映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

スクリーンの上の、あまりにもあからさまで、あまりにも直接的な現実(ジャンフランコ・ロージ「海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~」/Gianfranco Rosi "Fuocoammare" 2015年)

ジャンフランコ・ロージ「海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~」(Gianfranco Rosi "Fuocoammare" IT/FR 2015)を鑑賞。海を渡る難民の姿を追ったドキュメンタリーで、ベルリン国際映画祭で金熊賞をとった作品ということで、気になっていた。

舞台は、地中海、イタリア半島とアフリカ大陸の間に位置するランペドューサ島。その地理的な位置ゆえなのだろうが、数十年前からこの島には、アフリカや中東から難民を乗せた船が頻繁に漂着するのだという。そしてここ数年は、やってくる難民の数も——そして同時に、命を失ってから流れつく亡骸の数も——飛躍的に増えている。この映画は、流れつく難民たちの姿を、島に暮らす人々や子供たちの日常と交差させつつ、伝えている。

この映画の特徴の一つは、ドキュメンタリーでありながら、単なる事実の羅列や解説ではなく、練られたストーリーのようなある種の流れがあるということだ。流れ着いた船からの難民の救助、体調不良者への応急処置。上陸した者たちが施設で受ける身体検査、収容後に興じる唱和やサッカー。島の子供のパチンコ遊び、船上での初めての嘔吐。かつての戦争の日々を想起する島の老婆、リクエストに応えて曲をかけるラジオショー。かつて赤く燃えた海の上に、いまは人々の生が揺らめく。島における非日常と日常とを交錯させながら、あたかも適切な役者と練られた演出のもとで撮影されたフィクションのように、映像が展開されてゆく。

しかしこの映画はあくまでもドキュメンタリーである。そのことを気付かせてくれるのは、島に流れ着く難民が置かれた状況について語るある医師のインタビューだ。島の医師として住民や子供たちの診療に従事する彼は、同時に、流れ着いた難民たちの治療にもあたっている。そして彼はまた、命を失って流れ着いた人々の検死もしなくてはならない。「慣れてくるでしょう、と言われることもあります。だけど、子供や妊婦の死んでいる姿に慣れることなんて、できると思いますか?」この医師のもとには、この島をとりまく日常と非日常が交錯している。この映画中で唯一ドキュメンタリーらしい場面とも言える説明的な彼のインタビューによって観る者は、この映画における日常も非日常も、そのどちらもが現実の映像であることに気付かされることになる。日常のほんの裏側では、多くの人が助けを乞い、船底で衰弱し、時には命を落とし、また時には船とともに海に沈んでいく。

この映画では、乗りこんだ人々が全て亡くなって海上に漂っていたところを発見されたある船の、その内部の映像も提示される。雑然とした船内、散乱して積み重なった服や物、その間にいくつも転がる人間の身体。その独特の湿気と、こもった空気感。ざわめくような静かさ。それらは全て、まるで演出されたもの、作られたもののようにも思えてしまう。だけれども、これは演出ではないはずで、だとすると、やはりこれは、まごうことなき現実の映像なのだ。この映像のなかの光景はかつて現実に存在したものであり、そして今もどこかに、これと同じ現実が誰にも知られぬままに存在しているかもしれない。この日常の裏側で、今も、どこかで。

この映画のなかで提示されている事柄はまた、この島以外のあらゆる場所で、さまざまな仕方で、今もなお、起きていることでもあるだろう。私自身はいま、楽しいことばかりではないにせよ、さしあたり命の危険を感じないように思われる生活をしている(もっとも、最近の情勢を考えると、もはやそれも確実なものではないけれど)。とはいえ今この瞬間に、自らの命を失うか失わないかの瀬戸際にいる人々がどこかにいる。ここにあるギャップと、この映画のなかで描かれる日常と非日常の間のギャップとの違いは、相対的なものでしかない。もちろん頭では、世界のどこかで日々、「なにかしら悲惨な事件」が起きていることは知っている。しかしそれがまごうことなき現実であるというそのことは、映像を通してようやく、ある種の立体感をもって気付かれることになる。助けを求める人々の声を聞き彼らの表情を見ることで、そして彼らの亡骸を見ることで、はじめて、現実が現実としての重さをもって私の前に現われてくる。

私には、この映画を一つの完成された「作品」として享受することができなかった。この映画のなかに「ストーリー」や「あらすじ」を見ることもできなかった。ここで提示されているものは、あまりにもあからさまで、あまりにも直接的な現実の映像だった。そしてまた、劇場のスクリーンを通さないとこの現実を認識することができなかったという、自分の無感覚さと想像力のなさを突きつけられるような思いもした。そこには、ドキュメンタリーという形式でスクリーン上に映写された映像を通してしかあからさまな現実を見ることができない、というある種の欺瞞がある。私はまだここで提示された現実を、その映像を、消化することができていない。しかしおそらく、今後「難民」と呼ばれる人々や彼らにまつわる諸々の諸問題について考えたり、自分が何かを言ったりするそのときには、ここでこの映画を見たということを思い出さずにはいられないだろうと思う。