映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

装飾となった大衆の上に立つ、冗談のような独裁者(ミハイル・ロンム「ありふれたファシズム」/Mihail Romm "Obyknowenny fašizm / Der gewöhnliche Faschismus" 1965年)

ミハイル・ロンム「ありふれたファシズム/野獣たちのバラード」(Mihail Romm "Obyknowenny fašizm / Der gewöhnliche Faschismus" UdSSR 1965)を、ドイツ語版で鑑賞。5月8日、ドイツにとっての「解放」記念日——日本で言うところの「終戦」記念日——*1に、大学映画館で上映されていた。記念日ということで入場無料で、さすがに満席だったように思う。少し間が空いてしまったが、印象的な映画だったので記事を書いておきたい。

 

ファシズムが成立した日常を問う「よく考えるための映画」

この「ありふれたファシズム」は、旧ソビエト連邦の監督による、第三帝国時代のドイツのファシズムに関するドキュメンタリー映画だ。製作にあたって監督は、旧ソ連、旧東ドイツ、ポーランドの資料館から莫大な量の資料を集めたのだという。そのため映像のほとんどが、写真や映像といった一次資料の切り貼りで構成されている。

とはいえスクリーンに写し出されるのは、ユダヤ人迫害や絶滅戦争の凄惨さを証言するような戦地の写真や映像だけではない。もちろんその種の戦争犯罪を証す写真や映像も少なからず提示されるのだが、映像の大半を占めるのはむしろ、タイトルが示すように、ナチス体制下ドイツの日常の姿だ。学校での子供たち、大通りでのパレードやスタジアムでの式典、スポーツや芸術イベント、郊外での休暇、といった日常の映像。問題はまさしく、ファシズムによるホロコーストや絶滅戦争という信じがたい破局と、一見そこから無縁のように見える日常とが、いかにして結びついていたのか、という点にある(ついでに言うと、そもそもこの映画のタイトル——ロシア語はわからないのでドイツ語での判断になるが——それ自体、「日常のファシズム」とも訳されうるものだ)。

映画の冒頭に監督がカメラに語りかけるシーンがあるのだが、そこで彼は、この映画は「よく考えるための映画Film zum Nachdenken」なのだと述べていた。冷戦時代の旧ソ連製作のこの映画には、たしかに少なからぬイデオロギー的色彩が見て取れる。しかしそれでもこの映画が目指しているのは、ドイツ・ファシズムの戦争責任をただ糾弾するというそのことではなくて、ある決定的な問いを提示することだった。それは、独裁者の指示によってホロコーストや絶滅戦争が実行に移されてしまうファシズムという政治体制が、どのような日常に支えられて可能になったのか、という問いだ。映画は、極めてアイロニカルな語りをもって、この問いを追っていく。

 

アイロニカルに語り出される、ファシズムの生成とその滑稽さ

印象的だったのは、この映画が、ファシズムの生成という深刻極まりないテーマを、きわめてアイロニカルなコメントを添えつつ、なかば笑い飛ばすように語り出している点だ。もちろんその背景には、冷戦時代の旧ソ連特有のイデオロギー的動機、ファシズムを可能にしたものとしての西側資本主義社会を冷笑するという動機もあるにはあるだろう(とりわけ映画の後半においては、そのようなイデオロギー的図式化が顕著な部分もあった)。

しかし私には、アイロニカルに語られるこの滑稽さは、むしろある程度までファシズムの成立と展開という歴史的事実そのものの方に帰せられるもののように思えた。というのも、スクリーンに写し出された映像は、実際にしばしばひどく滑稽なものだったからだ。

コメディアンのような男の一挙手一投足に熱狂する群衆。彼が荒唐無稽な理念を叫ぶことで湧きたつスタジアム。「ジークハイル!」という掛け声ととも、歓喜の表情とともに一斉に右手を掲げる、正装に身を包んだ大人たちの群れ。大衆の熱狂を見下ろし、ナルシズムを隠しもしない独裁者のご満悦の表情。等身大の独裁者の絵画が掲げられた美術館。歯の浮くような自画自賛——「私の母は単純な人間だった。けれども彼女はドイツへ偉大な息子という贈り物をなしたのだ」。

