映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

残された者のエゴイズム、傷と嘘を携えて生きること(フランソワ・オゾン「婚約者の友人/フランツ」/François Ozon "Frantz" 2016年)

※2017年10月11日~14日、本記事を加筆修正しました。

 

フランソワ・オゾン「婚約者の友人/フランツ」(François Ozon "Frantz" DE/FR 2016)を鑑賞。

 

おおまかな感想、印象

独仏合作の映画。事前に読んだプログラムに「喪失と、悲しみと、愛が辿る不思議な道をめぐる時代を超えた反戦映画」と書いてあったこともあり、観る前は(もっと言うと観始めて前半の一時間くらいまでは)大戦の反省や独仏の友好といった良くも悪くも記念碑的なテーマを扱ったものだと思っていた。が、ストーリーの展開とともにこちらの先入見への裏切りと驚きが続き、気が付けばしっかりと物語に、そしてその中で動く人物たちにのめりこんでいる自分がいた。もちろん反戦映画ではあるのだろうけれど、それ以上に、人間とその感情を丁寧に描いている作品だったと思う。「戦争による悲劇とそれを乗り越える者たち」という綺麗な構図に甘んじず、戦争を生き残った者たちのエゴイズムを丁寧かつ時には露悪的にさえ表現しようとしていて、そこには作り手の、ある種の誠実さと野心を感じた。それはまた同時に、着想元となったエルンスト・ルビッチの作品で描かれていなかった人間の現実にアプローチする試みでもあっただろうと思う。繊細な映像表現もそこに相まって、端的に観てよかったと思えた映画だった。

 

おおまかな(前半の)あらすじ

この映画に関しては、物語の筋が決定的な役割を果たすものと思う。なので、(この作品がはたして日本で公開されるかはわからないが)これから観る人の映画体験を損なわないためにも、以下では詳しいあらすじを控えて、最低限の前置き的説明に留めておくことにする。

時代は第一次世界大戦直後、舞台は青年フランツの故郷であるドイツの小さな町。この町の他の多くの青年たちとともにフランツは、先の大戦のフランス戦線で命を落としてしまった。彼の両親も、彼の婚約者も、まだ彼の死を消化しきれていない。毎日彼の墓を参る婚約者アンナは、ある日、彼の墓にバラを手向けるフランス人の青年アドリアンに出会う。アドリアンは、大戦前にフランツがパリに留学していた際に知り合った友人であるという。フランツのかつての友人を、アンナとフランツの母は歓迎する。しかしフランツの命を奪った戦時の敵国フランスから来た彼を、フランツの父は受け入れることができない。彼の「この人殺しめ」という言葉に、アドリアンは頷き、それでもなおフランツへの思いを語ろうとする。アドリアンの真摯さに、最初はフランス語を聞くことさえ我慢ならなかった父も、少しずつだが、彼の言葉に耳を傾け始める…

というのが、映画の出発点であり、ここから物語が展開していく。これ以上の詳しいあらすじは、さしあたりここには書かない。

 

前半における、追憶からの過去の乗り越え

基本的には、原題の"Franz"が示す通り、戦死したフランツをめぐる物語である。彼はもはやそこにいないのに、話の中心にはいつも彼がいる。「彼のことは忘れて、新しい人生を始めるんだ」と、アンナに求婚する者もいる。だけれどアドリアンは、「フランツのこと忘れられると思う?」というアンナの問いかけに、そんなことはできないと答える。フランツへの追憶を共有する者同士として彼らは、心を寄せ合いはじめる。

やがて残された婚約者アンナは、残された彼の家族と、やはり残された彼の友人とともに、フランツの過去を辿り直しながら、未来に向って、止まっていた人生の歩みを始める。殺し合っていた敵国同士という障害を超えて、喪失の痛みを超えて。フランツの両親は、自分たちからアドリアンを夕食に招待するようになる。最初はフランツとの最後の思い出をうまく言葉にすることができなかったアドリアンも、次第にパリでの思い出を語るようになる。フランツの訃報後はドレスを着ることなど考えもしなかったアンナもまた、アドリアンと夜祭りに出かけ、彼と一緒に笑顔でワルツを踊るようになる。

