映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

過去の戦争についての語りを、開いたままの問いとして未来に委ねること(ルート・ベッカーマン「戦争の彼方」/Ruth Beckermann "Jenseits des Krieges" 1996年)

先日「夢のなかにいた者たち」についての記事でも書いたが、今月は近所でオーストリア人監督ルート・ベッカーマンの特集が催されおり、彼女のドキュメンタリー映画を幾つか観ることができた。そのなかでも一番印象に残ったドキュメンタリーは、ドイツ国防軍の戦争犯罪に関する展覧会——いわゆる「国防軍」展——に際して制作された「戦争の彼方」(Ruth Beckermann "Jenseits des Krieges" AT 1996)だった。以下、この展覧会の内容を紹介しつつ、この映画について書きたい。

 

映画の背景、ドイツの「過去の克服」と「国防軍」展について

このドキュメンタリー映画「戦争の彼方」は、1990年代後半からドイツ語圏を中心に開かれた大規模な展覧会「絶滅戦争 1941-44年になされた国防軍の犯罪行為」(Vernichtungskrieg. Verbrechen der Wehrmacht 1941-1944、以下「国防軍」展と略す)がウィーンで展示された際に製作されている。まずこの「国防軍」展について簡単に書いておきたい。

この展覧会は、タイトルが示すとおり、戦時中のドイツ軍が行った犯罪行為(とりわけ当時のソビエト連邦に対する戦争犯罪)を扱ったものだ。重要なのは、この展覧会が、「ナチスドイツの」戦争犯罪ではなく、「ドイツ国防軍の」戦争犯罪を扱っているという点だ。つまり、必ずしもナチス党員というわけでもない言わば普通の兵士たちにフォーカスをあて、彼らの犯罪行為を問うたものだった。

しばしば誤解されている点だが、ドイツは大戦後すぐに戦時中の自国の犯罪行為と真正面から取り組んだわけではない。戦後すぐになされたニュルンベルク裁判は連合軍側によってなされたものであったし、罪に問われることがなかった元ナチス党員は戦後には再び要職に就くことができていた。

ドイツにおいて本格的な「過去の克服」が始まったのは1960年代のことで、その端緒ともなった1963年のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判においてはじめて、強制収容所幹部など重要な戦争犯罪者が法的に裁かれることになった。この裁判に至るまでの様子は映画「顔のないヒトラーたち」(Giulio Ricciarelli "Im Rabyrinth des Schweigens" DE 2014)において(多少のフィクションも交えつつ)示されている。そこでは、アウシュヴィッツという戦争犯罪が当時のドイツにおいてほとんど知られていなかったことが、裁判に関わることになった若いドイツ人検事の当惑とともに描かれている。

とはいえこの裁判以降もなお、多くのドイツ軍兵士たちは自分から積極的に戦争犯罪に加担したわけではない、と考えられていたようだ。つまり、大多数の兵士たちは戦争の経過のなかでそもそも戦争犯罪が行われていたことさえ知らされていなかったし、戦争犯罪に加担した者もナチス指導部の命令に従わざるをえなかっただけだ、というように考えられてきたのだ。件の「国防軍」展は、まさしくこの点を問い直した。果たして本当に、国防軍の兵士たちが自ら進んで戦争犯罪に加担することはなかったのか。果たして本当に、戦争犯罪と呼びうる行為をなしたのはナチス指導部だけだったのか。

1990年代後半から2000年代前半にかけてドイツ語圏のみならず世界中を回った「国防軍」展は、歴史上の資料——写真や映像、証言など——をもって、この問いに答えた。首をくくられ木から吊るされた人々とともに笑顔で記念撮影をした写真、裸にされて広場に集められる女性たち、子供や明らかに兵士ではない者たちへの暴力。そこには、命令にいやいや従っているというよりも、積極的に戦争犯罪に参与しているように見える兵士たちの姿が写し出されている。もちろんこれがドイツ軍の全ての姿ではないだろうし、戦時中という極限状態での一場面であることは差し引いて考える必要があるだろう。しかしいずれにしてもこの展覧会では、「罪のない“普通の”兵士たち」というイメージとはかけ離れた、当時の国防軍兵士たちの姿が提示されることになった。

この展覧会の概要と、それが引き起こしたセンセーションについては、ドキュメンタリー映画「名もなき兵士」(Michael Verhoeven "Der unbekannte Soldat" DE 2006)に見ることができる。私はこれを去年観たのだが、戦時の写真や映像そのもののみならず、ミュンヘンでの展示の際に会場の外で起きた騒動の映像もまた印象に残っている。そこでは、大きな集団が、我らの祖国ドイツを侮辱するな、我々の祖父や父を犯罪者扱いするな、というようなことが書かれたプラカードを掲げて展覧会反対のデモを行っていた。その中心を占めるのはいわゆるネオナチのような人々だったのだろうと思うが、展覧会に反対する声を上げていたのは必ずしもラディカルなネオナチだけではなかったのだろうという印象を受けたことを記憶している。

