映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

ドイツで観た日活ロマンポルノ三作品、成人映画の枠を利用した多彩な映像表現の模索

日本映画祭における日活ロマンポルノ特集

ドイツ、フランクフルトでは、毎年5~6月にNippon Connectionという日本映画祭が催されている。今年で第17回目になるというこの映画祭では基本的に新しい日本映画が上映されるのだが(今年でいうと「シンゴジラ」や「この世界の片隅に」など昨年度の話題作も来ていた)、同時にフランクフルトの映画博物館では毎年"Nippon Retro"と題した比較的古い日本映画の特集をやっている。去年はたしか「お化け映画」特集で、溝口健二「雨月物語」やお岩さんを題材にした怪奇映画などをいくつか観ることができた。

その"Nippen Retro"の今年のテーマは「日活ロマンポルノ」。とりわけ神代辰巳と田中登という日活ロマンポルノで活躍した両監督の作品が特集されていた。日活ロマンポルノといえば、一方で成人向けアダルト映画でありながら、他方その枠のなかで様々な映画表現が展開されることができた場として、日本映画史のなかで重要な位置を占めたものと言われる。つまり、長すぎない上映時間(70分前後)で、セクシャルなシーンが一定程度含まれてさえいれば、そのなかで若い監督たちが比較的自由な映画表現を模索できたのだ。

今回せっかくその「日活ロマンポルノ」の名作がまとめて上映されるということなので、私自身もいくつか観てみることにした。感想を端的に言うと、そこでは成人向けポルノ映画に本来求められるはずのエロティックな官能性や扇情性よりも、映像作品としての面白さの方がはるかに勝ってしまっている、というものだ。確かに映画中には多くのセックスシーンやそれに類する場面が繰り返し出てくるのだが、映画においてこの程度の性的描写は珍しいものでもないよな、とも思った(正直、刺激的な性表現という点では以前記事を書いたペドロ・アルモドバル「マタドール」の方がよっぽど扇情的であるとさえ思う)。むしろ印象に残ったのは、映像表現の美しさや面白さ、或いは実験性やテーマ性などの方だった。適切な言い方ではないかもしれないが、今回上映されていた作品は普段映画を観るのとまったく同じようなテンションで観ることができるものだったし、観た後の感想も、面白い映画を観たな、というものだった。*1

というわけで、せっかくなので、この機会に観ることができた日活ロマンポルノ作品それぞれについて簡単にでも書きたい。今回観ることができたのは、以下の三作品だった。

神代辰巳「一条さゆり 濡れた欲情」(1972)

・神代辰巳「恋人たちは濡れた」(1973)

・田中登「屋根裏の散歩者」(1976)

以下、それぞれについて簡単に書いていく。

 

美しいまでに醜くも女を見せようとする女たちの闘い(神代辰巳「一条さゆり 濡れた欲情」/Tatsumi Kumashiro "Following Desire" JP 1972)

大阪のストリップ劇場において繰り広げられる愛憎劇。タイトルになっている一条さゆりは実際に活躍していた伝説的なストリッパーだそうで、この映画中では本人役で出演している。物語の基本線は、テレビにも出演し脚光を浴びる一条さゆりを、売れないストリッパーはるみが一方的にライバル視し、対抗していく、というもの。さゆりが引退の近い大御所として堂々たるパフォーマンスを見せつけるのに対して、はるみは自分が認められない苛立ちから憧れの存在でもあるさゆりに対して嫌がらせをしたり、ヒモ男連中にわがまま放題に振る舞ったりする。

そもそもストリップの世界にそこまで馴染みがない者としては、昭和のストリップ文化を垣間見られるというそのことが既に興味深かった。ストリップ劇場というのはもちろん、第一には男性に性的な刺激を与えるエロティックなショーを見せる場所であり、わいせつ物陳列罪での摘発とすれすれのところで運営されているものだ(実際、映画中でも警察による摘発のシーンが何度もあった)。しかしストリップは同時に、独特な発展を遂げた舞台芸術としての側面をも持ちあわせており、この映画はその側面をも見せてくれる。

