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映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

三つの「エロ・グロ」映画。暴力、欲望、狂騒、死、露悪的なものを一つの映像世界へ昇華すること

露悪的なものを一つの映像世界へ昇華する「エロ・グロ」映画

昨日の記事で、映画について文章を書く際の自分の方針のようなものを書いた。そこに書いた通り、私は、映画を何かしらの現実を写し出すものとして読み、そこから読み取れたことや考えたことを文章にすることが多い。

ただ断っておきたいのだが、私は、全ての映画がそういう「現実の写し絵」として読まれるべきだとか、そういう読み方ができる映画こそ価値が高いのだ、などと主張したいわけでは決してない。ただ私にとってはそういう映画が文章を書くきっかけになりやすいということであって、それは映画の価値の高さ低さとはまた違う話だ。

逆に、私としてはとても面白く感じた映画でも、それについてうまく文章が書けない、ということがしばしばある。とりわけ、暴力やセックス、人間のあからさまな欲望や倒錯、狂騒や死など、所謂「エロ・グロ」というか、ある種露悪的なものを徹底的に突き詰めて一つの映像世界へと昇華するような映画については、文章を書くのが難しいなと思うことが多い。

その種の「エロ・グロ」要素のある映画が嫌いなわけではないし(特別好きというわけでもないが)、露悪的なものによって緊密で洗練された世界観が作られていれば、そこに強い印象や感銘を受けることもある。ただなんとなく、そういう映画で描かれた暴力や欲望についてどうのこうのと釈義して、そこに現実性やら社会性を読み込むのもなんとなく野暮だという気がしてしまうのだ。端的に言えば、よくできているかできていないか、提示され構成された醜悪さがある種の美的な質を伴った映像世界へと昇華されているかどうか、その点くらいしか印象や感想が書けないような気がしてしまうのだ(この辺、もう少し映画史やら図像学やらを勉強していればまた違ったアプローチもあるのだろうけれど)。

なので、どうもそういう露悪的な映画については記事を書くのを後回しにしてしまい、結局しっかりしたものを書かずに終わってしまうことが多い。ただまあせっかくなので、このブログを始めてから観たいくつかの映画で、印象的だったのだが記事が書けていない三作について、覚書がてら感想を書いてみたい。

 

というわけで、以下、

・ペドロ・アルモドバル「マタドール」(1986)

・ケン・ラッセル「ゴシック」(1986)

ピーター・グリーナウェイ「コックと泥棒、その妻と愛人」(1989)

について書いていくことにする。 

 

…一応断っておくと、いわゆる「エロ・グロ」系の話や記述が苦手な方は、以下ご注意を。

 

快楽と破滅に向かって高まっていく欲求のリズム(ペドロ・アルモドバル「マタドール<闘牛士>・炎のレクイエム」/Pedro Almodóvar "Matador" ES 1986)

「死」に取りつかれた元闘牛士と、性行為の最中に相手を殺すことに快感を覚える弁護士とが、互いを意識し合い関係を深め合っていく、というのが物語の軸。彼らは既に何度も殺人を犯しているのだが、彼らの社会的地位からか容疑はかかっていない。彼らの罪をかぶることになった元闘牛士の教え子と、巻き込まれた元闘牛士の婚約者とが、刑事とともに真相を究明し、闘牛士と弁護士の常軌を逸した逢瀬を止めようとする。大まかな話の枠としてはそんなところ。

映画の冒頭から最後まで、とにかく性行為のシーンが多いし、それがまたなまなましい。局部を写さないこと以外はポルノビデオと変わらないじゃないかと思うくらい、扇情的で湿度のあるセックスシーンが繰り返される。それに並行して残虐殺人の映像も流され(こちらはそれほどなまなましいものではないが)、ところどころで深紅の血液がしたたる。その種のものが苦手な人にとっては耐え難い映画かもしれない。

