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映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を書いています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

罪のうえの詩情、或いは、アウシュヴィッツの後に幸福であることは許されるのか、という問い(アラン・J・パクラ「ソフィーの選択」/Alan J. Pakula "Sophie’s Choice" 1982年)

映画

アラン・J・パクラ「ソフィーの選択」(Alan J. Pakula "Sophie’s Choice" USA 1982)を鑑賞。

浮世離れした若者たちが送る、まるでの詩のなかのように色鮮やかなニューヨーク、ブルックリンの生活。その幸福な生活のなかに、時折顔を覗かせるアウシュヴィッツの影。この映画は、メリル・ストリープが演じるソフィーという一人の女性の運命を通して、幸福な生活のなかに潜む罪の影を、静かに、しかし淡く繊細な詩情をもった映像で、描き出している。彼女の出世作の一つであるというこの映画は、メリル・ストリープの存在感と、繊細で説得力のある演技なしには成り立たないものであっただろう。アウシュヴィッツの影を含みこんだこの映画の淡い詩情、繊細な演技をもってその詩情を体現したメリル・ストリープの表情は、それ自体に罪悪感を持ってしまうような美しさをたたえていた。そして、果たして監督パクラ(或いは1979年の原作小説の作者ウィリアム・スタイロン)がどこまで意識していたかはわからないが、この映画は「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」というあの命題に対する一つの独特な応答であるようにさえ思えた。そしてまた、この映画は、アウシュヴィッツの後に幸福であることは許されるのかという新しい問いを立ててもいた。アウシュヴィッツの後の詩情には、幸福には、拭いとれない罪の影が差している。その罪が許されうるものであるのかどうかの裁きは、この世界を超えたところにしかないかもしれない。けれども本当にそんなものがあるかどうかもわからない。それでもソフィーは、公正な審判を待つために、広い寝床の上に、罪の意識とともに眠る。

 

以下、簡単な(とはいえそれなりのネタバレも含む)あらすじ。

将来の成功への夢と見知らぬ世界への期待を抱いてニューヨークに出てきた若い作家スティンゴは、苦労して見つけたブルックリンの住居で、階上に住んでいるカップル——ネイサンとソフィー——と知り合う。ハーバード出身の生物学者ネイサンは気性が激しいが博識かつ文化的に洗練されており、ポーランドから移り住んできたソフィーは目を見張る美貌と気品をたたえている。彼らはときおりエキセントリックと言えるほど激しい喧嘩をする一方で、趣向を凝らしたパーティーを開き華やかな生活を営む都会的で陽気な人々でもある。三人は次第に親しくなっていく。遊園地や海岸、様々な場所に揃って遊びに行くようになる。ある時にはネイサンがスティンゴの小説家としての才能を認め、ブルックリン橋で祝杯を上げもする。仲を深めていく三人の姿は、ニューヨークという都会における洗練された幸福の姿を絵に描いたように華やかで、色鮮やかにスクリーンの上に映し出される。

しかしながらスティンゴは、二人と親しくなっていく過程で、彼らの隠された面をも知っていくようになる。彼がすぐに気づいたのはソフィーの腕に刻まれた数字の刻印と、自殺を図った傷跡だった。ポーランドにいた当時のソフィーは、家族の大半をナチスに殺された挙句、アウシュヴィッツの強制収容所に送られて、そのまま二度と子供に会うこともできなかったのだという。収容所から解放されたあとに自殺を図りさえした彼女は、アメリカに渡ってきて図書館でネイサンと偶然に知り合ったことで、再び生きることができている。しかしながらスティンゴはある日、ネイサンの兄から、ネイサンが妄想性分裂症かつ薬物中毒であり、彼の言う経歴や研究の話は全て嘘なのだということを聞かされる。さらにスティンゴは、偶然のきっかけからソフィーの父親についても驚くべきことを知ってしまう。ソフィーはかつて彼に、父はナチスのユダヤ政策に反対したために殺されたのだと説明していたのだが、実際はむしろ彼女の父親はユダヤ人の「抹殺」を説く反ユダヤ主義者だったのだという。詩情に満ちた彼らの幸福な生活は、脆くて壊れやすい幸福の見せかけの上に成り立っている。