映画中でとりわけ圧巻だったのは、一条さゆりによる蝋燭を用いたパフォーマンスだ。自分で自分の身体に蝋を垂らしながら自慰のように体を動かしていくものなのだが、映画中でもかなり時間を割かれていたこのパフォーマンスは、私の目には、いやらしさよりもはるかに美しさが優っているように見えたし、その張りつめた空気感は息をのませるものだった。なんというか、これは性別問わずファンがついただろうなあ、と変に納得してしまった。観客に至近距離で局所を見せたり…というようなパフォーマンスはさすがにストリップならではという感じはしたが、そういうところを別にすれば、へたな舞台芸術よりもずっと芸術性の高いものであるように思え、とても印象的だった。

映画のなかではもう一つ、さゆりに対抗するストリッパーはるみの性悪っぷりが面白かった。ヒモ男をとっかえひっかえ自分の都合のよいように弄び、自分のために刃傷沙汰の喧嘩をさせ、平気で嘘をつき、さゆりに嫌がらせをするばかりか彼女の芸を盗もうともする。しかしなんとかさゆりを出し抜いてやろうと足搔き続ける執念を伴った彼女の性悪っぷりは、魅力的なほどに突き抜けていて、映画の後半にはつい応援してしまうような気持になってしまった。女であるということをどこまでも利用し露骨なまでに見せつける彼女の反抗的な戦いは、醜悪であるはずなのに、それはそれでどこか美しいのだ。

さゆりとはるみという二人のストリッパーが繰り広げる闘いは、それ自体、美しいまでに醜く、醜くも美しかった。劇中歌も独特の味を出していたし、昭和の風俗街が持っていたのであろう猥雑な空気感を伴う文化を垣間見られたというそれだけでも、面白い映画体験だった。

 

さわやかなまでの虚無感、乾いた性と暴力の群像劇(神代辰巳「恋人たちは濡れた」/Tatsumi Kumashiro "Twisted Path of Love" JP 1973)

ひょうひょうとした若い男が、ある日突然千葉のさびれた海岸町に現われ、ピンク映画館で働きはじめる。この若者は、会う人々から昔この町を出た「カツ」だろうと懐かしがられるのだが、彼自身は別人だと言い張る。やがて彼は、映画館経営者の奥さんといい仲になり情事にふけるようになる。その一方で若者は、青姦しているのを覗き見たことをきっかけにあるカップルと仲良くなりもする。彼はこのカップルから一人の垢抜けない女の子を紹介されもするが、自分のことを「カツ」だろうと言い張るこの女の子を無理やりに犯してしまう。そのうち彼は村を離れることに決めるが、仲良くなったカップルも彼の後をつけてきて、彼らはうらぶれた浜辺で遊びまわる。その折に「カツ」は、カップルの片割れであるヨーコに、それまで誰にも話さなかった彼の過去について口にする。

セックスシーンそれ自体は非常に多い映画だったのだが、正直に言って私はそこにほとんどいやらしさを感じられなかった。語弊はあると思うが、成人映画としては失格なのではというほど、扇情性がなかったのだ。なんというか、カツと不倫関係にある映画館の奥さんその人だけが肉欲に情熱的に執着している感じで、若者たちはセックスこそしているもののどこか冷め切っているような印象だった。*2

もっともこの若者たちの冷め方、空虚さを隠すこともなくやけくそのようにセックスにいそしむ彼らの姿は、それはそれで印象的なものだった。主人公である青年「カツ」とカップルの片割れのヨーコ、彼ら二人を中心とした徹底した虚無感は、もはやある種のさわやかさにまで達していたように思う。強姦のシーンもあるので「さわやか」というのは表現として不適切かもしれないが、無理やりに犯すというそのことに対しても怖いくらいさっぱりしていた。最初から最後まで性欲と暴力まみれなのに、どこか乾いた、さっぱりした印象が残ったのだ。*3

