映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

笑いとともに、プロパガンダの強張りに入るひび(エルンスト・ルビッチ「ニノチカ」/Ernst Lubitsch "Ninotchka" 1939年)

エルンスト・ルビッチ「ニノチカ」(Ernst Lubitsch "Ninotchka" US 1939)を鑑賞。

 

おおまかな感想、印象

ルビッチらしい、テンポのよい洗練されたラブコメディ。グレタ・ガルボ演じる厳格な共産党員ニノチカが、パリの伯爵レオンとの出会いを通じて変化していく様が印象的に描かれている。もっともこの映画には、当時の国際情勢を背景にした政治的寓意があからさまに織り込まれてもいる。ソヴィエト連邦から来たニノチカは労働者の革命による理想社会の構築を謳う共産圏を、パリの伯爵レオンは個人の享楽を是とする自由主義や資本主義を、それぞれ代表しているのだ。アメリカにおいて制作された本作は基本的には後者の視点に立ち、現実から乖離した共産主義の理念の強張りを笑い飛ばしながら、厳格な共産主義者も結局は資本主義的な享楽の魅力には抗えないだろうことを喧伝する。共産主義社会の理念のための自己犠牲に生きていたニノチカがレオンとの出会いをきっかけに自らの幸福を追うようになるという物語の大筋に、そのことは明らかだろう。この意味で本作を、自由主義・資本主義の側からなされた反共産主義プロパガンダ映画の嚆矢であると見ることもできる。

とはいえ映画「ニノチカ」の真髄は、資本主義陣営による共産圏の誹謗に尽きるものではない。というのもこの映画においては、笑いという内発的な作用が、共産主義の理念だけでなく自由主義・資本主義の側のプロパガンダにもひびを入らせているからだ。レオンによってニノチカが顔を崩すまでに笑うようになるというそのことは、たしかに一方では、理想のために個人を窒息させかねない共産圏の硬直性がひび割れ瓦解することを声高に喧伝している。しかし他方でレオンもまた、ニノチカに触れることを通して、個人の享楽を謳いつつも享楽から疎外された者たちを等閑視する自由主義や資本主義の欺瞞を自覚するに至っている。この映画におけるニノチカとレオンの出会いにおいて生じた「笑い」は、潜在的には、共産主義と資本主義というイデオロギー的な対立関係やそれを前提としたプロパガンダ合戦の強張りそれ自体にひびを入れるような作用を持っているのだ。

 

あらすじ

※例によって以下はネタバレになるのでご注意を。

ソヴィエト連邦から三人の役人が、かつての貴族から押収した宝石を国庫のために売り払うよう命令され、パリにやって来る。しかし宝石のもともとの持ち主でありパリに亡命していた大公妃が偶然の機会からそのことを聞き知り、彼女の愛人である伯爵レオンは宝石売却を阻止するために動き回ることになる。レオンはあの手この手で三役人を懐柔し、パリでの享楽的な生活でもって彼らが本来の仕事を忘れてしまうように仕向ける。その折、厳格な共産党員ニノチカが、遅延している三役人の仕事を監視するためにパリへと派遣されてくる。

三役人に仕事を言いつけパリの街を一人視察していたニノチカは、偶然のことからレオンと知り合う。レオンからの熱心なアプローチの甲斐もあり、パリの街を観光しながら二人は距離を縮めていくが、やがて彼らはお互いが敵対的な立場にあることに気付いてしまう。それでもレオンはニノチカとの仲を深めようと奮闘し、ついには労働者向け食堂でのちょっとしたやり取りをきっかけに、それまで全く感情を見せることがなかったニノチカが顔を崩して笑うようになる。また同時にレオンも、ニノチカの考えを理解するためにマルクスの『資本論』を読み階級格差の問題について理屈をこねはじめ、彼の使用人から呆れられるようになる。とにもかくにも理解し合ったニノチカとレオンは、二人でパリでの生活を楽しみはじめる。