20世紀のドイツという、十分に近代化されたその時代その場所において、まるで悪い冗談のような理念に導かれて、信じられないほど凄惨な出来事が引き起こされてしまったというその事実。この上なく深刻であるはずなのに、この上なくふざけているように見えるこの事態。まさしくこのことが、この映画にアイロニカルな語りをさせているように私には思えた。

 

パレードとセレモニー、装飾になった大衆、政治が美的なものになること

123分と短くはないドキュメンタリー映画のその内容を網羅的にここに書くことはできないので、特に印象的だったことだけ書きたい。私にとって印象的だったのは、この映画において何度となく写し出された、ナチスによる大規模なパレードやセレモニーの様子だ。

ニュルンベルクでの党大会の様子を伝えるナチスのプロパガンダ映画「意志の勝利」(Leni Riefenstahl "Triumph des Willens" DE 1935)くらいは大分前に観たことがあったのだが、それにしてもこの「ありふれたファシズム」におけるほど種々多様なパレードやセレモニーの様子を一度に映像で見たことはないように思う。

映像上の群衆は、隊列を組み大通りを行進する。大人数で巨大な人文字を作りスタジアムの観客席を彩る。総統の掛け声に合わせて歓声を上げ右手を掲げる。その手際の良さや整然さは、まったくもって野蛮な混沌ではなく、それどころか合理的な訓練の賜物としての秩序であり、ある種の美しささえ感じられるものだ。ただ決定的に滑稽なのは、合理的な訓練によって成立する彼らの美しき秩序が、劣等民族の抹殺という野蛮で非合理極まりない独裁者の命令を支えるものになってしまっている、ということだ。

そこでは大衆が装飾と化し、冗談のような独裁者を独裁者たらしめる舞台装置と化している。もはやそこでは、独裁者の命令が政治的に正しいものであるかどうかなどということは、本質的な問題ではないのだろう。これだけの数の群衆が集まり、彼の言葉に熱狂し、美しい秩序をもった隊列をなして、彼を支持している。とにもかくにもそこには美しい秩序があり、この美しさが独裁者に奉仕するものであるからこそ、独裁者の政治は正しいのだということになる。まさしくここにあるのは、政治が美的なものと化す、という事態なのだ。*2

この映画において、装飾となった大衆の上に立つ独裁者はもちろん、総統ヒトラーだ。しかし私はこの映画のパレードの様子を、湧きたつ群衆の姿を見ていて、彼らの頂点に立つ人物というのはある意味では誰でもよかったのだろうな、という感想をもった。もっと言えば、変に知性や才覚を感じさせる洗練された人物であるより、ヒトラーのように、ある意味ではどこにでもいそうな、たまたま大衆のなかから出てきただけのような人物であった方が都合がよかったのだろうな、という気がした。そのあたり、ゲッペルスの演出も巧みだったのかもしれない。

熱狂する大衆と熱狂される独裁者、それぞれの立場はいつでも交換可能で、誰もが独裁者の席に座ってもいいので、だからこそそれは自分でなくてもよいのだ。そこでは装飾する側も装飾される側もそう大差はないだろう。大事なのは、皆で大きな輪を作って、皆同じような動きと歓声で、美しいまでの一体感を得ることなのだ。重要なのはただ、このなかに自分が参加できているというそのことであって、言われている政治的問題の内容などどうでもいいことなのだろう。「一つの民族、一つの帝国、一人の総統」というモットーに端的に言われるこの一体感。この一体化の熱狂のなかでは、熱狂に参加しない者たち、もっと言えば参加できない者たちや参加できるのに意図的にしない者たちは、排除するべきだし、可能ならば抹殺するべきだ、 ということになる。こうして日常のなかで、ファシズムの土台が生成し、堅固なものになっていく。