この意味では、タイトルが「恋人たちは濡れた」であることは不思議でさえある。もっともこのタイトルは、明らかにお互いに惹かれ合っているのに最後までセックスをしなかったカツとヨーコの関係のことを暗示しているような気もする。彼らが自転車の二人乗りをしているシーンも、一緒に下品な小唄を歌うシーンも、ヨーコの彼氏を交えて浜辺で遊ぶシーンも、どれもとてもよいものだった。これから観る人もいるかもしれないので詳述はしないが、終わり方も印象的だった。実際この映画は、成人向けポルノ映画というよりも、体裁上ポルノという枠を借りて撮られた群像劇という印象が残ったし、そういうものとしてこそ見応えがあるように思った。

ところでこの映画にはもう一つ目を引く点があって、それは笑ってしまうほど雑なモザイク処理だ。そもそも日活ロマンポルノはモザイクを入れないように撮るものらしいのだが、この映画では男女の局所が写りそうな箇所に、これ見よがしにどでかい黒塗りやひっかき傷がつけられていて、そのわざとらしさは苦笑を誘うほどだった(実際、上映中に黒塗りやひっかき傷が出てくると笑い声がそこここに響いていた)。プログラムの説明文曰く、これは必要からなされたモザイク処理というよりも(そもそもその気になったら編集でいくらでもごまかせただろう)、当時の検閲の煩雑さを皮肉ったものであるのだという。確かにこれはポルノとしては興を削ぐものであるかもしれないのだが、成人映画そのものをパロディー化しているようで、個人的には面白いと感じた。

 

目と目を合わせる偏執的な熱狂の映像世界と、唐突な現実の介入(田中登「屋根裏の散歩者」/Noboru Tanaka "The Stroller in the Attic" JP 1976)

時代は大正、舞台は新築の下宿である東栄館。住人である郷田三郎は、下宿の屋根裏を徘徊しつつ他の止宿人たちの生活を覗き見して過ごしている。ある日彼は、ある貴婦人とメイクをしたピエロとが隠れて情事にふけるのを屋根裏から覗き見ていたのだが、その最中に天井の節穴越しに貴婦人と目が合ってしまう。それ以来郷田の目の虜となった貴婦人は、郷田と目を合わせながらピエロを絞殺し、さらには使用人を遣わして郷田を自らの邸に呼びつけ挑発する。郷田はというと、彼の気に入らない宗教者の遠藤を、天井の節穴から垂らした薬で毒殺してしまう。人を殺すことに興奮を覚えるようになった郷田と貴婦人は、東栄館に住む女画家に自分たちの身体に刺青のようなペイントを施させたあとに彼女を殺し、目を合わせながら屋根裏で交わる。その最中に突如、関東大震災が東栄館を襲う。

江戸川乱歩の短編小説「屋根裏の散歩者」(1925年)の翻案ではあるが、ストーリーそのものは大幅に異なっている。なのでこの小説を映画化したものというよりはむしろ、乱歩作品の独特の世界観を映像化したものといった方が、この映画に即しているだろう。同名の短編小説と共通しているのは、東栄館の屋根裏を徘徊する郷田という人物が気にくわない遠藤を天上の節穴から毒殺するというその部分くらいで、小説中の重要人物である明智小五郎も登場しない。映画ではむしろ他の乱歩作品からも様々な着想が借りて来られているようで、ピエロとの異様な情事や人間椅子など、グロテスクな趣のある様々なモチーフが映画中に登場し、独特の世界観を形作っている。

この映画の中心にあるのは、郷田と貴婦人というそれでなくても偏執的な二人が、「目と目が合うこと」に偏執的に熱狂する、というモチーフだ。様々な趣向でなされる殺人行為も、性行為も、最終的には二人が目を合わせるというそのことへと収斂していく。彼らの目のぎらつきは映画を構成する様々な偏執的モチーフの象徴であり、映画の最後半に屋根裏で交わる二人は断固としてお互いの目から自らの目を離すまいとして見つめ合う。その二人の様子は、異様ではあるが、緊張感をともなったものとして観客の目をも引き付ける。

