退廃はもはや秩序のただなかに、時代遅れの良心もまたその汚れのなかに(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー「ローラ」/Rainer Werner Fassbinder "Lola" 1981年)
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー「ローラ」(Rainer Werner Fassbinder "Lola" BRD 1981 115 Min. 35mm.)を鑑賞。
あらすじ
舞台は1950年代の西ドイツ、バイエルン州の小さな町。ここでは地元の土建屋シュッケルトが幅をきかせ、不正な利権を享受している。娼婦ローラは、夜な夜な娼館に入り浸る彼に愛人として囲われながら、奔放な生活をしている。この町にある日、清廉潔白な建築省の役人フォン・ボームが赴任してくることになり、彼はシュッケルトらとともに町の再開発に着手する。フォン・ボームはその傍ら、淑女のふりをしたローラと恋に落ち、結婚を申し込むようになる。しかしある夜彼は、ローラがシュッケルトの情婦であることを知ってしまう。そこでフォン・ボームは、シュッケルトの不正を新聞に告発し彼を破滅させようとするが、そこで町の誰も不正の告発など望んでいないことに気付く…
※トレイラー。ドイツ語版:
アデナウアー時代の「嘆きの天使」
70年代後半から80年代前半にかけてファスビンダーが制作、公開した「西ドイツ三部作」の一部である本作は、バイエルン州のとある田舎町を舞台に、戦後の西ドイツ——いわゆる「アデナウアー時代」の西ドイツ——の欺瞞を描き出している。この映画では、急速な経済的成長を遂げ外的には豊かになっていきながら、過去やその責任について充分な反省をしないまま内的には不道徳に陥っていた50年代西ドイツのあり方を皮肉に満ちた仕方で描いているのだ。テンポや映像構成もよく、けばけばしいライトや服飾が動き回る娼館でのシーンは、それ自体なかなか見応えのあるものだった。
興味深いのは、この映画が、ジョセフ・フォン・スタンバーグ「嘆きの天使」(Josef von Sternberg "Der blaue Engel" 1930)のモチーフを引き継ぎつつ、それを戦後西ドイツを舞台に大胆に翻案しているということだろう。控室で小鳥を飼い娼館に訪れた人々の前で歌い踊るローラは、明らかに「嘆きの天使」のキャバレー歌手ローラ・ローラの変奏だ。そして古めかしい道徳観をもつ真面目な中年男性が彼女に入れあげ結婚を申し込むという大筋も、スタンバーグの映画を引き継いでいる。「嘆きの天使」でマリーネ・ディートリヒが演じたローラ・ローラが圧倒的な存在感を放っていたように、この映画もまた、バルバラ・スコヴァ演じるローラの魅力を中心に成り立っている。
とはいえこの映画の物語は、放浪のキャバレー歌手に権威的な堅物教授が恋焦がれて破滅していく、という「嘆きの天使」の筋書きをただなぞるだけのものではない。本作におけるローラはもはや街々を転々とする興業団の一員ではないし、フォン・ボームも単なる時代遅れの道徳家ではない。ファスビンダーはむしろ、スタンバーグの映画から多くのモチーフを受け継ぎながらも、アデナウアー時代の「嘆きの天使」の物語を描き出しているのだ。
退廃はもはや秩序のただなかに、社会の利害に汚れた存在としてのローラ
社会の周縁に生き街々を転々とする流れ者であった「嘆きの天使」のローラ・ローラに対して、ファスビンダーの描くローラは社会秩序のただなかにいる存在だ。彼女は、町の最大の権力者である土建屋シュッケルトの情婦という立場に飽き足らず、町にやって来た建築省の役人フォン・ボームにも自ら近づいていく。そのために彼女は、娼婦としての姿を隠し、教養ある清楚な淑女を装うことさえする。彼女は、現実の利害に自らをまきこませながら生きるのだ。
別の言い方をすればこのことは、ローラにおけるような退廃や不道徳が、社会秩序と密接に結びついたものになっている、ということでもあるだろう。1930年の「嘆きの天使」のキャバレー歌手は未だアウトサイダーとして体制の外側から魅惑する存在であり、彼女に堕落させられた者は社会から排除されることにもなっていた。しかしファスビンダーが描く1950年代の世界では、むしろ社会秩序を担う権力者たちが当然のように娼館に入り浸り、半裸でうろつき、女の身体をまさぐっている。共産主義者であったはずの者もまた、積極的な改革を諦め、ヒューマニズムを標榜しつつ娼婦の側に横たわっている。退廃はもはや、社会秩序に内在し、そのうちに住まう者を取り込むよう全面化している。