ここまでは、痛々しくはあれど、その痛みとともに各々が喪失と悲しみを乗り越えていく話だ。コミュニケーションの強張りは緩んでいき、登場人物に明るい表情が増えていく。

 

後半において露呈するおのおののエゴと、思い出に混ざりはじめる傷

ところが、物語が進んで、登場人物のエゴが露わになる。幸せな人生を再開したいというエゴ、許されたいというエゴ、嘘をつくエゴ、そしてせめて、これ以上自分が不幸になりたくはないし、自分が誰かを不幸にすることで苦しみたくはないというエゴ。「もう何も感じたくなかったし、これ以上不幸でありたくなかった。でもそれってエゴイスティックなことだよね。」このエゴと向き合わねばならないということに苦しみ、逃げ出そうとし、懺悔する。思い出は時間とともに傷ついていく。

この映画は基本的にモノトーンなのだが、フランツの思い出が蘇るときにだけ、画面に色彩が戻ってくる。しかしこの思い出の色彩のなかにも、血と暴力の斑痕が混じるようになる。そしてついには、フランツへの思い出が後景に退く瞬間が来る。過去の思い出を抱くことにも、未来の幸福を願うことにも、もはや取り返しようのない傷がつき、ごまかしようのない嘘の影が差す。「もう遅すぎる。」この傷と嘘を捨てて生きることも、死ぬことさえも、もはや不可能になる。

 

最後のシーン、最後の台詞の意味について

映画の最後のシーン。かつてアドリアンがフランツとともに見たというルーブル美術館のマネの絵画の前で、アンナが呟く「この絵を見ると生きる気になるわ」という言葉。私は、映画を観終わったその瞬間から帰り道までずっと、この台詞を、もっと言えばこのシーンをどう理解してよいのかわからず、映画の内容を反芻しながら考えていた。

考えたすえにひとまずは、どうしようもない自分のエゴイズムを、それがもたらす致死的な傷を、その傷の撤回しようのなさを、アンナが凝視することができたからこそこの台詞が口にされたのだと、理解することにした。そうだとすると、アンナは撤回不可能な傷と嘘を携えてなおも生きることにしたのだということになるだろう。

とはいえもしかするとこの台詞は、自分の傷を隠すため、そして他人をこれ以上傷つけないために嘘をつきつづけた彼女の最後の嘘だったのかもしれない。そうだとしても彼女はこの傷と嘘を捨て去ることはできないが、そんな彼女自身の姿をアンナは目の前の絵のなかに見ていたのだろうか。

前者であれば少しだけ救いがあるような気もするが、それも決して、手つかずの無垢な救いではない。

 

…以下、本筋からは逸れるちょっとした感想を箇条書き

・当時のドイツにおけるナショナリズムや反仏感情の描写が印象に残った。フランツの父も当初アドリアンがフランス人だと知るや態度を急変させたし、地元の居酒屋では傷痍兵を含む男連中が大声で祖国を称える頌歌を合唱し、フランス人と親しくなったフランツの父はかつての友人から距離をおかれるようになった(とはいえ一方で若い女の子たちがフランス人に憧れているような描写もあったけれど)。ある程度まで連合国の世界観に乗っかって(或いは乗っからざるをえなくて)ナチズムに根本的な責任を負わせるものの見方をした(せざるをえなかった)であろう第二次大戦後と、そうではなくてあくまで戦争に負けたというだけの第一次大戦後とでは大分トーンが違ったのだろうか。それとも敗戦直後の敵国人に対する態度なんて一般にこんなものなのだろうか。もちろん、映画中の描写がどこまで当時の現実に即しているのか、という問題もあるのだけれど…

