映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

動きゆく現実を眺める歴史の天使は、限りある生へ降りてゆくことを望む(ヴィム・ヴェンダース「ベルリン・天使の詩」/Wim Wenders "Der Himmel über Berlin" 1987年)

ヴィム・ヴェンダース「ベルリン・天使の詩」(Wim Wenders "Der Himmel über Berlin [英題:Wings of Desire]" BRD/FR 1987 122 min. DVD)を鑑賞。

 

あらすじ

ベルリンを見下ろす天使のダニエルとカシエル。彼らは他の多くの天使たちとともにこの町に住まい、彼らの姿を見ることのない人間たちを観察し、見守っている。やがてダニエルは、サーカス曲芸師の女性に恋心を抱き、自らも人間として生きたいと思い始める。そしてダニエルは、なぜか彼の姿を見ることのできる刑事コロンボ役の俳優フォークの一押しもあって、自らの不死性を捨てて有限な生のなかに降り立つことを強く願うようになる…

 

※ドイツ語版トレイラー。カイザー・ヴィルヘルム記念教会から天使ダニエルがベルリンの街を見下ろすシーンから。子供だけが彼の姿を認めることができている。

 

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神から切り離され、手をこまねいて世界を眺める「歴史の天使」

この映画は天使の物語だ。天使というモチーフは、言うまでもなくきわめて長い歴史をもち、時代や文化によって変遷してきた。キリスト教の伝統において天使は、現世を超えた神に何事かを託されてこの世の人間の前に姿を現す霊的存在として——端的に言えば「神の使い」として——表象されてきた。天使は、人間たちが罪の生活から解放され神による永遠の至福へと参与することができるよう、手助けをするのだ。

しかしこの映画における天使たちの姿は、このような(あえて言えば)伝統的な天使のイメージとは趣を異にしている。ベルリンの町を上空から観察するのみならず、通りを歩き回り、図書館にたむろし、苦しみにあえぐ人々に寄りそう天使たち。彼らはたしかにこの世の原理を超えた不死の存在ではあり、肉体を持たず、人間たちを幸福に導くことを望んではいる。しかし彼らは現実の人間の生を左右する決定的な力を持っていない。人々を集団で導くことはおろか、感覚に訴えて介入することも、言葉をもって語りかけることもできない。

この天使たちにできるのは、個々人に、生きるために上を向くほんのわずかな力を与えることだけなのだ。そして最後に残されたこの力さえ、彼らが心配そうに眺める人間を直接に苦しみから救い出すものではない。天使たちには、もはやほとんど、神的な力が残されていないように見える。超越的な神の力から切り離された天使たちは、ほとんど無力に手をこまねきながら、苦しみにあえぎ憂鬱に沈む個々人の生がほんの少しでも上向くことを願い、人々に寄りそう。寄り添った人々の気持が上向いたとしても、それは本当に天使の力なのか、それとも単に当人が自ら気持を変化させたに過ぎないのか、そのことさえもはっきりとわからない。

神から切り離され、手をこまねいて世界を眺める天使たちのこの姿は、ベンヤミンがクレーの絵画「新しい天使」のうちに見いだした「歴史の天使」のイメージに通じる。歴史の天使は、楽園から吹きすさぶ強風に押し流されながら、瓦礫が積み重なる歴史の破局を眺める存在だ。死者たちを目覚めさせたくとも、破壊されたものを組み立て直したくとも、歴史の天使は現実に触れることができないまま、ただただ目を見開いて積み重なる破局を眺めるのだと言われる*1 。現実の世界を変化させることができず、かといって自らの不死性を離れることもできず、憂愁に沈む人々の幸せを望みながら時間の流れに身を任せている映画のなかの天使たちもまた、歴史の天使として、動きゆくベルリンの町を無力に眺めることしかできないのだ。

 

動きゆく現実を眺める歴史の天使は、限りある生へ降りてゆくことを望む

ヴェンダースが描く天使はしかし、歴史の動きを眺めることしかできない自らの無力さを自覚しながら、決定的な一歩をなす。天使は、押し流され破局を眺めるだけの自らの不死性のモノトーンから抜け出して、死にうる人間として色彩ある生を送る可能性に思いをいたらすようになるのだ。ブルーノ・ガンツ演じる天使ダニエルはこうして、サーカス曲芸師の女性への恋慕とともに、限りある生に焦がれるようになる。そして彼は実際に、苦しみと悲しみと喜びが交じり合った現実の鮮やかな生に、入っていこうとする。動きゆく現実を眺める歴史の天使は、限りある生へと降りてゆくことを望むのだ。

この映画の肝は、まさしくこの点、二つの世界像が交差する点にこそある。無限に死ぬことの(でき)ない天使たちの単調なモノクロの世界像と、死や傷に脅かされた——しかし感性の喜びの存在する——人間たちの忙しなく色鮮やかな世界像。映画の前半を支配する緩慢でとりとめのない俯瞰の視点と、後半におけるテンポのよい表情に満ちた個人の視点。この両者が交錯するシーン、墜落し傷付く身体を得たダニエルが、空き地の砂利の上に軌跡を残しながら回るように踊る場面が、物語に印象的なアクセントを与える。ここで歴史の天使は、単に現実世界の破局を無力に眺める者から、瞬間的な感性の喜びを願う者へと転換している。

ここではほとんど、人間の肉体性と生のダイナミズムが肯定されているようにも見える。戦争の傷跡を残す20世紀のベルリンの瓦礫の上では、不死性や永遠の至福についての教えよりもむしろ、苦しみのただなかで感性の幸福に焦がれる個々人の思いこそが、天使の住まう場所であったのかもしれない。憂愁に沈みながらよりよき生を願う個人の憧憬は、息を詰まらせる現実のただなかで、現実とは異なる何かが入り込む小さな隙間を作り出す。「小さく、醜く、どのみち自分の姿を垣間見させはしないような」*2存在へと変じた天使は、この隙間のうちに身を潜めようとする。

もちろんこのことは、単なる寓話でしかないだろう。映画「ベルリン・天使の詩」の緩やかな円を描くような詩的な映像は、そこで提示されるものがどこか寓話的な夢物語でしかないというような印象を引き起こす。しかし同時にその舞台が——1980年代の動きゆくベルリンという具体的な時間と場所が——その夢物語に現実の歴史を与えもする。寓話であるがそれは、現実の歴史と重なり合う寓話なのだ。

 

今年の6月ごろから当ブログを再開し、一か月に二回ほどの更新ペースで記事を掲載してきました。ですが個人的な事情から、このペースでの更新がなかなか難しくなってきてしまいました。年内はどのみち本記事が最後の更新となると思いますし、来年以降の見通しも不明です…が、できれば月に一記事くらいは地道に更新できればと思ってはいます。よろしくお願いします。

