映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

抽象的に描かれる戦争、追い立てられる個人(イングマール・ベルイマン「恥」/"Skammen" 1968年)

イングマール・ベルイマン「恥/ベルイマン監督の恥」(Ingmar Bergman "Skammen" SE 1968 103 Min. 35mm, オリジナル+英語字幕版)を鑑賞。

前回の記事でも書いた通り、ベルイマン生誕百周年特集で上映されていた。「フォーロー島三部作」の二作目。

 

あらすじ

元々同じオーケストラに所属していた、音楽家夫婦のヤーンとエーヴァ。二人は、いつ終わるとも知れない内戦から逃れ孤島で生活している。しかし戦火はやがて島にも到達し、二人の生活圏も空襲とゲリラ戦の舞台になる。避難の際に強引に撮影されたエーヴァのインタヴュー映像は、反乱軍のプロパガンダに利用され、それが原因で二人は政府軍に捕えられてしまう。監禁された二人は、市長ヤコービの力添えで釈放されるが、市長はエーヴァに思いを寄せていることを告白する。その後、若い脱走兵をめぐるトラブルを経て、二人は小型ボートに乗り込み島を脱出しようとする…。

 

※「恥」のトレイラー。ほとんど映像だけだが、3分半でも相当の見応えがある。

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逃れられない負い目の意識、無垢であろうとする個人

前回の記事では、本作「恥」を含むベルイマンの「フォーロー島三部作」を扱った。そこでは、1960年代後半に制作されたこの三作のいずれにも、それぞれなりの仕方で、逃れられない罪の問題が登場しているという意味のことを書いた。

この記事を読み返した際、私は、「罪」という表現ははたして適切だっただろうか、と自問することになった。というのも罪という言葉では、何か明確に——法的ないし倫理的、宗教的に——悪いこと、罰せられるべきことをなした者が負うもの、なにかしらの罰を伴うものというニュアンスが強く響いてしまうかもしれない、と思ったからだ。映画の主人公たちのなかにはたしかに、そのような意識的な「罪」を犯した者もいる。が、三部作の全体を見れば、必ずしもこの意味での「罪」、罰を伴う罪が問題になっているとは言いにくいのだ。

「罪」という言葉でもって私が言いたかったのは、明確な罰を伴う意識的な罪科というよりはむしろ、他者に対する「負い目」の意識のようなものだ。過去に傷つけてしまったかもしれない誰かに対して、適切な振る舞いで接することができなかった誰かに対して、困窮に喘いでいることを知りながら手を差し延べることができないでいる誰かに対して、人は負い目の意識をもちうる。前回の記事において私が「人は、時には自分の意志によって、また多くの場合には自分の力ではいかんともしがたいままに、誰かに対する罪という負債へと縛り付けられている」という言い方をしたときの「罪」の意識とは、まさしくこの「 他人に対する負い目の自覚」のことだ(ついでに言うとこの「罪」理解は、特定の意味での宗教的な罪理解とも重なるかもしれない)。ベルイマンの三部作は、この意味での罪ないし負い目が、それぞれなりの仕方で問題になっている、と思う。

「恥」という映画もまた、他者に対する負い目の意識から逃れようとした者たちの物語だ。音楽家夫婦のヤーンとエーヴァは、それぞれの個人的な問題を抱えつつも、止むことのない内戦という社会の趨勢に背を向け、政治的な判断から距離をとったままであろうとする。彼らは壊れたラジオを本気で直そうともしないし、伝聞で耳に入る戦争情報にもいちいち本気で取り合わない。政府軍と反乱軍の対立にも無関心であろうとし、政治的にどちらに与しようともしない。彼らは、罪深い社会に背を向けて、負い目の意識を抱かなくて済むように、孤島における無垢さのなかに留まろうとするのだ。

 

抽象的に描かれる戦争、追い立てられる個人

しかし罪連関は、決して彼らを逃しはしない。この映画においては戦争という外化された形をとって、罪が彼らを追い立てるのだ。映画はその冒頭から、銃声や戦争に関する音声を響かせる。島における夫婦の暮らしもまた、戦火が直接的に降り掛かるその以前から、戦闘機の轟音に晒されている。平穏なはずの生活の只中において既にヤーンは、騒音に対するノイローゼの症状を示しており、教会の鐘の音に——これは彼の無意識の「罪」意識を駆り立てるものなのかもしれない——過敏に反応する。映画の全体において、断続的に鳴り響く威嚇的な騒音が、彼らの生活を脅かしている。

そして戦争という現実が彼らを捉えるとき、彼らは決定的な仕方で罪連関に呑み込まれていく。それは、彼らが戦争の哀れな犠牲者になるというような単なる外面的な意味においてのみではない。戦争の容赦ない非人間性はむしろ、彼らのうちに内面化されていくのだ。映画の前半においてはまともに家禽を屠すことができなかったヤーンは、戦争体験を経て銃の引き金を引くことへの抵抗を失い、場当たり的な暴力を発露させていく。夫に比べれば人間性を保っていたように見えるエーヴァもまた、映画の最後半において、授かりたかった子供の夢を見た際に聞いた何かしらの言葉を忘れてしまった、と虚ろに呟くことになる。

個人的に特に印象的だったのは、この映画における架空の戦争が、きわめて抽象的な仕方で描かれていたという点だ。轟音、空襲、強迫、態度表明、プロパガンダ、投獄、処刑、個人的な縁故による釈放、亡命。戦争と呼ばれるものに付随する諸々の事象が、主人公の身に降り掛かる個人的事態という意味では徹底的に具体的に、しかし同時に時代や場所を超えて生じうるものであるという意味ではひどく抽象的に、提示されている。そして戦争の暴力性や非人間性が個々人の内面を侵食するというそのこともまた、一定の普遍性をもつ事態なのだ。

このような意味で、内面のなかまで個々人を追い立てる戦争の暴力性や非人間性は、近代化された社会に生きる人間の普遍的なプロフィールをなしている。1968年に封切られたこの映画は、ベトナム戦争という歴史的事象への強い意識に基づいて制作されたものであると解説されていた。しかしこの映画で描かれる諸々の事態は——残念ながら——21世紀の戦争や紛争においても、そのままの形で生じうるものだろう。

映画の最後半部、不正に手に入れた金銭でもって二人は、島を抜け出すためのボートに乗り込む。ボートは、果たして平和な場所に辿り着くのかもわからないまま、船頭も失い、沖を漂う戦死した兵士たちの亡骸の群れにぶつかる。(上のトレイラーでも見られるが)このシーンは、強い映像上の衝撃を伴うものだ。古典音楽を愛する音楽家夫婦の一見無垢で人間的に思われた生活もまた、数えきれない犠牲を伴う非人間的な暴力と隣り合わせのものであったことが、あからさまなまでに露わにされる。

しかし同時に、無数に浮かぶ人体をかき分けて進む小舟というこの映像は、今や日常のように我々が耳にする事態を、亡命を試み海を越えようとする難民にまつわる歴史的事態を想起させるものでもある。文明やそこに属する個々人は、今この瞬間もなお、恥辱に満ちた野蛮と隣り合わせのものとして、罪や負い目を内に秘めたものとして、成り立っている。