しかしある日酔い潰れて帰宅したニノチカは、大公妃の使いに件の宝石を盗まれるという失態を犯してしまう。自分の愛人であったレオンがニノチカに執心していることに嫉妬した大公妃は、すぐにソヴィエト連邦に帰国してパリから姿を消すならば宝石を諦めてやるとニノチカを脅迫する。こうしてニノチカは自らの失態を隠すため、レオンに別れを告げることもできないまま、パリでの生活に耽溺していた三人の役人たちとともにソヴィエト連邦へと帰国せざるをえなくなる。

スターリン政権下のソヴィエト連邦に帰国したニノチカと役人たちはよい友人同士となり、隠れてパリでの思い出に耽るようになる。レオンはニノチカに会うためにソヴィエト連邦に入ろうとするが許可されず、彼の手紙も検閲で黒塗りにされてしまう。そんな折、三役人が今度はコンスタンティノープルへと毛皮を売るために赴くことになったのだが、またも彼らの仕事が遅延しているからとニノチカも同地に派遣されることになる。コンスタンティノープルまでやって来たニノチカは、三役人がロシア料理店を開店したことを知り呆れる。そこにレオンが姿を現し、これはニノチカに会うために彼が仕組んだことなのだと告げる。

※こちらは「ニノチカ」のトレイラー。ガルボ演じるニノチカが豪快に笑うさまが見られる。

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共産主義の強張りを笑いとばす資本主義のプロパガンダ

あらすじからして明らかなように、このコメディ映画にはふんだんに政治的寓意が織り込まれている。崇高な国家理念を説き個人の犠牲をも厭わない共産党員ニノチカはソヴィエト連邦を筆頭にした共産圏国家の象徴であるだろうし、パリの街とその楽しみ方を熟知し個人的な享楽や愛を追いかける伯爵レオンはアメリカを筆頭にした自由主義・資本主義国家の価値観を代表している。この意味で映画「ニノチカ」は、戦後の東西冷戦時代を先取りするかのような対照関係を戯画化している。

アメリカ制作で1939年に公開されたこの映画にはとりわけ、共産主義の台頭を危険視する自由主義陣営の当時の意識が明らかに反映されている。というのもこの映画のモチーフは、基本的に自由主義・資本主義の側の視点から、共産主義社会の硬直性を笑い飛ばすということにあるからだ。このことは共産党員ニノチカの描かれ方に顕著で、冗談にくすりともせず、労働者の革命による共産主義の実現という理念を無表情で暗誦し、ショーウィンドーの最新ファッションを軽蔑の眼差しで見つめるニノチカは、生の喜びを知らない非人間的な存在として登場する。ここでは明らかに、現実味のない共産主義社会という硬直した理念が、現実として個々人の幸福を抑圧してしまっていることが示唆されている。

この意味で映画「ニノチカ」は、共産主義の非人間性を皮肉った意識的なプロパガンダ映画としての側面を持っている。スターリン体制下のソヴィエト連邦を皮肉ったコメディ映画としてはアメリカで最初のものであるらしいこの映画は、一面的なステレオタイプをもって、ソヴィエト連邦や共産主義者の問題を笑いとばす。それどころかここではまた、硬直した共産主義さえも資本主義の誘惑には勝てず、個人的な享楽の魅惑に抗えずに瓦解していくだろうことが喧伝されてもいる。

実際にニノチカは、労働者向けレストランでのレオンの失態に顔を崩して笑って以降、パリという街の魅力を享受するようになる。当初は軽蔑の眼差しで眺めていた流行の帽子を自分から購入したニノチカは、レオンの部屋で最新の音楽を聴き、高級レストランの食事とワインを堪能しながら魅力的に笑うのだ。酩酊しながら自らの享楽の罪深さを口にするニノチカが、レオンが開けたシャンパンの音でもって銃殺されたかのように倒れ込む印象的なシーンは、美食という個人的享楽が共産主義の社会的理念を打ち負かしたことをコミカルに象徴しているだろう。そうしてニノチカは、ソヴィエト連邦に帰国してからもなお、パリで購入した衣類を隠し持ち続け、自国のラジオに音楽が流れないことを嘆くのだ。

