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映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

変わらないはずの知識が、変わりゆく現実に置き去りにされるとき(ミア・ハンセン=ラヴ「未来よ こんにちは」/Mia Hansen-Løve "L’Avenir" 2016年)

ミア・ハンセン=ラヴ「未来よ こんにちは」(Mia Hansen-Løve "L’Avenir" FR/DE 2016)を鑑賞。独仏合作で、観る直前に知ったのだけれど、昨年2016年のベルリン映画祭で銀熊賞を獲得した映画だとのこと。

 

おおまかな感想、印象

知識と教養のなかに生きる初老の女性が、静かに、けれども抗いがたく、周囲の現実に取り残されていく様を描いた映画。全編にわたってイザベル・ユペール(Isabelle Huppert)演じるパリの哲学教師ナタリーの生活が淡々と描かれるのだが、物語は劇的に動きそうで動かず、ナタリーは何か大きな決断を下しそうで下さない。まず周囲の生活が彼女の意志に構わず変わっていき、その変化に応じざるをえなくなったナタリーは、静かにだが自分の生き方を変えていくことになる。多くの哲学者の名前や著作が行き交うこの映画では、変わらないはずの知識や思想のなかに生きているつもりの者も、現実の変化のただなかに生きており、そしてその現実に流されているのだということが描かれている。哲学を愛し知識や文化のなかに変らずに生きていけると思い込んでいたナタリーもまた、生活の変化に置き去りにされていく。

この「現実に置き去りにされること」が、この映画の重要な主題のひとつであるだろう。ナタリーは、夫に置き去りにされ、仕事に置き去りにされ、母に、猫に、かつての教え子に、置き去りにされていく。自分が取り残されていることに気付いてはじめて彼女は、現実の自分の生活と向き合わねばならなくなる。もっともこの映画が決して退屈で単調なものにならず、また決して悲観的なものになっていかないのは、置き去りにされたナタリーが、劇的な仕方ではないがしっかりと、現実の変化と向き合っていくからだろう。取り残され、静かに涙をながす彼女は、変わりゆく現実に対して弱く無力ではある。しかしそれでもナタリーは、自分がこれまで生きてきたものを簡単に捨てることをせず、自らの生活を調律しながら、残った現実の上を歩み始める。彼女には、まだ、未来が残っている。

 

 簡単なあらすじ(ネタバレあり)

パリの高校で哲学を講じる教師ナタリーは、その傍らで哲学に関する書籍出版にも携わっている。彼女は、夫とともに過ごす「満たされた知的な生活」を愛している。しかし彼女の生活は次第に変化していく。彼女の生徒たちは高校の前でデモを始める。25年連れ添った大学教授の夫には、新しい恋人ができたので別れたいと告げられる。出版社との契約は打ち切られる。介護施設に入れざるをえなくなった母は亡くなる。猫アレルギーにもかかわらず母の愛猫パンドラを引き取らざるをえなくなる。

突然にさまざまなものを失ったナタリーに、夏季休暇がやってくる。彼女は、喪失のあとに抱いたある種の自由の感情とともに、かつての教え子であるファビアンのもとを訪れることにする。ファビアンは、大学で専門的に哲学を学びナタリーの助力でホルクハイマーに関する論文を出版したのち、都会のブルジョワ的生活から離れたラディカルな生き方を求め、仲間とともに山荘を購入しそこで哲学的議論に興じる生活をしている。ナタリーは、パンドラを連れてこの山荘での生活を始める。しかし彼女は若者たちのようにラディカルな考え方もできず、またそのことをファビアンに批判されもし、結局山荘からパリに戻ることになる。

パリに戻り教師としての生活を続けるナタリー。夫は必要な本をもって出て行ってしまった。ナタリーはパンドラを手放し、ファビアンの山荘に住まわせることにする。元夫が探していたショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を彼に手渡す。そうこうしているうちにナタリーの娘が妊娠し、子供を産む。ナタリーは、娘の家族とともに、ささやかな夜を過ごす。

 

変わらないはずの知識、変わりゆく現実

哲学教師ナタリーは、大学教授の夫とともに「満たされた知的な生活」を送り、それを幸福に思っていた。彼女は知識を愛し、そのうちに安らっていたし、その安らぎがいつまでも続くと思っていた。しかし現実は彼女に安らぎをもたらさない。「いつまでも愛してくれると思っていた」夫は新しい恋人を作って自分のもとを去っていく。手軽さやわかりやすさに屈さない彼女の哲学本へのこだわりは編集者たちに疎ましがられ、彼女が好んで拠り所とするアドルノやホルクハイマーといういわゆる「フランクフルト学派」の哲学者たちの書籍も「もうこれ以上出版する必要があるのか疑問」であると言われてしまい、ついには出版社との契約を切られてしまうことになる。彼女が望む望まないにかかわらず、変わらないはずの知識が、変わりゆく現実に置き去りにされていく。

