映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

自己目的化した権力構造と、その只中に差し込まれる小さな花(アッバス・キアロスタミ「友だちのうちはどこ?」/Abbas Kiarostami "Khane-ye doust kodjast?" 1987年)

数か月前になるが、アッバス・キアロスタミ「友だちのうちはどこ?」(Abbas Kiarostami "Khane-ye doust kodjast?" IR 1987 83 Min. 35 mm. オリジナル+ドイツ語字幕版)を鑑賞。

 

あらすじ

イラン北部のある小学校の教室にて、宿題を指定のノートに書いてこなかったモハマッドは、先生に厳しく叱られた挙句「次に同じことをやったら退学だ」と言い渡される。それを隣の席で聞いていたアハマッドだったが、下校時のちょっとしたきっかけから間違えてモハマッドのノートを持ち帰ってしまう。家に帰ってからそれに気づいたアハマッドは、周りの大人に事情を説明しようとするが、誰も彼の話を真剣に聞いてくれない。自分のせいで友だちが退学させられてしまうかもしれないと思い悩んだアハマッドは、ひとり隣町へ向かい、モハマッドの家を探しまわる…。

 

※トレイラーではないが、アハマッドと母との会話。英語字幕付き。話を聞いてくれない母に懸命に事情を説明しようとする様子がいじらしい。

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話を聞かない大人たち、内面化し自己目的と化した権力構造

この映画において大人たちは、子供たちに対してどこまでも不公平で、権威主義的で、話の通じない存在として描かれる。大人同士ではそれぞれ話をし合うし、大人の側からは子供にいろいろなことを言いつける。それにもかかわらず、子供たちの側から大人たちに何かを尋ねても、それは決して聞き届けられない。隣町に住む友達の家にノートを返しに行きたいという少年アハマッドの単純な願いさえ、ほとんど真剣に耳を傾けられることがない。

アハマッドがまずもって頼るべき母親からして、彼の話を聞かない。ノートをいますぐ返さなきゃいけないんだ、そうしないと友だちは罰を受けちゃうんだ、といじらしく懸命に説明するアハマッドに対して、母親はただただ「自分の宿題をやりなさい」と繰り返す(貼り付けたYoutubeのシーンは、まさにこの会話がされている箇所だ)。

仕方なくひとり隣町までやって来て、友達の家を探し回り、人びとに尋ねまわっても、アハマッドは友達の家を見つけられないし、見つけるための大人の助けも得られない。多くの大人は彼の話を聞きもしないし、彼の話を聞く素振りをみせる大人たちもいい加減な返答をして彼を見当違いの場所に向かわせてしまう。時間が経ち、日が暮れる。自分のせいで友だちが罰せられてしまうかもしれない、退学にさせられてしまうかもしれないとアハマッドは焦るが、何もできない。

少年の話を聞かない大人の筆頭は、アハマッドの祖父だ。この老人は、友だちの家を探さなければと焦る少年に対して、家から煙草を持ってこいと命令する。アハマッドにはどこに煙草があるのかわからないし、そもそも彼は急いでいる。しかし彼の懸命の説明は、ここでも聞かれることがない。祖父は断固として、煙草を持ってくるように命じる。少年がその場を去ったときに、その場にいた他の大人たちが、老人に、でもまだ煙草は残っているでしょ?と尋ねる。どうして老人は、孫に必要のない煙草をわざわざ取りに行かせたのか。老人いわく、命令に従わせるというそのことが、社会にとって役立つ人間を育て上げるのに必要な教育方法なのだ。だから子供は、言い訳せずに大人の命令に従わなければならない。

ここには、この映画を——とりわけ大人たちの世界を——支配している権力構造の論理が、端的に表れている。正当な理由があろうとなかろうと、他の事情があろうとなかろうと、上の立場の者がそう決め命令をくだしたのだから下の立場の者はそれに従わなければならない、という権力構造の論理。彼らは自分たちのうちにこの権力構造を内面化し、自らそのヒエラルキーの一部となり、権威をもって命令を下す。権力構造は、それ自体が自己目的と化して、既存のヒエラルキーを維持するというただそれだけのために内実を欠いた権威的な命令を行使するのだ。

 

翻弄される子供たち、形骸化した権力構造の只中に差し込まれる小さな花

自己目的と化した権力構造のこの論理を、子供たちもよく理解している。それどころかある意味では、子供たちもまた権力構造の命令の論理を内面化している。だからこそ彼らは下された命令に翻弄され、その不履行に脅え、「いい子」として振舞おうと注意する。

少年アハマッドもまた、学校の先生が、彼が間違えてノートを持って帰ったなどという事情を聞くはずがないことを、前提としている。先生は、宿題を指定されたノートに書いてこなかったモハマッドに有無を言わさず罰を下すだろう。なぜならそれは命令されたことであり、モハマッドは——どんな理由があろうとも——その命令を果たさなければならないのだから。宿題を指定のノートに書いてくるよう命令された以上、この命令が文字通り果たされなければならない。

命令の論理の不条理さと容赦のなさを知るからこそ、アハマッドはいじらしいほど懸命に、友だちの家を探す。この映画は、暴力的なシーンや過激なシーンを用いず、友だちの家を探す少年というある種牧歌的な物語を描きつつ、権力構造とその再生産のあり方を、明らかにしているのだ。

もっともこの映画には、権力構造のただなかで差し込まれる、わずかな希望の可能性も暗示されている。その希望を手渡すのは、映画中の大人で唯一人、アハマッドの話に真剣に耳を傾け、時間を割いてそれに応えようとする年老いた家具職人だ。村のことをよく知るというこの家具職人は、少年アハマッドを彼が知るというモハマッドの家まで案内しながら、昔の思い話を語り、小さな花を幸福のお守りだとして少年に渡す。

この老人がアハマッドを連れて、飾り窓から日が差し込む建物のなかをゆっくりと歩くシーンは、どこか神秘的で、その他の場面とは異なる宥和的な印象を与える。まるでアハマッドの願いが聞き届けられ、ついに叶えられるその時が迫っているかのように。しかし結局は、この家具職人の好意も見当はずれのものであったことが明らかになる。彼が知っているモハマッドの家は、アハマッドが探していた同級生の家ではなかったのだ。そうこうしているうちに日も暮れ、モハマッドは途方に暮れて帰宅せざるをえなくなる。