*1:ヴァルター・ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」、テーゼIX。

*2:同上「歴史哲学テーゼ」、テーゼI。

「素敵な女性」とともに描かれる、変動する西ベルリンのポートレート(ウィル・トレンパー「甘い戯れ/プレイガール白書」/Will Tremper "Playgirl" 1966年)

ウィル・トレンパー「甘い戯れ/プレイガール白書」(Will Tremper "Playgirl" BRD 1966 88 Min. DCP)を鑑賞。

 

あらすじ

西ベルリンにやって来た写真モデルのアレクサンドラは、元恋人のヨアヒムに会おうと彼が勤める建設会社のオフィスを訪ねる。しかし仕事で忙しいヨアヒムは彼女の相手を面倒に思い、部下のジークベルトに街を案内させることにする。命じられるままアレクサンドラと時間を過ごすジークベルトだったが、誘惑されるうちに彼女に恋心を抱いてしまい、婚約者を捨てて彼女と結婚しようとする。そのことを知ったヨアヒムは、アレクサンドラは一人の男に留まることのできない女だと忠告する…

 

※DVD版のトレイラー。ドイツ語で字幕なしだが、映像だけでもその独特のリズムや洗練された雰囲気を楽しめるのではと思う。

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「素敵な女性たちとともに素敵なことをする」というモットー

監督のウィル・トレンパーは、1960年代当時台頭しつつあったニュージャーマンシネマの潮流からは距離をとりつつ、彼なりの仕方でドイツ映画の新しい表現を模索していた監督だという。プログラムに載っていた説明文によれば、トレンパーは50年代のヌーベルバーグの映画から「素敵な女性たちとともに素敵なことをする」(Mit hübschen Frauen hübsche Sachen machen)というエッセンスを読みとり、それをモットーとして制作されたのがこの映画「甘い戯れ/プレイガール白書」なのだそうだ。

実際この映画は、アレクサンドラという若く野心的な写真モデルの奔放な生活を西ベルリンを舞台に描いただけのものだと言えなくもない。彼女は「プレイガール」として男たちを利用し、魅惑し、拘りなく乗り換え、軽快に気の赴くまま生きようとする。彼女の描かれ方はきわめて肉体的かつ直感的で、よく練られた構図とも相まってリズムのよい洗練された映像表現を構成している。当時のドイツ映画のコンテクストを考えれば、アレクサンドラを中心としたこの洗練された身体描写は、ただそれだけでも尖鋭的なものとして受けとられたのかもしれない。

 

変動する西ベルリンのポートレート、そのエネルギーのなかで交差し合う人々

とはいえこの映画の魅力は、アレクサンドラという女性に尽きるものではないだろう。というのもこの映画は、アレクサンドラをめぐる物語を通して、その舞台である西ベルリンの姿をも生き生きと描き出しているからだ。むしろ彼女や彼女をとりまく男性たちのエネルギーは、西ベルリンという街に引き寄せられその中を動くことによって成立しているものであるとさえ、言うことができるかもしれない。

もちろんこの「甘い戯れ/プレイガール白書」は、政治や社会を直接の主題とした映画ではない。しかしそれでもこの映画には、戦時の破局から復興し、経済的な発展を遂げつつある西ベルリンの変動のダイナミズムがはっきりと記録されている。アレクサンドラをとりまくヨアヒムやジークベルトという二人の男性が勤める建設会社はまさしくベルリンの再開発に従事しているのであり、大がかりな建設工事が映画のなかで映し出される。ベルリンは動き、変化し、エネルギーを生み出している。

人々は、このエネルギーのうねりに巻き込まれるように、目的も拠りどころも不確かなまま、変動する街のなかをあてどなく交差し合う。アレクサンドラもまた、自分が何をしたいのか、誰を本当に愛しているのかもよくわからないまま——そもそも誰か一人の男性を愛すべきなのかどうかもよくわからないまま——蠢く西ベルリンの街をふらふらと動き回る。政治や経済の様々な利害関心が織りなすうねりのただなかにあったこの街を漂い、カメラの前でポーズをとり、そして踊る「素敵な女性」の姿を魅力的に描いたこの映画は、1960年代の変動する西ベルリンのポートレート映画としても充分に魅力的なものであるだろう。

退廃はもはや秩序のただなかに、時代遅れの良心もまたその汚れのなかに(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー「ローラ」/Rainer Werner Fassbinder "Lola" 1981年)

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー「ローラ」(Rainer Werner Fassbinder "Lola" BRD 1981 115 Min. 35mm.)を鑑賞。

 

あらすじ

舞台は1950年代の西ドイツ、バイエルン州の小さな町。ここでは地元の土建屋シュッケルトが幅をきかせ、不正な利権を享受している。娼婦ローラは、夜な夜な娼館に入り浸る彼に愛人として囲われながら、奔放な生活をしている。この町にある日、清廉潔白な建築省の役人フォン・ボームが赴任してくることになり、彼はシュッケルトらとともに町の再開発に着手する。フォン・ボームはその傍ら、淑女のふりをしたローラと恋に落ち、結婚を申し込むようになる。しかしある夜彼は、ローラがシュッケルトの情婦であることを知ってしまう。そこでフォン・ボームは、シュッケルトの不正を新聞に告発し彼を破滅させようとするが、そこで町の誰も不正の告発など望んでいないことに気付く…

 

※トレイラー。ドイツ語版:

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アデナウアー時代の「嘆きの天使」

70年代後半から80年代前半にかけてファスビンダーが制作、公開した「西ドイツ三部作」の一部である本作は、バイエルン州のとある田舎町を舞台に、戦後の西ドイツ——いわゆる「アデナウアー時代」の西ドイツ——の欺瞞を描き出している。この映画では、急速な経済的成長を遂げ外的には豊かになっていきながら、過去やその責任について充分な反省をしないまま内的には不道徳に陥っていた50年代西ドイツのあり方を皮肉に満ちた仕方で描いているのだ。テンポや映像構成もよく、けばけばしいライトや服飾が動き回る娼館でのシーンは、それ自体なかなか見応えのあるものだった。

興味深いのは、この映画が、ジョセフ・フォン・スタンバーグ「嘆きの天使」(Josef von Sternberg "Der blaue Engel" 1930)のモチーフを引き継ぎつつ、それを戦後西ドイツを舞台に大胆に翻案しているということだろう。控室で小鳥を飼い娼館に訪れた人々の前で歌い踊るローラは、明らかに「嘆きの天使」のキャバレー歌手ローラ・ローラの変奏だ。そして古めかしい道徳観をもつ真面目な中年男性が彼女に入れあげ結婚を申し込むという大筋も、スタンバーグの映画を引き継いでいる。「嘆きの天使」でマリーネ・ディートリヒが演じたローラ・ローラが圧倒的な存在感を放っていたように、この映画もまた、バルバラ・スコヴァ演じるローラの魅力を中心に成り立っている。

