映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

映画を通してルターを勉強する、その① 宗教改革500周年とルターという人物の多面性

目次

 

マルティン・ルターと宗教改革500周年

欧米圏の文化について調べたり勉強したりしているときにしばしば予期せず突き当たる名前の一つが、マルティン・ルター(Martin Luther 1483-1546)だ。ルターは、同時代のキリスト教界を聖書に基づく信仰から乖離したものだとして強く非難し、キリスト教改革を先導した。とりわけ、人々の罪を軽減する「免罪符/贖宥状」(Ablassbrief)を発行・販売していた当時の教会を弾劾したルターの「95ヶ条の論題」(95 Thesen)は、しばしば宗教改革の最初の一歩だと見なされる。

ルターがこの論題を著しヴィッテンベルク城教会の扉に張り出したのが1517年であるとされる(もっとも、この逸話は史実としては疑わしいところがあるようだが)ので、今年2017年は宗教改革500周年だということになるようだ。そういうわけでキリスト教圏でありしかもルターを生んだ国でもあるドイツでは、今年、ルターにちなんださまざまな催しが開かれている。

実際、特に神学を専門に勉強しているわけでもない私の目や耳にも、意識しないでもいつも以上にルターの名前が入ってくる。ルターにちなんだ講演会やイベントのポスターがそこらに張られていたり、ラジオを聴いているときにふいにルターの話題が出てきたりする。大学の学食で隣に座った学生のグループが、授業で扱われたらしいルターを話題にしていたということもあった。そしてついには、普段通っている近所の映画館のプログラムの上にまで、ルターにちなんだ映画がいくつか登場してきた。

そこで私は、いっそこの機会に、映画を通してルターを勉強してみるか、という気になった。そういうわけで、自分自身の勉強もかねてルターにまつわるいくつかの映画について書いてみたいのだが、その前にまず、マルティン・ルターという人物について、そして彼がドイツ文化あるいは欧米文化史の上でもつ意義について簡単に概観しておきたい。

 

マルティン・ルターという人物、その生涯

まず、マルティン・ルターという人物について、とりわけ彼の生涯について書いておきたい。あまり細かいことは書かないが、映画のなかでも取り上げられていた基本的なところについては触れておきたい。*1

青年時代に法学を修めたルターは、ある激しい雷雨の日をきっかけに、家族の反対を押し切って修道院に入ることを決意する。エアフルトの聖アウグスチノ修道会の修道僧として信仰とは何かを問い続けたルターは、聖書を通して、怒りによる裁きにではなく愛による慈しみにこそ神の本領があるのだということを悟る。ローマ旅行でカトリックの本拠を自らの目で見たのちにルターは、ヴィッテンベルクで神学博士として教鞭をとるようになる。

そのころルターは、当時の教会の現状を、とりわけ教会が販売する「免罪符/贖宥状」によって罪が金銭で解決できる問題になってしまっていることを非難するようになる。この現状を批判しつつ彼は、聖書に基づく個々人の信仰にこそキリスト教における罪の赦しがかかっているのだと説くようになる。そのためルターは、免罪符の販売を弾劾する「95ヶ条の論題」を著し、聖職者に対して公に論争の場を設けるように求めることになる(上にも書いたように、この論題をヴィッテンベルクの城教会の門に張り出したという逸話それ自体は史実として疑わしいものらしい。とはいえこの逸話が宗教改革の最初の一歩として語られることは多いようだ。実際に私が観た映画のどれでも、ルターが教会の門に論題を張り出すシーンはドラマチックに描写されていた)。

この論題やドイツ語で書かれたルターの著作は印刷されて出回り、教会の内外に激しい論争を引き起こすことになる。著作を公刊することを通して自説を展開し次第に支持者を獲得していくルターはしかし、同時にこれらの行為によって異端の疑いをかけられてしまう。そうしてルターは、マインツ大司教によって1518年にアウグスブルクで審問にかけられたのち、ローマ教皇からも問題視され教会からの破門を宣告されてしまう。さらに1521年にはヴォルムス帝国議会に召喚され自説の撤回を求められるが、ルターは聖書に書かれていないことを認めることができないと撤回を拒否する。これによってついには、ルターの帝国追放と彼の著作の所持禁止という勅令が出されてしまう。

帝国議会後のルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世の庇護をうけてヴァルトブルク城で時を過ごし、そこで新約聖書の翻訳に没頭する。ところがそのころヴィッテンベルクでは、ルターの教会批判に刺激を受けた彼の信奉者たちが、教会の建物を破壊し教会内の書物を焼き払うといった騒動を起こしていた。見かねたルターは群衆の前に姿を現し、暴力を伴った教会への反乱行為を糾弾せざるをえなくなる。しかしルターに触発された人々の暴動は止むことなく各地に広がっていき、その後「農民戦争」(Deutscher Bauernkrieg)と呼ばれる大反乱にまで発展してしまう。その際にルター自身は、領主側について反乱鎮圧を支持する側にまわることになる。