この映画にもまた、成人ポルノ映画として一定量の性的シーンが盛り込まれてはいるのだが、例によってそこでは、性的興奮を引き立てる扇情性よりも映像世界の魅力の方が優っている。独特な緊張感をもった偏執的な空間と時間を、その緊密な映像世界を楽しむというその点だけでも、この映画は十分見応えのあるものになっていると思う。

ところでもう一つ印象的なことに、映画中で繰り広げられる郷田と貴婦人の偏執的な狂騒は、映画の最後、関東大震災による建物の倒壊によって唐突に終わりを告げる。ほとんど歴史性を感じさせることのない緊密な映像世界が「関東大震災」という歴史的現実の介入によって崩壊していくというそのことは、観る者にどこか突き放すような衝撃を与えるものだった。これはいずれにしても、意図的になされた演出ではあるだろう。画面中には関東大震災の実際の資料映像のようなものも写し出されており、それまでの映像世界とは明らかに異質のドキュメント映像が、ある種の異化効果をもって観る者をフィクションとノンフィクションの狭間へと突き放していた。最後に残る、倒壊した東栄館と、血の色をした井戸の映像。映像世界の極まりを、現実世界の介入によってひび割らせ、崩壊させることでもって、映画は幕を閉じる。

 

…以上、例によって思ったより長くなってしまったが、ドイツで観た日活ロマンポルノ三作品について書いた。これらの作品は、少なくとも私の印象としては、性的興奮をかりたてることを主眼とした成人ポルノ映画というよりも、成人映画の枠を利用して多彩な映像表現を模索したその産物であるように感じた。「ロマンポルノ」という名称から敬遠してしまう人もいると思うが、(そもそも映画中の性的表現が苦手、という人を別にすれば)映画を観る人にとって十分に見応えのある作品だったと思う。もしまだ観たことがないという人がいたら、機会があったらぜひ一度観てみてほしいと思う。

*1:以前、同じく日活ロマンポルノ作品である相米慎二「ラブホテル」(1985年)を観た際にも疑問に思ったことなのだが、果たしてポルノ映画を観たくて来た当時の観客というのは、これら日活ロマンポルノ作品を観てどういう感想を持ったのだろうか。もちろん今回特集されていたような日活ロマンポルノ映画は、映画史上における傑作だとして評価されているからこそ40年前後の時間と1万キロ弱の距離を超えてドイツで上映されていたわけで、これが日活ロマンポルノのスタンダードだというわけではないだろう。しかしそれにしても、下世話な話だが、成人映画ならばもっといやらしく扇情的なものが観たいと観客は思わなかったのだろうか、という疑問をもってしまった。それとも当時の観客も、成人映画であろうと一定の映像表現の質のようなものを最初から求めていたのだろうか。このあたり、詳しい方がいたら教えてもらえると有難い。

*2:上映前に映画祭に来ていた塩田明彦監督による簡単なイントロダクションがあったのだが、彼曰く、1960年代の学生運動が終わり冷めきった1970年代の若者たちの空虚感のようなものがこの映画に反映されているのだということだった。そういえば映画中でも、映画館の奥さんが得体の知れないカツに対して学生かと尋ねる下りがあった。また塩田監督は、この映画にとって千葉という土地はそれほど重要でなく(たまたま日活の保養所があったためそこで撮影されたらしい)、むしろ具体的な場所を感じさせない抽象的な表現がなされているのだという旨の解説をしてもいた。

*3:ちなみに塩田監督は、当時の日活ロマンポルノの撮影現場はとても女優を大切にしていて、映画それ自体は過激なものであっても、実際に女優が嫌がることはしなかった、というフォローを入れていた。