翌日、教室のなかでようやくアハマッドは同級生モハマッドに再会する。皮肉なことに彼らは、学校というこれまた権力構造の枠の中にある場所でしか再会することができないのだ。権威的な教師は、いつものように生徒たちに宿題を書いたノートを出すよう要求する。アハマッドは素早く、代わりに宿題を済ましておいたノートをモハマッドに渡す。教師は宿題を済ましてあるノートを機械的にチェックして、モハマッドは罰を切り抜ける。

この最後のシーンには、一つの希望の可能性が示されている。子供たちは、少なくともアハマッドは、権威がくだす命令さえ形式的に満たせば——この場合には「指定のノートに宿題を書いてくること」——さえ満たせば、それ以上のことを追及されないことに気づくことができた。アハマッドは友だちの家を見つけ出すことはできなかったが、権力構造の只中で、その隙間をくぐりぬけて友人に下されるかもしれない不合理な罰を回避することはできたのだ。

子供たちは既に、権力構造が形骸化していることを知っている。もしかしたら彼らのうちの多くは、やがて自分たちも権威に同化し、命令を下す側にまわってしまうのかもしれない。それでも家具職人の老人のように、不合理な命令の論理を廃棄して、他者の話に耳を傾けようという意識が彼らのうちにも生まれるかもしれない。アハマッドが友だちに渡したノートには、老人から手渡された小さな花が挟まっていた。形骸化した権力機構のただなかにも、人間らしさの欠片が差し込まれる可能性が、まだ残っているのかもしれない。

キングコングは倒れ、男は子猿とじゃれ合い、女は将来を見つめる(マルコ・フェレ―リ「バイバイ・モンキー」/Marco Ferreri "Ciao maschio" 1978年)

マルコ・フェレ―リ「バイバイ・モンキー/コーネリアスの夢」(Marco Ferreri "Ciao maschio" IT/FR 1978 113 Min. 35mm. イタリア語オリジナル+ドイツ語字幕版)を鑑賞。

 

あらすじ

舞台はニューヨーク、ロングアイランド。ダウンタウンでは人びとが大量発生したネズミに悩まされ、高層ビル群に臨む砂浜にはキングコングのような大猿が横たわっている。青年ラファイエットは、ローマ帝国をモチーフにした蝋人形展示館の電気技師として働く傍ら、劇団の照明係を務めている。ある日ラファイエットは、性的暴行を実体験したがる女性劇団員たちに凌辱されるが、そのことをきっかけに劇団員アンジェリカと同棲するようになる。ラファイエットはまた、友人ルイージが発見した子猿を引き取り、コーネリアスと名づけて実子のように可愛がるようになる…。

 

※英語版のトレイラー。画質が悪いのが残念だが、高層ビル群を背景に横たわるキングコング的人形も見られる。

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男性中心文明の崩壊、倒れたキングコング

トレイラーからもなんとなく伝わるのではないかと思うが、全体として、コメディというほど笑いに走ってもいないが、かといって真剣なリアリティを追求したSFとも言いがたい、独特な世界観をもった映画だ。あきらかに人形でしかない大猿の亡骸や、そのもとで発見された子猿を当たり前のように受け入れる主人公たちの姿は、映画がこの現実の常識からは幾分かズレた世界で進行しているものであることをはっきりと示している。舞台はニューヨークではあるが、いつの時代の物語なのかもよくわからない。現実離れした舞台装置のなかで、これまた現実からズレた登場人物たちが動き回る。

映画の中心主題の一つは、「文明の崩壊」、とりわけ男性中心で構成されてきた文明の終焉だ。主人公の青年ラファイエットは、体格こそ立派であるものの、女性に逆らうことができず、現実の問題から目を背けがちな若者で、子供のように笛を吹きながら自転車をこぎまわっている。世界貿易センタービルを背景にして砂浜に横たわる、あきらかにキングコングを暗示している大猿は、かつて文明の上に君臨したマッチョな男性性の象徴であると見なされうるかもしれない。キングコングは倒れ、力なく海辺に横たわっている。ラファイエットには、無邪気で無力な子猿コーネリアスだけが残されている。

登場する他の男性たちも、それぞれなりの仕方で「文明の崩壊」を悼む。蝋人形展示館の館長は、ローマ時代の偉人たちに固執するという仕方で既に過去のものとなった男性性を讃える。とはいえ彼も、公権力の要請で展示された偉人の顔をアメリカの政治家にすげかえることに——文明の偽造に——協力せざるをえなくなる。ラファイエットの友人ルイージは、ヨーロッパ風の知的な紳士として振る舞うことによって女性を求めようとする。しかし誰にも相手にされず、自身が見つけた子猿コーネリアスのこともアレルギーのために愛でることができない彼は、絶望に沈んでしまう。

 

男は子猿とじゃれ合い、女は将来を見つめる

青年ラファイエットは、現実の問題に対峙することができない。彼は実子のように子猿コーネリアスに執着するが、その愛情は将来のなにかを見据えたものではなく、場当たり的な慰みでしかない。彼は、子猿とじゃれ合うことしかできないのだ。そして同棲していたアンジェリカが妊娠したことを彼に告げたときにも、ラファイエットは、父親は誰なんだと見当違いの返答をし、当惑してアンジェリカに呆れられてしまう。

映画の原題"Ciao maschio"——「さよなら、男らしさよ」とでも訳せようか——が示しているように、かつて文明の中心を騙っていた男らしさは、映画のなかの世界において、もはや過去の遺物になっている。そのことが極まるのが、映画の最後半、コーネリアスが鼠に襲われたことに動転したラファイエットが、蝋人形展示館の館長のもとへ向かうシーンだ。現実のよすがになっていた子猿との慰みは無残にも噛みちぎられ、しがみつかれていた過去の栄華ももはや偽造されたフィクションでしかなくなった。もはや男性性が中心に居座ることのできるような文明などそこにはない。だからこそ、彼らは、まるごと燃やすのだ。

