映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

苦境の末に偉大なものが訪れるという、空想のなかの芸術家の神話(ヴェルナー・クリングラー「ソリスト、アンナ・アルト」/Werner Klingler "Solistin Anna Alt" 1944年)

ヴェルナー・クリングラー「ソリスト、アンナ・アルト」(Werner Klingler "Solistin Anna Alt" DE 1944)を鑑賞。

この映画の主演女優であるアンネリーゼ・ウーリヒ(Anneliese Uhlig)がつい先日齢99で亡くなったそうで、その追悼の上映であったようだ。ウーリヒは、ナチス体制下のドイツにおいてゲッペルス主導の国策映画への出演を拒否したことから1942年以降ドイツ国内での映画出演が制限され、当時は主としてイタリアで活動していた。戦後はアメリカに移住したが、ドイツの映画やテレビにも度々出演してきたとのこと。本作「ソリスト、アンナ・アルト」はナチス体制下ドイツにおいて彼女が主演した数少ない映画の一つだということだ。

 

おおまかな感想、印象

ナチス体制下のドイツしかも1944年公開の映画だということで、どんなものかなと思って観たのだけれど、思っていたよりもずっと丁寧に作られており、最後まで飽きずに観ることができた。アンネリーゼ・ウーリヒ(Anneliese Uhlig)演じるピアニストのアンナと、ヴィル・クアドフリーク(Will Quadflieg)演じる作曲家ヨアヒム・アルトとの間の愛情と葛藤を軸にした音楽映画で、映画中で何度か為されるオーケストラ付きの演奏会の場面はそれ自体聴きごたえがあるものだった。また両主人公の演技もよく、とりわけ前半の、幸せな結婚生活が二人の才能のズレから少しずつ軋み崩壊していく様は、丁寧に描かれていたように思う。

もっとも、露骨な政治的主張こそなされていないとはいえ、いかにも国家社会主義時代のドイツの映画だな、と思わせるようなモチーフもいくつかあった。それが顕著なのは、後半、苦境を耐え忍べば天啓が訪れ、悪化した事態も宥和するに違いないというある種神話的な理念が、アンナとヨアヒムという二人の芸術家に投影されていた点だ。苦難の末に偉大な作品を生み出す芸術家というこの神話は、1944年に実際にきわめて厳しい歴史的状況に立っていたドイツ国家と重ね合わされて理解されたかもしれない。しかしこの神話は空想の中のものでしかない。そこでは天啓のご都合主義も、また苦境のなかで生じてしまった痛ましい犠牲も、ほとんど等閑視されてしまっている。

 

あらすじ

音楽学校で知り合ったピアニストのアンナ・アルトと作曲家ヨアヒム・アルトは、音楽大学の卒業時には揃ってモーツァルト賞を受賞し将来を嘱望された音楽家だった。卒業後に結婚し幸福な結婚生活を始めた二人だったが、やがてヨアヒムは構想中の交響曲の作曲がうまく進まないことにストレスを感じ始め、ついには鬱状態になって仕事に手がつかなくなってしまう。アンナは当初内助の功としてヨアヒムを応援したいと考え、自らのピアニストとしてのキャリアを追わずピアノの家庭教師などで収入を得ようとするが、家計は苦しく、ヨアヒムの精神状態も悪化していく。その折、二人の窮状を見かねた音楽大学での恩師ブルクハルト教授は、アンナがソリストとしてコンサートツアーに参加して収入を得られるように取り計らい、ヨアヒムには一人で集中して作曲に取り組むよう勧める。

アンナは持ち前の才能からコンサートツアーで大成功を収めるが、同時に楽団の音楽総指揮者ヴェストベルクに見初められるようになる。それでもアンナは、ヴェストベルクの求愛に対して、自分はあくまでヨアヒムのために活動しているのだと告げる。しかしヨアヒムは、ソリストとしてのアンナの成功やヴェストベルクとの関係への嫉妬から、精神状態をどんどん悪くしていき、ツアーの合間に帰宅したアンナにも拒絶的に振る舞い家から追い出してしまう。アンナが家を出た後、ほとんど精神錯乱状態にあったヨアヒムは突然、交響曲の構想を思いつく。しかし彼はそれを完成させることができなかった。

