ける女。対極的な関係におかれた二人の人格は、互いとの共鳴を通して、それまで保ってきた自己同一性を溶解させていく。映像表現もまた、つねに他者関係によって脅かされているものとしての人格のあり方を、自我の非連続性や感応性を、辿るようにして構成されている。

 

見つめる者と見つめられる者、眼差しを介した自他境界の溶解

私がとりわけ面白いと思ったのは、この映画において人格の相互感応が表現される際に、見つめる「眼差し」が大きな役割を果たしていた点だ。映画においては何度も、登場人物が何ものかを見つめる眼差しがアップで映し出されていた。また登場人物の台詞もしばしば「見つめられること」がもつ感応の力——あるいは叱責の力——に言及していた。視線は交差し、感応し合う。

見つめる者と見つめられる者は、認識する主体と認識される客体という単純な二分法に収まるものではない。見つめる者は、見つめられる者に何がしかの影響を与えつつ、同時にそれによって自らにも一定の反響を受ける。そして誰かを見つめるということは、自分もまた見つめられる者であるということと表裏一体なのだ。見つめる視線は、人格の自己同一性を揺り動かし、自明であったはずの自他境界を溶解させるものとなる。

さらにこの映画「ペルソナ」の見つめる眼差しは、画面の向こう側、すなわち映画を観るその者にも向けられている。観賞時に私はしばしば、画面内の視線と目が合うかのような感覚に陥ったが、おそらくは映像そのものがそのような効果を狙って作られたものなのだろう。この映画は、自明のものとして前提されてきた自他境界を溶解させる眼差しを、映画作品と映画を観る者の関係にも向けるのだ。

この映画のなかには、映画の「外」を暗示するモチーフがいくつも提示されていた。それは一見すると映画の本筋とは無関係に見える現実の世界史の映像であったり、撮影するカメラや、フィルムであったりした。中途で断ち切られるフィルムは、不快感を与える無機質な騒音とともに、映画そのものが閉じられた同一性に安らうものではないことを——常に観る者の視線に晒され、また同時に観る者へと視線を向け返すものであることを——証言する。

人間相互の関係においても、また観賞者と作品という関係においても前提されてきた、それぞれに独立した人格の同一性は、私と私でない誰かの境界は、すべて虚構に過ぎないかもしれない。このラディカルな問題提起を、映画「ペルソナ」の眼差しは、無言のまま観賞者に突きつける。