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映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

希望と現実、それでも僕らはもう君たちのなかにいる(「サラバ、不法に生きるということ」/Peter Heller, Saliou Waa Guendoum Sarr "Life Saaraba Illegal" 2016年)

近所で"Africa Alive 2017"という映画祭が催されており、そこで「サラバ 不法に生きるということ」(Peter Heller / Saliou Waa Guendoum Sarr "Life Saaraba Illegal" DE 2016)を鑑賞。ドイツ人監督Peter Heller とミュージシャンでもあるセネガル人助監督Saliou Waa Guendoum Sarr の協作ドキュメンタリー映画。

セネガルから欧州へ渡る経済難民を扱った決して明るいテーマの作品ではなく、実際に見ていて辛い場面や映像も幾つもあったし、自分自身に関わることも含めいろいろ考えるところもあったのだが、現実に直面しつつも希望を歌うことをやめない人々の姿から、観た後に残った印象は決して暗いものではなかった。上映後には両監督とのトークセッションや、Sarrによるギターパフォーマンスもあり、よい雰囲気だった。

映画は、助監督Sarrの親戚だという二人の兄弟が、セネガルの漁村から経済難民として海を渡りスペインで生きるその様子を、8年にわたって追ったもの。セネガルからヨーロッパへと出稼ぎに行く若者は昔からいるらしく、彼らの親世代にもヨーロッパへと渡った経験を語る者がいる。彼らの生まれ育った村にはよい稼ぎの仕事がないが、ヨーロッパに行けば近代的な生活とよい給料の仕事が待っている、という希望。この希望を追って、前途ある若者たちは、危険を冒して海を渡る。向かう先は、ヨーロッパ。彼らの言葉で「サラバ」と呼ばれる、希望を約束された土地。その地で仕事を見つけ、稼いだ金を故郷で待つ妻子に送り、いつか英雄として故郷に帰る。その大望とともに、彼らはアフリカから「サラバ」へと渡る。

しかし彼らを待っていたのは、希望よりもむしろ現実だった。道中のモロッコではまともに人間扱いをされず、ヨーロッパ行きの船はなかなか見つからない。船が見つかったとしても海上での難破は珍しいことではなく、遺体となって無残に打ち上げられることになるかもしれない。そしてようやく渡ったスペインでも滞在許可を取ることができず、不法滞在者として生きるしかない。不法滞在者として探すことができる仕事は限られている。近年の経済危機以降はそもそも現地の人々の働き口さえ減っている。そのような状況の中で、彼らは辛うじて郊外のプランテーションでの闇労働に就くことができるのみだ。そこにあるのは、希望の土地「サラバ」のイメージからは程遠い、現実。それでも仕事があり、賃金がもらえる。だから彼らは働き続け、そこで稼いだ金を故郷で待っている村へと送金する。少しでもよい未来の礎を築くために。

 

改めて言うまでもなく、今はニュースで「移民」や「難民」という言葉が飛び交っている。私が今住んでいるドイツという国は、そのような議論の真っただ中にある国だ。私の耳や目に入る日本のニュースや日本人の声から判断する限り、ヨーロッパの移民・難民の問題は、日本では相当に否定的に報じられている印象だ。そのなかでも特に、この映画で取り上げられているセネガルの兄弟のような経済難民に対しては、好意的でない意見が目立つように思う。もちろん、多かれ少なかれ、ここドイツでも「迷惑だ」という意見はある。差別云々の話とは別に、ヨーロッパ内でも経済的に困窮した国は多く、自国民でさえ職を見つけるのに苦労するような状況で、ヨソから来た見知らぬ者たちに仕事など与えられない、と考える人は少なくないだろう。セネガルの漁村で、自身もかつてヨーロッパに出稼ぎに行っていたというある老人が語るには、数十年前にはアフリカからの移民の数も多くなく、「みんな私たちのことを敬意をもって扱ってくれたし、労働許可も困難なく取れた」という。だけれども今現在はそうはいかない。セネガルから来た青年たちに、積極的な差別はなされなくとも、法律の壁が立ちはだかる。彼らには、不法滞在として不法労働をする者たち、というレッテルが貼り付けられる。

