自己目的化した権力構造と、その只中に差し込まれる小さな花(アッバス・キアロスタミ「友だちのうちはどこ?」/Abbas Kiarostami "Khane-ye doust kodjast?" 1987年)
数か月前になるが、アッバス・キアロスタミ「友だちのうちはどこ?」(Abbas Kiarostami "Khane-ye doust kodjast?" IR 1987 83 Min. 35 mm. オリジナル+ドイツ語字幕版)を鑑賞。
あらすじ
イラン北部のある小学校の教室にて、宿題を指定のノートに書いてこなかったモハマッドは、先生に厳しく叱られた挙句「次に同じことをやったら退学だ」と言い渡される。それを隣の席で聞いていたアハマッドだったが、下校時のちょっとしたきっかけから間違えてモハマッドのノートを持ち帰ってしまう。家に帰ってからそれに気づいたアハマッドは、周りの大人に事情を説明しようとするが、誰も彼の話を真剣に聞いてくれない。自分のせいで友だちが退学させられてしまうかもしれないと思い悩んだアハマッドは、ひとり隣町へ向かい、モハマッドの家を探しまわる…。
※トレイラーではないが、アハマッドと母との会話。英語字幕付き。話を聞いてくれない母に懸命に事情を説明しようとする様子がいじらしい。
話を聞かない大人たち、内面化し自己目的と化した権力構造
この映画において大人たちは、子供たちに対してどこまでも不公平で、権威主義的で、話の通じない存在として描かれる。大人同士ではそれぞれ話をし合うし、大人の側からは子供にいろいろなことを言いつける。それにもかかわらず、子供たちの側から大人たちに何かを尋ねても、それは決して聞き届けられない。隣町に住む友達の家にノートを返しに行きたいという少年アハマッドの単純な願いさえ、ほとんど真剣に耳を傾けられることがない。
アハマッドがまずもって頼るべき母親からして、彼の話を聞かない。ノートをいますぐ返さなきゃいけないんだ、そうしないと友だちは罰を受けちゃうんだ、といじらしく懸命に説明するアハマッドに対して、母親はただただ「自分の宿題をやりなさい」と繰り返す(貼り付けたYoutubeのシーンは、まさにこの会話がされている箇所だ)。
仕方なくひとり隣町までやって来て、友達の家を探し回り、人びとに尋ねまわっても、アハマッドは友達の家を見つけられないし、見つけるための大人の助けも得られない。多くの大人は彼の話を聞きもしないし、彼の話を聞く素振りをみせる大人たちもいい加減な返答をして彼を見当違いの場所に向かわせてしまう。時間が経ち、日が暮れる。自分のせいで友だちが罰せられてしまうかもしれない、退学にさせられてしまうかもしれないとアハマッドは焦るが、何もできない。
少年の話を聞かない大人の筆頭は、アハマッドの祖父だ。この老人は、友だちの家を探さなければと焦る少年に対して、家から煙草を持ってこいと命令する。アハマッドにはどこに煙草があるのかわからないし、そもそも彼は急いでいる。しかし彼の懸命の説明は、ここでも聞かれることがない。祖父は断固として、煙草を持ってくるように命じる。少年がその場を去ったときに、その場にいた他の大人たちが、老人に、でもまだ煙草は残っているでしょ?と尋ねる。どうして老人は、孫に必要のない煙草をわざわざ取りに行かせたのか。老人いわく、命令に従わせるというそのことが、社会にとって役立つ人間を育て上げるのに必要な教育方法なのだ。だから子供は、言い訳せずに大人の命令に従わなければならない。
ここには、この映画を——とりわけ大人たちの世界を——支配している権力構造の論理が、端的に表れている。正当な理由があろうとなかろうと、他の事情があろうとなかろうと、上の立場の者がそう決め命令をくだしたのだから下の立場の者はそれに従わなければならない、という権力構造の論理。彼らは自分たちのうちにこの権力構造を内面化し、自らそのヒエラルキーの一部となり、権威をもって命令を下す。権力構造は、それ自体が自己目的と化して、既存のヒエラルキーを維持するというただそれだけのために内実を欠いた権威的な命令を行使するのだ。