とはいえこの映画の物語は、放浪のキャバレー歌手に権威的な堅物教授が恋焦がれて破滅していく、という「嘆きの天使」の筋書きをただなぞるだけのものではない。本作におけるローラはもはや街々を転々とする興業団の一員ではないし、フォン・ボームも単なる時代遅れの道徳家ではない。ファスビンダーはむしろ、スタンバーグの映画から多くのモチーフを受け継ぎながらも、アデナウアー時代の「嘆きの天使」の物語を描き出しているのだ。

 

退廃はもはや秩序のただなかに、社会の利害に汚れた存在としてのローラ

社会の周縁に生き街々を転々とする流れ者であった「嘆きの天使」のローラ・ローラに対して、ファスビンダーの描くローラは社会秩序のただなかにいる存在だ。彼女は、町の最大の権力者である土建屋シュッケルトの情婦という立場に飽き足らず、町にやって来た建築省の役人フォン・ボームにも自ら近づいていく。そのために彼女は、娼婦としての姿を隠し、教養ある清楚な淑女を装うことさえする。彼女は、現実の利害に自らをまきこませながら生きるのだ。

別の言い方をすればこのことは、ローラにおけるような退廃や不道徳が、社会秩序と密接に結びついたものになっている、ということでもあるだろう。1930年の「嘆きの天使」のキャバレー歌手は未だアウトサイダーとして体制の外側から魅惑する存在であり、彼女に堕落させられた者は社会から排除されることにもなっていた。しかしファスビンダーが描く1950年代の世界では、むしろ社会秩序を担う権力者たちが当然のように娼館に入り浸り、半裸でうろつき、女の身体をまさぐっている。共産主義者であったはずの者もまた、積極的な改革を諦め、ヒューマニズムを標榜しつつ娼婦の側に横たわっている。退廃はもはや、社会秩序に内在し、そのうちに住まう者を取り込むよう全面化している。

自らを「汚れているkorrupt」と形容するローラは、まさしくこの退廃した社会のただなかでその利害関係と絡み合って生きる存在だ。フォン・ボームとの仲を深めていくそのプロセスにおいて彼女は時折、この汚れから身を清めることを望んでいるかのような表情を見せる。教会での彼女の厳かな表情は、彼女がその本心では道徳的な誠実さに憧れているのかもしれないという印象を抱かせる。そしてフォン・ボームに娼婦であることを知られた直後、自棄になったように開放的に歌い踊り狂う彼女の姿は、かえって彼女のなかにある清浄さとの対照をなしている…かのようにも見える。

とはいえ彼女はやはり「汚れている」のだ。彼女の内心のどこかに本当に道徳的な清らかさが存在しているかどうかにかかわらず、彼女はもうそのような清らかさに生きることはできない。物語の最後においてローラは、フォン・ボームと土建屋シュッケルトの権力闘争と両者の彼女への思いを利用し、自分自身が娼館の権利を得ることができるように立ち振舞う。そうして彼女は、フォン・ボームと幸せな結婚をするように装いながら、結婚式の直後、ウェディングベールをまとったまま土建屋シュッケルトと寝ようとさえする。退廃は、秩序のただなかで、その利害と絡み合いながらほくそ笑むのだ。

 

時代遅れの良心もまたその汚れのなかに、社会の利害に取り込まれて行くフォン・ボーム

建築省の役人フォン・ボームは、高潔な道徳的良心を抱きながら精力的に仕事をこなす人物として描かれる。「嘆きの天使」においてエミール・ヤニングスが演じたラート教授——ローラ・ローラに魅惑され、没落していく堅物教授——が尊厳を失い形骸化した道徳の権化であったのとは、大分趣が異なっている。フォン・ボームはむしろ、社会の退廃に対して自らの清廉潔白を保ち、その理念に基づいて社会を改善しようとする有能な人物として登場する。この意味で土建屋は彼を「仕事の面ではモダンだけど、私生活では古臭い奴」だと評するのだ。

こうして町に巣食う非道徳な風習からは距離をとるフォン・ボームは、自らの理想を、淑女を装うローラに投影してしまう。教養や貞淑を着飾るローラに、フォン・ボームは易々と心を許し、結婚を申し込むまでになる。そしてだからこそ彼は、彼女が本当は娼婦であり土建屋の情婦であることを知り大きなショックを受けはするが、それでも彼女を「汚れた」場所から救い出そうと尽力する。こうして彼は、土建屋シュッケルトを告発し失脚させ、それによって彼女を娼館との結びつきから解き放そうと試みるのだ。

しかし彼のこの試みは、二重の意味で無為に終わる。一つには、町の秩序と利害関係はあまりにも密接に絡み合っている。土建屋が「汚れて」いることなど町の誰もが知っているが、誰も彼が裁かれることなど望んでいない。誰しもが——本来進んで彼を告発すべき立場であるはずの新聞記者までも——ある程度までこの汚れた社会の利害のなかに身を浸しているのだ。もう一つには、そもそものローラ自身が、この「汚れ」から抜け出すことなど望んではいない。彼女はむしろ、フォン・ボームもまた自分が生きる汚れた社会秩序の一員になることをこそ、望んでいるのだ。

こうしてフォン・ボームは、自らの道徳的理想に従って生きつづけることができなくなっていく。町の再開発に着手するためには土建屋たちとも仲睦まじくやっていかざるをえないし、 ローラと夜を過ごすには娼館に赴き彼女を買わなければならない。そして最後には彼は、土建屋シュッケルトとある種の取引を交わし、彼に土建屋としての仕事を保証するその引き換えに、ローラを自分の妻として娶るのだ。結婚式の直後、ローラがウェディングドレスのまま土建屋といちゃついているその最中、どこか疲れたように見えるフォン・ボームは、「幸せ?」と尋ねられてから少し間をおいて、「幸せだよ」と静かな覚悟をたたえたように答える。この時に彼はおそらく、ローラがこれからも「汚れた」ままであり続けるだろうことを知っているのかもしれない。

時代遅れの良心も、結局はこの「汚れ」のなかに入っていかねばならなかった。フォン・ボームは、ローラを妻とし、社会の利害に自ら取り込まれていくことでしか、社会秩序のなかで何かをなし遂げることはできないのだ。「嘆きの天使」のラート教授とは異なった仕方で——より巧妙かつ逃れられない仕方で——フォン・ボームもまた、退廃のうちに呑みこまれていく。退廃のこのどうしようもない縺れの全面性は、目覚ましい経済発展を遂げていた戦後西ドイツ社会の、一つの裏面をなしていたものだろう。ファスビンダーは映画「ローラ」において、「嘆きの天使」のモチーフを変奏しながら、社会秩序におけるこの退廃の縺れを描いている。

