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映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を書いています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

残された者のエゴイズム、傷と嘘を携えて生きること(フランソワ・オゾン「フランツ」/François Ozon "Frantz" 2016年)

映画

フランソワ・オゾン「フランツ」(François Ozon "Frantz" DE/FR 2016)を鑑賞。

独仏合作の映画。事前に読んだプログラムに「喪失と、悲しみと、愛が辿る不思議な道をめぐる時代を超えた反戦映画」と書いてあったこともあり、観る前は(もっと言うと観始めて前半の一時間くらいまでは)大戦の反省や独仏の友好といった良くも悪くも記念碑的なテーマを扱ったものだと思っていた。が、ストーリーの展開とともにこちらの先入見への裏切りと驚きが続き、気が付けばしっかりと物語に、そしてその中で動く人物たちにのめりこんでいる自分がいた。もちろん反戦映画ではあるのだろうけれど、それ以上に、人間とその感情を丁寧に描いている作品だったと思う。「戦争による悲劇とそれを乗り越える者たち」という綺麗な構図に甘んじず、戦争を生き残った者たちのエゴイズムを丁寧かつ時には露悪的にさえ表現しようとしていて、そこには作り手の、ある種の誠実さと野心を感じた。繊細な映像表現もそこに相まって、端的に観てよかったと思えた映画だった。

 

この映画に関しては、物語の筋が決定的な役割を果たすものと思う。なので、(この作品がはたして日本で公開されるかはわからないが)これから観る人の映画体験を損なわないためにも、以下では詳しいあらすじを控えて、最低限の前置き的説明に留めておくことにする。

時代は第一次世界大戦直後、舞台は青年フランツの故郷であるドイツの小さな町。この町の他の多くの青年たちと同じようにフランツは、先の大戦のフランス戦線で命を落としてしまった。彼の両親も、彼の婚約者も、まだ彼の死を消化しきれていない。毎日彼の墓を参る婚約者アンナは、ある日、彼の墓にバラを手向けるフランス人の青年アドリアンに出会う。アドリアンは、大戦前にフランツがパリに留学していた際に知り合った友人であるという。フランツのかつての友人を、アンナとフランツの母は歓迎する。しかしフランツの命を奪った戦時の敵国フランスから来た彼を、フランツの父は受け入れることができない。彼の「この人殺しめ」という言葉に、アドリアンは頷き、それでもなおフランツへの思いを語ろうとする。アドリアンの真摯さに、最初はフランス語を聞くことさえ我慢ならなかった父も、少しずつだが、彼の言葉に耳を傾け始める…

というのが、映画の出発点であり、ここから物語が展開していく。これ以上の詳しいあらすじは、さしあたりここには書かない。

 

基本的には、タイトルが示す通り、戦死したフランツをめぐる物語である。彼はもはやそこにはいないのに、話の中心にいつも彼がいる。「彼のことは忘れて、新しい人生を始めるんだ」と、アンナに求婚する者もいる。だけれどアドリアンは、「フランツのこと忘れられると思う?」というアンナの問いかけに、そんなことはできないと答える。こうして残された家族は、婚約者は、やはり残された彼の友人とともに、フランツの過去を辿り直しながら、未来に向って、止まっていた人生の歩みを始める。殺し合っていた敵国同士という障害を超えて、喪失の痛みを超えて。フランツの両親は、自分たちからアドリアンを夕食に招待するようになり、最初はフランツとの最後の思い出をうまく言葉にすることができなかったアドリアンも、次第にパリでの思い出を語るようになる。フランツの訃報後はドレスを着ることなど考えもしなかったアンナもまた、アドリアンと夜祭りに出かけ、彼と一緒に笑顔でワルツを踊るようになる。ここまでは、痛々しくはあれど、その痛みとともに各々が喪失と悲しみを乗り越えていく話だ。コミュニケーションの強張りは緩んでいき、登場人物に明るい表情が増えていく。

