映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

破滅のただなかで追想される過去の輝き、そこに向けられる哀悼のまなざし(ジョセフ・フォン・スタンバーグ「嘆きの天使」/Josef von Sternberg "Der blaue Engel" 1930年)

ジョセフ・フォン・スタンバーグ「嘆きの天使」(Josef von Sternberg "Der blaue Engel" DE 1930)を鑑賞。

 

おおまかな感想、印象

以前記事を書いた「最後の命令」(1928年)以来のスタンバーグ映画。「最後の命令」がアメリカ製作の無声映画だったのに対して、その二年後に封切られた「嘆きの天使」はドイツのUFAスタジオ製作の有声映画。ハインリッヒ・マンの『ウンラート教授、あるいは一暴君の末路』(Professor Unrat oder das Ende eines Tyrannen, 1905)を原作として製作されたこの「嘆きの天使」は、ドイツにおける有声映画としてはもっとも早い時機の作品とのこと。主演は「最後の命令」と同じエミール・ヤニングス、女優は本作が出世作となったマレーネ・ディートリヒ。視野狭窄に陥って破滅していく中年男と彼を魅惑する奔放な歌手の対比はとても印象的で、お互いがよい存在感を出し合ってお互いを際立たせるものになっていたように思う。ディートリヒの妖艶さやセクシーさは今の目から見ると刺激的と言えるほどのものではないかもしれないが、それでもその独特の空気感は伝わってくる。彼女がこの映画を皮切りにハリウッドへと活躍の場を移し国際的な名声を獲得していったのも納得できるような気がした。

この映画は、「最後の命令」同様、古い権威を代表する人物がその威厳を失っていき、敬われる側から軽蔑され嘲笑われる側へと転落していく様を描いている。転落していく人物が生の最期に過去の権威を追想し、そこで一瞬の——見せかけの——輝きを見せる、という点も同じだ。おそらくスタンバーグの基本的な関心がこの点、古きものが嘲笑われるものへと転落していくなかで一瞬だけ過去の輝きをきらめかせながら破滅していく、というところにあったのだろう。ただしロシア革命で地位を失った将軍がハリウッドへと流れていく様を描いた「最後の命令」においては世界史の趨勢が転落を引き起こしているのに対して、この映画「嘆きの天使」における破滅はきわめて個人的なものであるように見える。実際、ヤニングス演じるギムナジウム教授ラートがディートリヒ演じるキャバレー歌手ローラ・ローラに熱を上げて没落していくという物語は、地位のある年配者が若い恋人のせいで身を持ち崩していくといういつの時代にもある転落物語の雛形ではある。とはいえ「最後の命令」とのモチーフの重なりや、またラート教授が形骸化したブルジョワ社会の道徳権威を象徴するような人物として描かれていることに鑑みれば、やはりスタンバーグの関心は単なる個人の物語を超えているように思えてくる。もっともここには、転落していくブルジョワ道徳への単なる蔑視というよりも、破滅していく古きものへの彼独特の哀悼のまなざしが読み取れる。

 

あらすじ

ギムナウムで英語を講じる教授イマヌエル・ラートは、その堅物さや些事に拘る偏屈さによって生徒たちから疎まれ、「ウンラート」(Unrat、ドイツ語で「汚物」や「ごみ」の意。ラート教授の名前の綴りRatにかけている)と呼ばれている。ある日彼は、生徒からキャバレー「嘆きの天使」(Der Blaue Engel)のチラシを取り上げ、そこにローラ・ローラという歌手が来ることを知る。この不品行の場に自分たちの生徒が顔を出していないかを確かめるため、ラート教授はキャバレーに足を踏み入れる。

