映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

動きゆく現実を眺める歴史の天使は、限りある生へ降りてゆくことを望む(ヴィム・ヴェンダース「ベルリン・天使の詩」/Wim Wenders "Der Himmel über Berlin" 1987年)

ヴィム・ヴェンダース「ベルリン・天使の詩」(Wim Wenders "Der Himmel über Berlin [英題:Wings of Desire]" BRD/FR 1987 122 min. DVD)を鑑賞。

 

あらすじ

ベルリンを見下ろす天使のダニエルとカシエル。彼らは他の多くの天使たちとともにこの町に住まい、彼らの姿を見ることのない人間たちを観察し、見守っている。やがてダニエルは、サーカス曲芸師の女性に恋心を抱き、自らも人間として生きたいと思い始める。そしてダニエルは、なぜか彼の姿を見ることのできる刑事コロンボ役の俳優フォークの一押しもあって、自らの不死性を捨てて有限な生のなかに降り立つことを強く願うようになる…

 

※ドイツ語版トレイラー。カイザー・ヴィルヘルム記念教会から天使ダニエルがベルリンの街を見下ろすシーンから。子供だけが彼の姿を認めることができている。

 

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神から切り離され、手をこまねいて世界を眺める「歴史の天使」

この映画は天使の物語だ。天使というモチーフは、言うまでもなくきわめて長い歴史をもち、時代や文化によって変遷してきた。キリスト教の伝統において天使は、現世を超えた神に何事かを託されてこの世の人間の前に姿を現す霊的存在として——端的に言えば「神の使い」として——表象されてきた。天使は、人間たちが罪の生活から解放され神による永遠の至福へと参与することができるよう、手助けをするのだ。

しかしこの映画における天使たちの姿は、このような(あえて言えば)伝統的な天使のイメージとは趣を異にしている。ベルリンの町を上空から観察するのみならず、通りを歩き回り、図書館にたむろし、苦しみにあえぐ人々に寄りそう天使たち。彼らはたしかにこの世の原理を超えた不死の存在ではあり、肉体を持たず、人間たちを幸福に導くことを望んではいる。しかし彼らは現実の人間の生を左右する決定的な力を持っていない。人々を集団で導くことはおろか、感覚に訴えて介入することも、言葉をもって語りかけることもできない。

この天使たちにできるのは、個々人に、生きるために上を向くほんのわずかな力を与えるよう願うことだけなのだ。そして最後に残されたこの力さえ、彼らが心配そうに眺める人間を直接に苦しみから救い出すものではない。天使たちには、もはやほとんど、神的な力が残されていないように見える。超越的な神の力から切り離された天使たちは、ほとんど無力に手をこまねきながら、苦しみにあえぎ憂鬱に沈む個々人の生がほんの少しでも上向くことを願い、人々に寄りそう。寄り添った人々の気持が上向いたとしても、それは本当に天使の力なのか、それとも単に当人が自ら気持を変化させたに過ぎないのか、そのことさえもはっきりとわからない。

神から切り離され、手をこまねいて世界を眺める天使たちのこの姿は、ベンヤミンがクレーの絵画「新しい天使」のうちに見いだした「歴史の天使」のイメージに通じる。歴史の天使は、楽園から吹きすさぶ強風に押し流されながら、瓦礫が積み重なる歴史の破局を眺める存在だ。死者たちを目覚めさせたくとも、破壊されたものを組み立て直したくとも、歴史の天使は現実に触れることができないまま、ただただ目を見開いて積み重なる破局を眺めるのだと言われる*1 。現実の世界を変化させることができず、かといって自らの不死性を離れることもできず、憂愁に沈む人々の幸せを望みながら時間の流れに身を任せている映画のなかの天使たちもまた、歴史の天使として、動きゆくベルリンの町を無力に眺めることしかできないのだ。

 

動きゆく現実を眺める歴史の天使は、限りある生へ降りてゆくことを望む

ヴェンダースが描く天使はしかし、歴史の動きを眺めることしかできない自らの無力さを自覚しながら、決定的な一歩をなす。天使は、押し流され破局を眺めるだけの自らの不死性のモノトーンから抜け出して、死にうる人間として色彩ある生を送る可能性に思いをいたらすようになるのだ。ブルーノ・ガンツ演じる天使ダニエルはこうして、サーカス曲芸師の女性への恋慕とともに、限りある生に焦がれるようになる。そして彼は実際に、苦しみと悲しみと喜びが交じり合った現実の鮮やかな生に、入っていこうとする。動きゆく現実を眺める歴史の天使は、限りある生へと降りてゆくことを望むのだ。

この映画の肝は、まさしくこの点、二つの世界像が交差する点にこそある。無限に死ぬことの(でき)ない天使たちの単調なモノクロの世界像と、死や傷に脅かされた——しかし感性の喜びの存在する——人間たちの忙しなく色鮮やかな世界像。映画の前半を支配する緩慢でとりとめのない俯瞰の視点と、後半におけるテンポのよい表情に満ちた個人の視点。この両者が交錯するシーン、墜落し傷付く身体を得たダニエルが、空き地の砂利の上に軌跡を残しながら回るように踊る場面が、物語に印象的なアクセントを与える。ここで歴史の天使は、単に現実世界の破局を無力に眺める者から、瞬間的な感性の喜びを願う者へと転換している。

ここではほとんど、人間の肉体性と生のダイナミズムが肯定されているようにも見える。大戦の傷跡を残す20世紀のベルリンの瓦礫の上では、不死性や永遠の至福についての教えよりもむしろ、苦しみのただなかで感性の幸福に焦がれる個々人の思いこそが、天使の住まう場所であったのかもしれない。憂愁に沈みながらよりよき生を願う個人の憧憬は、息を詰まらせる現実のただなかで、現実とは異なる何かが入り込む小さな隙間を作り出す。「小さく、醜く、どのみち自分の姿を垣間見させはしないような」*2存在へと変じた天使は、この隙間のうちに身を潜めようとする。

もちろんこのことは、単なる寓話でしかないだろう。映画「ベルリン・天使の詩」の緩やかな円を描くような詩的な映像は、そこで提示されるものがどこか寓話的な夢物語でしかないというような印象を引き起こす。しかし同時にその舞台が——1980年代の動きゆくベルリンという具体的な時間と場所が——その夢物語に現実の歴史を与えもする。寓話であるがそれは、現実の歴史と重なり合う寓話なのだ。

 

今年の6月ごろから当ブログを再開し、一か月に二回ほどの更新ペースで記事を掲載してきました。ですが個人的な事情から、このペースでの更新がなかなか難しくなってきてしまいました。年内はどのみち本記事が最後の更新となると思いますし、来年以降の見通しも不明です…が、できれば月に一記事くらいは地道に更新できればと思ってはいます。よろしくお願いします。

*1:ヴァルター・ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」、テーゼIX。

*2:同上「歴史哲学テーゼ」、テーゼI。