映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

贖罪と嘘、演出された宥和と人間性の切り詰め(エルンスト・ルビッチ「私の殺した男」/Ernst Lubitsch "Broken Lullaby / The Man I killed" 1932年)

エルンスト・ルビッチ「私の殺した男」(Ernst Lubitsch "Broken Lullaby / The Man I killed" US 1932)を鑑賞。

 

おおまかな感想、印象

第一次大戦直後を舞台に、戦時中にドイツの敵兵を殺してしまった罪の意識に苦しむフランス人青年の贖罪を描いた映画。ルビッチにしては比較的シリアスな主題を扱ったものだが、テンポがよくリズム感のある演出によって重々しい悲劇にはならず、映画全体がどこか軽やかなユーモアによって支配されていた。当時の独仏間に存在していたのだろうアンビバレントな感情も織り交ぜつつ、それ自体で面白いとは言い難いようなテーマを、時に笑いを誘うような描写とともに見事に描き切っているのはさすがルビッチだと感じた。有声映画としてはかなり早い時期のもののはずだが、映像も洗練されていて、今観てもあまり古さを感じさせないものだった。

物語の上では、繊細なフランス人青年が自分の意に反した振る舞いをせざるをえなくなり、次第に窮地においこまれ、最終的に嘘をつかざるをえなくなっていくその過程が、さほど無理なく描かれており、劇作品を思わせるルビッチの演出の妙が生きていた。それに応えるように俳優たちも、よく練られた筋のもとでそれぞれに与えられた役割を魅力的に演じきっていた。もっとも、そこにはある種の人間性の切り詰めも見いだされる。というのもこの映画の結末における罪の宥和は、あくまでも演出されたものでしかなく、その後に来るだろう現実を隠したままに幕が閉じられてしまうからだ。ここでは、ルビッチの演出がもつ残酷な抑圧性が露わになるとともに、抑圧された部分に対して観る者の想像がかきたてられることになる。

 

※以下では割とはっきりネタバレするので気にする方はご注意を。

あらすじ

第一次世界大戦直後、ドイツの降伏に沸きたつフランスのある教会において、教会付きの音楽士ポールが司祭に自らの罪を告解したいと申し出る。ポールは、戦争中、対ドイツ前線において同年代のドイツ兵ヴァルターを射殺してしまったことを悔いているのだというのだ。司祭は彼に罪の赦しを与えるがそれも彼の心を和らげることはなく、最終的にポールは、贖罪のために彼が殺したドイツ兵の家族を訪ねることを決める。

ポールが訪ねたドイツの小さな町は、ドイツの敗戦と失われた命への悲しみに沈んでいた。ヴァルターの家族を尋ねたポールに対して、医師であるヴァルターの父はフランス人への強い拒絶反応から話を聞こうともしない。一方でヴァルターの母と元婚約者のエルザは、亡きヴァルターの墓に花を捧げているポールを見かけ、彼の古い友人が訪ねてきたと思い込み歓迎する。当初は反仏感情で凝り固まっていた父の態度も軟化していき、ポールは家族皆に手厚くもてなされることになる。

ヴァルターの家族の嬉しそうな笑顔を前に、ポールは本当のことが言いだせなくなり、彼とヴァルターはパリの音楽学校で友人だったのだと嘘をつくことになってしまう。さらにヴァルターの家族は、敵国だったフランスの若者と仲良くすることで近所から白い目から見られてもポールへの暖かい振る舞いをやめず、それどころかポールがヴァルターの代わりに家族に留まることをさえ望むようになる。家族の期待を前に嘘をつき続けられなくなったポールは、エルザにだけ本当のことを打ち明ける。当初は驚き困惑したエルザだったが、しかし結局彼女は、ヴァルターの両親のために嘘を突き続け、ヴァルターの代わりにポールと過ごし続けることを決意する。映画は、ヴァルターの遺品であるバイオリンを弾くポールと、婚約者がいた頃のようにそれをピアノで伴奏するエルザの二人が、ヴァルターの両親とともに笑顔を見せるシーンで、幕を閉じる。

 

演出された罪の宥和、エゴイズムゆえにつかれる嘘

フランス人青年ポールの贖罪のプロセスを描いたこの映画の終着点は、彼が自ら命を奪ったそのヴァルターの代わりを努める、というそのことにある。つまりポールが、彼が殺した男であるヴァルターの代わりにその家族の一員となることによって、傷つけられた者たちがある種の宥和に達しているのだ。人の命を奪った事に対するポールの罪意識は贖われ、大事な息子の命を奪われたヴァルターの両親も婚約者を奪われたエルザも、息子の代理というある種の補償を受けることができている。その極まりともいえるのが、映画の最後、ポールがヴァルターの遺品であるバイオリンを弾き、エルザが伴奏し、それを両親が幸福そうに聴き入るというシーンだ。当初は困惑していたポールも、彼の嘘を知り強張っていたエルザも、この最後のシーンでは、演奏とともに至福の表情を見せるようになる。この罪の宥和の場面をもって、映画は終わる。

しかしこの宥和は、あくまでも演出されたものであり、しかもポールとエルザの嘘によって成立しているものだ。ポールの当初の嘘——自分がヴァルターの友人であったという嘘——は、確かに状況が彼に強いたものではある。しかしそれは同時に、ヴァルターの両親を失望させることでこれ以上の罪意識を抱きたくないという彼のエゴイズムゆえのものでもある。そしてこの小さなエゴイズムから生じた嘘を共有するばかりか、積極的に演じ続けることを選択したのは、ヴァルターの元婚約者のエルザの方だ。