それでもスティンゴは、友人なのだからと、彼らを見守ろうとする。そんな折、スティンゴの前で、ネイサンはソフィーに求婚し、スティンゴに新郎介添人を務めてほしいと頼む。脆い見せかけの幸福の映像はここに極まる。しかしそれはそう長くは続かない。ある日ネイサンは、思い込みの嫉妬からスティンゴとソフィーを殺してやると言い出し、驚いた二人は連れたってワシントンへと避難する。その夜ホテルの部屋でスティンゴは、自分こそがソフィーを愛していると打ち明け、彼女と結婚して子供を作って、故郷バージニアの農場で幸せに暮らしたい、と求婚する。ソフィーは彼と愛し合い一緒に暮らすことは構わないが、結婚することも子供をもつことも不可能だと答える。なぜならばアウシュヴィッツで自分は、自分の息子と娘の二人のどちらかを焼却炉送りにしなくてはならないとナチスの将校から選択を迫られて、結局年少の娘を選び、将校に連れられて泣き叫ぶ娘を見送ってしまったような母親だったからだ、と。それでも彼女を愛していると告げるスティンゴは、彼女と一夜をともにする。22歳のスティンゴにとって、30過ぎのソフィーは初めての女性だった。

翌朝目が覚めると、隣にソフィーの姿がない。起きて罪の意識に苛まれたから、やはりネイサンのところに帰る、という書置き。急いでブルックリンの住居に戻るスティンゴは、青酸カリで心中した二人の姿を見ることになる。窓から射す眩しい白い光をあびて、身を寄せ合いながら、まるで詩に描かれた情景のように静かに広いベッドに横たわる、二人の身体。スティンゴは、部屋の机の上に置いてあった、二人の思い出の詩人エミリー・ディキンソンの詩集に気が付き、手に取る。そして彼は、その一節を、ソフィーがいつも気にかけていたその一節を、声に出して読み上げる。「広い寝台を畏れをもって準備し、公正無比な審判が下るのを静かに待とう」。

 

題名が示す通り、この映画においてソフィーは選択をする。正確に言えば、彼女は二回、決定的な選択をしている。一つは、アウシュヴィッツでナチス将校に迫られた選択、息子と娘どちらかを焼却炉送りにするか、或いは二人とも焼却炉送りにするか、という選択。もっともこの選択は、ある意味では選択とは呼べない。というのもこれは状況が彼女に選択をせまり、選ぶことのできない選択肢から無造作に一つを選ばせるようなものだったからだ。しかしそれでも、彼女が選択を下してしまった、という事実は残される。彼女の選択によって焼却炉に運びさられ、泣き叫ぶ子供の表情が、彼女の目に罪と責任の意識を貼り付ける。

そしてソフィーは、この映画の最後にもう一つ別の選択を下す。しかも今回は彼女自身の意志で、まったく違う帰結を伴いうる二つの選択肢から、選択を下している。それは若い作家スティンゴとともに彼の故郷の農場で穏やかに暮らすか、破滅と裏表のネイサンのもとに戻るか、という選択だ。そして彼女は、おそらくは自分にとって危険がなく安寧なスティンゴとの未来ではなく、破滅がすぐそこに待っているだろうネイサンとの生活に戻ることを決める。ソフィーはかつてネイサンを一人で死なせられないと口にしていた。もう誰も、自分のせいで、一人きりで死なせることはできない。かつての選択が引き起こした罪と責任の意識は、 彼女が彼女の意志で、自分一人の幸福を求めることを許さない。彼女の罪が許されるかどうかは、ただひとえにいつか来るともわからない「公正無比な審判」に委ねられる。そして彼女は、ネイサンとともに広い寝台に身を横たえる。