しかしとにかく、話の中心にいる二人、ナーチョ・マルチネス(Nacho Martinez)演じる元闘牛士と、アサンプタ・セルナ(Assumpta Serna)演じる弁護士の情事の描写が、緊迫感があって、扇情的で、しかし綺麗で、印象的だった。映画の冒頭、元闘牛士は残虐殺人のビデオをみて自慰にふける。弁護士は、男の身体にまたがって体を揺らしながらその首根を突いて刺殺する。死に取りつかれた二人は、出会った当初にはお互い敵対するかのようにふるまうのだが、次第に互いの身体を求め、また同時に互いの破滅をも求めるようになる。死に向って煽り立てられる闘牛の緊迫した行程のように、映画の進行とともに、快楽と破滅に向う二人の欲求が高まっていき、それはラストシーンで極点に達する。

後半、二人の死を予感して逢瀬を止めようとする登場人物たちには、邪魔をしないでほしい、とさえ思ってしまった。そのくらい、緊密に閉じられた空間において高まっていく二人の情事は、綺麗なものだった。物語上の細かい設定や話の進め方には無理があったり苦笑してしまったりしたところもあるのだが、それを差し引いても、最後のシーンへ収斂していく緊迫した映像のリズムはとにかく印象的なものだったし、静止した「事後」の絵の構図も見事だった。この種の映画が嫌いでない人には、お勧めできる。

 

恐怖と不気味を詰め込んだ邸宅における狂騒の一夜(ケン・ラッセル「ゴシック」/Ken Russell "Gothic" GB 1986)

舞台はスイス郊外に構えられたバイロン伯爵の豪勢な邸宅。そこを訪れた詩人シェリーとその恋人メアリー、彼女の義理の妹クレア。医師ポリドリも交えて、彼らは激しい雷雨の一夜を邸でともに過ごすことになる。食事のあと、怪談話を披露し合ったことをきっかけに、彼らの想像力と恐怖心から、悪夢の一夜が始まることになる…というようなあらすじ。この一夜の体験をもとにして、メアリーはのちに「フランケンシュタイン」物語を、またポリドリは「ドラキュラ」物語を着想することになる、という怪物誕生の逸話という要素も備えている。

暴力、セックス、ドラッグ、狂気、怪物、幽霊、その他なんやかんや不気味なものやらグロテスクなものやらと、とにかく人を怖がらせたりいやな気持ちにさせたりしそうなものが、邸のなかにこれでもか詰め込まれていた。その効果で確かに伯爵のお邸には独特の雰囲気が演出されていたのだけれども、率直に言うと、作り物のお化け屋敷という印象がぬぐえず、観ながらなんどか笑ってしまった。以前デヴィッド・リンチ「イレイザーヘッド」についての感想でも書いたのだけれど、恐怖を引き起こすはずの異形のものをあまり直接的に具象化してしまうと、どこかこれみよがしに過ぎるものなってしまい、不気味というより滑稽なものになってしまうことがある。この映画に関しては、個々のモチーフが寄り集まって緊密な映像世界を作っていた…とは言い難く、それぞれのモチーフの間に人為の隙間が見えてしまっていて、その隙間を見せられてしまうと入り込めないよね、という気持ちになってしまった。

それともう一つ不満を言えば、暴力にしてもセックスにしても、狂騒にしても狂気にしても、エロにしてもグロにしても、どうせ描くならもっと突き詰めてほしいと思ってしまった。ちょうど上記の「マタドール」を観た数日後の鑑賞だったので、マタドールの突き詰め方に比べると、この映画のエロもグロも、これ見よがしな割には中途半端に思えてしまった。性的な場面で直接的に表現されるのはせいぜい上半身までだし、残虐的な要素としてもとりあえずは血を流して泥まみれになっているだけだし…いやだけってことはないかもしれないけど。この辺り、国によって規制が違ったりするのが関係しているのだろうか。

それなりに否定的な感想も書いたが、フランケンシュタインやバンパイアの逸話などを考慮に入れつつ観ればまた別の見え方をしてくるかもしれない。邸の作りや雰囲気はよく、そのなかを登場人物が華美な装飾をふりまわしながら狂騒的に駆け回る映像は、なかなか印象的でよいと思った。