自国が担った過去の責任と真摯に向き合ってきたとされているドイツにおいてさえ——あるいはこういう国だからこそ、なのかもしれないが——軍部の一部の指導者だけでなく、自分の直接の先祖までもが戦争犯罪者であったかもしれないという問題はそう簡単には受け入れられない。過去の事実をどう考え、どう受け止め、どう「克服」していくか。「国防軍」展は、この「過去の克服」の困難さと多義性を改めて提示することになったのだ。

(この展覧会について知りたい方は、「Wehrmachtsausstellung」(国防軍展)で検索するとYoutubeなどで英語字幕があるものも含め色々見られるので、ぜひ調べてみて欲しい)

 

現在を生きる人たちによって、絶滅戦争という過去を語らしめること

背景の説明が長くなってしまったが、ルート・ベッカーマンのドキュメンタリー映画「戦争の彼方」は、この「国防軍」展がウィーンで展示された際に製作されたものだ。しかしベッカーマンの映画においては、展覧会での展示物——写真や映像などの資料——はわずかに後景に映るのみで、それが主題として提示されてはいない。むしろ彼女の映画のほとんどを占めるのは、展覧会に訪れた人々へのインタヴュー映像だ。さらに言えばここでインタヴューされるのは、元国防軍兵士として従軍した人々か、そうでなくても当時なにかしらの仕方で戦争やドイツ軍による占領を経験した人々だ。その他、自分の親世代が従軍していたという人も何人か登場する。

このドキュメンタリー映画に特徴的なのは、それが展覧会を訪れた多様な人々自身の経験や意見を聞き出すことに徹していたという点だ。あの戦争は何だったのかを知りたいと思って訪れた者、自分の経験したことを確かめたいと思ってやって来た者、名もなき兵士たちの戦争犯罪をことさら取り上げることに反発を示す者、戦争犯罪はあくまでも「普通の戦争」の一環で起きたものであり兵士たちは命令に従っただけだと主張する者、当時の戦争は共産主義との闘いであってその後のソビエト連邦に鑑みるとむしろ目的それ自体は間違いではなかったと主張する者。さまざまな立場のものが、さまざまな視点から、さまざまな意見を述べる。なかには、自分の親を犯罪者だと思いたくないからここで展示されていることを信じることができない、と口にして展覧会を後にする女性もいる。これらの意見に対してインタヴュアーは、少なくとも表立っては、自らの政治的意見をぶつけることをせず、むしろインタヴューされた者たちの経験や考え方を引き出すことに徹していた。

ところで、インタヴュアーが聞き役に徹していたのに対して、展覧会を訪れた者同士の間ではしばしば議論が生じており、それもまた映像に収められていた。例えば、彼自身がドイツ国防軍として従軍していたという一人の老人がインタヴューに答えていたときのことだ。彼は自分を含めドイツ国防軍が行ったことはすべて「普通の戦争」の枠を超えるものではなかったのであり、全て上官の命令に従った結果でしかなかった、戦争とはそういうものだ、と主張する。それに対してたまたま近くで展示を観ていた女性が異を唱え、なぜ彼がこのような戦争犯罪を「普通」と呼ぶことができるのかと問いかける。別の視点同士が衝突し合い、様々な場所で議論が始まる。

印象的なことに、これらの議論は、自身の意見の正しさを証すためというよりもむしろ、真実を知りたいというその思いからなされているように見えた(もちろんなかには、自分の過去を正当化したいという思いから語っているように見える者もいたが)。想像を絶する戦争犯罪はなぜ、どのように生じたのか。それに間接的・直接的に携わった者たちは、その後何を考え、今何を思うのか。そもそもあの戦争は、いったいぜんたい何だったのか。そこで求められる真実はしかし、必ずしも一義的なものではない。むしろ明らかになっていくのは、過去の出来事の錯綜であり、求める者の視点や思いによって、経験や知識によって多様に変わりうる、過去の多面性だ。

この映画は、まさしくこの過去の多面性を、今を生きる人々の語りを通して現前させようとしていた。こうして絶滅戦争という過去が、現在を生きる人々によって語られ、いまなお克服されざるものとして提示されることになる。

 

印象的だった二つの語り、戦争という過去の多面性を開くこと

映画中で語られた多くの事柄の中で、私にとって特に印象的だった二つのことを書いておきたい。

一つは、 ソビエト連邦において当時の戦争を経験したという女性のインタヴューだ。彼女は当時反ファシズムの共産主義者であり、同じくファシズムに反対するイタリア人の夫とともにソビエト連邦に政治亡命していたのだという。インタヴューにおいて彼女は、ドイツ軍による空爆の残酷さを、ドイツ軍に蹂躙されたロシア人の悲惨さを語る。また彼女は、絶滅収容所については当時知らなかったが、ナチスによるユダヤ人虐殺については耳にしていたことを証言してもいる。

