映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

読まれる過去の夢、現前する感情、交錯する空間と時間(ルート・ベッカーマン「夢のなかにいた者たち」/Ruth Beckermann "Die Geträumten" 2016年)

ルート・ベッカーマン「夢のなかにいた者たち」(Ruth Beckermann "Die Geträumten" AT 2016)を鑑賞。本作は、オーストリアの映画祭Diagonale 2016にて最優秀映画賞を獲得している。

ベッカーマンは、ユダヤ系オーストリア人という自らのルーツを主題にしたドキュメンタリー映画を長年にわたって制作してきた監督。ちょうど今月、近所で彼女の映画特集が組まれており、本作の上映のあとには監督ベッカーマンと脚本を手掛けたイーナ・ハルトヴィク(Ina Hartwig)とのトークセッションがあった。監督は独特の雰囲気と存在感がある人で、オーストリア訛りのドイツ語ではっきりと話すその語り口は聞きやすいのだが、話す内容は奥行きがあって引き込まれるものだった。今月はまだいくつか彼女の映画を上映するようなので、この機会にいくつか観られたらと思う。

 

おおまかな感想、印象

この「夢のなかにいた者たち」は、監督自身の言葉を借りると、ある種の「実験」映画なのだという。つまり、過去に属する文学的・詩的な語りが現代を生きる若者にどう作用するのかを、また過去の言葉が持つ詩的な力が特定の時代の制約を超えてそれを読む者にどのように働きかけるのかを観察し、記録した映画だというのだ。

映画の内容をあえて一言でいってしまうと、過去の二人の詩人——パウル・ツェランとインゲボルク・バッハマン——の間で交わされた書簡を、一組の若い俳優-——Laurence RuppとAnja Plaschg——がラジオ局の一室で何日間かにわたって朗読していく、というそれだけのものだ。特定のロケーションで再現された歴史的場面の映像もなく、もっと言えば演技のために誂えられた舞台装置さえない。用意されたのは、ラジオ局の一室、一組の録音装置、そして読まれるべき書簡集のテクスト、さしあたってはそれだけだ。冒頭と末尾で詩人たちに関するごくごく短い説明のテクストが提示されることを除けば、上映時間89分のほとんどが、一組の若い俳優が数日間にわたってマイクロフォンの前で書簡を読み上げていくその様子と、彼らの休憩や食事の様子とで、構成されている。

…このように書くと、何が面白いのかと思われてしまうかもしれない。実際この映画の内容といえば、若い俳優たちが詩人たちの書簡を読むというただそれだけしかない。しかしそれにもかかわらず、スクリーンのうえの映像群は、きわめて洗練されていて、印象深く、儚くも魅力的なものだった。この魅力は、読まれたテクストそのものから来るというよりもむしろ、テクストに書き込まれた詩人たちの感情の揺らぎと、それを読むことによって生じた俳優たちの感情の揺らぎとが交錯する、その空間と時間にこそあったように思う。

一方では、書簡に織り込まれた詩人の感情が、愛の喜び、断絶の嘆き、いらだち、嫉妬、失望や絶望までが、読むというそのことによって現前させられる。他方では、俳優たちが、自ら読み上げる言葉の波に入り込んでいき、笑顔を見せ、涙を流し、沈んでいく。手紙に書き込まれた過去の夢を読むことによって生じた揺らぎは、朗読という場を離れてなお、現在を生きる俳優たちの時間と空間に一定の響きを残すことになる。

過去と現在の交錯を現前させる映像群から、私自身、だんだんと目を離すことができなくなっていった。それどころか、手紙の記述が詩人の生の終わりを感じさせるものになっていったとき、この交錯が、この映像が、この空間と時間が、もう少しだけ続けばよいのにとさえ思わされた。しかし書簡は終わり、映画の幕が閉じられた。

 

ツェランとバッハマン、「夢のなかにいた者たち」

戦後のドイツ語圏文化を代表する詩人パウル・ツェラン(Paul Celan, 1920-1970)とインゲボルク・バッハマン(Ingeborg Bachmann, 1926-1973)の手紙のやり取りは、1948年から1967年まで、およそ20年に渡った(彼らの書簡集は2008年になって編集・出版され、それがこの映画の着想のもとになったとのこと)。もっとも、彼らの手紙は、さらに言えば彼らの関係それ自体は、幾度もの断絶を挟んだものだった。

彼らは1948年にウィーンで知り合い恋人同士となったが、チェルノヴィッツ(当時はルーマニア、現在はウクライナ)生まれのツェランはそれからすぐに祖国の共産主義政権から逃れてパリに亡命してしまったし、バッハマンも1953年以降イタリア、ドイツ、スイスと住居を転々とする生涯を送った。またツェランは1952年にはデザイナーと結婚しているし、バッハマンも1958年から作家マックス・フリッシュと緊密な恋愛関係を始めている。1950年代後半にはパリにおいて恋愛関係が再燃したこともあったようだが(その際には彼らそれぞれのパートナーも巻き込まれたようだ)、彼らの間にはほとんどいつも地理的な距離が存在していた。

さらに両詩人の間には、自らのルーツにかかわる断絶もあった。ドイツ系ユダヤ人であるツェランは、第二次大戦中には両親とともにゲットーに移住させられており、両親は収容所で命を落としている。対してオーストリア生まれのバッハマンの両親は戦時中にナチス党に属していたのだという。バッハマンはこのことについて直接的に話すことは好まなかったようだが、いずれにせよ、二人の間には、歴史によって規定されてしまった、自分自身ではいかんともしがたい精神的な断絶もまた存在していたようだ。