寓話として描かれる不公正、苦しみの担い手としての驢馬(レゾ・チケイジェ、テンギズ・アブラゼ「青い目のロバ」/Tengiz Abuladze, Rezo Tschcheidze "Lurja magdani" 1956年)

レゾ・チケイジェ、テンギズ・アブラゼ「青い目のロバ」(Tengiz Abuladze, Rezo Tschcheidze "Lurja magdani [英題:Magdana's Donkey]" UdSSR 1956 67 Min. 35mm. オリジナル+ドイツ語字幕版)を鑑賞。近所の映画館でジョージア映画特集が開催されており、その枠で観ることができた。

 

あらすじ

小さな山村に三人の子供と慎ましく暮らす未亡人マグダナは、毎日はるばる山道を越え、街の市でヨーグルトを売ることで生計を立てている。そんなある日子供たちは、山道で衰弱して倒れている驢馬を見つけ、村の顔役が苦笑しながら通り過ぎる傍ら、この驢馬に水と餌を与える。彼らの献身もありやがて元気を取り戻した驢馬はルージャ(ルルジヤ?)と名づけられ、マグダナの家に引き取られる。そこでマグダナは、回復したルージャにヨーグルトの壺を担わせ街に出ることにする。ルージャのおかげでいつもよりも多くの壺を持って街に出ることができたマグダナだったが、偶然にもルージャを山道に捨てたもとの持主である商人と出くわしてしまう。彼はマグダナが自分の驢馬を盗んだと主張し、裁判所に訴え出てしまう…

 

※Youtubeではトレイラーが見つからなかったが、マグダナが町に出てルージャの持主と出くわすシーンの映像があったのでそれを貼り付ける。…映画全編もアップロードされているようだが、ここには貼らないでおく。

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寓話として描かれる不公正、富を持つ者に持たざる者が抱く怒り

1956年のカンヌ国際映画祭にて最優秀短編映画賞を受賞したという本作「青い目のロバ」は、どこか寓話めいた物語を通して、社会の不公正を描いている。可愛らしい子供たちの描かれ方や、登場人物が口ずさむ歌のメロディーもまた、物語の寓話らしさを演出している。そしてそれだけに、物語の後半において顔をもたげる不公正の描写は、痛々しいものとして提示されることになる。

寓話らしく、登場人物たちは、リアリティに拘った精確な描写がなされているというよりは、単純化された図式の上を動いているように見える。貧しい村人たちは、善良で人を思いやり精を出して働くが、彼らの生活は向上しない。吝嗇で下品な街の商人は、使用人や荷運びのロバに対してひどく粗暴に振舞い、自らの財産を独り占めにする。この寓話は、富を持たざる者は善意で動いているのに幸運を享受することができず、富を持つ者のみが利己的に幸福を独占することを許されている、という社会的図式のなかで展開されるのだ。

粗暴な商人は、過度な荷を負わせて弱らせてしまった驢馬を、使用人の少年に命じて山道に捨てる。この驢馬を子供たちが見つけ、愛情に満ちた世話で助け出したことによって、マグダナの家族には一筋の幸運が舞い込んできたように見えた。驢馬のおかげで多くのヨーグルトを街まで運ぶことができるようになり、今までよりも生活が楽になるかもしれない。そう思ったマグダナは、一番下の娘が欲しがっていた赤い靴を買ってやると約束して街に向うのだ。

しかし街でマグダナと偶然会った商人は、彼が捨てたはずの驢馬を彼女が連れているのを見て憤慨する。商人はマグダナのことを泥棒だと罵り、終いには裁判所に訴えでてしまう。彼にとって驢馬はもう用済みで捨てたものであったはずなのに、その驢馬によって他の誰かが——ましてや貧しい未亡人が——利益を得ることには我慢がならないのだ。マグダナは、彼に対して自らの公正さを証す術を知らない。それに対して商人は、裁判という場において、法的正義のみかけの上で、自らの独占的な利益を守る手段を知っているのだ。

裁判においても、公正さは働かない。山村の村人たちはマグダナのために出廷し、問題の驢馬が瀕死で路傍に捨ておかれていたこと、それをマグダナの子供たちが助け出したことを口々に証言する。また驢馬を捨てさせられた使用人の少年も、商人が驢馬に対していかに非道な扱いをしていたかを暴露する。しかし有力者である村の顔役は、驢馬に関する事情を知りながらも、商人に不利となる証言を控える。そして裁判所は結局、マグダナは驢馬を不当に手に入れたのであるから、元の持主である商人に返却しなければならない、という判決を下してしまうのだ。

司法の場でも、そこで有効となる振舞をするか有力な者の証言を得ることができなければ、公正さは働かない。貧しき者たちはそもそも、公正さに与る可能性からも締め出されているのだ。こうして驢馬は、見せかけの公正さのもとで下された判決に従って、粗暴な商人の手に戻っていく。商人に強引に連れられて行く驢馬の姿を見送って、村人たちは山村へと戻っていく。諦念と、憤怒をたたえて。こうしてこの映画は、富を持つ者に対して持たざる者が抱く社会の不公正への怒りを、少なからず単純化された寓話的図式によって、描き出すのだ。

 

苦しみの担い手としての驢馬、利害関係から疎外されたものへ注がれる子供たちの眼差し

個人的に印象に残ったのは、富を持つ者と持たざる者とを図式化しつつ社会の不公正を暴き出さんとするこの映画において、驢馬のルージャが、そのどちらにも翻弄されながら苦しむ存在として描かれていることだ。ルージャは、商人によっては軽んじられ、鞭うたれ、瀕死になれば捨て置かれる。村人たちには愛されているように見えるが、それでも結局は壺の運び手として利用されることが期待されることになる。そして最後には、再び自らを軽んじる者に強引に引かれていくことになる。この翻弄の只中でルージャは一言も発しはしない。ただただ無言で苦痛と重荷に耐え、何かしらの利益を生むことができなければ無用だと見なされるルージャの姿は、社会の利害関係が生み出す苦しみを一身に担っているかのように見える。*1

この映画のなかで、ルージャをただ無条件に労わり、愛情を注ごうとするのは、驢馬から直接の利益を求めることのない子供たちだけだ。富を持つ者と持たざる者との間の二項対立的な図式のなかで動くこの寓話のなか、驢馬のルージャは、利益と不利益、公正と不公正という既に認められた枠にすら入りこめないで、ただただ社会の利害関係の只中で翻弄される。軽んじられ、足蹴にされる驢馬の姿は、その苦しみの表象をもって、どこか宗教的なイメージを連想させるものでさえある。いずれにせよ、苦しみの担い手として描かれるルージャの存在を、既存の社会の枠からはみ出した何ものかとして見ることはできるだろう。彼に注がれる子供たちの眼差しは、社会の利害関係から疎外されたものを認めようとする何かしらの思いを、暗示しているのかもしれない。