翻弄される子供たち、形骸化した権力構造の只中に差し込まれる小さな花
自己目的と化した権力構造のこの論理を、子供たちもよく理解している。それどころかある意味では、子供たちもまた権力構造の命令の論理を内面化している。だからこそ彼らは下された命令に翻弄され、その不履行に脅え、「いい子」として振舞おうと注意する。
少年アハマッドもまた、学校の先生が、彼が間違えてノートを持って帰ったなどという事情を聞くはずがないことを、前提としている。先生は、宿題を指定されたノートに書いてこなかったモハマッドに有無を言わさず罰を下すだろう。なぜならそれは命令されたことであり、モハマッドは——どんな理由があろうとも——その命令を果たさなければならないのだから。宿題を指定のノートに書いてくるよう命令された以上、この命令が文字通り果たされなければならない。
命令の論理の不条理さと容赦のなさを知るからこそ、アハマッドはいじらしいほど懸命に、友だちの家を探す。この映画は、暴力的なシーンや過激なシーンを用いず、友だちの家を探す少年というある種牧歌的な物語を描きつつ、権力構造とその再生産のあり方を、明らかにしているのだ。
もっともこの映画には、権力構造のただなかで差し込まれる、わずかな希望の可能性も暗示されている。その希望を手渡すのは、映画中の大人で唯一人、アハマッドの話に真剣に耳を傾け、時間を割いてそれに応えようとする年老いた家具職人だ。村のことをよく知るというこの家具職人は、少年アハマッドを彼が知るというモハマッドの家まで案内しながら、昔の思い話を語り、小さな花を幸福のお守りだとして少年に渡す。
この老人がアハマッドを連れて、飾り窓から日が差し込む建物のなかをゆっくりと歩くシーンは、どこか神秘的で、その他の場面とは異なる宥和的な印象を与える。まるでアハマッドの願いが聞き届けられ、ついに叶えられるその時が迫っているかのように。しかし結局は、この家具職人の好意も見当はずれのものであったことが明らかになる。彼が知っているモハマッドの家は、アハマッドが探していた同級生の家ではなかったのだ。そうこうしているうちに日も暮れ、モハマッドは途方に暮れて帰宅せざるをえなくなる。
翌日、教室のなかでようやくアハマッドは同級生モハマッドに再会する。皮肉なことに彼らは、学校というこれまた権力構造の枠の中にある場所でしか再会することができないのだ。権威的な教師は、いつものように生徒たちに宿題を書いたノートを出すよう要求する。アハマッドは素早く、代わりに宿題を済ましておいたノートをモハマッドに渡す。教師は宿題を済ましてあるノートを機械的にチェックして、モハマッドは罰を切り抜ける。
この最後のシーンには、一つの希望の可能性が示されている。子供たちは、少なくともアハマッドは、権威がくだす命令さえ形式的に満たせば——この場合には「指定のノートに宿題を書いてくること」——さえ満たせば、それ以上のことを追及されないことに気づくことができた。アハマッドは友だちの家を見つけ出すことはできなかったが、権力構造の只中で、その隙間をくぐりぬけて友人に下されるかもしれない不合理な罰を回避することはできたのだ。
子供たちは既に、権力構造が形骸化していることを知っている。もしかしたら彼らのうちの多くは、やがて自分たちも権威に同化し、命令を下す側にまわってしまうのかもしれない。それでも家具職人の老人のように、不合理な命令の論理を廃棄して、他者の話に耳を傾けようという意識が彼らのうちにも生まれるかもしれない。アハマッドが友だちに渡したノートには、老人から手渡された小さな花が挟まっていた。形骸化した権力機構のただなかにも、人間らしさの欠片が差し込まれる可能性が、まだ残っているのかもしれない。