映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

キングコングは倒れ、男は子猿とじゃれ合い、女は将来を見つめる(マルコ・フェレ―リ「バイバイ・モンキー」/Marco Ferreri "Ciao maschio" 1978年)

マルコ・フェレ―リ「バイバイ・モンキー/コーネリアスの夢」(Marco Ferreri "Ciao maschio" IT/FR 1978 113 Min. 35mm. イタリア語オリジナル+ドイツ語字幕版)を鑑賞。

 

あらすじ

舞台はニューヨーク、ロングアイランド。ダウンタウンでは人びとが大量発生したネズミに悩まされ、高層ビル群に臨む砂浜にはキングコングのような大猿が横たわっている。青年ラファイエットは、ローマ帝国をモチーフにした蝋人形展示館の電気技師として働く傍ら、劇団の照明係を務めている。ある日ラファイエットは、性的暴行を実体験したがる女性劇団員たちに凌辱されるが、そのことをきっかけに劇団員アンジェリカと同棲するようになる。ラファイエットはまた、友人ルイージが発見した子猿を引き取り、コーネリアスと名づけて実子のように可愛がるようになる…。

 

※英語版のトレイラー。画質が悪いのが残念だが、高層ビル群を背景に横たわるキングコング的人形も見られる。

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男性中心文明の崩壊、倒れたキングコング

トレイラーからもなんとなく伝わるのではないかと思うが、全体として、コメディというほど笑いに走ってもいないが、かといって真剣なリアリティを追求したSFとも言いがたい、独特な世界観をもった映画だ。あきらかに人形でしかない大猿の亡骸や、そのもとで発見された子猿を当たり前のように受け入れる主人公たちの姿は、映画がこの現実の常識からは幾分かズレた世界で進行しているものであることをはっきりと示している。舞台はニューヨークではあるが、いつの時代の物語なのかもよくわからない。現実離れした舞台装置のなかで、これまた現実からズレた登場人物たちが動き回る。

映画の中心主題の一つは、「文明の崩壊」、とりわけ男性中心で構成されてきた文明の終焉だ。主人公の青年ラファイエットは、体格こそ立派であるものの、女性に逆らうことができず、現実の問題から目を背けがちな若者で、子供のように笛を吹きながら自転車をこぎまわっている。世界貿易センタービルを背景にして砂浜に横たわる、あきらかにキングコングを暗示している大猿は、かつて文明の上に君臨したマッチョな男性性の象徴であると見なされうるかもしれない。キングコングは倒れ、力なく海辺に横たわっている。ラファイエットには、無邪気で無力な子猿コーネリアスだけが残されている。

登場する他の男性たちも、それぞれなりの仕方で「文明の崩壊」を悼む。蝋人形展示館の館長は、ローマ時代の偉人たちに固執するという仕方で既に過去のものとなった男性性を讃える。とはいえ彼も、公権力の要請で展示された偉人の顔をアメリカの政治家にすげかえることに——文明の偽造に——協力せざるをえなくなる。ラファイエットの友人ルイージは、ヨーロッパ風の知的な紳士として振る舞うことによって女性を求めようとする。しかし誰にも相手にされず、自身が見つけた子猿コーネリアスのこともアレルギーのために愛でることができない彼は、絶望に沈んでしまう。

 

男は子猿とじゃれ合い、女は将来を見つめる

青年ラファイエットは、現実の問題に対峙することができない。彼は実子のように子猿コーネリアスに執着するが、その愛情は将来のなにかを見据えたものではなく、場当たり的な慰みでしかない。彼は、子猿とじゃれ合うことしかできないのだ。そして同棲していたアンジェリカが妊娠したことを彼に告げたときにも、ラファイエットは、父親は誰なんだと見当違いの返答をし、当惑してアンジェリカに呆れられてしまう。

映画の原題"Ciao maschio"——「さよなら、男らしさよ」とでも訳せようか——が示しているように、かつて文明の中心を騙っていた男らしさは、映画のなかの世界において、もはや過去の遺物になっている。そのことが極まるのが、映画の最後半、コーネリアスが鼠に襲われたことに動転したラファイエットが、蝋人形展示館の館長のもとへ向かうシーンだ。現実のよすがになっていた子猿との慰みは無残にも噛みちぎられ、しがみつかれていた過去の栄華ももはや偽造されたフィクションでしかなくなった。もはや男性性が中心に居座ることのできるような文明などそこにはない。だからこそ、彼らは、まるごと燃やすのだ。

この映画において、明らかに希望を託されているのは、動転したラファイエットのもとを去ったアンジェリカだ。彼女は自分の身体に宿した子供のことを第一に考え、そのために生きようとする。これは監督フェレ―リ自身の思想を投影したものであるのだろうが、この映画は、キングコングとともに男性中心の文明が打ち崩れたその後で、女性こそが将来の生の中心になりうることを示唆している。ここには未だ、二分法的な性別区分を前提とした固定観念や図式化が支配していることは否めない。が、いずれにせよ、映画の最後のシーンは、男性性の崩壊に対比して、将来に何か別の希望の可能性を託すものにはなっている。*1

*1:この映画の二年前に公開されたマルコ・フェレ―リ「最後の女」(Marco Ferreri "L’ultima donna" IT/FR 1976 112 Min. 35mm. イタリア語オリジナル+英語字幕版)も鑑賞したのだが、そこでは同じ主題——男性中心の生のあり方がもはや古めかしいものとなり、女性こそが将来の生を担うのだという主題——が、よりラディカルかつ直接的な仕方で描かれていた。物語は、粗暴で自己中心的、そして所有欲と性欲に溢れた青年ジョバンニが、若い保育士女性との同棲を通じて、自らの男性性が既に魅力を失ったものになってしまったことに気づいていくプロセスを辿っていく。映画の後半、自らの男性性に自らの手で裁きを下そうとするジョバンニの姿はあまりにも痛々しい。丁寧に作られた映画ではあるが、性描写がきわめて露骨なので上映されることは稀なのではと思う。この映画「バイバイ・モンキー」は、同じ主題をもう少し遊び心を持って変奏したものだと言えるかもしれない。