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映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

近代化された世界における野生、或いはその滑稽さ(ニコレッテ・クレビッツ「ワイルド、わたしの中の獣」/Nicolette Krebitz "Wild" 2016年)

ニコレッテ・クレビッツ「ワイルド、わたしの中の獣」(Nicolette Krebitz "Wild" DE 2016)は、昨年11月中旬に鑑賞。

地味目で上司にバカにされているOLのお姉ちゃんが、ある日自宅の近くで見かけたオオカミに心を奪われ、捕まえ、心を通わせ、同時に自分の中の野生に目覚めてゆく、と大雑把にまとめるとそんな話。

ありえない話と言ってしまえばそれまでだし、そもそもの設定にリアリティーがないと言えばない(すべてが主人公のお姉ちゃんの頭のなかの出来事と解釈できなくはないけれど)。それでもこの映画が一定のリアリティーのある作品になっているのは、監督のディティールへの拘りと、タイトルにもなっている「野生」というモチーフの一貫性のためであると思う。ストーリーの前半から最後まで、感覚に訴える張りつめた空気が途切れることはなかったし、見逃してはならないと思いつつ緊張感をもって鑑賞することができた。この緊張した感覚性それだけでも、よい映画体験だったと思う。

 

以下、個人的に思った見どころを三つ挙げる。

 

見どころの一つ目は、オオカミに具象化された野生性と、それが持つ怖さ。

見た目だけだと大型犬のようで可愛らしくも見えるオオカミだが、そう思うのもつかの間、一瞬で間を詰めて皮膚をかみちぎり吠えたぎる。その瞬間の躍動が持つ迫力が端的に恐ろしく、画面越しでも思わずびくついてしまった。このオオカミはおそらく人間の命も簡単に奪うことができるのだろうな、と思わされる。見ていて「レヴェナント」のクマを思い出したが、この映画のオオカミはCGではなく本物だということで驚かされた。その凶暴な肉体性を一度知ってしまうと、その後オオカミがいくら大人しくしていても、いつ豹変して襲い掛かってくるのだろうという静かな恐ろしさが消えることがない。野生性の象徴であり、手の付けられない原生的な力そのものを体現しており、怖いけれども、引き付けられ、目を向けてしまう。

 

見どころの二つ目は、主人公であるOLのお姉ちゃんがオオカミにいかれてワイルドになっていくプロセス。

序盤で、生肉をほおばったり、膝小僧を擦りむいてそのままにしたり、というのはまだ可愛いもの。中盤、マンションの階段の手すりで自慰をするあたりから、彼女の振る舞いは言うなれば「人間的」なものを逸脱していく。後半、目の前のヒト科のオスが自分のことを綺麗だと言ってくれるだけで交尾をし、机の上に排便し、そこに火をつけて逃げるあたりでは、彼女から獣の臭気が漂ってくるようにさえ感じる。それを醜いと思うか美しいと思うかということを超えて、主演のリリト・シュタンゲンベルク(Lilith Stangenberg)の体当たりの演技は見ごたえがあったし、映画が進むにつれてその表情は目を見張るほど魅力的になっていったように思う。

 

見どころの三つ目は、自らのうちなる野生を発露していく主人公も、近代化された世界のなかでは野生になりきれない、どこか滑稽な存在でしかない、ということ。

彼女は確かに野生に憧憬を抱き、オオカミの野生性と一つになろうと欲し、そしてある程度まで自身の人間性を捨て去ることに成功したように見える。とはいえ、彼女がオオカミを自分のものにするためには工場勤めのアジア人労働者に金銭を払って捕獲を手伝ってもらわねばならなかったし、移動には会社の上司の車を利用しなければならなかった。そして後半で上司がオオカミに噛みちぎられて虫の息になったシーンでも、彼女は救急車を呼ばずにはいられなかった。中盤の野生を表現した(?)ダンスや階段の手すりでの自慰のシーンはどこか滑稽で、都会という近代世界のなかで野生であることのアンバランスさのようなものを感じざるをえなかった。前半で、主人公と同じ車に乗ったカップルが盛り上がっていちゃつくシーンがある。人目を気にせず過度に絡み合う彼らもある意味では都会のなかで自らの野生性を発露させている存在で、その意味では、その行為が「よくあること」であるかどうかを別とすれば、後半で人間性から逸脱して野生と化していく主人公と彼らは本質的には変わらないと言えば変わらないのかもしれない。近代化された世界において自らの野生を解放することは、どこか滑稽で恰好が悪いのだ。

主人公も、結局のところ、近代化された人間社会のなかでは絶対的な野生性を解放することができない。オオカミのように絶対的に野生であるためには、近代的な公共空間を抜け出して、人工物のない原野(のようなところ)に出て行かざるをえない。だからこの映画の主人公もまた、映画の最後で、原野(のようなところ)に出て行き、オオカミとともに泥水で喉をうるおし、分けてもらったネズミを食し、草やぶの間で貪るように睡眠をとる。それをなしとげたあとではじめて彼女は、解放されたような笑顔を見せる。この笑顔はたしかにとても美しくて、魅力的で、映画の最後のシーンを印象的なものにしている。

…とはいえ、近代化された人間が自らの人間性を捨てて野生に戻る、というこのことは物語でしかない。全身に体毛のない主人公のお姉ちゃんは洋服を脱いで原野を駆けずりまわることはできないだろうし、そもそも彼女が出て行った原野もしょせんは原野「のようなところ」でしかない。物語は美しくとも、やはりそこには、近代化された人間が野生に帰るというモチーフが持つ滑稽さが見え隠れする。

これは観ている側の問題でもあるだろう。自分のなかにある野生性ないし肉体性と、都会性ないし近代性。そのどちらも容易に捨てさることはできないものであって、一定の緊張をもってもつれ合っている。監督の意図がこのような緊張を描くことにあったのか、それとも野生性の称揚にあったのか、それともまた別のところにあったのか、それは知らない。しかし少なくとも私にとってこの映画は、自分自身のなかにもある啓蒙された近代性と動物的な野生性との緊張関係を、自覚させるものだった。これらの契機のもつれ合いは、恐ろしいものにも、また時には滑稽なものにも感じられる。この危うい緊張関係を抱えながらどうやって生きていくことができるのかという問題を、この映画は提示しているように思えた。

 

ここ最近のドイツ映画には、直接的な感覚性へと回帰するような傾向・潮流があるという話を聞いた(これを「ドイツ新感覚主義Neue Deutsche Sinnlichkeit」と呼ぼうとしている人もいるようだが、果たしてこの言葉が定着するかどうかはよくわからない)。この映画はそのような傾向の一変奏として観られるとも思うし、怖さと滑稽さとが入り混じった、独特の魅力と緊張をともなった感覚性がそこにあったように思う。その意味で、少なくとも私にとっては、印象的な映画体験だった。

 

(なおこのレヴューは、以前某映画レビューサイトに投稿した文章に加筆・修正したものです)