映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

感性の帝国が刹那的であることは、外なる現実との対照において際立せられる(大島渚「愛のコリーダ」/Nagisa Ōshima "L'Empire des sens" 1976年)

大島渚「愛のコリーダ」(Nagisa Ōshima "L'Empire des sens" JP/FR 1976 102 Min. Blu-ray オリジナル+英語字幕版)を鑑賞。

 

あらすじ

1936年、東京中野の料亭「吉田屋」で、新入りの女中として働き始めた定。彼女は料亭の主人である吉蔵と恋仲になり、二人は互いの身体を求め合うようになる。そのうちに定は料亭を辞め、吉蔵と連れたって待合旅館を転々とするようになる。待合の部屋に閉じこもって生活する二人は、芸者を呼び遊興にふけ、時間と体力の許す限り情事を重ねる。次第に吉蔵の肉体への執着を強めていく定は、情事の最中に吉蔵の首を絞めることに喜びを見いだすようになる。できる限り定の望むことを受け入れようとする吉蔵だが、その身体はだんだんと生気を失っていく…。

 

※英語字幕付きのトレイラー。ここでは直接の性的シーンは映っていない。

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極端化した愛欲がたどる軌道、転がり落ちる破局のリズム

基本的には、阿部定事件という実際の出来事を題材にしつつ、極端化した愛欲の軌道をおった映画だ。好いた人のすべてを自らの手の内に握りしめていたいと欲する定と、好いた人のすべてを受け入れたいと欲する吉蔵。抑制のきかないラディカルな性のあり方をもつ二人が、性の高まりとその永続を求めながら、破滅へと転がり落ちていく。

この「愛のコリーダ」に関しては、しばしばその極端な性描写が話題になる。私が観た版は修正もカットもないもので、たしかに性的シーンは映画としてはきわめて直接的であからさまなものだった。男女ともに局部のアップも多く、またどう見ても実際に性交を行っている。そのため、映像上の性描写にそこまで慣れていない者にとっては、スクリーンに映し出される扇情的な性描写の直接性そのものが、この映画のそもそもの主題であるように思われるかもしれない。

とはいえこうした性描写によって描かれているのは、扇情を目指した性描写そのものというよりは、極端化した男女の性が転がり落ちていくそのプロセスであるだろう。二人の性は、お互いへの愛憎と混じり合いながらもつれあい、闘牛さながらに、破局にむけてリズムよく転がり落ちていく。「愛のコリーダ」という邦題は、破局に向かって転がり落ちていく性愛の軌道にこそ、映画の物語上の主軸があることを示しているだろう。*1

 

現実の帝国に背を向けた感性の帝国

とはいえ映画「愛のコリーダ」は、単に性愛の軌道を描くものに尽きず、どこか既存の社会との関連を指し示すところがある。それは単に、1936年の阿部定事件をモチーフにしているというそのことだけに由来するものではないだろう。映画のなかに配置された歴史的モチーフ——旭日旗を振る子供たちの姿や、生気を失った吉蔵を脇目に整然と行進する兵隊たち——は、たんに事件が起きたのが帝国主義時代の日本だということを指し示すだけのものではないのだ。

この点を考えるヒントは、映画のフランス語タイトル「感性の帝国」(L'Empire des sens)にあるだろう。このタイトルがロラン・バルトの日本文化論のパロディであることはさておき*2、この「帝国」という言葉は、1936年当時の日本の軍国主義の「帝国」を間接的に暗示するものでもあるだろう。

愛欲の世界に閉じこもり、性交をする以外になんの目的も持たない定と吉蔵の二人が作り出す感性的な快の「帝国」は、禁欲や規律を徳目として掲げた全体主義社会の「帝国」と対照関係をなす。この意味でこの映画で描かれる二人の寝室を、徹底的に物質主義的な快楽に拘泥するという仕方で現実社会の規律の圧力に抵抗する、反社会的な生のあり方として見ることができるだろう。

この対照関係をもっともはっきりと見出せるのは、映画の後半、情事の過剰に生気を失いふらふらとよろめくように歩く吉蔵の脇を、出征を控えた日本軍が整然と行進していくシーンだ。日本国旗や旭日旗に見送られて行進する軍隊の列から伏し目がちに視線を逸らすとき、吉蔵はあきらかに、彼らの愛欲の世界が——「感性の帝国」が——現実の帝国世界からの逃避において成り立っていることに気づいている。しかし彼はもはや、社会の秩序の中に戻っていく意欲を持っていない。彼にできることは、感性の帝国に閉じこもり、感性の世界の女帝である定の望みにどこまでも付き従うこと、ただそれだけなのだ。

転倒し内面化された社会の強制は、眼の前に提示されている感性の喜びを放棄するか、それにしがみつくかという、極端な二択を吉蔵に突きつける。もはや吉蔵には感性の喜びを受け入れる以外の選択肢がないのだが、しかし彼は、それがもはや喜びのていをなしていないことにも気づいている。極端化した性愛の軌道に、もはや彼の身体はついて行かず、定を肉体的に満足させることもできなくなっている。吉蔵は、感性の喜びが永続するものではなく、刹那的なものでしかないことを、知っている。それを知りながら彼は、感性の帝国とともに自らも破滅することを望むのだ。

 

感性の帝国が刹那的であることは、外なる現実との対照において際立たせられる

感性の喜びは、瞬間的なものであり、捕まえておくことができず、またいつも同じように動くものではない。たとえその瞬間瞬間では喜びの永遠性が誓われても、時間と共に変化していく。「末永く幸せに」あることを何度も謳い、定の望む通りに反応していたはずの吉蔵の身体も、やがて以前のような反応を見せなくなる。

もちろん定も、そのことには気づいている。しかしそれでも定は、吉蔵の男性性を、彼女に喜びを与えてくれるはずのものそのものを、物質的に手の中に握りしめ続けようと欲する。感性の帝国の女帝が手を下す最後の破局は、感性的なものを感性的な仕方で握りしめつづけようとする物語の論理に忠実なものであるとさえ言えるだろう。映画「愛のコリーダ」は、阿部定事件の結末を、このような性愛の論理の帰結として提示している。

定と吉蔵の「感性の帝国」は、社会との関連を拒否し続ける仕方での社会へのプロテストは、どうしたって持続することができないものだった。経済的な面でも、道義的な面でも、政治的な面でも、長続きすればするほど不純物が混じって、彼らの帝国が瓦解していくことは気づかれていた。仮に邪魔するものが何も存在しなくとも、彼らの身体は彼らが求める愛欲の過剰に耐えることができなかっただろう。この映画における、時間的にはほんのわずかなものでありながらも強いアクセントを残す現実のモチーフは、物質的な快の刹那性を際立たせるものとして作用する。感性的なものが刹那的であることは、外なる現実との対照においてこそ際立たせられるのだ。

*1:この観点から、以前記事を書いたペドロ・アルモドバル「マタドール」に本作とのモチーフ上のつながりを見出すことはできるだろう。この映画もまた、破局に向う極端な性のリズムと軌道を、闘牛になぞらえながら描いている。

*2:フランス語タイトル「感性の帝国〔あるいは「官能の帝国」〕」(L'Empire des sens)は、ロラン・バルトの1970年発表の日本論「表徴の帝国」(L'Empire des signes)を明らかに意識したものとして付けられている。この観点から大島の映画をバルトの日本文化論へのリアクションとして読み解くこともできるのかもしれない。