しかしこの地理的な距離や精神的な断絶にもかかわらず、また直接的な恋愛関係それ自体はさほど長く続いたわけではないのにもかかわらず、二人の詩人の手紙のやり取りは——時に大きく間を開けながら——20年にわたって継続された。むしろ彼らの間に決定的な断絶があったからこそ、彼らの関係は単なる恋愛関係として終わらず、彼らの言葉が書簡という形で記録されることになった、という側面もあるかもしれない。この映画のなかで朗読されるのは、この二人の書簡から抜粋されたテクスト、それ自体きわめて詩的な表現に富んだテクスト群である。その文章のなかには、二人の詩人の感情の揺らめきが繊細に織り込まれている。愛の喜びも、断絶の嘆きも、悲しみも、苛立ちも、嫉妬も、失望も、絶望も。

映画のタイトル「夢のなかにいた者たち」(Die Geträumten)は、バッハマンの手紙の中の「私たちは、ただ夢の中にいただけだったのかしら?」(Sind wir nur die Geträumten? 直訳すると「私たちは、夢見られた者たちでしかないのかしら?」)という問いかけから来ている。彼ら二人にとって、夢のなかのような幸福に満ちた時間は決して長く続くものではなかった。しかしそれでも彼らは、かつて夢のなかにいた自分たちの思いを拠り所にして、断絶を挟みつつも、関係を継続し、文字を介して互いの思いを交錯させ続け、感情を織り込んだ言葉を記録していった。

 

二人の俳優によって読まれる過去の夢、現前する感情

映画中で書簡を朗読するのは、二人の若い俳優である。ツェランの手紙を読み上げるのは、細見でどこかひょうひょうとした雰囲気のあるLaurence Rupp(監督曰く、詩人たちと同じオーストリア訛りのドイツ語を話すイメージ通りの俳優を見つけるのに苦労したそうだ)。バッハマンの手紙を読むのは、中性的だが、表情豊かな目を持つAnja Plaschg(彼女はSoap&Skinという名前で音楽活動もしているとのこと)。あえて言ってしまえば、二人は、どこにでもいそうというか、その辺を歩いていてもおかしくないような一組の若者だ。彼らは、ツェランやバッハマンについて予備知識もなかったという。読まれるテクストこそ事前に渡されたそうだが、詩人たちが書き込んだ書簡の言葉は、彼らが日常で話す言葉とは異なったものだ。この書簡の言葉だけを頼りにして、なかば即興で、彼らは詩人たちの過去の夢を朗読することを始める。

マイクロフォンの前に立たされ、書簡の抜粋を朗読していくなかで、彼らの表情は、詩人たちの言葉に呼応して変化していく。柔らかな喜びが、痛ましい悲しみが、クローズアップされた彼らの表情に繊細に浮かんで、また次の表情へと移行していく。彼らは体の身振りを使ったいわゆる「演技」は一切しないが、ときにはマイクロフォンの前で、ときには椅子に座ったままで、さらには床に寝転がって、書簡を朗読していく。ときに視線を交わし、またときに目元に涙が浮かばせる。この表情の変化それ自体、どこまでが「演技」でどこまでが「自然」であるのか、観る者にはわからない。いずれにしても彼らの表情——顔の表情と、声の表情——は、彼らによって読まれた過去の夢を、そこに織り込まれた詩人たちの感情を、印象的な仕方で、現前させていく。

 

過去と現在が交錯する、空間と時間

この「実験」映画に独特のアクセントとリズムをもたらしているのは、朗読の合間合間の休憩や、或いはラジオ局を出ての食事やコンサート訪問の映像だった。撮影がなされたラジオ局の玄関口で、二人は煙草を吸いながら、とりとめのない話をする。趣味の話や、タトゥーの話。また二人は、彼らが読んでいる書簡について、書き手たる詩人たちが何を思ってこの文章を書いたのかを話し合う。少しだけ、ほんの少しだけ彼らを取り巻く空気が変化していっているような気もするが、それは決して劇的なものではない。実際のところその変化は、彼らが読んでいるテクストとは何の関係もなく、ただ若い二人が数日を一緒に過ごして親密になっていったというただそれだけのことなのかもしれない。しかしいずれにしても、書簡の朗読の合間に提示される俳優たちの何気ない会話や振る舞いと、読まれていく過去のテクストとの間には、独特の布置関係が構成されていく。

個人的にもっとも印象的だったのは、休憩の間に二人が床に寝転がり、Ruppがスマートフォンで音楽を流し、それを聴きながらPlaschgが腕や指を動かしているのを、遠目から撮影した映像だった。もう日も暮れていて、部屋と部屋を区切るガラスに室内灯が反射し、どこまでが彼らのいる空間でどこからが別の空間なのかの境目が曖昧になっていて、撮影スタッフらしい人物がぼんやりと画面に映りこんでさえいた。さらにそこには、さっきまで読まれていた——そしてまたその後でも読まれるであろう——詩人たちの過去の夢の言葉も、響いていたのかもしれない。疲労感と親密さが入り混じり、境界線が見えなくなった、ゆるやかな空間と時間。それはとても心地のよいものであるとともに、束の間のものでもあった。

読み上げられる手紙の日付が進んでいくにつれて、少しずつ、過去と現在が交錯するこの空間と時間もまた、終わりに近づいていることが予感されてくる。この映画の終盤に私は、まだもう少し、もう少しだけ続いてくれはしないかと思いながら、映像を眺めていた。しかし読まれる文章のトーンは変わっていき、詩人たちの関係の終わりを、それどころか彼らの生の終わりをも、意識させるものになっていった。やがて二人のあいだに、満足な返信がなされなくなる。最後の文章が読み上げられる。映画は終わる。この時間と空間も終わる。小さな、しかし忘れることのできない残響とともに。