 

「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」というテオドール・W・アドルノによる命題は、少なくとも文字通り読む限り、決して「アウシュヴィッツの後に詩を書いてはならない」と言っているわけではない。偶然の理由から「抹殺」の対象になっていたかもしれない者たち、直接的にか間接的にかある特定の人々の「抹殺」に協力してしまった者たち、そのどちらにしても、かの信じがたい非人間性の後に生き残った者が、かつて人間性の結実と見なされた詩の世界に身を耽らせそれによって幸福を手に入れようとすることが許されるかどうか、という点にこそ問題がある。だからこそこの命題はのちに、「アウシュヴィッツの後になお生きることができるかどうか」という問いへと言い換えられる。「抹殺」から免れた者につきまとう劇的なまでの罪の意識、それを完全に忘れて、自分の人生を生きて構わないのかどうか。この問いは、ソフィーに即して、「アウシュヴィッツの後に幸福であることは許されるのか」という問いへと変奏されうるものだろう。ソフィーの罪の意識は彼女に、この問いに対してノーと答えることを選択させた。彼女が生きることができた詩のような幸福は罪の意識うえにただよう見せかけのものでしかなかったし、もしかしたら可能であったかもしれない未来の幸福——ひょっとすると罪の意識さえも忘れさせてくれるかもしれない幸福の生活——を、自分から受け入れることも彼女にはできなかった。その代わりに罪の意識のうえに留まり、畏れをもって、いつか来るかもわからない公正な審判を待つこと、それがソフィーが自分から選ぶことができた唯一のものだった。

ところでこの映画「ソフィーの選択」を特に印象的なものにしているのは、アウシュヴィッツという題材を、徹底的な詩的情緒とともに描いている、という点だ。「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」という件の命題に対して、多くの創作者は、詩を書くことを辞めるという選択ではなく、この命題に応じたような創作の可能性を求めた。それは言うなれば、アウシュヴィッツという破局に対する罪の意識のうえでなおも詩を書くという試みだ。そしてその試みのうえではしばしばアウシュヴィッツそのものが創作の対象となり、人間性の美しさの賞賛ではなく非人間性の暴露が求められ、アウシュヴィッツにおける苦痛にこそ声が与えられてきた(ちょうど先日観たラースローの映画「サウルの息子」は、このような方向で先鋭化された一つの表現だろう)。しかしこの映画「ソフィーの選択」は、ある意味ではこれとは逆の方向をとっている。つまりここでは、ソフィーをつらぬく罪の意識が、徹底した詩情をもって表現されているのだ。映画の語り手に置かれた作家スティンゴ、物語を貫く主要モティーフであるエミール・ディキンソンの詩、そして何よりも淡く美しい映像群が構成する、きわめて詩的な見せかけの世界。その詩情は本来、アウシュヴィッツという非人間性から生じたソフィーの罪の意識とは、まったくそぐわないものであるはずだ。しかしそれにもかかわらずこの映画は、見せかけでしかない詩的な幸福を描き切ることでもって、決して癒されることもなく、映像として表出されることもできないソフィーの罪の意識を、際立たせている。だからこそこの映画は、かの命題に対する一つの独特な応答をなしている。アウシュヴィッツから生き残った美しい女性を詩的に描くこの映画もまた、かの命題に従えば、罪の意識を欠いた野蛮なもの、或いは自己満足のゴミ屑に等しいものであると言われるのかもしれない。しかしそれでもその詩的な表現でもってこの映画が描き切っているのは、ソフィーという女性の詩的な美しさそのものではなく、彼女が捨てることができなかった、本当に幸福に生きることなど許されないという罪の意識なのだ。裁きを待つために広い寝台に身を横たえ、朝の陽ざしに白く照らされた彼女の美しい身体と冷たい表情は、彼女が生ききった罪の意識と裁きへの畏れを、直接的に描くことをしないままに、静かに、語っている。