さらにナタリーは、哲学的知への情熱を共有できるはずだったかつての教え子のもとで、また別の仕方での現実の変化を思い知らされる。ナタリーが学生だった頃——おそらくそれこそ例の「フランクフルト学派」の流行が生きていた時代だろう——には、ラディカルな知識人の生き方と言えば社会運動への参画であっただろうし、男性からの女性の自立でもあっただろう(だからこそナタリーは高校の生徒たちのデモンストレーションに一定の理解を示すことができた)。しかし今や、彼女が自由の気持ちを抱いて訪れた山荘の若者たちにしてみれば、ナタリーのようにラディカルな社会批判の哲学を講じながら都会で市民的な生活を送るというのは言行不一致な嘘の生き方だということになる。かつて彼女の信奉者だったファビアンにその点を非難されることで、ナタリーは、彼女が安らっていた知識という面でさえ、時代の変化が彼女を置き去りにしているということに気付く。

 

現実に置き去りにされるとき、無力なままにその変化のうえを歩むこと

この「置き去りにされる」というモチーフが、この映画に通底している。ナタリーの母親は、かつて夫に捨てられた記憶から、「置き去りにされる」ことを過剰なまでに恐れ、いつも誰かがそばにいることを、子供のように望んでいた。知識と幸福のうちに安らっていると思い込んでいたナタリーもまた、夫や仕事に置いていかれ、母にも先立たれ、そして彼女の知識さえも時代遅れになってしまった。変わらないはずの知識の世界に生きていた彼女もまた、変わりゆく現実に置き去りにされてしまった。彼女は自分の無力さの前に呆然とする。一人で怒り、一人で泣く。そうしてようやくナタリーは、自分自身の生活と向き合うことを始める。

ナタリーの現実との向き合い方はしかし、決して劇的な変化に富んだものではない。もしかすると、自由の感情を抱いて山荘に向ったときの彼女は、ある種の劇的な変化を望んでいたのかもしれない。しかし彼女は「ラディカルに生きるには年をとりすぎた」のだ。運動不足の猫のパンドラでさえ、山のなかでは狩猟本能を発揮してネズミ狩りをしてくるというのに、ナタリー自身には何かが目覚めるということもない。彼女にはもう、若いファビアンたちのような生活の変革へのエネルギーも、また現実的な自由の余地も残っていない。そのファビアン自身でさえ、ともに山荘に住む恋人との間に子供が生まれたら、今のような生活は難しくなるかもしれないと口にする。ナタリーには既に二人の子供がいて、高校には彼女の生徒たちがいる。そして娘には孫が生まれもする。これらの現実は、彼女のこれからの生き方をも限定する現実であって、彼女にはもはやそこからの劇的な変化は望めないのだ。

しかしそれでもナタリーは、彼女のもとに残った現実と向き合うことを放棄しはしない。それは決して、彼女にとって理想的なあり方ではないかもしれない。自分を捨てたものたちに対して意固地になり、人を傷つけてしまうこともある。それでもナタリーは、これまで生きてきた自分の現実を捨て去ることをせず、彼女の前に生じてくる一つ一つの出来事に淡々と向き合い、自分の生活を調律していく。彼女が自らパンドラを手放すことを決め、都会の部屋という「箱」の中しか知らなかったパンドラに山荘の生活を与えたことは、ナタリーの小さな変化を象徴しているだろう。箱のなかに閉じ込められていたのは災いではなく、現実の世界を歩むための眼差しだったのかもしれない。ナタリーはもはやこの猫のように自然のなかで好きに走り回ることはできないが、それでも彼女は、これまで変わらないものに見えていた知識の枠から一歩を踏み出し、現実の世界のうえを手さぐりで歩き出したのだ。

ここに、この映画が決して根本的には悲観的なものにならない理由がある。現実に置き去りにされ、自分の無力さに涙を流した彼女は、それでも静かに目の前に残った現実の上を歩き始める。この現実のうえには、彼女が生活を続ける限り、これからまた少しずつ何かが生じてくるだろう。それは彼女がかつて思い描いたような知識の永遠の安らいとは違って、それ自体現実のうえで変わりゆくものであるかもしれない。しかしいずれにしても、彼女が生を放棄しないかぎり、ナタリーにはまた未来がやってくるのだ。