映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

ベルイマンの60年代後半の三部作における、逃れられない罪連関というモチーフについて

60年代後半の「フォーロー島三部作」

今年2018年の6月14日がイングマール・ベルイマン(Ingmar Bergman, 1918-2007)の生誕百周年ということだそうで、いつも通っている近所の映画館でもこの6月は彼の特集を組んでいる。前回記事を書いた「ペルソナ」もこの枠で上映されていたのだが、それに引き続き、彼が60年代に制作した三作品、「狼の時刻」( "Vargtimmen" SE 1968, 90 Min. DCP.)、「恥/ベルイマン監督の恥」( "Skammen" SE 1968, 103 Min. 35mm.)、「情熱/沈黙の島」("En Passion" SE 1969, 101 Min. 35mm.)を立て続けに観ることができた(すべてオリジナル+英語字幕版)。

この三作品は、かつて監督が過ごしたことがあるフォーロー島(Fårö)を舞台に撮影されたことから「フォーロー島三部作」(Fårö trilogy)と呼ばれる連作であるそうで、どの作品でも、マックス・フォン・シドー(Max von Sydow)とリヴ・ウルマン(Liv Ullmann)の二人が島に暮らす恋人同士(ないし夫婦)を演じている。個人的に興味深く思ったのは、三部作のどの映画においても、孤独のうちに閉じこもらんとしても逃れられない罪連関というモチーフが、それぞれなりの仕方で展開、変奏されていた点だ。

 

逃れられない罪連関というモチーフと、自己同一性の瓦解

逃れられない罪連関というモチーフそれ自体は、「ペルソナ」において既に見られるものだ。とはいえ登場人物同士の相互感応やそれによる自他境界の溶解といったモチーフが中心をなす(と私には思われる)「ペルソナ」に比べると、続くこの三部作においては自他の感応という問題が少しずつ後景に退き、それに対応するように、逃れようとも逃れられない罪という問題が前景に出てきている。

もっとも罪の問題は、その根本のところでは、自己同一性の瓦解という「ペルソナ」の中心モチーフとつながっているだろう。というのも、個人的な過去に関するものであれ、世界史的な現実に関するものであれ、人間の罪意識というものは、返済することができないまま担っている他人に対する負い目の自覚であるからだ。人は、時には自分の意志によって、また多くの場合には自分の力ではいかんともしがたいままに、誰かに対する罪という負債へと縛り付けられている。

他者への返済できない負い目として自らの罪を意識した時に人は、自分が、振りほどくことができないほどに堅く他の誰かに結び付けられた存在であることを、そしてこの「誰か」から絶えず責任を訴求されている存在であることを、自覚せざるをえない。この意味で罪意識というものもまた、堅固な自己同一性というフィクションにひびを入れるものなのだ。

 

個人史における罪と、世界史における罪

自分の力だけで全てを成しとげ、他人に一切の借りを負うことのなかった人間がいるとすれば、彼は根本的な意味で罪意識を抱くことがないかもしれない。しかし現実に人は、既にその個人的な人生において——たとえ些細な事柄であれ——誰かに対して為してしまった裏切りや過ち、小さな嘘や良心の呵責を心の奥底に抱えながら生きている。仮にそのような罪意識を負わずに生きて来られた人がいるとしても、そもそもそのこと自体が、生育環境や経済条件など外的な事情に負うところが大きいだろう。全てを自分の力で成し遂げ他人からの干渉を撥ねつけることができる英雄的個人などというものは、ほとんどフィクションでしかない。

さらに言えば、現代社会に生きる人間にとって、自らが巻き込まれている現実の歴史の罪連関について無知であることもきわめて難しいことだ。そこから目を背け、あえて無知でいようとするならば、その逃避的態度それ自体が一つの非道徳であるとして叱責されうる。罪に満ちた現実の世界史のなかに囚われているというそのことは、現代社会に生きる人間の生の条件をなしている。そしてこの世界史的な、あえて言えば集団的な罪の意識というものは、1960年代に世界各地で生じた学生運動や社会運動へと当時の若者たちを突き動かす原動力の一つになったものであるだろう。

まさしく60年代に制作されたベルイマンの三作品もまた、それぞれなりの仕方で、逃れられない罪連関というこのモチーフを扱っている。映画の主人公たちは、破局に終わった恋愛や不幸な結婚という個人史の問題や、終わりの見えない暴力や戦争という世界史の問題から逃れ、人里を離れた孤島に隠れるように住まっている。そして彼らはみな、逃げたつもりでいたそれぞれの罪連関に囚われ、見せかけの安らぎや静けさから追い立てられるのだ。

…個々の作品についてもう少し立ち入って何か書きたいと思っていたのだが、字数が多くなってしまったので、三部作を観た上でのおおまかな印象を書いたここまでで本記事を閉じたい。とりわけ、社会的な現実と個々人の人生との縺れ合いを抽象的な戦争描写とともに描き出した「恥」についてはちゃんと記事を書きたかったのだが、これについては日を改めて、書けたら書きたい。