映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

女性の幸せと男性の幸せ、意識の変化の兆しと設えられたハッピーエンド(パウル・マルティン「ハンドルを握る女」/Paul Martin "Frau am Steuer" 1939年)

パウル・マルティン「ハンドルを握る女」(Paul Martin "Frau am Steuer" DE 1939 84 Min. DCP.)を鑑賞。

 

あらすじ

舞台はハンガリー。ブタペストのドナウ銀行で事務員として働くマリアは、他の銀行で働くパウルからプロポーズを受ける。パウルは当初、マリアに家庭に入ってほしいと求めるが、彼女は今の仕事が好きだから結婚後も仕事を続けたいと主張する。そして二人の結婚式のちょうどその日、パウルが人員削減の煽りをうけて解雇されることになり、彼の方が主夫として家庭に入ることになる。その一方で相変わらず精力的に働いていたマリアだが、以前より彼女に好意をよせていた上司に対して彼女は、自分はまだ未婚で同居しているのは弟だと嘘をついてしまう。嘘をつかれていたことを知りプライドを傷つけられたパウルだったが、マリアの上司の計らいで、彼女と同じ銀行で——マリアの部下として——働くことになる。そこでパウルは、かつての銀行員としての経験を生かし、すぐに昇進していく。そしてついにマリアの上司となったパウルは、部下となった彼女に辞表を書くよう迫る…

 

※トレイラーは見つからなかったが、映画中のダンスシーンの動画が見つかった。物語そのものと強い関連がないままに提示されるエンターテインメント性の高いダンスショーは、当時の娯楽映画に多く見られる: 

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女性の幸せと男性の幸せ、意識の変化の兆し

1920年代後半から30年代にかけて計12作もの映画で共演し、「ドイツ映画における夢のカップル」(Traumpaar des deutschen Films)と評されたリリアン・ハーヴェイ(Lilian Harvey, 1906-1968)とヴィリー・フリッチ(Willy Fritsch, 1901-1973)。彼らの最後の共演の場となった本作は、国家社会主義政権下で制作されてはいるが、直接的なプロパガンダは前面に出てはいないようにも見える。実際この映画は、特徴的な登場人物たちが軽快なテンポで織りなすコメディ作品であり、それ自体としては聴衆を楽しませる娯楽映画として鑑賞することができるものだ。

とはいえこの映画は、当時の女性が置かれた立場の幾分かを証言しており、そのドキュメントとして観ることもできる。この記事では、その点について書きたい。

まずもって、女性が職に就くということはもはや自明なことになっている。ハーヴェイ演じるマリアの職場の同僚や上司たちは女性社員の働きに満足しており、彼女たちも仕事に誇りをもっている。

その上で、女性が結婚後も仕事を続けるというそのことも基本的には望ましいこととして描かれている。フリッチ演じるパウルは、たしかに一度はマリアが結婚後も仕事を続けることに反対する。しかし映画において彼のこの言動は明らかに時代錯誤なものとして戯画的に描かれており、マリアの職場の同僚たちはむしろ彼女が結婚したあとも仕事を続けることを歓迎している。そしてパウル自身も、妻が家庭に入るべきだという古い考えには拘泥せず、彼女が仕事を続けることをすぐに認めるようになる。

それどころかこの映画は、女性が外で働き家計を支え、男性が家事をこなすという——古い常識からすれば逆転したものと見做されるだろう——家庭のあり方の可能性をも提示している。職を失い——今でいう「主夫」として——家事に専念するパウルは、当初は隣人から奇異に思われながらも、持ち前の要領のよさから快適な家庭生活を支えるようになる。使用人と共に食事を用意したパウルが待つ家庭に、仕事を終えたマリアが帰宅し、二人は幸せな夕食を共にするのだ。

ここまでを見るならば、女性と男性それぞれに割り与えられた旧弊的な役割分担はもはや意味をなさなくなっているようにも思われる。女性の幸せは家庭に入ることだけではなくなっているし、男性の幸せも仕事で成功することだけではなくなっている。リードするのは男性である必要はなく——映画のタイトルのように——ハンドルを握る女性もいる。ここにははっきりと、意識の変化の兆しが顔を出している。*1

 

ステレオタイプへの逆転、設えられたハッピーエンド

とはいえこの意識の変化は、あくまでも兆しに留まっている。映画が進むにつれ、登場人物たちがその上を動く根底の価値観は、やはりステレオタイプなものであることが明らかになっていく。

映画中では、そもそもの当事者である夫婦二人が、その心根においては夫婦としての自分たちのあり方を非常識なものであると思いこんでいる。家事をそつなくこなすパウルも復職のチャンスを窺っているし、なによりも彼に支えられて仕事を続けているはずのマリアが、自分の夫が働かずに家庭にいるのを恥ずかしいことだと決めつけている。そうして彼女は、一緒に住んでいるのは弟であるという嘘さえついてしまうのだ。