エルザが、自分の愛する男を殺した人物と一緒に嘘をつきともに過ごし続けることを選んだ背景にあるのは、ヴァルターの両親を傷つけたくないという消極的なエゴイズムだけではないだろう。むしろ彼女は、ポールの出現によって補償され、再び幸福——の見かけ——を手に入れることができた彼女の新たな生活を手放したくなかったからこそ、嘘をつくことを選んだのではないだろうか。ここにあるのはもはや家族への配慮という利他的な理由だけではなく、自分の幸せを求めたいという積極的なエゴイズムだ。彼女の嘘には幸福な生活を維持したいという欲求が掛かっている。

 

見せかけの宥和が持つ非人間性か、あるいはエゴイズムに対する消えない罪意識か

しかしこの見せかけの宥和と幸福は、あまりにも脆い嘘によって成り立っているものに過ぎない。だからこそここでの罪の宥和は、グロテスクで非人間的な様相を呈しさえもする。仮にポールとエルザが、その内心においてヴァルターに対する罪の意識や嘘に対する良心の呵責を感じ続けるのだとすれば、仮に外的には幸福な生活が二人に訪れるのだとしても、それは彼らが彼らの生を犠牲に捧げることで成り立っているものでしかないということになるだろう。映画中でヴァルターの父が、フランスへの敵対感情を露わにする同世代の男性たちに対して憤りつつ口にしたように、そもそもポールやヴァルターといった若者世代を戦場に送ったその責任は、彼ら親の世代にこそあるのだ。しかしポールとエルザが、他ならぬこの親の世代のために転倒した罪意識を感じ、自らの未来を犠牲にしなければならないのだとしたら、そこには悲劇的な欺瞞があるだろう。

またもし、ポールとエルザがヴァルターのことや彼の両親のためについた嘘を忘れ、彼ら自身の目の前の幸福を問題なく追いかけることができるのだとしたら、これはこれで少なからずグロテスクで非人間的な話だ。ポールが自ら命を奪った人物の位置——家族の息子であり、エルザの婚約者であるその位置——にそのまま入り込み、それで万事解決なのだとしたら、そもそもヴァルターの存在とは何だったのだろうか。同じように若く、同じように教養があり、同じようにバイオリンが弾ける若者であれば、誰でもその位置に取って代われるような取り換え可能な存在だったのだろうか。それでは彼の両親やエルザが嘆いていたのは、ヴァルターを失ったことではなくて、彼の代用物がいないことだったのだろうか。

実際にはしかし、仮にポールとエルザが——単に親世代のための自己犠牲というのではなく——自らの幸福を追うことができるのだとしても、おそらくそこには自らのエゴイズムへの罪意識が伴い続けることになるだろう。罪意識の共有ということが、彼らのうちにある特別な種類の共感を呼ぶということはありえるかもしれないが、それもきわめて脆いもので、それ自体既に傷を負ったようなものだ。はたして彼らはこの嘘をつきとおせるのか。この大きな欺瞞を生き切ることができるのか。

 

ルビッチの演出における人間性の切り詰めと、かきたてられる想像

このように、この映画「私の殺した男」は、一方では収まりのいい罪の宥和を演出してはいるが、他方でこの見せかけの宥和はどこか非人間的な様相を呈してもいる。かくしてこの映画は、観る者に、映画で描かれなかった部分——ポールやエルザの内心の葛藤やエゴイズム、彼らの将来に待ち受けるもの——への想像をかき立てることになる。

この映画に限らず、ルビッチの演出にはしばしば、物語の筋を成り立たせるためのある種の人間性の切り詰めのようなことがなされているように思う。一方で彼は、人間の人間らしいところをこれ見よがしに強調し、無理なく面白く物語を展開するために人間を描写することに長けている。しかし他方でルビッチの演出には、物語の枠に収まらない人間の繊細さや汲みつくし難さ、思うようにならなさといったものを映画のスクリーンから排除してしまうような傾向もあるのだ。

それは彼が舞台演劇をモチーフにした喜劇作品を演出しているときには、それほど気にはならない点かもしれない。奇想天外な言動をする喜劇の登場人物にいちいち、本当の人間ならこんなバカなまねはしないだろう、こんなに単純に幸せになれはしないだろう、とその都度茶々を入れるのは野暮な話だ。しかしこの映画のように、撤回しようもない罪意識——ある人間の命を奪ってしまったというその後悔の念——という極限状態における人間の在り方を問うような主題においては、彼の演出による人間性の切り詰めが露わになる。ここには演出が持つある種の残酷さ、人間性を抑圧するような側面さえ見て取ることができる。人間性を切り詰め舞台上から排除する残酷なまでの演出手法は、ルビッチの作品を魅力的かつ見やすいものにしているだけでなく、そこに独特の怖さを与えているように、私は思う。

はたしてルビッチ自身が、この点をどこまで意識していたのかはわからない。しかしいずれにしてもこの映画が、そこで描かれなかった部分、切り詰められ、抑圧された部分を、観る者に意識させ、想像させるものになっているのは確かだろう。はたしてポールとエルザは、映画の最後の幸せな——ように見える——場面のその笑顔を保ち続けることができるのだろうか。はたして彼らは、自らの贖罪と嘘に、どう向き合っていくのだろうか。