 

罪深さと醜悪さを描き切ることによって昇華された映像世界の美(ピーター・グリーナウェイ「コックと泥棒、その妻と愛人」/Peter Greenaway "The Cook, the Thief, His Wife and Her Lover" GB/FR/NL 1989)

これは観たのは少し前だったかな。舞台はフランス料理店。話の中心にいるのは、タイトルが示す通り、料理店のコックと、この料理店の共同オーナーたる泥棒、そしてその妻と、その浮気相手である書店員。泥棒は妻と仲間を連れて毎夜のようにレストランで大騒ぎしながらご馳走をたいらげており、それにコックは辟易しつつも逆らえないでいる。泥棒から暴力を受けながらも逃げられないでいる彼の妻は、レストランで一人本を読みながら食事をする知的な書店員に惹かれ、彼らは言葉も交わさないまま化粧室で交わる。それから逢瀬を重ねる二人に当初は気付かないでいた泥棒も、やがて妻の不貞を知り、激怒して書店員に制裁を加えようとする。ここから物語は破局的な結末へと向かっていくのだけれど、これについてはさしあたり書かないでおく。

この映画を観たときの率直な感想は、世の中にはこんなにとんでもない映画が存在するのか…というものだった。後半15分くらいは口をあんぐりあけて観ていたと思うが、観終わって映画館を出、自室に戻るまでの帰り道もずっと唖然とした表情をしていたと思う。帰宅してから鏡で自分の顔を見たらまだ唖然としていた。とにかく衝撃的な映画経験だったし、未だにそれをうまく言葉にできないでいる(実は一度記事を書こうとしたがうまく書けなかった)。圧倒的な質で、圧倒的な映像の力で、ただただ唖然とさせられてしまった。

言葉にできないなりに書くと、この映画において圧倒的なのは、映像世界の構成の仕方だ。明らかにマニエリスムやバロック絵画が意識されたレストランの調理場や内装は、はっきり言ってまったくリアリティーのあるものではない。ものの配置や人々の動きなど、もっぱら一つの世界観だけが突き詰められ、映像世界としての魅力だけが追求されている。駐車場、調理場、レストラン、手洗いと、場所によって切り替わるライトの色彩効果も、ジャン=ポール・ゴルチエによってデザインされたという衣装も、映画のうちに独自の映像世界を構成するというただそれだけのことに奉仕している。そしてその構成は、明らかに成功している。この映像世界の質を経験するというそれだけでも、この映画を観る価値はあると思う。

物語の進行においては、食欲に暴力、愛欲がこれでもかというほどに露悪的に見せつけられる。泥棒やその一味のレストランでの食事風景は下品でがさつであり、泥棒は気に入らない人間に対して、最高度に痛ましい苦しみの伴う拷問さながらの暴力を行使する。泥棒の妻とその愛人とは、言葉よりも先にむさぼるようなセックスを始める。ただ不思議なことに、一つ一つは耐え難いはずのこういった露悪的な契機のどれもが、この映画の映像世界においては、映像の質を、その緊密な美しさを構成する要素として働いているのだ。

露悪的なものが集められ緊密に閉じられた映像世界へと昇華されていくそのプロセスは、物語が後半にさしかかるにつれてそのリズムを高め、最後のワンシーンに極まることになる。それは言葉にしてしまえばエログロや醜悪さの極みとも言える出来事であるだろうが、しかしそれにもかかわらず、この映画において提示されるそれは美しいものでさえあった。物語において重要な役割を果たす厨房の少年が歌う歌さながらに、罪深さを徹底して露悪的に描き切ることで、ある種の浄らかささえ感じさせるカタルシスの瞬間が、そこに現出する。

そもそも暴力や性的なシーンがまったく見られないという人でなければ、ぜひ観てみてほしい、強くお勧めできる映画だと思う。マニエリスムからバロックあたりの西洋絵画が好きな人も楽しめるのではないかと思う。

 

書き始めたらなんだかんだでそれなりに書いてしまった。今後またこの種の映画で印象的なものがあったら書いていきたい。