インタヴューの最後に、彼女は、夫のことを尋ねられる。すると彼女は淡々と、イタリア人であった夫は共産主義者だったにもかかわらず、スターリン体制下のソビエト連邦において疑われ逮捕され、すぐに射殺されてしまったのだ、と答える。両方の側が戦争犯罪をしていたのよ、という言葉で締めくくられる彼女の語りは、戦争というものの多面性を、単純化された善玉と悪玉という図式の不可能性を証している。そして同時に、その時々の権力構造の枠組みから外れた者たちが、時の権力からいかに簡単に、いかに理不尽に蹂躙されてしまうか、ということをも証言している。 

もう一つ印象的だったのは、映画の最後における、ともに元軍人だという二人の老人の口論だ。二人の口論の中心にあるのは、当時の現場の兵士、しかも直接戦争犯罪に携わっていたわけでもない兵士たちが、ドイツの戦争犯罪を知りえたかどうかという点だ。この点について二人は真っ向から対立する。一人の老人は、戦争犯罪を見聞きすることができていたし、自分は実際に知っていたのだと主張する。もう一人は、当時の状況からしてそんなことはありえないと強く反論する。二人は分かり合うこともできないままに、その場を立ち去っていく。

当時の人々が、とりわけ当事者である国防軍の軍人たちが、どこまでドイツ軍による実際の戦争犯罪の現状について知りえたのかという問いは、この映画の中心をなす問いの一つだ。多くの者は、断片的にであれ実際に知っていたと述べているが、それに対して少なからぬ者が、当時本当のことを知ることはできなかったと反対の証言をする。この問いについて、それを実証的に明らかにすることも勿論重要ではあるだろうし、それによって個々の証言の真偽を確かめるということもある程度までは可能であるのかもしれない。しかし少なくともこの映画が目指していたのは、実証的な真偽を確かめることではなかった。むしろここで提示されていたのは、戦争という過去の経験が持つ多面性であり、そこに一義的な意味を見出すことの困難さであるだろう。この映画は、この多面性を、その錯綜を閉じることなく、開いたままにする。

 

過去の戦争についての語りを、開いたままの問いとして未来に委ねること

語りの多面性を開いたままにしておく、というそのことが、私がこのドキュメンタリー映画を観てとりわけ印象的に思った点だった。

過去の出来事、しかも絶滅戦争という想像に絶するような出来事を語るときに、わかりやすい図式とものの見方でことを済ませ、それで過去を「克服」したことにしてしまうのは、しばしば短絡的であり、危険でさえある。とはいえそれは同時に、魅惑的なことでもある。わかりやすい図式でもって理解した気になること、そうしてその問題に解決済みの印章を押して考えるのをやめることは、端的に言って楽なことだ。とはいえ、歴史的な現実に関しては、必ずしもわかりやすいものの見方に収まらない事柄が——場合によっては後から——おもむろに顔を出すことがある。図式化したものの見方においては、このような現実が、都合の悪いものとして等閑視されたり、無視されたり、場合によっては抑圧されたりしてしまうことがある。

ドキュメンタリー映画「戦争の彼方」は、この単純な図式化の誘惑への抵抗がなされていたように思う。むしろそこでは、現在の語りを通して、過去の出来事の多面性が開かれている。それは結局のところ、一義的な答えを与えないまま、開かれた問いを、その次の世代へと引き継ぐ試みでもあるだろう。およそ20年前に製作されたこのドキュメンタリーに登場した当事者たちの多くは、2017年現在、もうこの世を去っているかもしれないし、そうでなくともこの映画におけるような仕方で語ることはできなくなっているかもしれない。しかしこの映画に写し出された彼らの「語り」は、その多面性は、いつでも紐解かれ、その都度の現在の人々の眼前に提示されることができる。ドキュメンタリー映画は、この可能性を担保するために、戦争の彼方へと向けて、問いを開いておく。過去の戦争についての語りを、開いたままの問いとして未来に委ねているのだ。

…この映画を観た後に私は、はたして日本において、日本が参与したかつての戦争やそれにまつわる過去の出来事について、このようなドキュメンタリーが存在しているのだろうか、ということを考えざるをえなかった。かならずしも映画でなくてもいいのだが、特定の歴史観・歴史認識に固定されることなく、出来事の多面性それ自体を開いておくような、人々の語りの記録があるだろうか。後の世代が、その都度その都度それを参照し、そこから過去の多面性を知り、過去について考えなおすことができるような、語りの記録があるだろうか。

それは、すぐには難しくても、自分にとっていつかしっかり向き合うべき問題なのだと思っている。

(※こういう観点から見るべき映画や記録など、ご存知の方がいたら、教えてもらえると嬉しいです。)

 

…今月はそれなりの量の映画を観たのだけれども、うまく記事を書けていない。しっかりとしたものを書こうとし過ぎているような気もする。見応えのある映画もいくつか観たので、簡単にでも少しずつ書いていきたい。