キャバレーの雰囲気に圧倒されつつも、自分の生徒について話をするために楽屋の扉を開いたラート教授は、ちょうど着替えをしていた歌手ローラ・ローラと出会う。コケティッシュな彼女の態度に平静を装うラート教授だったが、ひょんなことから彼女が脱ぎ捨てた下着を持って帰ることになってしまう。下着を返すために再びキャバレーに赴いたラート教授は、ローラ・ローラと話すうちに彼女の魅力に抗えなくなり、ついには興業のために街を離れるのだという彼女に対して求婚をするに至る。ローラ・ローラはケタケタと笑いながら求婚を受け入れる。一方で歌手に熱を上げるラート教授の言動は彼の勤め先のギムナジウムで問題視されるようになり、結局彼は教師の仕事を失ってしまう。

こうしてラート教授は、ローラ・ローラの属する興業団とともに巡業のため各地を転々とすることになる。やがて手持ちの金銭を使い切ってしまったラートは、日銭をかせぐため、興業団のショーにピエロとして出演するようになる。一方でローラ・ローラは、落ちぶれていくラートを冷たくあしらうようになり、アシスタントの若い男性といちゃつくようになる。その折に興業団は再びラートの故郷のキャバレー「嘆きの天使」でショーをすることになり、興行主は客を呼ぶためにラート教授が舞台に上がることをセンセーショナルに宣伝する。

かつて自分が権威ある教師として振る舞っていたその町のキャバレーの舞台に、ラート教授は、粗雑なピエロのメイクを施して登壇させられる。観衆の好奇の目に晒されながら、ニワトリの物まねをするよう強いられ、しまいには生卵を頭にぶつけられた彼は、突然発狂したように楽屋裏へと下がっていく。そこでアシスタントといちゃつくローラ・ローラを発見し、怒りのままに彼女の首を絞めるラートを、興業団の面々は力づくで取り押さえ、殴打し、縛り付けて小部屋に閉じ込める。夜中になって解放された彼は、キャバレーを抜け出し、ふらふらとかつての勤務校へ入り込む。かつて彼が疎ましがられながらも威厳を保っていたその教室で、ラートは、教壇を抱きかかえるように倒れ込み、そのまま息を引き取る。*1

 

破滅のただなかで追想される過去の輝き、そこに向けられる哀悼のまなざし

既に書いたように、この映画の基本的なモチーフは、「最後の命令」同様に、古きものの転落と破滅を描くことにこそある。ただし「最後の命令」が帝国主義、共産主義、資本主義へと転換していく大きな歴史の趨勢に翻弄される軍人の姿を描いていたのに対して、この映画「嘆きの天使」の軸にあるのは基本的にラート教授の個人的な没落だ。しかしだからといってこの映画が非政治的・非社会的かというと、そんなこともない。というのもラート教授は、明らかに——19世紀から20世紀という世紀の変わり目には既に形骸化していたであろう——市民社会の古めかしい価値観を体現した人物として描かれているからだ。その彼が、退廃的な歌手の魅力に溺れ没落していくというそのモチーフは、芸術に耽溺する市民社会が道徳的に形骸化していった大戦間期の時代意識をはっきりと反映している。

もっともスタンバーグは、没落していく古い価値としての市民道徳——その体現者としてのラート教授——を、単に時代遅れで唾棄されるべきものとしてのみ描くことはない。たしかに彼は容赦なく、残酷なまでに古きものの転落と破滅を描きはする。しかしまた同時に、破滅しつつある古きものに対してある種独特の哀悼のまなざしを向けているようにも思われるのだ。それは決して、古めかしい価値道徳を復権させようとか、再構築しようとか、その種の退行的な試みではない。もはや古い市民的価値道徳がそのままでは維持不可能なこと、その妄信的な実行は醜く疎ましがられるものに変じてしまっていることは、十分に自覚されている。たとえローラ・ローラへの求愛によってあからさまに転落することがなかったとしても、ラート教授は実質的には既に彼の生徒たちの尊敬を失っていたし、「ウンラート」として隠れて嘲笑われてさえいたのだ。教壇における彼の威厳や権威は、もはや形骸化した表層的なものでしかなくなっていた。古きものの没落は、もはや取り返しのつかない事実として自覚されているのだ。