この映画において、明らかに希望を託されているのは、動転したラファイエットのもとを去ったアンジェリカだ。彼女は自分の身体に宿した子供のことを第一に考え、そのために生きようとする。これは監督フェレ―リ自身の思想を投影したものであるのだろうが、この映画は、キングコングとともに男性中心の文明が打ち崩れたその後で、女性こそが将来の生の中心になりうることを示唆している。ここには未だ、二分法的な性別区分を前提とした固定観念や図式化が支配していることは否めない。が、いずれにせよ、映画の最後のシーンは、男性性の崩壊に対比して、将来に何か別の希望の可能性を託すものにはなっている。*1

*1:この映画の二年前に公開されたマルコ・フェレ―リ「最後の女」(Marco Ferreri "L’ultima donna" IT/FR 1976 112 Min. 35mm. イタリア語オリジナル+英語字幕版)も鑑賞したのだが、そこでは同じ主題——男性中心の生のあり方がもはや古めかしいものとなり、女性こそが将来の生を担うのだという主題——が、よりラディカルかつ直接的な仕方で描かれていた。物語は、粗暴で自己中心的、そして所有欲と性欲に溢れた青年ジョバンニが、若い保育士女性との同棲を通じて、自らの男性性が既に魅力を失ったものになってしまったことに気づいていくプロセスを辿っていく。映画の後半、自らの男性性に自らの手で裁きを下そうとするジョバンニの姿はあまりにも痛々しい。丁寧に作られた映画ではあるが、性描写がきわめて露骨なので上映されることは稀なのではと思う。この映画「バイバイ・モンキー」は、同じ主題をもう少し遊び心を持って変奏したものだと言えるかもしれない。

抽象的に描かれる戦争、追い立てられる個人(イングマール・ベルイマン「恥」/"Skammen" 1968年)

イングマール・ベルイマン「恥/ベルイマン監督の恥」(Ingmar Bergman "Skammen" SE 1968 103 Min. 35mm, オリジナル+英語字幕版)を鑑賞。

前回の記事でも書いた通り、ベルイマン生誕百周年特集で上映されていた。「フォーロー島三部作」の二作目。

 

あらすじ

元々同じオーケストラに所属していた、音楽家夫婦のヤーンとエーヴァ。二人は、いつ終わるとも知れない内戦から逃れ孤島で生活している。しかし戦火はやがて島にも到達し、二人の生活圏も空襲とゲリラ戦の舞台になる。避難の際に強引に撮影されたエーヴァのインタヴュー映像は、反乱軍のプロパガンダに利用され、それが原因で二人は政府軍に捕えられてしまう。監禁された二人は、市長ヤコービの力添えで釈放されるが、市長はエーヴァに思いを寄せていることを告白する。その後、若い脱走兵をめぐるトラブルを経て、二人は小型ボートに乗り込み島を脱出しようとする…。

 

※「恥」のトレイラー。ほとんど映像だけだが、3分半でも相当の見応えがある。

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逃れられない負い目の意識、無垢であろうとする個人

前回の記事では、本作「恥」を含むベルイマンの「フォーロー島三部作」を扱った。そこでは、1960年代後半に制作されたこの三作のいずれにも、それぞれなりの仕方で、逃れられない罪の問題が登場しているという意味のことを書いた。

この記事を読み返した際、私は、「罪」という表現ははたして適切だっただろうか、と自問することになった。というのも罪という言葉では、何か明確に——法的ないし倫理的、宗教的に——悪いこと、罰せられるべきことをなした者が負うもの、なにかしらの罰を伴うものというニュアンスが強く響いてしまうかもしれない、と思ったからだ。映画の主人公たちのなかにはたしかに、そのような意識的な「罪」を犯した者もいる。が、三部作の全体を見れば、必ずしもこの意味での「罪」、罰を伴う罪が問題になっているとは言いにくいのだ。

「罪」という言葉でもって私が言いたかったのは、明確な罰を伴う意識的な罪科というよりはむしろ、他者に対する「負い目」の意識のようなものだ。過去に傷つけてしまったかもしれない誰かに対して、適切な振る舞いで接することができなかった誰かに対して、困窮に喘いでいることを知りながら手を差し延べることができないでいる誰かに対して、人は負い目の意識をもちうる。前回の記事において私が「人は、時には自分の意志によって、また多くの場合には自分の力ではいかんともしがたいままに、誰かに対する罪という負債へと縛り付けられている」という言い方をしたときの「罪」の意識とは、まさしくこの「 他人に対する負い目の自覚」のことだ(ついでに言うとこの「罪」理解は、特定の意味での宗教的な罪理解とも重なるかもしれない)。ベルイマンの三部作は、この意味での罪ないし負い目が、それぞれなりの仕方で問題になっている、と思う。

「恥」という映画もまた、他者に対する負い目の意識から逃れようとした者たちの物語だ。音楽家夫婦のヤーンとエーヴァは、それぞれの個人的な問題を抱えつつも、止むことのない内戦という社会の趨勢に背を向け、政治的な判断から距離をとったままであろうとする。彼らは壊れたラジオを本気で直そうともしないし、伝聞で耳に入る戦争情報にもいちいち本気で取り合わない。政府軍と反乱軍の対立にも無関心であろうとし、政治的にどちらに与しようともしない。彼らは、罪深い社会に背を向けて、負い目の意識を抱かなくて済むように、孤島における無垢さのなかに留まろうとするのだ。

 

抽象的に描かれる戦争、追い立てられる個人

しかし罪連関は、決して彼らを逃しはしない。この映画においては戦争という外化された形をとって、罪が彼らを追い立てるのだ。映画はその冒頭から、銃声や戦争に関する音声を響かせる。島における夫婦の暮らしもまた、戦火が直接的に降り掛かるその以前から、戦闘機の轟音に晒されている。平穏なはずの生活の只中において既にヤーンは、騒音に対するノイローゼの症状を示しており、教会の鐘の音に——これは彼の無意識の「罪」意識を駆り立てるものなのかもしれない——過敏に反応する。映画の全体において、断続的に鳴り響く威嚇的な騒音が、彼らの生活を脅かしている。