それでも命を落とさずにヨーロッパまで来れて、低賃金でも働く場所があり、家族に送金ができる。そんな自分は幸運だとスペインに到着した弟は言う。神さまを信じていたから、神さまが幸運を与えてくれたのだ、と。けれど同時に、海を渡る際に命を落とす多くの人々のことを思いつつ、彼は呟く。「でもどうして神さまは、みんなに幸運を与えてくれないんだろうね」。人は生まれてくる場所や国や条件を選べない。たまたま仕事のない漁村で生まれた者は、海の向こうの大陸を希望の場所だと聞き、命を賭してでもそこに向おうとするかもしれない。たまたま仕事のある都市で生まれた者は、命を失う危険を冒してまで船にのって外国に出稼ぎにいくなんて現実的じゃない、と思うかもしれない。彼らが生まれ育った条件というのは、個人の問題ではなく、歴史の過程で何百年、何千年とかけて形成されてしまったシステムの問題だ。郊外のプランテーションで労働する兄弟を映しながら、ナレーションは、「本当に奴隷制度は撤廃されたんでしょうか」と問いかける。たしかに彼らは自分の意志でここに来たわけで、決して奴隷として強制的に連れて来られたわけではない。しかし制度上、経済上の条件からそれ以外に選択肢がないというその意味では、未だにある確固たるシステムがそこにある。漁村で育った彼らは本当は海での仕事をしたかったし、できることなら学校で資格もとってみたいと思っている。けれども、彼らが命を賭して渡ってきた希望の国でも、現実には、不法滞在者の不法労働というレッテルの下でプランテーションでの闇仕事に就くしか選択肢がないのだ。そしてそれでも彼らは、これで以前よりは少しはマシになる、と言う。「不法」なことをする必要がない環境の下で多くの選択肢を提示され、その枠の中で生きてこられた者は、彼らについて、法を犯しているのだから仕事などないのは当たり前で、むしろ早急に退去させるべきだ、と主張するかもしれない。それどころか、法を犯す者が多い特定のグループや出身国を名指しして、そのグループを丸ごと国から排除するべきだ、という法令が施行されるかもしれない。

 

「移民」や「難民」について語られるとき、議論されるとき、しばしば忘れられているように思うのが、既に多くの移民や難民が存在していて、彼らは移住先で生活をしている、という事実だ。例えばドイツの難民問題について、メルケルによる難民受け入れの結果としてドイツはもはやドイツではなくなるだろうというようなことが時々言われるけれども、そもそもドイツは長年にわたって労働移民を奨励してきた国だ。もちろんこれは場所によって異なるとは思うけれど、ドイツの都市の大学に行けば、学生も教員も、食堂のスタッフも、色々な肌や髪や目の色をしていて、同じ「ドイツ語」でも色々なイントネーションが聞こえる。この意味では、もはや一義的な「ドイツらしさ」など薄まっているわけだし、観方によってはたしかに「ドイツ」が崩壊しつつあるのかもしれない。いずれにせよ、ドイツを含めたヨーロッパでは既に多くの移民や難民が長年にわたって生活を築いてきているのであり、さらにここ数年の間に難民としてやって来た多くの人々も、少しずつこの地に生活の基盤を持ちつつある。それは紛う方なき事実だ。そして、“日本国には(ほんのわずかの例外を除けば)日本人しか住んでいない”という神話が未だに幅をきかせている日本という国にさえ、既に長年にわたって多数の移民が存在している。これも事実だ。この事実を抜きにしては、本来そもそも移民や難民についての話はできないはずだ。既にその地で生活している「他者」がいること、それどころかその地で生まれ育った「他者」がいること。この事実を前にして、彼らを本当に「他者」と見なすことができるのか。異質な「他者」であるとして排除することが正当なのか。そのことを考える必要がある。

ヨーロッパでも、移民や難民の受け入れに積極的であったドイツでさえ、ここ数年の難民の流入による自国への影響が無視できなくなり、受け入れ制限の方向に政策を切り替え始めた。残念ながら綺麗ごとや理想だけでは動けない、そんな現実の眼差しが前景に出てきはじめた。とはいえ同時に、既に多くの難民や移民と呼ばれる人々が多くこの地で生活していること、或いは既にその道中にいることもまた、無視することができない事実なのだ。映画のあとのトークセッションで、最前列に座っていた一人のアフリカ出身らしい男性が「ドアを閉じることはできるかもしれない。それでも僕らはもう君たちのなかにいるんだ」と、客席に向かって語りかけていた。既にその地に辿りつき生活を営み、彼らの母国語ではない言葉で、その地の人々の話す言葉で、親しげに語りかけてくる人々がいる。彼らを「他者」であるとして、ドアの外へと追い出すことが何を意味するのか。或いはドアの外に追い出すための法律の囲いを作ることが、何を意味するのか。もちろんここで言われているのは綺麗ごとかもしれない。けれども綺麗ごとと紙一重の希望に動機づけられて生きる人々がそこにいることもまた、一つの現実なのだ。