*1:苦しみの担い手としての驢馬、というこのモチーフは、ロベール・ブレッソン「バルタザールどこへ行く」(Robert Bresson "Au hasard Balthazar" 1966)を思わせるものだ。このモチーフは、少しこだわって考えてみると面白いかもしれない。

カトリック教会のイメージ戦略と、宗教権力の機能転換のドキュメントとのはざま(ヴィム・ヴェンダース「ローマ法王フランシスコ——自らの言葉を生きる男」/Wim Wenders "Pope Francis: A Man of His Word" 2018年)

ヴィム・ヴェンダース「ローマ法王フランシスコ——自らの言葉を生きる男」(Wim Wenders "Pope Francis: A Man of His Word [Papst Franziskus – Ein Mann seines Wortes]" DE/IT/CH/FR 2018 96 Min. DCP. ドイツ語ナレーション+字幕版)を鑑賞。近所の映画館での上映時に監督ヴィム・ヴェンダースがゲストとして来ており、上映後には映画に関する質疑応答もあった。

 

概要

カトリック教会から委託を受け制作された現ローマ法王フランシスコのドキュメンタリー映画。清貧の理想を讃えたアッシジの聖フランシスコの名を冠し2013年に着任した法王の姿を追っている。映画は主として、様々な催しや対話のために世界中を巡る法王の姿、監督により直接行われた法王へのインタビュー映像、そして合間合間に挟まれるアッシジの聖フランシスコに関するサイレント映画風の映像から構成される。これらの映像を紡ぎ合わせながらヴェンダースは、法王フランシスコがいかなる理念をもち、それに基づきいかなる活動を行っているのかを提示する…

 

※英語オリジナル版の公式トレイラー。

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経済原理と衝突する清貧の理念、その政治的ポテンシャル

ドキュメンタリー映画「ローマ法王フランシスコ——自らの言葉を生きる男」は、ローマ法王の生涯を時系列的に追った伝記映画ではない*1。むしろ本作は、現ローマ法王がいかなる理念をもちいかなる原理原則のもとで活動しているのか、という点に主題を絞っている。映像の見せ方として奇抜な表現こそなかったが、全体の構成の仕方は洗練されており、前提知識がそこまでない私のような鑑賞者も退屈せずに見られるものになっていた。この記事で映画の内容の全てを再構成することはできないので、個人的に印象に残ったテーマに即して紹介がてら書いていきたい。

私にとって特に印象的だったのは、法王フランシスコが——彼の名前の由来であるアッシジの聖人を引き継いで——「清貧」の理念を強く打ち出していることだった。公的な催しでの説教でも監督によるインタビューでも、法王は繰り返し、地上の生において金銭にとらわれることの愚かさを非難し、経済的成功は彼岸の救いと無関係であることを強調する。そしてそれによって彼は、現世においては貧しさの中で清らかに生きるべきであることを説くのだ。

興味深いのは、この清貧の理念が、一方ではこの世で貧者や病者に身を寄せ苦しんだキリストの受難の物語に基づくものでありながら、他方では現実の世界に対する批判的原理として機能することができる、ということだろう。法王フランシスコは明らかに、世界を支配する資本主義原理やそれによって拡大する貧困や階級格差、民族分断の問題を念頭に置きながら、清貧の理念を説いている。人々が少しずつ貧しくなることができれば、世界中の全ての人が決定的な貧困からは救われるのだというのだ。ここには明らかに、社会主義や共産主義の階級闘争やそれによる「革命」の理念にさえつながりうるような、政治的な含意が響いている。*2

そしてローマ法王が、世界最大の宗教権力を担う者の一人として理念を語るとき、彼の言葉は一定の政治的な影響力を持ちうる。言葉の上では宗教的な公正さを説くときでさえも、その言葉は社会における公正さを問いただすことにもなる。誰よりも法王フランシスコ自身が、自らの言葉の政治的ポテンシャルを充分に意識した上で、アッシジの聖フランシスコに由来する「清貧」の理念を自らの行動原理として掲げるのだ。

 

カトリック教会のイメージ戦略という側面、映画が道具化される潜在的危険

見逃してはならないのは、このドキュメンタリー映画それ自体がカトリック教会のイメージ戦略に寄与する側面をもっているという点だろう。そもそもこの映画の制作自体、ヴェンダース側から構想したものではなく、カトリック教会からの委託という形で成立したものだったという。ここには明らかに、実力と知名度のある監督によって魅力的なローマ法王の姿を提示したいという教会側の意図が、見え隠れする。もちろん教会がセルフプロデュースをすることそれ自体が悪いわけではないが、とはいえ踏まえるべき諸点はあるだろう。

歴史上、時の権力者を撮影した映画は、往々にして特定の権力機関の正当性を主張する手段として機能してきた。わかりやすい政治的主張を直接に喧伝するプロパガンダ映画はもちろんのこと、一見そうは見えない作品でさえも、間接的に何か特定の権力機関に奉仕することがある。宗教的主題もその例外ではなく、むしろ観る者の熱狂を掻き立てる一要素として利用されることがある*3。何か特定の権力機関やそこに属する人物を主題とした作品が鑑賞される際には——もちろん過剰に批判的にならなければならないというわけではないのだが——その作品がイデオロギー的な喧伝のための道具へと堕していないかという点は、ある程度センシティブに反省されるべき問題であるだろう。

ヴェンダースのドキュメンタリー映画も、カトリック教会権力の長たるローマ教皇を映すものである以上、この問題と無関係ではない。ヴェンダースもおそらくはこの点を意識して、カトリック教会をとりまく現代的ないくつかの問題——カトリックの祭司が為した児童への性的虐待の問題や、同性愛をめぐる問題——を扱うことで、一定の距離感を保とうとしているようには見える。

とはいえそれでも幾つかの箇所においては、映画が、魅力的な教皇像を提示するための手段になりかけているようにもみえる。インタビューの際に法王フランシスコは、明らかにカメラの向こうの聴衆を意識し、過剰なまでにカメラに視線を向ける。彼の微笑みや身振りには、ドキュメンタリー映画をカトリックの教会の外に向けた自己PRの場として利用しようとするヴァチカン側の意図が見え隠れする。繰り返しになるが、イメージ戦略のための映画が制作されることそれ自体が悪というわけではない。ただし映画を観る者は、この点はある程度割り引いて鑑賞する必要があるだろうとも思うのだ。*4

 

宗教権威の機能転換のドキュメントとしての側面、21世紀の公共圏における教会権威のあり方

とはいえこのドキュメンタリー映画からは、カトリック教会側が意図していたであろうイメージ戦略という側面とは別の側面をも読み取ることができるように思う。それはこの映画が、宗教権力が21世紀の国際社会において経験せざるをえない機能転換を記録するものになっているという点だ。