そして戦争という現実が彼らを捉えるとき、彼らは決定的な仕方で罪連関に呑み込まれていく。それは、彼らが戦争の哀れな犠牲者になるというような単なる外面的な意味においてのみではない。戦争の容赦ない非人間性はむしろ、彼らのうちに内面化されていくのだ。映画の前半においてはまともに家禽を屠すことができなかったヤーンは、戦争体験を経て銃の引き金を引くことへの抵抗を失い、場当たり的な暴力を発露させていく。夫に比べれば人間性を保っていたように見えるエーヴァもまた、映画の最後半において、授かりたかった子供の夢を見た際に聞いた何かしらの言葉を忘れてしまった、と虚ろに呟くことになる。

個人的に特に印象的だったのは、この映画における架空の戦争が、きわめて抽象的な仕方で描かれていたという点だ。轟音、空襲、強迫、態度表明、プロパガンダ、投獄、処刑、個人的な縁故による釈放、亡命。戦争と呼ばれるものに付随する諸々の事象が、主人公の身に降り掛かる個人的事態という意味では徹底的に具体的に、しかし同時に時代や場所を超えて生じうるものであるという意味ではひどく抽象的に、提示されている。そして戦争の暴力性や非人間性が個々人の内面を侵食するというそのこともまた、一定の普遍性をもつ事態なのだ。

このような意味で、内面のなかまで個々人を追い立てる戦争の暴力性や非人間性は、近代化された社会に生きる人間の普遍的なプロフィールをなしている。1968年に封切られたこの映画は、ベトナム戦争という歴史的事象への強い意識に基づいて制作されたものであると解説されていた。しかしこの映画で描かれる諸々の事態は——残念ながら——21世紀の戦争や紛争においても、そのままの形で生じうるものだろう。

映画の最後半部、不正に手に入れた金銭でもって二人は、島を抜け出すためのボートに乗り込む。ボートは、果たして平和な場所に辿り着くのかもわからないまま、船頭も失い、沖を漂う戦死した兵士たちの亡骸の群れにぶつかる。(上のトレイラーでも見られるが)このシーンは、強い映像上の衝撃を伴うものだ。古典音楽を愛する音楽家夫婦の一見無垢で人間的に思われた生活もまた、数えきれない犠牲を伴う非人間的な暴力と隣り合わせのものであったことが、あからさまなまでに露わにされる。

しかし同時に、無数に浮かぶ人体をかき分けて進む小舟というこの映像は、今や日常のように我々が耳にする事態を、亡命を試み海を越えようとする難民にまつわる歴史的事態を想起させるものでもある。文明やそこに属する個々人は、今この瞬間もなお、恥辱に満ちた野蛮と隣り合わせのものとして、罪や負い目を内に秘めたものとして、成り立っている。

ベルイマンの60年代後半の三部作における、逃れられない罪連関というモチーフについて

60年代後半の「フォーロー島三部作」

今年2018年の6月14日がイングマール・ベルイマン(Ingmar Bergman, 1918-2007)の生誕百周年ということだそうで、いつも通っている近所の映画館でもこの6月は彼の特集を組んでいる。前回記事を書いた「ペルソナ」もこの枠で上映されていたのだが、それに引き続き、彼が60年代に制作した三作品、「狼の時刻」( "Vargtimmen" SE 1968, 90 Min. DCP.)、「恥/ベルイマン監督の恥」( "Skammen" SE 1968, 103 Min. 35mm.)、「情熱/沈黙の島」("En Passion" SE 1969, 101 Min. 35mm.)を立て続けに観ることができた(すべてオリジナル+英語字幕版)。

この三作品は、かつて監督が過ごしたことがあるフォーロー島(Fårö)を舞台に撮影されたことから「フォーロー島三部作」(Fårö trilogy)と呼ばれる連作であるそうで、どの作品でも、マックス・フォン・シドー(Max von Sydow)とリヴ・ウルマン(Liv Ullmann)の二人が島に暮らす恋人同士(ないし夫婦)を演じている。個人的に興味深く思ったのは、三部作のどの映画においても、孤独のうちに閉じこもらんとしても逃れられない罪連関というモチーフが、それぞれなりの仕方で展開、変奏されていた点だ。

 

逃れられない罪連関というモチーフと、自己同一性の瓦解

逃れられない罪連関というモチーフそれ自体は、「ペルソナ」において既に見られるものだ。とはいえ登場人物同士の相互感応やそれによる自他境界の溶解といったモチーフが中心をなす(と私には思われる)「ペルソナ」に比べると、続くこの三部作においては自他の感応という問題が少しずつ後景に退き、それに対応するように、逃れようとも逃れられない罪という問題が前景に出てきている。

もっとも罪の問題は、その根本のところでは、自己同一性の瓦解という「ペルソナ」の中心モチーフとつながっているだろう。というのも、個人的な過去に関するものであれ、世界史的な現実に関するものであれ、人間の罪意識というものは、返済することができないまま担っている他人に対する負い目の自覚であるからだ。人は、時には自分の意志によって、また多くの場合には自分の力ではいかんともしがたいままに、誰かに対する罪という負債へと縛り付けられている。

他者への返済できない負い目として自らの罪を意識した時に人は、自分が、振りほどくことができないほどに堅く他の誰かに結び付けられた存在であることを、そしてこの「誰か」から絶えず責任を訴求されている存在であることを、自覚せざるをえない。この意味で罪意識というものもまた、堅固な自己同一性というフィクションにひびを入れるものなのだ。

 

個人史における罪と、世界史における罪

自分の力だけで全てを成しとげ、他人に一切の借りを負うことのなかった人間がいるとすれば、彼は根本的な意味で罪意識を抱くことがないかもしれない。しかし現実に人は、既にその個人的な人生において——たとえ些細な事柄であれ——誰かに対して為してしまった裏切りや過ち、小さな嘘や良心の呵責を心の奥底に抱えながら生きている。仮にそのような罪意識を負わずに生きて来られた人がいるとしても、そもそもそのこと自体が、生育環境や経済条件など外的な事情に負うところが大きいだろう。全てを自分の力で成し遂げ他人からの干渉を撥ねつけることができる英雄的個人などというものは、ほとんどフィクションでしかない。