もちろんこれは単純化した話だ。しかし大衆を動員したセレモニーによる一体感の醸成というのが、ファシズム生成の基盤にあるということは確かだろう。この辺りのことは、「美しい国」が標榜され、国民の統一性や国家への奉仕の美的価値が積極的に強調されるようになった国では、気を付けられる必要があるかもしれない。

 

冷戦時代のイデオロギーを超えて、ファシズムを「よく考える」ために

1965年の旧ソ連において製作されたこの映画には、ある意味で自明なことながら、冷戦時代のイデオロギーが明確に反映されている。それが顕著なのは映画の最後半のシーンで、そこではアメリカや西ドイツといったいわゆる「西側諸国」のなかに第三帝国時代のドイツと同じファシズムの萌芽が指摘され、同時に「東側諸国」における反ファシズムの理想が掲げられる。この映画がドイツ語版も製作されたということには、おそらく当時の東ドイツの人々に西ドイツへの敵対心を育てるという狙いもあってのことだろう。

50年以上の時が経ち、冷戦の構図もほとんど過去のものとなりつつある今となっては、このような図式化に対して一面的だという感想こそ持ちはしても、かといって(一応西側の国で生まれ育った人間としても)特段腹も立たないし、この図式化それ自体が歴史の産物だよな、という冷めた気分で映画を観ることはできる。もちろんそれは旧ソ連や東側の行ったそれこそファシズム的な政治を無視してよいということでもないし、この映画もそういう批判的な括弧つきで鑑賞する必要はあるかもしれない。

とはいえこの映画は、共産圏によって製作された資本主義諸国への誹謗だとして切って捨てるにはあまりにももったいないものだ。少なくとも第三帝国時代のドイツ・ファシズムを映像化したドキュメンタリー映画としては、驚くほど出来のよいものだった。当時のドイツの雰囲気の一断面を知りたいと思う人にとっては、あるいはファシズムが台頭するその土壌のようなものについて「よく考える」ことをしたい人にとっては、十分に一見の価値のある映画であるだろう。

*1:ドイツに来てからあらためて気付いたことの一つだが、連合軍にドイツが降伏した1945年5月8日はあくまでも「解放の日」(Befreiungstag)であって、「終戦」ないし「敗戦」の日ではない。実際にラジオでも「解放」(Befreiung)という言葉が使われているのを耳にする。このような見方からすると、1945年にドイツはナチスの第三帝国から「解放」されたのであって、それ以前の時代とそれ以後の時代とは連続しておらず、決定的に断然している、ということになるのだろう。それだからこそ、ナチス高官が戦後も要職に就いているといった「連続性」が問題視されることになるのだ。どちらがよいかとかどちらが無責任かとかいった話はさしあたりおいておいて、戦中と戦後との「非連続性」ないし「断絶」の意識は、日本にはあてはまらないものなのではないかと思う。この意識の相違が、戦争という過去との取り組みへの違いに表れているのかもしれない。

*2:この辺りのことをまるで自分で考えたことのように言うのもアレなので、正直に書いておくと、「大衆が装飾と化す」という表現はジークフリート・クラカウアーのエッセイ「大衆の装飾」("Das Ornament der Masse" 1920)に、「政治が美的なものと化す」という表現はヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』の結語に拠る。彼らの言っていること、とりわけベンヤミンの「政治が美的なものと化す」(die Ästhetisierung der Politik)という表現は、私には長らくピンとこないものだったのだが、この映画を観て視覚的に腑におちたような気がした。ある意味では彼らは、まったく見たままを言っていたのだ。たしかにそこでは、大衆が装飾になり、政治が美的なものになっているのだ。しかし余談も余談だが、クラカウアーがこの事態をナチズム台頭前の1920年に言葉にしていたということには色々思うところがある。彼の炯眼と言ってしまえばそこまでなのだが、1920年時点で既にその種の事態が観察可能なものでもあった、ということなのかもしれない。この辺り色々考えられることがありそうに思う。