もっともここには、資本主義や自由主義の側の傲慢も少なからず見て取れる。レオンによって引き起こされた「笑い」以降、ニノチカがあまりにも急速に資本主義文化に染まっていくそのプロセスははっきり言って不自然であるし、豪奢な宝飾やファッションが無条件に人を魅了するはずであるという前提も安易ではある。このような傲慢さを内包しつつ、この映画は、共産主義という非人間的社会もまた資本主義・自由主義における個人的幸福の魅力の前に瓦解せざるをえないのだということを、声高に喧伝している。

 

共産主義の瓦解の象徴として「ガルボが笑う」ということ

共産主義理念の強張りが資本主義的な享楽の前に瓦解するというモチーフは、それまで全く感情の変化を表に出さなかったニノチカがレオンの失態によって顔を崩して笑い転げるというシーンに端的に象徴されている。ところでこのシーンがセンセーショナルなものとなったのは、グレタ・ガルボという女優がこの演技によって自身のそれまでのイメージを壊し、それが「ガルボが笑う」というキャッチフレーズとともに広まったというそれゆえでもある。

冷たく凛とした雰囲気のあるガルボという女優は、それまで基本的にシリアスな役柄ばかりを演じており、コミカルに笑うというイメージがなかったらしい。そこでガルボが所属するMGMスタジオは、冷たい女という彼女のイメージをコメディ映画への出演によって変化させようと考えており、そのタイミングで映画「ニノチカ」の主演が決まった。そういう背景もあって映画「ニノチカ」は、「ガルボが笑う!」("Garbo laughs")というキャッチコピー*1をもって大々的に広告されることになったのだ。

かくしてガルボという女優の冷たさの瓦解と、共産主義の理念の瓦解、その二つのイメージが重なり合ったこの映画は、第二次世界大戦がはじまった1939年に公開され、興業的にも成功を収めることになったのだ。*2

 

「笑い」は、資本主義プロパガンダにもひびを入れる

この映画はしかし、ただただ一方的に共産主義社会の問題点や敗北を誇張して描き出すだけのものでも、一面的に資本主義や自由主義の勝利だけを描くものでもない。もちろん、個人の享楽を前にした共産主義理念の崩壊というモチーフが映画の前面に出てきていること、そしてその意味でこの映画が共産主義世界を笑い飛ばす資本主義プロパガンダとしての側面を持っていることは、疑い得ない。しかしこの映画を注意して観ると、資本主義や自由主義の問題点や欺瞞も——必ずしも直接的な仕方ではないにせよ——描かれているということに気付くだろう。映画「ニノチカ」は、共産主義理念の瓦解を描くのみならず、資本主義陣営のプロパガンダにもひびを入れているのだ。

問題は既に、パリの伯爵レオンという人物それ自体に見て取れる。財産を持ち洗練された振る舞いをする彼は、パリという華やかな街で申し分のない生活を送ってはいる。しかし彼のきらびやかな生活は、爵位という彼の身分によって保証されたものであり、決して自由で平等なものとして資本主義諸国に住む者すべてに分かたれているものではない。また大公妃への彼の態度からは、彼の地位や財産がある程度まで彼女との関係によって保障されているものであることも推察される。共産主義者ニノチカが屈した魅力は、決して資本主義や自由主義に遍在する魅力ではなく、むしろ既得権益によって生きる特権階級の魅力なのだ。大公妃に対する彼の気後れした態度や、贅沢慣れしていない素朴なニノチカへの憧憬は、レオンが自らの欺瞞にどこか居心地の悪さを感じていることを示唆しているのかもしれない。