さらに言えば、現代社会に生きる人間にとって、自らが巻き込まれている現実の歴史の罪連関について無知であることもきわめて難しいことだ。そこから目を背け、あえて無知でいようとするならば、その逃避的態度それ自体が一つの非道徳であるとして叱責されうる。罪に満ちた現実の世界史のなかに囚われているというそのことは、現代社会に生きる人間の生の条件をなしている。そしてこの世界史的な、あえて言えば集団的な罪の意識というものは、1960年代に世界各地で生じた学生運動や社会運動へと当時の若者たちを突き動かす原動力の一つになったものであるだろう。

まさしく60年代に制作されたベルイマンの三作品もまた、それぞれなりの仕方で、逃れられない罪連関というこのモチーフを扱っている。映画の主人公たちは、破局に終わった恋愛や不幸な結婚という個人史の問題や、終わりの見えない暴力や戦争という世界史の問題から逃れ、人里を離れた孤島に隠れるように住まっている。そして彼らはみな、逃げたつもりでいたそれぞれの罪連関に囚われ、見せかけの安らぎや静けさから追い立てられるのだ。

…個々の作品についてもう少し立ち入って何か書きたいと思っていたのだが、字数が多くなってしまったので、三部作を観た上でのおおまかな印象を書いたここまでで本記事を閉じたい。とりわけ、社会的な現実と個々人の人生との縺れ合いを抽象的な戦争描写とともに描き出した「恥」についてはちゃんと記事を書きたかったのだが、これについては日を改めて、書けたら書きたい。

見つめる者と見つめられる者、眼差しを介した自他境界の溶解(イングマール・ベルイマン「仮面/ペルソナ」/Ingmar Bergman "Persona" 1966年)

イングマール・ベルイマン「仮面/ペルソナ」(Ingmar Bergman "Persona", SE 1966 85 Min. 35mm, オリジナル+英語字幕版)を鑑賞。

 

あらすじ

ある日の舞台出演を境に一切の言葉を発さなくなってしまった女優エリザベートと、入院先で彼女の担当となった看護師アルマ。二人は、治療の一環として海沿いの別荘で共同生活を始める。笑顔は見せども頑なに沈黙を守るエリザベートに対して、アルマは自分の過去を熱心に語りかけるようになる。やがて二人の自我は、互いが互いに惹かれ合いつつ溶け合うような、不思議な共鳴関係に入っていく…

 

※「ペルソナ」のトレイラー。英語版。

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人格の同一性をめぐる問い、自我の非連続性と感応性

タイトルが示しているように、基本的には人間の人格のあり方を主題とした映画だ。上に書いたようなおおまかなあらすじはあるにはあるが、実際の映画において物語の筋はそれほど重要ではない。立場の異なる二人の女性が出会い、互いに互いの自我へと影響を与え合う、ただそれだけの話だと言ってしまうことさえできるかもしれない。とはいえ二人の相互影響の様相は、ベルイマンによって独特の映像表現にもたらされている。この映像表現だけでも、この映画は一見の価値のあるものになっている。

その中心にあるのは、人間の自己や人格が、他者との関係のなかでどう形成され、また変化しうるのか、という問いだろう。もう少し平たく言ってしまえば、アイデンティティーをめぐる問い、人間一人一人がもつ(とされる)人格なるものは果して自明かつ同一のものなのか、という問いがそこにある。ある種実験的な状況に置かれた二人の主人公の相互影響を通して、この映画は、人格がもつ(ように思われる)同一性が実はきわめて不安定なものであることを示している。

実際、映画中の二人の女性は、それぞれがそれぞれなりにある一定の社会的役割を果たしてきた、一定の自己同一性=アイデンティティをもった大人だ。しかしそれぞれの人生において彼女たちは、表現することを憚られるような経験や罪悪感を抑圧してきてもいる。話すことを止めた女と、話し続ける女。対極的な関係におかれた二人の人格は、互いとの共鳴を通して、それまで保ってきた自己同一性を溶解させていく。映像表現もまた、つねに他者関係によって脅かされているものとしての人格のあり方を、自我の非連続性や感応性を、辿るようにして構成されている。

 

見つめる者と見つめられる者、眼差しを介した自他境界の溶解

私がとりわけ面白いと思ったのは、この映画において人格の相互感応が表現される際に、見つめる「眼差し」が大きな役割を果たしていた点だ。映画においては何度も、登場人物が何ものかを見つめる眼差しがアップで映し出されていた。また登場人物の台詞もしばしば「見つめられること」がもつ感応の力——あるいは叱責の力——に言及していた。視線は交差し、感応し合う。

見つめる者と見つめられる者は、認識する主体と認識される客体という単純な二分法に収まるものではない。見つめる者は、見つめられる者に何がしかの影響を与えつつ、同時にそれによって自らにも一定の反響を受ける。そして誰かを見つめるということは、自分もまた見つめられる者であるということと表裏一体なのだ。見つめる視線は、人格の自己同一性を揺り動かし、自明であったはずの自他境界を溶解させるものとなる。

さらにこの映画「ペルソナ」の見つめる眼差しは、画面の向こう側、すなわち映画を観るその者にも向けられている。観賞時に私はしばしば、画面内の視線と目が合うかのような感覚に陥ったが、おそらくは映像そのものがそのような効果を狙って作られたものなのだろう。この映画は、自明のものとして前提されてきた自他境界を溶解させる眼差しを、映画作品と映画を観る者の関係にも向けるのだ。

この映画のなかには、映画の「外」を暗示するモチーフがいくつも提示されていた。それは一見すると映画の本筋とは無関係に見える現実の世界史の映像であったり、撮影するカメラや、フィルムであったりした。中途で断ち切られるフィルムは、不快感を与える無機質な騒音とともに、映画そのものが閉じられた同一性に安らうものではないことを——常に観る者の視線に晒され、また同時に観る者へと視線を向け返すものであることを——証言する。

人間相互の関係においても、また観賞者と作品という関係においても前提されてきた、それぞれに独立した人格の同一性は、私と私でない誰かの境界は、すべて虚構に過ぎないかもしれない。このラディカルな問題提起を、映画「ペルソナ」の眼差しは、無言のまま観賞者に突きつける。