そもそも宗教そのものは、社会や俗世から身を離そうとするその身ぶりにもかかわらず——或いは他ならぬその身ぶりによって——現実社会の世俗的原理との一定の関係において成り立つものであり、これまでもそういうものとして存在してきた。この点を考えるうえで重要なのが、宗教的な聖性の原理と世俗的なこの世の原理との緊張を孕んだ関係は、時代や場所、論じるコンテクストによって変化しうるものであるということだ。両原理の布置関係は、文化や歴史を超えた一義的なものとしては規定されえない。聖性に関わる宗教権威は、世俗の領域において、その機能を転換させるのだ。

ヴェンダースのドキュメンタリー映画はまさしく、ローマ法王の活動や言説を通して、カトリックの教会権力が21世紀の世界においてどのように機能するか——機能しなければならないか——を記録するものになっている。宗教権力は、国際社会という公共圏において一定のプレゼンスを保っていくために、望む望まないにかかわらず一定の政治的役割を果たさざるを得ないし、公共的な政治的公正さを充たすことを求められる。だからこそローマ教皇フランシスコもまた、「清貧」の原理に基づいて国際的な諸問題について発言をなし、それによって国際的な公共圏から権威であり続けることを承認されなければならない。また逆に、教会権力が公共圏の規範を逸脱するときには、緊張が生じもするのだ。

また教会権力はしばしば、政治的機能としての影響力を意識的に行使することを求められもする。だからこそ法王は、世界中を飛び回り、そこここで期待される役割を果たさざるをえない。各国の首脳や要人と会談し、民衆の前に歩み出て説教をし、慰霊や慰労の場にも姿を見せる。また時にはキリスト教の外の——ユダヤ教やイスラム教、仏教などにおける——宗教権力とも対話の場を持ち、相互承認によって宗教間の紛争を和める象徴的な役割を果たす。現在のローマ法王が期待される役割を十分に果たしているかどうかという問題はさておき、ヴァチカンの教会機構が21世紀においてなお宗教権力として自らを保とうとする以上、このような国際政治上の機能を果たすことは法王に課せられた義務となり、それはしばしばキリスト教の厳格な教義内容から逸脱しさえするのだ。

この記事の枠で詳述できることではないが、時に「ポスト世俗化の社会」と呼ばれる21世紀の国際社会において、宗教権力が次第にその力を失っていくだろうという旧来的な世俗化論の予想は裏切られ、依然として宗教権力が一定のプレゼンスを示している。注意しなければならないのは、そこにみられる宗教権力のあり方は、中世のそれとも、あるいは100年前のそれとも異なっているという点だろう。この映画は、宗教権威のこの機能転換のドキュメントとして、興味深く観られるものだと思う。

*1:法王フランシスコの半生を描いた伝記的映画としては、ダニエーレ・ルケッティ「ローマ法王になる日まで」(Daniele Luchetti "Chiamatemi Francesco - Il Papa della gente" IT 2015)という映画があるようだ…が私はまだ観ていない。

*2:法王フランシスコ自身、貧困の問題に言及する際に「革命」という言葉を用いて自らの理想を説く。もちろん彼は社会転覆や労働者階級の独裁に通じる教条的マルクス主義の「革命」ではなく、あくまでキリスト教信者としての内面的な道徳の革命を語っているのだろう。が、それでも彼はおそらくこの言葉がもつ政治的、社会的含意を十分に意識して用いているのではないだろうか。興味深いことに、監督ヴェンダースは上映後の質疑応答で、このドキュメンタリー映画で提示されるローマ法王の理念が「共産主義的」だとする(とりわけアメリカのプロテスタントの)聖職者の側からの非難があったということを語っていた。法王自身がそこまで語ることはなくとも、キリスト教が社会に対してもつある側面は、共産主義や唯物論思想のある側面と、重なり合うことがあるのだ。

*3:以前このブログでも、1920年代にルターやキリスト教のモチーフがドイツ・ナショナリズムと結びつくものとして表現されていたことを取り上げる記事を書いた。関心のある方は、ハンス・カイザー「ルター、ドイツ宗教改革の映画」についての記事を参照してほしい。

*4:とこの記事を書いている間に、ちょうどローマ法王が妊娠中絶を「殺し屋に頼る」ことに喩えたという報道が出た。妊娠中絶に関する彼の思想そのものの是非はさておいても、このような発言は、このドキュメンタリー映画で提示されたローマ法王の姿、科学による問題解決や人間の権利尊重を原則として支持しているかのような姿とは、異なった印象を受けるものだろう:

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宇宙開発時代の啓蒙の弁証法、もつれ合う文明と野蛮、そして神話(スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」/Stanley Kubrick "2001: A Space Odyssey" 1968年)

スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」(Stanley Kubrick "2001: A Space Odyssey" GB/US 1968 141 Min. 70mm.)を鑑賞。

 

あらすじ

映画は、謎の物体モノリスと触れ合った類人猿が、大型動物の骨を道具として用いるようになるシークエンスから始まる。覚醒した類人猿が空高く放り投げた骨は、数千年後の宇宙に漂う人工衛星へと切り替わり、宇宙開発時代の物語が始まる。1999年、あるアメリカの調査団が月面探索を行った際、太陽光を浴びたモノリスが木星に向け強い信号を発する。それから18ヵ月後の2001年、人工知能HALを搭載した宇宙船ディスカバリー号が木星探索に向かう。その途上、船長ボーマンら乗組員たちは、HALに違和感を覚えるようになる…

 

※公式トレイラー。日本語字幕版。

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宇宙開発時代のSF映画と文明論

今年2018年はキューブリック「2001年宇宙の旅」公開から50周年ということで、夏の間に近所の映画館でも特集が組まれていた。おかげでこの映画の70ミリ版を鑑賞できたほか、特集に合わせて上映された60年代後半から70年代にかけてのSF映画をいくつかまとめて観ることができた。

この時期に宇宙を舞台にした映画が多く製作された背景にはもちろん、冷戦の対立構造から激化した宇宙開発競争があるだろう。実際この時代には、人類が宇宙へ進出していくというそのことが、それまでとは比べものにならないほどのリアリティをもった事態に思われたにちがいない。そしてそのような意識の下では、宇宙を舞台にしたSF映画も、単なる空想の産物というより以上に、もしかしたら現実になるかもしれない未来を描き出すものとして制作されたことだろう。このことは、この時期のSF映画の質にも如実に反映されているように思う。

私にとってとりわけ印象的だったのは、60年代から70年代にかけての宇宙開発をモチーフにしたSF映画が、ある種の文明論、人間論としての側面を強く持っているという点だ。それはおそらく、宇宙への進出やそのための技術を考えるというそのことが同時に、地球という星やそこに生きる人類を——あるいは現代という時代を——相対化して捉え直すというそのことにつながったからではないかと思う。いま地球に人類が生存しているというその事態は、宇宙という視点と尺度を持ち出すことで、かつてそうであったように唯一のものとは思われなくなる。そしてそのことが、地球の上にある人類やその文明にも、反省的な眼差しを注ぐことにつながる。

