映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

歴史の流れの残酷さ、資本主義と文化産業の暴力性(ジョセフ・フォン・スタンバーグ「最後の命令」/Josef von Sternberg "The Last Command" 1928年)

ジョセフ・フォン・スタンバーグ「最後の命令」(Josef von Sternberg "The Last Command" US 1928)を鑑賞。意図せず、無声映画を連夜観ることに。そしてこの時代の映画のもつ力を改めて思い知ることに。

ほとんど予備知識なしで行ったが、これぞ名画、と思い知らされた。決してエンターテインメント性の高い作品ではないし、前半は話の向かう先が見えずやや気持ちが散漫になったが、最後まで通して見て、無駄のない構成と演出、またなによりも役者の演技の力にくぎ付けになった。主演の二人、エミール・ヤニングスとイヴリン・ブレントは、無声映画のなかでその振る舞いと表情をもって、その都度の感情の機微のみならず、目の前の出来事さえをも雄弁に表現してみせていた。ヤニングスが、この演技をもってアカデミー主演男優賞の最初の受賞者になったというのも納得させられる。そこにはまた、字幕による台詞の挿入を最小限に抑え、彼らの振る舞いや表情を通して物語を展開した演出の妙もあるだろう。特に後半、ラストシーンへと収斂する物語のリズムと緊張感は特筆すべきものだったように思う。細かい伏線の回収も見事。88分と決して長い映画ではないので、もしこれから鑑賞する方がいたら、しっかり通して、最後まで観てほしいと思う。

映画全体の印象としては、残酷な映画、というものだった。残酷、というのは残虐な暴力描写があるということではない。その観点からするとこの映画にはさほど残虐なシーンはない。むしろ歴史の趨勢のなかで、人間がかくも翻弄され、かくも容易にその地位と尊厳を失い、かくも唐突に勲章を受ける側から顔に唾を吐きつけられる側へと、さらにはその存在さえ軽んじられる者へと転じうるのだということを描いているという意味で、この映画は残酷なのだ。この歴史の流れの残酷さを一身に受けて生きたロシア人将校を演じるヤニングスの表情だけでも、この映画は観るに値するものだと思う。

 

以下、簡単なあらすじ。

ヤニングス演じる高位のロシア人将校は、祖国への愛と威厳ある態度をもって、革命前の帝政ロシアにおいて誰からも一目置かれる軍人だった。あるとき将校の前に、一組の若い男女の劇団員が、革命主義者の容疑で突き出される。将校は、男性を牢獄送りにする一方で、女性の方を自らに同行させる。やがて将校と女性革命主義者は、お互いの立場の相違を超えて愛し合うようになる。

その折、1917年、ロシア革命が勃発する。反乱する民衆に将校は捕えられ、身ぐるみをはがされる。ついには彼の部下の何人かも、さらには女性革命主義者も、民衆の側につき、彼に唾を吐きかける側にまわる。彼らは乱痴気騒ぎとともに将校を列車に押し込み、満身創痍の彼に、蒸気機関に石炭をくべるというそれまでの彼の地位からすると考えられない仕事を強いる。

ところがそのとき、女性革命主義者が隠れて将校に近づく。彼女は「これしかあなたの命を助ける手段がなかった」とささやき、以前将校から贈られた真珠のネックレスを逃亡資金として彼に手渡す。将校は列車から雪のなかへと身を投げて脱出する。ほどなくして、運転手が泥酔してコントロールを失った列車が脱線し、湖のなかへと沈んでいく。将校はそれをただ眺めることしかできない。

時がたち、将校はアメリカ、ハリウッドへと流れつく。映画のエキストラの仕事を探す彼に、ロシアから亡命してきたある若い監督が、ロシア帝国の将校の役を与える。皮肉なことに彼は、スタッフに罵倒されながら、尊厳に満ちたかつての姿でカメラの前に立つ。「同じコート、同じ制服、同じ男。ただ時代が変ったのだ。」映画のワンシーンの撮影、はりぼての雪原の塹壕の中で、もはや将校ではなくなったはずの彼は、将校の衣装のなかで、将校としての、最後の命令を下す。「前進だ、勝利のために」と。

 

とにかく転調が印象的な映画だ。誰にでも恭しく扱われる将校の立場から、革命勃発後には突然唾を吐きかけられる立場へ。さらにハリウッドではもはや尊厳の対象にも憎悪の対象にもならず、ただただ嘲笑われ軽んじられる立場へ。それは歴史的に言えば、帝国主義から共産主義へ、そして資本主義世界へ、という転調でもある。この歴史の転調に応じて、ヤニングスの表情も大きく変化していく。かつての名誉や尊厳は塵埃と化し、皇帝の勲章も衣装の飾りつけ以上の意味など持たなくなっていく。歴史の流れが、その痛々しい残酷さを露わにする。

かつての将校が将校の配役と衣装でもって命令を下すときには、往年の威厳の輝きが、一瞬だけ彼のもとに戻ってきているように見える。ただしそれはしょせん、彼が本当の将校であったということを知る者にとっての偉大さでしかない。そのような事実を考えようともしない者の目には、威厳を持った彼の態度は、滑稽なものにしか映らないのだ。代わりなどいくらでもいるエキストラが、何を思ったか熱の入った将校の振る舞いなどしてみせたとしても、そんなものは冷笑の対象でしかない。こうして、かつての将校がその尊厳を取り戻したかのように思われたその瞬間には、彼の下す命令の叫びは再び無価値なものへとなっていく。歴史の流れは、かくも無情で、やはり残酷なのだ。

ところで、この映画の特筆すべき点は、物語がハリウッドの映画撮影のシーンで終わる、というところにあるだろう。旧態的な帝国主義ヒエラルキーももはや無意味なものと見做され、革命的共産主義の熱情もそこにありはしない。そこにはあるのはただ、資本主義下の文化産業がもつ、使えるか使えないか、という功利の論理だけだ。もちろん、帝国主義や共産主義がそれ自体として資本主義より優れているなどと断ずるのは、もはや時代錯誤なイデオロギーだろう。しかし資本主義がすべてを相対化し、すべてをその経済論理のうちに呑み込むとき、さらにはかつての様々な価値を文化産業の枠組みのなかで映画として消費しようとするとき、そこには何かグロテスクな相貌が顔を出す。かつての帝国主義の将校も、そこでは、映画のなかの将校役に似合うか似合わないか、カメラの前で映えるか映えないか、それだけを基準に測られることになる。そこには当然もはや尊厳もないし、憎悪すらない。人間らしさも全て、文化商品となる。そしてその文化商品の枠を超え出るようなものは、滑稽で、場違いなものでしかない。場違いなものはただ、残酷な冷笑をもって遇され、処分されることになる。

資本主義と文化産業のもつこのグロテスクな暴力性に、この「最後の命令」なる映画は、肉薄している。もちろん、それがどこまで映画製作サイドによって自覚されていたのかというのは、また別の話だ。いずれにせよ私には、資本主義的な文化産業が展開していくその只中で制作されたこの映画が、同時にまた、文化産業の申し子たる映画が持つグロテスクな暴力性を、自ら体現しつつ、同時に暴露しているように思えた。将校の下す「前進だ、勝利のために」という最後の命令は、文化産業のスローガンとして再び破壊的な力を獲得する。とはいえ、やはり「時代は変わった」はずだし、変わるはずなのだ。文化産業は、自らの暴力性を、はっきりと認識し、自覚し、自らを問い直すことができるようになるかもしれないのだ。