理想化された身体的思い出としての、故郷(ヨーエ・マイ「帰郷」/Joe May "Heimkehr" 1928年)

ヨーエ・マイ「帰郷」(Joe May "Heimkehr" DE 1928, 126 Min. 35mm)を鑑賞。ピアノ伴奏つき。

 

あらすじ

戦争捕虜としてロシアで強制労働に従事するドイツ兵リヒャルトは、同室の友人カールに、いつも故郷のことを——とりわけ妻のアンナが待つ彼の家庭のことを——語り聞かせていた。2年におよぶ強制労働に耐えかねた二人はある日、脱走を試みる。しかしリヒャルトは警備兵に捕えられてしまい、カールだけが脱走に成功する。一人ドイツに戻ったカールは、いつも話を聞いていたアンナに会いに行くが、次第に二人はお互いを求め合うようになってしまう。その一方、再び捕虜として強制労働に就いていたリヒャルトは、戦争終結に伴う恩赦によって釈放され、ドイツに戻って来る。妻の待つはずの家庭においてリヒャルトが見たのは、友人カールと妻アンナが熱く抱擁し合う姿だった。故郷にはねつけられたリヒャルトは、絶望の極において、短銃を手に取る…

 

※映画の一部。二人が脱走する途中のシーン。残念ながら画質は悪いが…

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理想化された身体的思い出としての、故郷

戦争から戻る兵士の帰郷という明らかに第一次大戦の影を落とした主題のもので展開された、実直な兵士とその妻と友人の三角関係を描いたメロドラマ。字幕での説明は最小限で、登場人物の心理描写や感情の動きが、当時としては実験的であったかもしれない交差的な映像表現も交えつつ、生々しく描かれていた。直接の性的シーンこそないものの、それでも男女の情の交錯や煩悶が湿度と質感をもって提示されていた。とにかく生々しい身体感覚の描写が印象に残る映画だった。

特筆すべきは、リヒャルトの「故郷」がきわめて具体的な肉体感覚を帯びたものとして語られていた点だろう。部屋の間取り、家具の配置、妻の身体のほくろの位置。それらは彼がなした過去の身体的な経験に基づいている。そしてアンナのもとを訪ねたカールもまた、この肉体的な「故郷」を、リヒャルトが彼に語ったとおりの故郷を、ある種の感動をもって追体験する。

とはいえこの「故郷」は、身体的なものでありながら、リヒャルトによって理想化されたものでもある。時間の経過とともに変化しているのではないか、妻は貞淑に待ってくれているのだろうか、そういう現実的な疑問は脇に置かれ、「故郷」は変わらず彼を待つものとして繰り返し表象される。ここには、女性は銃後において家庭を守るべきだという戦時の固定観念も影響しているかもしれない。なんにしてもリヒャルトは、変わらぬものとしての「故郷」を、帰郷さえできれば再び同じ感覚性をもって彼を迎えてくれるはずのものとしての「故郷」を、苛酷な強制労働の環境のなかで生の拠りどころにする。

しかしこの「故郷」もまた、理想化に逆らい、時の移ろいとともに変化する。ドイツに戻ったリヒャルトを待っていたのは、家具の配置こそ変わらぬものの、よそよそしく彼をはねつける他人行儀な「故郷」だった。自らの生の拠りどころとして頭の中で繰り返し思い描いた「故郷」は、もはやかつてのように、細やかな愛情をもって彼に寄りそうことも、彼の求めに応じて胸襟を打ち開くこともせず、ただ冷たく彼をはねつける。

「故郷」はもはやリヒャルトのための場所ではなく、他の誰かのための場所になっている。不変の故郷などというものは、幻想でしかなかったことが露わとなる。

 

昨年の8月からしばらく当ブログの更新が止まってしまっていました。その間も映画はそれなりに観ていて、ブログを書きたいと思う作品も多々あったのですが、うまく文章にできていませんでした。思うに、丁寧に書こうとしすぎて、うまく自分の時間とエネルギーをそこに向けられなかったのかもしれません。しかし折角映画を観て書きたいこともあるのにうまく文章に落とし込めていなかったのは残念に思っており、再開したいとも思っていました。

そういうわけで、反省を踏まえて、試みとして最大1,200~1,500字以内という文字制限を課した上でまた映画のことを書いてみようかな、と思っています。どうも文章を書き始めると延々と書いてしまいがちで、しかもそれが負担になってしまうという悪循環にも陥りがちな人間なので、ある程度制約があった方がいいのかなと思っています。

自分に負担にならない範囲で、またぼちぼちと忘備録代わりに更新していければと思っています。よろしくお願いします。

映画を通してルターを勉強する、その③ 語り直されるルター 敬虔な抵抗者として、あるいは誠実な信仰者として

filmreview.hatenablog.com

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ルター映画について、その③。詳しいことはその①の記事その②の記事を読んでいきただきたいのだが、以下では残り二つのルター映画について簡単に書いていきたい。

 

資金はなくとも、語り直されなければならなかった敬虔な抵抗者としてのルター像(クルト・オェテル「従順なる反乱」/Curt Oertel "Der gehorsame Rebell" BRD 1952)

1952年に制作されたルターに関するドキュメンタリー映画。内容としてはルターの生涯やその意義を淡々と追っていくものでそれ自体にそこまで特筆すべきことはないのだが、いくつか興味深い点があった。

 

低予算の映像表現と、制作の歴史的背景

まず一つ目に目を引くのが、映像の表現方法だ。この映画では、俳優が特定のセットのなかでルターを演じたり歴史的場面の再現をしたりといったことがなされていない。むしろ映画のほとんどが、教会や修道院といったルターゆかりの土地の映像と歴史的資料——ルターを図像として描いた絵画や文献——の画像との切り貼りと、それに合わせたナレーションとで構成されている。しかしそれらの映像や図像が魅力的なモンタージュになっているかというと残念ながらそうではなく、動きの少ない映像に単調な読み聞かせが続く、正直に言えば眠気を誘うものになってしまっていたようにも思う。このような表現手法をとった理由ははっきりとはわからないが、まず推測されるのは、戦後ドイツの映画制作が資金繰りの面できわめて大きな困難を抱えていたであろうということだ。 俳優もセットも存在しないこの映画は、このような状況に適合して、きわめて低予算で制作されることができたのだろう。