ところが、物語が進んで、登場人物のエゴが露わになる。幸せな人生を再開したいというエゴ、許されたいというエゴ、嘘をつくエゴ、そしてせめて、これ以上自分が不幸になりたくはないし、自分が誰かを不幸にすることで苦しみたくはないというエゴ。「もう何も感じたくなかったし、これ以上不幸でありたくなかった。でもそれってエゴイスティックなことだよね。」このエゴと向き合わねばならないということに苦しみ、逃げ出そうとし、懺悔する。思い出は時間とともに傷ついていく。この映画は基本的にモノトーンなのだが、フランツの思い出が蘇るときにだけ、画面に色彩が戻ってくる。しかしこの思い出の色彩のなかにも、血と暴力の斑痕が混じるようになる。そしてついには、フランツへの思い出が後景に退く瞬間が来る。過去の思い出を抱くことにも、未来の幸福を願うことにも、もはや取り返しようのない傷がつき、ごまかしようのない嘘の影が差す。「もう遅すぎる。」この傷と嘘を捨てて生きることも、死ぬことさえも、もはや不可能になる。

映画の最後のシーン。かつてアドリアンがフランツとともに見たというルーブル美術館のマネの絵画の前で、アンナが呟く「この絵を見ると生きる気になるわ」という言葉。映画を観終わったその瞬間から帰り道までずっと、この台詞を、もっと言えばこのシーンをどう理解してよいのかわからず、映画の内容を反芻しながら考えていた。考えたすえにひとまずは、どうしようもない自分のエゴイズムを、それがもたらす致死的な傷を、その傷の撤回しようのなさを、アンナが凝視することができたからこそこの台詞が口にされたのだと、理解することにした。そうだとすると、アンナは撤回不可能な傷と嘘を携えてなおも生きることにしたのだということになる。とはいえもしかするとこの台詞は、自分の傷を隠すため、そして他人をこれ以上傷つけないために嘘をつきつづけた彼女の最後の嘘だったのかもしれない。そうだとしても彼女はこの傷と嘘を捨て去ることはできないが、そんな彼女自身の姿をアンナは目の前の絵のなかに見ていたのだろうか。前者であれば少しだけ救いがあるような気もするが、それも決して、手つかずの無垢な救いではない。

 

…以下、本筋からは逸れるちょっとした感想を箇条書き。

・当時のドイツにおけるナショナリズムや反仏感情の描写が印象に残った。フランツの父も当初アドリアンがフランス人だと知るや態度を急変させたし、地元の居酒屋では傷痍兵を含む男連中が大声で祖国を称える頌歌を合唱し、フランス人と親しくなったフランツの父はかつての友人から距離をおかれるようになった(とはいえ一方で若い女の子たちがフランス人に憧れているような描写もあったけれど)。ある程度まで連合国の世界観に乗っかって(或いは乗っからざるをえなくて)ナチズムに根本的な責任を負わせるものの見方をした(せざるをえなかった)であろう第二次大戦後と、そうではなくてあくまで戦争に負けたというだけの第一次大戦後とでは大分トーンが違ったのだろうか。それとも敗戦直後の敵国人に対する態度なんて一般にこんなものなのだろうか。もちろん、映画中の描写がどこまで当時の現実に即しているのか、という問題もあるのだけれど…

・回想でもそれ以外でも何度かルーブル美術館のシーンがあって、そのなかでもマネのある絵画が物語の鍵の一つになっていた。そしてこの映画ではじめて、当時はマネの絵がルーブルに飾られていたのだということを知った。ちなみにその鍵となる絵画は、かの「草上の昼食」の下に展示されていた。これをオルセーで観た人間としては、ルーブルにマネが飾られているのはなんとなく不思議な感じがした。

・エンドロールに書かれていたのだけど、この映画はエルンスト・ルビッチ(Ernst Lubitsch)の某映画の翻案だそうだ(ルビッチの方のタイトルを書いてしまうとネタバレになりそうなのでさしあたり書かないでおく)。ルビッチの映画は去年いくつか見たがとにかく筋と構成が複雑ながらよくできていて驚かされた。なので、ルビッチからの翻案だということで、この映画のストーリー構成がよくできていたのに妙に納得してしまった(我ながら安直ではあるが)。もちろん筋がそのままというわけではないだろうし、基本的にはオゾンや製作スタッフの力なのだろうけれど。