自らを「汚れているkorrupt」と形容するローラは、まさしくこの退廃した社会のただなかでその利害関係と絡み合って生きる存在だ。フォン・ボームとの仲を深めていくそのプロセスにおいて彼女は時折、この汚れから身を清めることを望んでいるかのような表情を見せる。教会での彼女の厳かな表情は、彼女がその本心では道徳的な誠実さに憧れているのかもしれないという印象を抱かせる。そしてフォン・ボームに娼婦であることを知られた直後、自棄になったように開放的に歌い踊り狂う彼女の姿は、かえって彼女のなかにある清浄さとの対照をなしている…かのようにも見える。
とはいえ彼女はやはり「汚れている」のだ。彼女の内心のどこかに本当に道徳的な清らかさが存在しているかどうかにかかわらず、彼女はもうそのような清らかさに生きることはできない。物語の最後においてローラは、フォン・ボームと土建屋シュッケルトの権力闘争と両者の彼女への思いを利用し、自分自身が娼館の権利を得ることができるように立ち振舞う。そうして彼女は、フォン・ボームと幸せな結婚をするように装いながら、結婚式の直後、ウェディングベールをまとったまま土建屋シュッケルトと寝ようとさえする。退廃は、秩序のただなかで、その利害と絡み合いながらほくそ笑むのだ。
時代遅れの良心もまたその汚れのなかに、社会の利害に取り込まれて行くフォン・ボーム
建築省の役人フォン・ボームは、高潔な道徳的良心を抱きながら精力的に仕事をこなす人物として描かれる。「嘆きの天使」においてエミール・ヤニングスが演じたラート教授——ローラ・ローラに魅惑され、没落していく堅物教授——が尊厳を失い形骸化した道徳の権化であったのとは、大分趣が異なっている。フォン・ボームはむしろ、社会の退廃に対して自らの清廉潔白を保ち、その理念に基づいて社会を改善しようとする有能な人物として登場する。この意味で土建屋は彼を「仕事の面ではモダンだけど、私生活では古臭い奴」だと評するのだ。
こうして町に巣食う非道徳な風習からは距離をとるフォン・ボームは、自らの理想を、淑女を装うローラに投影してしまう。教養や貞淑を着飾るローラに、フォン・ボームは易々と心を許し、結婚を申し込むまでになる。そしてだからこそ彼は、彼女が本当は娼婦であり土建屋の情婦であることを知り大きなショックを受けはするが、それでも彼女を「汚れた」場所から救い出そうと尽力する。こうして彼は、土建屋シュッケルトを告発し失脚させ、それによって彼女を娼館との結びつきから解き放そうと試みるのだ。
しかし彼のこの試みは、二重の意味で無為に終わる。一つには、町の秩序と利害関係はあまりにも密接に絡み合っている。土建屋が「汚れて」いることなど町の誰もが知っているが、誰も彼が裁かれることなど望んでいない。誰しもが——本来進んで彼を告発すべき立場であるはずの新聞記者までも——ある程度までこの汚れた社会の利害のなかに身を浸しているのだ。もう一つには、そもそものローラ自身が、この「汚れ」から抜け出すことなど望んではいない。彼女はむしろ、フォン・ボームもまた自分が生きる汚れた社会秩序の一員になることをこそ、望んでいるのだ。
こうしてフォン・ボームは、自らの道徳的理想に従って生きつづけることができなくなっていく。町の再開発に着手するためには土建屋たちとも仲睦まじくやっていかざるをえないし、 ローラと夜を過ごすには娼館に赴き彼女を買わなければならない。そして最後には彼は、土建屋シュッケルトとある種の取引を交わし、彼に土建屋としての仕事を保証するその引き換えに、ローラを自分の妻として娶るのだ。結婚式の直後、ローラがウェディングドレスのまま土建屋といちゃついているその最中、どこか疲れたように見えるフォン・ボームは、「幸せ?」と尋ねられてから少し間をおいて、「幸せだよ」と静かな覚悟をたたえたように答える。この時に彼はおそらく、ローラがこれからも「汚れた」ままであり続けるだろうことを知っているのかもしれない。
時代遅れの良心も、結局はこの「汚れ」のなかに入っていかねばならなかった。フォン・ボームは、ローラを妻とし、社会の利害に自ら取り込まれていくことでしか、社会秩序のなかで何かをなし遂げることはできないのだ。「嘆きの天使」のラート教授とは異なった仕方で——より巧妙かつ逃れられない仕方で——フォン・ボームもまた、退廃のうちに呑みこまれていく。退廃のこのどうしようもない縺れの全面性は、目覚ましい経済発展を遂げていた戦後西ドイツ社会の、一つの裏面をなしていたものだろう。ファスビンダーは映画「ローラ」において、「嘆きの天使」のモチーフを変奏しながら、社会秩序におけるこの退廃の縺れを描いている。