そのような文明論的反省の一つの結実といえるのが、フランクリン・J・シャフナー「猿の惑星」(Franklin J. Schaffner "Planet of the Apes"  US 1968)のペシミスティックな文明観だろう。この映画の物語は、文明の進歩はしょせん一過性のものでしかなく、いずれ来る崩壊や没落と隣り合わせのものでしかない、という世界観の上で紡がれているのだ。

 

宇宙開発時代の啓蒙の弁証法、文明と野蛮のもつれ合い

このペシミスティックな文明観と対照をなすのが、少し遅れて同年に公開された「2001年宇宙の旅」だろう。

この映画は、類人猿が道具を使うことに目覚め、それによって文明の第一歩が始まったことを示すシークエンスから始まる。そして道具の使用を知り覚醒した類人猿が空高く放り投げる骨は、印象的な映像の転換をもって、宇宙を漂う人工衛星の姿へと変じる。類人猿が使うことを覚えた道具は、何千年にもわたる啓蒙の過程を経て、宇宙を行き来することができるものにまでに進歩を遂げた。この転換によって映画は、きわめて洗練された映像技術とともに、文明の進歩の先端を描くことに自らの主題があることを告げるのだ。

もっともこの映画は、文明の進歩を単に手放しに賞賛するものではない。野蛮から身をもぎ離そうとする文明の進歩はいつも、暴力的な野蛮の増大へと転落する危険性を孕んでいる。文明と野蛮とのもつれ合いとしての啓蒙の弁証法*1は、この映画「2001年宇宙の旅」を最初から規定している。文明の歩みを始めた類人猿が手にした道具によって最初に行なったのは、敵対する部族を決定的に殴り殺すことだった。道具の使用は、素手や牙ではなしえなかったほどに徹底的に、破壊的に、生命を粉砕することを可能にした。その最初の一歩からして、文明と野蛮は、表裏一体であったのだ。

このことは、宇宙開発時代においても繰り返される。この映画における最先端の道具は、宇宙船を統括する人工知能のHALだろう。宇宙船ディスカバリー号を管理する役割を担うHALは、宇宙開発という人類の目的を達成するために開発されたものであるはずだった。しかしHALが志向する全面的な管理は、それ自体で自立化し、人間に仕えるよりもむしろ人間を支配することを目指すようになる。そして挙句には、支配に従うことのない乗組員たちの抹殺を自らの任務と見做すに至る。

HALの暴走をめぐる一連のシークエンスをもって、映画は、宇宙開発時代の啓蒙の弁証法の軌道を描く。そこでは道具の進歩が、逃げ場のない全面化した虐殺に転化する。最高度の人工知能という先鋭化された道具において、文明と野蛮は、再びもつれ合うのだ。*2

 

形而上学的原理としてのモノリス、「超人」への覚醒という神話的モチーフ

しかし映画は、ぎりぎりのところで、道具による全面的支配から逃れようとする人間の姿を描き出す。そして興味深いことにこの映画は、文明の進歩のさらなる決定的な一歩を、ある種の形而上学的原理とともに示唆しようとする。

この映画における形而上学的原理を表すのは、超生命体モノリスだろう。物語のそもそもの最初からモノリスは、進化を引き起こす超常原理の象徴として登場している。道具の使用という文明の一歩を踏み出した類人猿の覚醒も、もともとはモノリスとの交信によって引き起こされたものだった。そして首の皮一枚のところでHALの暴走から逃れた船長ボーマンもまた、モノリスとの交信を通して、既存の人類を超えた存在へと転換していく。

文明の最先端、文明の進歩と野蛮の暴力が先鋭化されて交錯し合った宇宙船のただなかで、一人生き残ったボーマンのモノリスとの交信は、人類の新たな覚醒を引き起こす。映画の全体を通して幾度も演奏されるシュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」は、既存の人類を超えていくものとしての「超人」のモチーフを、繰り返し提示しているのかもしれない。ボーマンの覚醒は、既存の知覚の次元を超えて行くような映像の連鎖を伴って表現される。こうして新たな次元での人類の誕生を示唆しながら、映画は幕を閉じる。

モノリスという形而上学的原理によって引き起こされる覚醒と進歩というモチーフは、もちろんそれ自体きわめて神話的なものだ。宇宙開発時代においてまで続く文明と野蛮とのもつれ合いを描き出した本作が、文明の崩壊への決定的な転落を回避するためにモノリスによる超人への覚醒というきわめて神話的なモチーフを持ち出しているというこのことは、注目に値することかもしれない。文明の暴走の極端化に対する拠りどころを神話に求めるというのもまた、啓蒙の弁証法の一つの軌道であるのだ。この映画の魅力と怖さは、まさしくこの軌道を正確に辿っているというところにあるのかもしれない。*3

*1:一応断っておくと、このあたりの表現は、アドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』から借りている。

*2:この映画の原題が「2001年:宇宙のオデュッセウス」("2001: A Space Odyssey")であることは、本記事のテーマからすると興味深いことに思われる。というのも『啓蒙の弁証法』において文明と野蛮が錯綜する最初の物語として読み解かれたのが、他ならぬオデュッセウスの神話であるからだ。まさしく「2001年宇宙の旅」は、文明と野蛮の交錯の物語を宇宙開発時代に変奏しているという点で、「宇宙のオデュッセウス」の神話であるのだ。

*3:この記事の主題からして興味深いことに、「2001年宇宙の旅」の数年後に公開されたタルコフスキーの「惑星ソラリス」(Andrej Tarkovskij "Soljaris" UdSSR 1972)もまた、文明の進歩の一つの軌道を描いている。この映画では、文明の進歩としての宇宙開発が袋小路に陥り、それに携わる個々の人間が自らの内面の記憶に囚われる姿が描かれている。「2001年宇宙の旅」における進歩の神話と対照をなすかのように、「惑星ソラリス」は、文明がどこまで進んでもそこに生きる個々人は過去の記憶に囚われ続けることを——その意味で人間性の本質的な進歩などは起こりえないことを——記憶を可視化する惑星ソラリスというそれはそれで神話的なイメージと共に描いている。

感性の帝国が刹那的であることは、外なる現実との対照において際立せられる(大島渚「愛のコリーダ」/Nagisa Ōshima "L'Empire des sens" 1976年)

大島渚「愛のコリーダ」(Nagisa Ōshima "L'Empire des sens" JP/FR 1976 102 Min. Blu-ray オリジナル+英語字幕版)を鑑賞。

 