二人のこの価値観は、 まさしくマリアの職場の価値観と一致している。彼女の上司は、マリアの夫が職を失っていることを知ると、厚意から彼に仕事を斡旋しようとする。ドナウ銀行の総支配人にいたっては、妻が上司となりその下で夫が部下として働くなどということは道義上よくないと考えており、そのことがパウルの昇進を後押しすることにもなる。そもそも映画中のドナウ銀行では、たしかに多くの女性が事務員として働いているのだが、要職に就いているのは男性ばかりであるように見える。

結局のところここには、本来的にキャリアを歩み家庭を経済的に支えるのは男性なのだという社会的価値観が強く反映されている。そしてそれは結局のところ、リードするのは男性であるべきだというステレオタイプの男女観と合致するものでもあるだろう。

さらにこの映画は、もう一つの決定的なステレオタイプによって支配されている。それが露わになるのは、映画の最後をなすくだりだ。

あらすじでも書いた通り、上司の立場となったパウルは、部下となったマリアに対して仕返しをするかのように辞表を書くことを迫る。辞表を提出してしまったマリアは、ショックを受けたまま帰宅し泣き崩れるが、そこにパウルが戻り彼女を夕食に誘う。その夕食の席でパウルは、辞表のことはマリアのそれまでの振舞いへのちょっとした仕返しでしかなく、彼女は職場に戻ってきて構わないのだと告げる。それを聞いたマリアは喜びつつも、もう職場に戻るつもりはない、と答える。彼女は妊娠しており、二人は親になるのだから、と。こうして二人は、幸福な笑顔に包まれる。

まさしくこのラストシーンで、旧態的な価値が顔をもたげる。それはすなわち、女性が仕事に就くことはもちろん望ましいが、それ以上に推奨されるのは子供を産み育てることである、という価値観だ。マリアは、子供を授かったことを喜ぶとともに、固執していたはずの仕事への情熱をあっという間に捨てて、家庭の幸せを思い描く。ここにおいて映画は決定的な仕方で、男女の幸せについてのステレオタイプへと逆転してしまっている。

子供を授かってからの復職の可能性など考えもしないマリアとパウルのこの幸福観に、当時の観客がどこまで共感をもったのかは、私にはわからない。いずれにせよ二人の価値観は、国家社会主義体制下で望まれた労働観や結婚観に矛盾するものではなかっただろうし、その意味でこの映画も一定のプロパガンダ機能を果たしていたと言えるだろう。当時においてこの結末は、文句のないハッピーエンドとして受けとられることが期待されて設えられたものであったはずなのだ。

しかしながら、80年近くの時を経た今日、多くの人にとってこの結末はもはや全面的なハッピーエンドとは見做されえないだろう。結婚や出産を機に女性が仕事を辞めて家庭に入るということそれ自体は、もちろん今日でも選ばれうる一つの家庭の形ではある。しかしそれは今や、個々人の前に提示される一つの可能性でしかない。出産後に復職することも、そもそも子供を持たないということも、それはそれで一つの家庭の形として——実情はうまくいかないことがあるとしても、少なくとも理想としては——認められているのだ。

人々の意識は、変化したし、今もなお変化しつつある。そして変化した意識からすれば、映画のラストにおけるマリアの豹変——あれだけ好きだと言っていた仕事への情熱を、妊娠と同時に忘れてしまったかのようなマリアの豹変——に対して、疑問をもたずにはいられない。彼女は他の可能性を考えることはできなかったのだろうか。もし彼女が他の可能性を考えた上でその選択を為したのであればいいのだが、そうでないならば、映画において設えられたハッピーエンドは、その実社会によって強要されたものでしかないのではないか。

このような疑問が生じる余地は、社会の意識がその分だけ変化したということを裏返しに証すものでもあるだろう。さらに言えば、意識は、ここからさらに変化することもありえるのだ。そのような観点からすると、問題は、意識自身が自らの変化に開かれたものでありうるか、という点にあることになるだろう。

1939年、マリアを演じたハーヴェイは、映画の初演を待たずにナチス政権下のドイツを離れた。もちろんそれは政治的な理由からなされたことだろう。しかし陳腐を承知であえて言えば、価値観を押しつける閉じられた社会体制の枠から抜け出したハーヴェイの決断は、設えられたハッピーエンドを疑問なく受け取るマリアと、対照をなしているように思えるのだ。

*1:もっとも、女性の労働を推奨するという一見進歩的に思われるまさしくこの点に既に、国家社会主義イデオロギーに合致した一定のプロパガンダが潜んでいることには注意が必要だろう。というのも当時においては、男性が兵役に就くその代りとして女性の労働が求められていたからだ。この観点からすると、本作にも、女性の解放という進歩的理念を手放しに賞讃することよりむしろ、女性に「労働動員」(Arbeitseinsatz)を意識づけるという機能が期待されていただろう。