そして実際に伯爵レオンは、ニノチカの思想に触れることによって、彼自身を取り巻く問題を自覚することにもなる。それが最もはっきりと表れるのは、レオンがニノチカに気に入られようとマルクスの『資本論』を読んで感化されるくだりだ。階級間の不平等や労働者階級の抑圧といった問題を学んだ彼は、マルクスの理屈を振り回し、彼の家の使用人に今まで以上に休みと給与を与え人間的な生活を実現できるように取り計らおうとする。しかし長年彼に仕えてきた老使用人は、突然のレオンの振る舞いに困惑し、自分は今のままでも十分満足しております、と呆れたように言い返す。

この一連のやりとりは、映画においてはきわめてコミカルに描かれており、実際に思わず笑ってしまうようなものだ。そしてそれゆえにこのシーンにおけるレオンの言動は、恋煩いから来る単なる奇行でしかないようにも見える。とりわけ公開当時にこの映画を観たであろうアメリカや資本主義・自由主義諸国の人々の多くはこのシーンに関して、パリの貴族がマルクスにかぶれるなんて馬鹿で滑稽な話だな、という以上の感想を持たなかったかもしれない。しかし実際のところ、貴族は貴族として無条件に財産を持ち続けることができる一方で、労働者階級が疎外された労働のあり方に満足しているという現状は、万事問題なしと言うことができるものだろうか。この老使用人はもしかしたら、社会によって、教育によって、現状に満足していると思い込まされているのではないだろうか。しかし共産主義者ニノチカを魅惑したパリの享楽も——ひょっとしたら映画「ニノチカ」のような大衆的な娯楽さえも——知ることがない人々を等閑視して資本主義や自由主義の魅力を喧伝することには、決定的な矛盾がないのだろうか。

伯爵レオンは——そしてこの映画「ニノチカ」は——はっきりと、たとえ喜劇の枠のなかでであれ、この社会的不平等の自覚へと到達している。だからこそレオンは、ニノチカを追って、それまでの彼ならば決して足を運ぶことがなかった労働者食堂に足を踏み入れ、そこでニノチカだけでなく労働者たちの笑いの的になっても彼らとともにそれを楽しむことができたのかもしれない。ニノチカの変化ほど劇的でわかりやすい仕方でではないが、レオンもまたニノチカとの邂逅によって何かを自覚し、変化を望みさえしたのだ。この目立たない小さな一点は、映画においてそれ以上展開されることはない(あるいは展開したくてもできなかったのかもしれない)。とはいえそれによって、自由主義や資本主義のプロパガンダにも、目に見えない小さなひびが入る。このひびは、その後の時代の経過とともにだんだんと大きくなり、目に見えるものになっていったものだろう。

このように見ると、共産党員ニノチカとパリの伯爵レオンの邂逅はもはや、単なるイデオロギー的な二項対立やそれに基づく勝敗に還元されるものではない。むしろ彼らは、決定的な他者との出会いを通して、自らを反省し、自覚し、変化しているのだ。もちろんこの映画においてその変化は、圧倒的に資本主義の側に有利なように演出されてはいる。しかしここには既に、共産主義と資本主義という冷戦的な二項対立そのものにひびが入り、それぞれの一面的なプロパガンダが瓦解していく可能性が、ほんのわずかながら示唆されてもいるのだ。映画「ニノチカ」が持つ政治的含意の魅力はこの点にこそあると、私は思う。

*1:これは、ガルボがはじめて出演した有声映画であるクラレンス・ブラウン「アンナ・クリスティ」(Clarence Brown "Anna Christie" US 1930)の広告時に「ガルボが喋る!」("Garbo talks!")というキャッチコピーで宣伝したことのもじりだそうだ。

*2:もっともソヴィエト連邦では上映禁止になり、ドイツでは1948年にようやく、しかも西側に属している州でのみ、上映が許可されたのだという。