理想化された身体的思い出としての、故郷(ヨーエ・マイ「帰郷」/Joe May "Heimkehr" 1928年)
ヨーエ・マイ「帰郷」(Joe May "Heimkehr" DE 1928, 126 Min. 35mm)を鑑賞。ピアノ伴奏つき。
あらすじ
戦争捕虜としてロシアで強制労働に従事するドイツ兵リヒャルトは、同室の友人カールに、いつも故郷のことを——とりわけ妻のアンナが待つ彼の家庭のことを——語り聞かせていた。2年におよぶ強制労働に耐えかねた二人はある日、脱走を試みる。しかしリヒャルトは警備兵に捕えられてしまい、カールだけが脱走に成功する。一人ドイツに戻ったカールは、いつも話を聞いていたアンナに会いに行くが、次第に二人はお互いを求め合うようになってしまう。その一方、再び捕虜として強制労働に就いていたリヒャルトは、戦争終結に伴う恩赦によって釈放され、ドイツに戻って来る。妻の待つはずの家庭においてリヒャルトが見たのは、友人カールと妻アンナが熱く抱擁し合う姿だった。故郷にはねつけられたリヒャルトは、絶望の極において、短銃を手に取る…
※映画の一部。二人が脱走する途中のシーン。残念ながら画質は悪いが…
理想化された身体的思い出としての、故郷
戦争から戻る兵士の帰郷という明らかに第一次大戦の影を落とした主題のもので展開された、実直な兵士とその妻と友人の三角関係を描いたメロドラマ。字幕での説明は最小限で、登場人物の心理描写や感情の動きが、当時としては実験的であったかもしれない交差的な映像表現も交えつつ、生々しく描かれていた。直接の性的シーンこそないものの、それでも男女の情の交錯や煩悶が湿度と質感をもって提示されていた。とにかく生々しい身体感覚の描写が印象に残る映画だった。
特筆すべきは、リヒャルトの「故郷」がきわめて具体的な肉体感覚を帯びたものとして語られていた点だろう。部屋の間取り、家具の配置、妻の身体のほくろの位置。それらは彼がなした過去の身体的な経験に基づいている。そしてアンナのもとを訪ねたカールもまた、この肉体的な「故郷」を、リヒャルトが彼に語ったとおりの故郷を、ある種の感動をもって追体験する。
とはいえこの「故郷」は、身体的なものでありながら、リヒャルトによって理想化されたものでもある。時間の経過とともに変化しているのではないか、妻は貞淑に待ってくれているのだろうか、そういう現実的な疑問は脇に置かれ、「故郷」は変わらず彼を待つものとして繰り返し表象される。ここには、女性は銃後において家庭を守るべきだという戦時の固定観念も影響しているかもしれない。なんにしてもリヒャルトは、変わらぬものとしての「故郷」を、帰郷さえできれば再び同じ感覚性をもって彼を迎えてくれるはずのものとしての「故郷」を、苛酷な強制労働の環境のなかで生の拠りどころにする。
しかしこの「故郷」もまた、理想化に逆らい、時の移ろいとともに変化する。ドイツに戻ったリヒャルトを待っていたのは、家具の配置こそ変わらぬものの、よそよそしく彼をはねつける他人行儀な「故郷」だった。自らの生の拠りどころとして頭の中で繰り返し思い描いた「故郷」は、もはやかつてのように、細やかな愛情をもって彼に寄りそうことも、彼の求めに応じて胸襟を打ち開くこともせず、ただ冷たく彼をはねつける。
「故郷」はもはやリヒャルトのための場所ではなく、他の誰かのための場所になっている。不変の故郷などというものは、幻想でしかなかったことが露わとなる。
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昨年の8月からしばらく当ブログの更新が止まってしまっていました。その間も映画はそれなりに観ていて、ブログを書きたいと思う作品も多々あったのですが、うまく文章にできていませんでした。思うに、丁寧に書こうとしすぎて、うまく自分の時間とエネルギーをそこに向けられなかったのかもしれません。しかし折角映画を観て書きたいこともあるのにうまく文章に落とし込めていなかったのは残念に思っており、再開したいとも思っていました。
そういうわけで、反省を踏まえて、試みとして最大1,200~1,500字以内という文字制限を課した上でまた映画のことを書いてみようかな、と思っています。どうも文章を書き始めると延々と書いてしまいがちで、しかもそれが負担になってしまうという悪循環にも陥りがちな人間なので、ある程度制約があった方がいいのかなと思っています。
自分に負担にならない範囲で、またぼちぼちと忘備録代わりに更新していければと思っています。よろしくお願いします。