その一方で、ルターの言説それ自体は少しずつ教会側にも認められていく。カトリック教会への抵抗の態度から「プロテスタント」と呼ばれるようになったルター派の人々は、1530年のアウグスブルク帝国議会において「アウグスブルク信仰告白」(Augusburger Bekenntnis)と呼ばれる信条宣言を提出し、皇帝カール5世もこれを認めざるをえなくなる。

またルターは、1525年に、修道女であったカタリーナと結婚している。これは、聖職者の結婚を禁止してきた教会の伝統から逸脱した行為であるのだが、ルターは聖職者の結婚を認める立場をとり、彼自身カタリーナとの間に6人の子供をもうけている。またその後もルターは生涯を通じて旧約聖書の翻訳や執筆活動に精力的に取り組み、1546年に故郷であるアイスレーベンにおいてその生涯を閉じる。

 

宗教改革者であり、文化史上の参照点としてのルター

教会によって販売される「免罪符/贖宥状」への批判、聖書に基づく個人的な信仰の強調、神の裁きへの畏れにではなく神の愛による恩寵にこそ核心を見るキリスト教観、そしてこれらの考えに基づいたルターの「宗教改革」の要求は、その後カトリックに対してプロテスタントが誕生する道を準備することになった。この意味でルターが近代キリスト教の礎を築いた人物の一人であることは、間違いのないことだ。

もっとも、キリスト教という枠組みを離れても、欧米文化におけるルターの意義というのは軽視できるものではない。そもそもの大きな話にはなるが、現在の欧米文化の礎がカトリックやプロテスタントといった諸宗派の緊張関係から成るキリスト教文化から発展してきたものであることに鑑みれば、プロテスタント信仰の道を準備したルターの意義は、ゆうに狭義のキリスト教の問題圏を超えていくことになるだろう。だからこそ、必ずしも神学や宗教学を専門に勉強しているわけでもない私のような人間でさえも、しばしばルターの名前に突き当たるのだ。

具体的な例を挙げれば、ヘブライ語および古典ギリシャ語で書かれ当時教会ではラテン語で読まれていた聖書をルターがドイツ語に翻訳したことには、聖なる書物を、ひいてはそこに書かれた知識を、聖職者による独占から民衆の手へと解放したという側面がある。また、ルターらによって準備されたプロテスタント的な禁欲と勤勉の倫理が、のちに資本主義が発展するための精神的な土台になったというマックス・ウェーバーによる議論も見逃せない(このことが直接ルターに帰せられるべきかというのは考える余地があるだろうが)。ルターによる宗教改革は、狭義のキリスト教の枠を超えて、欧米文化の歴史を考える上では欠かすことのできない重要な参照点の一つなのだ。

さらにドイツにおいてルターは、彼がドイツ語による著作活動を展開したばかりか聖書をドイツ語に翻訳した人物だということもあって、ある種特別な力点をおいて語られることがある。つまり彼はしばしば、必ずしもルターその人のものではない色々な理念を投影されて理解されるのだ。時にはドイツ民族の形成に寄与した国家の英雄として、時には封建的な教会制度と戦った反権威の勇士として、また時にはあるべきキリスト教信仰のあり方を模索した誠実な信仰者として。ルターの生涯やその活動は、どこに強調点をおくかによって、全く異なった仕方で理解されることができる。だからこそ、ルターについての語りもまた、時代や場所、あるいは文化的コンテクストによって、多面性を帯びたものとなる。

 

映画におけるマルティン・ルター

このことは、どうやら映画にもあてはまるようだ。ルターに関する映画は、独語版のWikipediaに掲載されているだけでも、劇映画が19本、ドキュメンタリーが13本製作されている(Lutherfilmの項目を参照。2017年8月11日現在)。私はこのなかから、近所の映画館で以下の三本を観ることができた。

 

・ハンス・カイザー「ルター、ドイツ宗教改革の映画」(Hans Kyser "Luther – Ein Film der Deutschen Reformation" DE 1927)

・クルト・オェテル「従順なる反乱」(Curt Oertel "Der gehorsame Rebell" BRD 1952)

・エリック・ティル「ルター」(Eric Till "Luther" DE/US 2003)

 

興味深いことに、この三本の映画におけるルターの描かれ方には、それぞれの時代の文脈や製作者の思惑のようなものが、それぞれなりの仕方で反映されている。それゆえこれらの映画について考えることは、ルターという人物の多面性を考えることであると同時に、その映画が製作された歴史的・社会的文脈を考えることでもある、と思う。

というわけでこれらの映画について書いていきたいのだが、ここまでの前置き部分でもってかなり記事が長くなってしまったので、映画それぞれについてはまた次の記事で書きたいと思う。

関心のある方は、その②の記事その③の記事もぜひ。

filmreview.hatenablog.com

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*1:言い訳がましいが、専門家でもなんでもなく拙い予備知識しか持たない人間が映画で観たこととインターネットで得られる情報とに基づいて書いていることなので、かなり怪しい記述もあるのではと思う。なので、もし間違いや不正確な部分などあったら指摘していただけると有難い。