もう一つ興味深いのは、この映画が制作されたその歴史的文脈についてだ。というのもこのドキュメンタリー映画は、戦後最初に公開されたルター映画であるのみならず、西ドイツと東ドイツの共同制作作品でもあるからだ。つまりこの映画は、西ドイツの都市ヴィースバーデンの映画プロダクション主導で撮影されたものでありながら、東ドイツの映画会社DEFAの協力のもと制作されてもいるのだ。そのためこの映画には、ルター生誕の地であるアイスレーベンや彼が聖書翻訳に従事したヴァルトブルクなど、当時東ドイツに属していた土地の映像も使用されている。東西分裂から数年という当時のドイツの状況に鑑みると、このことは異例であるだろう。

 

ドイツ文化の源流ルターを敬虔な抵抗者として語り直す必要性

既に述べたように、映画そのものは特筆すべきものではなく、他のルター映画に比べれば映像作品としての魅力に乏しいものではある。しかしそれにもかかわらず面白いのは、1952年のこの映画の制作からは、たとえ予算がなくとも、また分裂したての東西ドイツが協力してでも、とにかくルターが語り直される必要があったのだろうことが推察されるということだ。ここにはおそらく、荒廃した戦後ドイツにおいて生じた宗教リバイバルの動きも関係している。しかしそれだけではなく、ルターを——ナチス時代にはドイツ国家主義に祀り上げられていたそのルターを——あらためてドイツの文化的源流として語り直すというそのことこそが、重要なことだったのだろう。

この観点から注目すべきは、この映画に「従順なる反乱」というタイトルがつけられている点だ。つまりここでルターは、神に対しては従順であったが、それがゆえにこの世の不正な権威に対しては断固として反抗した者として語られているのだ。ここには明らかに、ナチス的な国民国家に奉仕するようなルター像——記事②で取り上げたような1920年代のルター像——を払拭しようという狙いがある。そしてそれは同時に、ナチスにおけるようなこの世の支配の美化からは截然と区別される者として、敬虔なキリスト教信仰の体現者であり不正な体制への抵抗者としてルターを再定義し直そうという試みであるだろう。

この試みは、資金の面でも、表現の面でも、きわめて弱々しいものであったように思われるし、実際にどこまで国家主義的ルター像の払拭に寄与できたかというとなんとも言えないところがある。しかしいずれにせよ、弱々しい仕方であれ、戦後の荒廃したドイツにとって数少ない文化的拠り所であったルターは語り直され、正当化され直されねばならなかった。だからこそこの映画「従順なる反乱」は、政治的な分裂にもかかわらず、東西ドイツの協力のもとで制作されることになったのだろうと思う。

 

信仰の率直さゆえにプロテスタントたらざるをえなくなった、誠実な信仰者としてのルター像(エリック・ティル「ルター」/Eric Till "Luther" DE/US 2003)

ドイツとアメリカ合作の、劇映画としては21世紀最初のルター映画。前の二作とは時代も違えば制作規模も異なり、迫力ある演出や映像で構成されたこの映画は、エンターテインメント性を備えた歴史ものの大河ドラマに仕上がっている。そのおかげもあってかこの映画は、興行的にもそこそこの成功を収めたらしく、ドイツ映画としてはアメリカでもっとも興行成績を収めた映画の一つでもあるそうだ(アメリカとの合作ということを度外視すれば、だが)。

内容としては、激しい雷雨をきっかけに修道院入りを決意するところから、免罪符/贖宥状をめぐる論争とそれにともなう異端試問、その後の帝国追放に聖書翻訳、そして帝国議会における「アウグスブルク信仰告白」の認可に至るまで、ルターの生涯を時系列に沿って丁寧に追ったものになっている。

※下はトレイラー。

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誠実な信仰者としてのルター像、伝記映画としての説得性

この映画の特徴の一つは、ルターを大言壮語の運動家ないし扇動者としてではなく、悩み苦しむ一人の信仰者として描いている、というところにある。ジョセフ・ファインズ(Joseph Finnes)演じる映画のなかのルターは、どこか気弱そうなところさえ見せる憂鬱な青年であり、自分から積極的にカトリック教会に牙を剥き論争を挑むような人物としては描かれていない。むしろ彼は、聖書に即した率直な信仰を貫いたそのゆえに期せずして教会と衝突し抵抗者(=プロテスタント)たらざるをえなくなった人物として、すなわちまずもって一人の誠実な信仰者として、描かれているのだ。

誠実な信仰者というこのルター像は、1927年における扇動的な国民運動家としてのルター像とはほとんど対照的ともいってよい描かれ方だと言える。さらにこの映画は—— 「95ヶ条の論題」をヴィッテンベルク城教会に張り出すという史実としては怪しい逸話を依然として劇的に描いてはいるものの——農民戦争における無力や修道女カタリーナとの結婚など、ルターにおいてしばしば問題視されるような点についても時間を割いて描写している。この意味で2003年の映画「ルター」は、多少の脚色はあれど、極力史実に即したルター像を提示する伝記映画であろうと努めているようにも思われる。このことは少なくともある程度まで成功しているだろうし、単なるエンターテインメント作品として魅力的であるのみならず、ルターの伝記映画としても説得力あるものになっているという印象をもつことができた。*1

 

映画をめぐる論争、カトリック教会からの異論

ただしこの映画は、その公開時には少なからぬ論争を引き起こしたのだという。とりわけカトリック教会から、映画における教会制度やキリスト教信仰の描かれ方が一面的で誤解を招くものであるとして批判がなされたということが、映画に際してなされたレクチャーで言われていた。

確かにルターに即してものを考えると、カトリック教会は腐敗した権力機構であり、その抵抗としてのプロテスタントこそが誠実で「正しい」キリスト教信仰のあり方であるということになるだろう。しかしこのような二項対立的な図式が、カトリックとプロテスタントを理解する際に常に有効であるかというと、そうではない。ルターの宗教改革以降、500年の時の流れの中でキリスト教は、とてもこのような単純化した図式にあてはまらないような展開と変化を遂げてきたからだ。