それでも哀悼のまなざしは、古きものの破滅のプロセスに注がれる。場違いな求婚の仕方をしてローラ・ローラに高笑いをされるラートの滑稽さ、財産を失い軽んじられるみじめさ、そして故郷のキャバレーで道化師として壇上に立たされ嘲笑の的となる残酷なまでの恥辱の姿。こういった破滅のプロセスを描くスタンバーグのまなざしは、聴衆と一緒になってラートを冷笑するものというよりもむしろ、彼を哀れんでいるように見える*2。もはや撤回不可能なまでに没落した古きものが、退廃した美しきものに誘われ崩壊していくなかで、それでも自らが拠り所にしてきた価値を、その矜持を完全には手放すことができない、その哀れな姿。この姿をかくも残酷に、同時に魅力的に描くその哀悼のまなざしこそが、スタンバーグの映画に、単なる社会風刺の枠を超えた魅力を添えているのではないかと思う。

この哀悼のまなざしは、当時の批評によって非難されたように、単なる保守的な懐古趣味の感傷に過ぎないのだろうか。社会の進歩のためには、むしろ滅びゆく古きものを冷笑し置き去りにしていくべきなのだろうか。しかしラートのように、古い価値に沿って生きて来た個人が、ある日突然その価値を脱ぎ捨てて新しい価値とともに生きることが——不可能とは言わないまでも——きわめて困難だということも、一つの事実なのだ。彼のような古い個人はどのみち、時代の流れに取り残され、軽蔑され、唾を吐きかけられ、破滅していく。時代の流れに同調して、彼のように取り残され没落していく個人に——他の者とともに——唾を吐きかけるべきなのだろうか。古き個人が破滅していくその姿を前に、彼がかつて持っていた過去の輝きに思いを致し哀れみの思いを抱くということはむしろ、人間的なことではないのだろうか。

もちろんこの哀悼のまなざしは、懐古主義の感傷と紙一重のものではある。場合によってはそれは、なお人々を抑圧し続ける古き権威の美化につながりかねないようなものでもある。そこに陥らないためにも、この映画は一貫してラートの滑稽さを、みじめさを、そして恥辱にまみれた破局までをも、徹底的に、残酷なまでに描き切っている。そして同時に、彼がその最期の瞬間に胸に抱いた過去の輝きを、彼とともに静かに追想するのだ。発狂し、暴行され、心身ともに消耗しきったラートの破滅は、それによってもはや取り返しのつくものではない。映画は、過去の輝きの象徴たる教壇を抱きつつ息を引き取る古きものの姿に、静かな哀悼のまなざしを送る。 

*1:ハインリッヒ・マンの原作を読んでいないのでドイツ語版WikiのDer Blaue Engelの項目の受け売りになるが、ラートが勤務校を辞めさせられて以降のストーリーは原作と映画で大幅に異なるらしい。原作では、勤務校を首になったラートは町に留まってある種のアナーキストとして市民社会の常識を揺るがすような振る舞いを好んで行い、それを楽しむようになるのだという。この意味ではマンの原作の方が、権威を失っていく市民社会への批判的風刺としての色合いが強いようだ。それに対して、ローラ・ローラと結婚することを除けば自分から社会の常識を攻撃することをしない映画中のラートの破滅は、社会を揺るがすような効果は持たない単なる個人的な転落であるように見える。実際に当時の批評にはこの点——原作の社会風刺の色彩を弱め、良き市民の破滅というセンチメンタルな物語に変じてしまっているという点——を非難したものがあったのだという。もっとも、映画を観る限り、市民道徳の担い手たるラートを唐突に転向させず、その落ちぶれゆく破滅とほとんど無力な矜持を描くことにこそそもそものスタンバーグの関心があったように思われるし、それはむしろ1930年前後の時代意識——もはや個人に社会を揺るがす力などないのだという意識——にも適っていたのではないかと思う。

*2:まさしくこの点にこそ、当時の批評はある種のおセンチさを見出したのだろう。