・回想でもそれ以外でも何度かルーブル美術館のシーンがあって、そのなかでもマネのある絵画が物語の鍵の一つになっていた。そしてこの映画ではじめて、当時はマネの絵がルーブルに飾られていたのだということを知った。ちなみにその鍵となる絵画は、かの「草上の昼食」の下に展示されていた。これをオルセーで観た人間としては、ルーブルにマネが飾られているのはなんとなく不思議な感じがした。

 

 

※以下の文章は2017年10月11日~14日に加筆。

物語上の重要なネタバレも含むので、まだ観賞していない方はご注意を

 

1932年のルビッチ映画と2016年のオゾン映画の比較

この映画「婚約者の友人」を鑑賞し記事を書いてからしばらくして、その着想元となったエルンスト・ルビッチの映画(Ernst Lubitsch "Broken Lullaby" US 1932)も観ることができた。ルビッチの映画そのものについては別に記事(「贖罪と嘘、演出された宥和と人間性の切り詰め」)を書いたのでそちらを読んでいただればと思うのだが、せっかくなので、ルビッチの映画と比較した上で思うところを幾つか加筆しておきたい。

なお以下の文章は、基本的に読む方がオゾンの映画「婚約者の友人」を既に鑑賞しているということを前提に書く。ネタバレに配慮もせず、かつ細かいあらすじの説明もしないので、ご承知おきを。

 

オゾン映画の前半、筋をなぞりつつの視点の逆転

まず言えるのは、本作「婚約者の友人」のとりわけ前半は、かなりの程度までルビッチの映画の筋や描写をなぞっているということだ。登場人物の名前こそ変えられているが、アドリアンとアンナ、そしてフランツの両親が出会い仲を深めていくドイツの町での描写は、かなりの程度までルビッチの映画が再現されている。上の本記事に書いたドイツ人グループの反仏感情の描かれ方にしても、それはほとんどそのまま1932年のルビッチの映画のなかに見いだされるものだった。この時代にあえてモノトーンを基調にした映像作品を作るということには、もしかしたらルビッチへのオマージュという理由があるのかもしれない。

とはいえ全てがルビッチの映画そのまま、というわけではない。両映画の間の重要な相違点として、ルビッチの映画が最初から最後までフランス人青年(1932年版ではポール、2016年版ではアドリアン)に定位したものになっているのに対して、オゾンの映画ではむしろ戦死した青年(1932年版ではヴァルター、2016年版ではフランツ)の婚約者(1932年版ではエルザ、2016年版ではアンナ)の視点が採られているという点だ。ここでは、視点がほとんど逆転されている。

実際、1932年のルビッチ版では、フランス人青年ポールがドイツの町にやって来た本当の理由(自分が戦地で命を奪ったドイツ人青年の家族への贖罪)は、映画のそもそもの最初から観る者に共有されている。だからこちらの映画では、フランス人青年ポールが自分の意に反して嘘をつかざるをえなくなっていくそのプロセスや、そこからドイツ人青年ヴァルターの家族や婚約者と意図せず仲を深めていくことになるそのプロセスにこそ、物語上の軸があると言える。

他方2016年のオゾンの映画では、戦死したドイツ人青年フランツの婚約者であったアンナの視点が採られている。それゆえ映画の前半において、フランス人青年アドリアンはあくまでも婚約者の友人として現われることになるし、彼がフランツの命を奪った張本人であるというその決定的な事実は映画の中盤になってようやく——アドリアン自身がその事実をアンナに告げるその時になってようやく——観る者に知らされることになる。

そのため私のようにルビッチ版を観ていないままオゾン版を観た者にとっては、映画の中盤になって突然、物語の前提が大きくひっくり返ることになる。スクリーンの上のアンナの驚きとともに自分自身も驚かされるというこの映画経験はそれ自体なかなか衝撃のあるもので、今でも印象に残っている(だからこそこの映画の記事を書く際にはいつも以上に「ネタバレ」に配慮した)。