ルター的プロテスタントに話を限っても、それがキリスト教の世俗化や現世主義化を推し進めてしまい、キリスト教の救済宗教としての意義を形骸化させてしまったという批判は長らくなされている。つまり、少なくともキリスト教の救済論を重視する立場の者からすれば、現世における幸せや慈みを強調するようなルター的プロテスタントの教えは問題含みだということになるのだ。またカトリックはカトリックで教会権力の絶対化に伴う腐敗がしばしば大きな問題になってきたが、プロテスタント教会に同じような腐敗が起こらなかったわけでもない。

このような観点から、ルター的プロテスタントだけを誠実で正しい信仰の立場であるとしカトリックを悪習に満ちた旧体制であると喧伝するような映画は不公平で時代錯誤であるという異論がとりわけカトリックの側から上がったことは、想像に難くない。ドイツやアメリカのようにカトリック教会がいまなお一定の存在感をもつ文化圏においては、その声は決して小さいものではなかっただろう。

私は何かしら態度表明をするほどこの論争について詳らかに知らないし、この記事でこれ以上論じることもしない。いずれにしても確かなのは、2003年のこの映画「ルター」の公開が、否が応でも、カトリック教会に反抗するルター的プロテスタントの再正当化として受け止められ、それはしばしば時代錯誤なものだと見なされたということだ。

 

21世紀において宗教や信仰を改めて考えるということ

カトリックの側からこのような異論が上がることは、制作に際して予期されなかったわけではないだろう。この意味で気になるのは、カトリックからの異論は予期されていただろうにもかかわらず、なぜ21世紀に入って改めてルターの映画が製作される必要があったのかという点だ。そこには、宗教や信仰という問題をめぐるなにかしらの動機づけがあったのではないだろうか。

まず思い浮かぶのは、2001年のニューヨーク同時多発テロに象徴される、宗教の新たな顕在化という事実だ。20世紀後半の欧米社会では、近代世界において宗教は次第に存在感や説得力を失い、人間社会は世俗化され宗教を必要としなくなっていくだろうという議論がさかんになされていた。しかし21世紀に入ってからは、宗教や世俗化をめぐる議論のトーンが大きく変わり、「宗教」とカテゴライズされうる人間的実践がそう簡単には根絶しないものであること、むしろその急進的な抑圧や排除は危険な帰結を伴いうるものであることが、次第に自覚されてきた。そういうわけで、「ポストモダン」でも「ポスト世俗化」でもそのキャッチフレーズはなんでもいいのだが、21世紀の社会においてなおも世界中に存在する種々の宗教やそれに基づく文化のあり方に、あらためて問いが向けられるようになっているのだ。

この映画「ルター」が2003年に制作され公開されたということも、このような文脈と無関係ではないだろうと思う。そこでは暗に、あるべき宗教性、あるべき宗教的信仰のあり方というものが、模索されているからだ。もちろんそれがルターを単に賞賛するだけのことで終わり、ルター的プロテスタントだけが唯一の正しい信仰のあり方でありその他の宗教的実践はすべて過ちであるというような狭窄な結論を招いてしまうのであれば、そこにはたしかにある種の時代錯誤があるだろう。ルターという具体的な歴史的人物を扱うということは、そのようなアナクロニズムの危険性とも結びついている。

しかし彼の議論が500年前のある特殊な文化的制約の上で生じたものであるということを踏まえてこの映画を観るならば、そこから21世紀というこれまた一つの特殊な文化的制約のなかにおいて宗教的信仰のあり方を考えるための一つの契機を見いだすことは、可能であるかもしれない。近代化しつつある世界で「信仰」のあり方を問い、その結果として「宗教改革」という欧米文化史上の大きな流れを象徴することになったルターという人物に改めて目を向けるということは、単に過去を称揚するノスタルジーやアナクロニズムであるだけではなく、そこから現代にまでつながる諸問題を考え直すということにもつながっているかもしれないのだ。

 

…というわけで、1927年、1952年そして2003年と、全く異なった時代に制作された三本のルター映画をきっかけにルターを勉強しつつそれぞれの映画の文化的背景を考える、ということを三回にわたって試みてきた。キリスト教や信仰というナイーブな主題にかかわるものであるにもかかわらずかなり不正確なことやテキトーなことも書いているだろうと思うので、もし何かあれば指摘してもらえると有難い。

何にせよ印象的だったのは、映画というきわめて近代的・大衆的な媒体のなかで、ルターという伝統的な宗教的人物がこれだけ強い関心をもって扱われ続けているという事実だ。もちろん一方で、実際に数年間ドイツで勉強している者として、ドイツに住む多くの人にとってキリスト教はとうに説得力も魅力も失っているのだということも感じる。私がルター映画を観に行った際にも、やはり観客は年配の人が多く、また満席というわけでもなかった。しかし他方では、それでもルターの映画が製作されつづけ、配給され、一定の数の人の耳目を集めてきたという事実もあるのだ。

宗教的人物や宗教的主題を映画において扱うということが、宗教的な目線から見て正しいことであるのかは私にはわからない。宗教者からすればそれは、偶像崇拝や宗教の大衆娯楽化として批判されるべきものなのかもしれない。しかし映画を好んで観る者としては、宗教的な主題が映画において扱われるということは決しておかしなことではないと思う。映画は何かしらの仕方で現実を写し出すものでありうるし、宗教に関わる諸々もまた人間の生きる現実のなかで生起するものであるからだ。それは時に過剰であったり、イデオロギーによって歪められたりしたものであるかもしれない。しかしそうだとしてもそこには、宗教や信仰をめぐる時代や文化ごとの意識の何がしかが証言されてもいるのだ。

*1:もっとも、「95ヶ条の論題」の件を別にしても、細かい点では史実に即さない描写があるようだ。詳しく知りたい方は、この映画に関するWikipediaの記事("Luther (2003 film) ")の項目"Film inaccuracies"(独語"Historische Ungenauigkeiten")を参照してほしい。