あらすじ

1936年、東京中野の料亭「吉田屋」で、新入りの女中として働き始めた定。彼女は料亭の主人である吉蔵と恋仲になり、二人は互いの身体を求め合うようになる。そのうちに定は料亭を辞め、吉蔵と連れたって待合旅館を転々とするようになる。待合の部屋に閉じこもって生活する二人は、芸者を呼び遊興にふけ、時間と体力の許す限り情事を重ねる。次第に吉蔵の肉体への執着を強めていく定は、情事の最中に吉蔵の首を絞めることに喜びを見いだすようになる。できる限り定の望むことを受け入れようとする吉蔵だが、その身体はだんだんと生気を失っていく…。

 

※英語字幕付きのトレイラー。ここでは直接の性的シーンは映っていない。

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極端化した愛欲がたどる軌道、転がり落ちる破局のリズム

基本的には、阿部定事件という実際の出来事を題材にしつつ、極端化した愛欲の軌道をおった映画だ。好いた人のすべてを自らの手の内に握りしめていたいと欲する定と、好いた人のすべてを受け入れたいと欲する吉蔵。抑制のきかないラディカルな性のあり方をもつ二人が、性の高まりとその永続を求めながら、破滅へと転がり落ちていく。

この「愛のコリーダ」に関しては、しばしばその極端な性描写が話題になる。私が観た版は修正もカットもないもので、たしかに性的シーンは映画としてはきわめて直接的であからさまなものだった。男女ともに局部のアップも多く、またどう見ても実際に性交を行っている。そのため、映像上の性描写にそこまで慣れていない者にとっては、スクリーンに映し出される扇情的な性描写の直接性そのものが、この映画のそもそもの主題であるように思われるかもしれない。

とはいえこうした性描写によって描かれているのは、扇情を目指した性描写そのものというよりは、極端化した男女の性が転がり落ちていくそのプロセスであるだろう。二人の性は、お互いへの愛憎と混じり合いながらもつれあい、闘牛さながらに、破局にむけてリズムよく転がり落ちていく。「愛のコリーダ」という邦題は、破局に向かって転がり落ちていく性愛の軌道にこそ、映画の物語上の主軸があることを示しているだろう。*1

 

現実の帝国に背を向けた感性の帝国

とはいえ映画「愛のコリーダ」は、単に性愛の軌道を描くものに尽きず、どこか既存の社会との関連を指し示すところがある。それは単に、1936年の阿部定事件をモチーフにしているというそのことだけに由来するものではないだろう。映画のなかに配置された歴史的モチーフ——旭日旗を振る子供たちの姿や、生気を失った吉蔵を脇目に整然と行進する兵隊たち——は、たんに事件が起きたのが帝国主義時代の日本だということを指し示すだけのものではないのだ。

この点を考えるヒントは、映画のフランス語タイトル「感性の帝国」(L'Empire des sens)にあるだろう。このタイトルがロラン・バルトの日本文化論のパロディであることはさておき*2、この「帝国」という言葉は、1936年当時の日本の軍国主義の「帝国」を間接的に暗示するものでもあるだろう。

愛欲の世界に閉じこもり、性交をする以外になんの目的も持たない定と吉蔵の二人が作り出す感性的な快の「帝国」は、禁欲や規律を徳目として掲げた全体主義社会の「帝国」と対照関係をなす。この意味でこの映画で描かれる二人の寝室を、徹底的に物質主義的な快楽に拘泥するという仕方で現実社会の規律の圧力に抵抗する、反社会的な生のあり方として見ることができるだろう。

この対照関係をもっともはっきりと見出せるのは、映画の後半、情事の過剰に生気を失いふらふらとよろめくように歩く吉蔵の脇を、出征を控えた日本軍が整然と行進していくシーンだ。日本国旗や旭日旗に見送られて行進する軍隊の列から伏し目がちに視線を逸らすとき、吉蔵はあきらかに、彼らの愛欲の世界が——「感性の帝国」が——現実の帝国世界からの逃避において成り立っていることに気づいている。しかし彼はもはや、社会の秩序の中に戻っていく意欲を持っていない。彼にできることは、感性の帝国に閉じこもり、感性の世界の女帝である定の望みにどこまでも付き従うこと、ただそれだけなのだ。

転倒し内面化された社会の強制は、眼の前に提示されている感性の喜びを放棄するか、それにしがみつくかという、極端な二択を吉蔵に突きつける。もはや吉蔵には感性の喜びを受け入れる以外の選択肢がないのだが、しかし彼は、それがもはや喜びのていをなしていないことにも気づいている。極端化した性愛の軌道に、もはや彼の身体はついて行かず、定を肉体的に満足させることもできなくなっている。吉蔵は、感性の喜びが永続するものではなく、刹那的なものでしかないことを、知っている。それを知りながら彼は、感性の帝国とともに自らも破滅することを望むのだ。

 

感性の帝国が刹那的であることは、外なる現実との対照において際立たせられる

感性の喜びは、瞬間的なものであり、捕まえておくことができず、またいつも同じように動くものではない。たとえその瞬間瞬間では喜びの永遠性が誓われても、時間と共に変化していく。「末永く幸せに」あることを何度も謳い、定の望む通りに反応していたはずの吉蔵の身体も、やがて以前のような反応を見せなくなる。

もちろん定も、そのことには気づいている。しかしそれでも定は、吉蔵の男性性を、彼女に喜びを与えてくれるはずのものそのものを、物質的に手の中に握りしめ続けようと欲する。感性の帝国の女帝が手を下す最後の破局は、感性的なものを感性的な仕方で握りしめつづけようとする物語の論理に忠実なものであるとさえ言えるだろう。映画「愛のコリーダ」は、阿部定事件の結末を、このような性愛の論理の帰結として提示している。

定と吉蔵の「感性の帝国」は、社会との関連を拒否し続ける仕方での社会へのプロテストは、どうしたって持続することができないものだった。経済的な面でも、道義的な面でも、政治的な面でも、長続きすればするほど不純物が混じって、彼らの帝国が瓦解していくことは気づかれていた。仮に邪魔するものが何も存在しなくとも、彼らの身体は彼らが求める愛欲の過剰に耐えることができなかっただろう。この映画における、時間的にはほんのわずかなものでありながらも強いアクセントを残す現実のモチーフは、物質的な快の刹那性を際立たせるものとして作用する。感性的なものが刹那的であることは、外なる現実との対照においてこそ際立たせられるのだ。

*1:この観点から、以前記事を書いたペドロ・アルモドバル「マタドール」に本作とのモチーフ上のつながりを見出すことはできるだろう。この映画もまた、破局に向う極端な性のリズムと軌道を、闘牛になぞらえながら描いている。

*2:フランス語タイトル「感性の帝国〔あるいは「官能の帝国」〕」(L'Empire des sens)は、ロラン・バルトの1970年発表の日本論「表徴の帝国」(L'Empire des signes)を明らかに意識したものとして付けられている。この観点から大島の映画をバルトの日本文化論へのリアクションとして読み解くこともできるのかもしれない。