もっとも、ルビッチ版を観ていた者は、オゾン版にそれとは違う楽しみ方を見いだすことができるだろうと思う。というのも、既に物語の大筋やオチを知っていれば、視点の相違やそれによるものの見え方の相違を楽しむことができるだろうからだ。

いずれにしても、着想元であるルビッチ版の筋やモチーフをなぞりつつ視点を逆転するというこのことが、この映画の前半から中盤にかけての魅力をなしているように思う。

 

後半、ルビッチ版において描かれなかった現実のエゴイズム 

もっとも、2016年のオゾン映画において1932年のルビッチ映画の筋やモチーフがなぞられているのは前半まで、より正確に言えばフランス人青年アドリアンがアンナのピアノ伴奏のもとでフランツの家族のためにバイオリンを演奏するそのシーンまでだ。このシーンを境に、オゾンはルビッチ版で描かれなかったその後の現実を描き始める。

このバイオリン演奏は、ルビッチ版では最後のシーンを構成している。そこでポール(=アドリアン)は、真実を知りつつも彼を受け入れた婚約者エルザ(=アンナ)のピアノ伴奏とともに、息子の逝去を嘆く家族のために、ヴァルター(=フランツ)の遺品であるバイオリンを演奏するのだ。この演奏のうちに、ヴァルターの喪失を嘆く家族や婚約者は彼らが負った傷の埋め合わせを見いだしており、彼らに対する贖罪を求めていたポールもある種の自己犠牲をもって宥和のために奉仕することになる。演奏の最後、彼らが見せる柔らかな笑顔は、それぞれが抱いていた問題がある種の宥和に至ったことを象徴しているだろう(この点について詳しいことは、1932年のルビッチ映画について書いた記事を読んでもらえたらと思う)。

しかしながら、この宥和は、演出されたものであり、考えれば考えるほど無理のあるもの、様々な疑問が生じてくるものだ。ポールとエルザはヴァルターの両親に対して真実を隠し続けることができるのか。そもそもポールは、フランスでの彼の生活を捨ててヴァルターの代わりを務め上げることができるのか。もしそれができたとしても、そのとき彼らは家族の幸福のために自己犠牲の苦しみを生きることになってしまうのか。もし彼ら自身がそこに幸福を見いだすのだとしたら、それはもはやヴァルターの記憶を忘れ去ってしまうことではないのか。その根底には、贖罪の皮をかぶった人間のエゴイズムがありはしないだろうか。

2016年のオゾン映画は、まさしくこれらの疑問を、ルビッチ映画における演出された宥和では後景に退いている現実を、描いている。フランス人青年アドリアンは、フランツの両親やアンナが求める代理としての役割を演じきれず、彼自身の婚約者が待つフランスへと帰ってしまう。残されたアンナはというと、婚約者であったフランツの命を奪った当人であるアドリアンに恋心を抱いてしまったことに苦しんだ末、その思いを成就させようとアドリアンを追ってフランスへ向かうが、そこでアドリアンに婚約者がいたことを知ってしまう。二人ともが、フランツへの追憶やその両親への贖罪という綺麗ごとには収まりきらない自分自身の生活の欲望を抱いていることに直面する。そしてそれは全て、フランツの両親への嘘によって成り立っている。

オゾンの映画「婚約者の友人」は、とりわけアンナに定位しながら、彼女が直面せざるをえなかった現実のエゴイズムの軌道を追っていく。ここにこそ、オゾンの映画の本領があるだろう。亡き婚約者への追憶の思いと彼の命を奪ったフランス人青年への思慕の思いとの間に揺れるアンナは、傷を負い、嘘をつき、どうしようもない自らのエゴイズムに直面せざるをえなくなる。ここにはもはや無垢な救いはない。それでもそこに、自らのエゴイズムの前に立ち尽くすアンナのもとに、ひとかけらでも救いがあるかどうか。この問いが、映画の最後において開かれたまま提示される。