その折にアンナは、自分が心臓の病を抱えておりもはやコンサートに耐えうる身体でないことを知らされるのだが、それでもヨアヒムのためにとコンサートに出演し続ける。そしてついにアンナは、大盛況のコンサートの直後に倒れ込み危篤状態で病院に運び込まれる。後から病院に駆けつけたヨアヒムは、ずっと付き添っていたヴェストベルクに、命が助かるかわからないこと、また彼女は彼のせいでこうなったのだと叱責される。そこでヨアヒムは、彼の交響曲に欠けていた最後の要素を思いつき、自宅に帰って交響曲を完成させる。そして完成した楽譜をもって病院に向うと、アンナは息を吹き返しており、交響曲の完成を喜んでくれる。こうして付き添っていたヴェストベルクは帰らされ、二人は再び愛を確かめ合う。

 

理想と現実の間の軋み、芸術家に要求される「偉大なものの産出」という神話的理念

既に書いた通り、映画の前半、才能を認められ成功していくアンナと、思うような成果が出せずアンナへの嫉妬や劣等感から精神を壊していくヨアヒムの関係がだんだんと軋んでいき崩れ落ちていくそのプロセスの描写は、とても丁寧で見応えのあるものだった。それは二人が結婚生活のはじめに思い描いた理想と、実際に直面せざるをえない現実との間の軋みでもあるだろう。

映画の最前半でヨアヒムがアンナに、自分が作曲した交響曲が演奏されるときにはその告知に「作曲/指揮 ヨアヒム・アルト、ソリスト アンナ・アルト」と載るんだ、と嬉々として将来の空想を語るシーンがある。しかし現実にヨアヒムはまともな作曲ができないまま、ヴェストベルクの指揮のもとで「ソリスト アンナ・アルト」という告知が掲示されるのを目にしてしまう。これはヨアヒムが理想と現実のギャップを決定的に自覚せざるをえなくなったことを象徴するシーンだろう。自らの才能の限界に突き当たり心を壊していくヨアヒムという人物の描写には鬼気迫るものがあり、端的に見応えがあった。

しかし映画では、劣等感や焦燥感から明らかに精神に異常をきたし始めているように見えるヨアヒムに対して、妻アンナも恩師ブルクハルト教授も一貫して作曲を諦めないように説得する。曰く、芸術家とはそういうもの、つまり破滅か栄光かの岐路のもとで生きる存在であるのだから、ヨアヒムも現在の苦境を耐え抜き作曲家としての成功という目標に邁進しなければならない。そこではまるでヨアヒムという一人の人間などどうでもよい存在であるかのようで、芸術家としての彼が産み出す——と期待される——偉大な作品こそが重要であると言われているかのようだ。自らに押し付けられたこの「偉大なもの産出」という理念にとことんまで追い詰められたヨアヒムは、最愛の存在であったはずのアンナに暴言を吐き、彼女が彼を見放すように家から追い出してしまう。

 

苦境の末にこそ偉大な成果が訪れる、という芸術家の神話

驚くことに、アンナが彼のもとを去りもはやあとは破滅するだけだという状況になったそのときに、突如ヨアヒムのもとに——まるである種の天啓のように——交響曲の構想が思い浮び、彼はそれを一気呵成に完成間際まで書き上げることができるようになる。またその後でも、アンナが心臓の病で倒れ危篤状態にあることを、しかもそれが自分のせいなのだということを知らされたそのときに、ヨアヒムのもとに再び啓示が訪れ、彼は交響曲を完成させることができるに至る。

これではまるで、人生を苦境に陥らせれば自動的に偉大な着想が飛来してくるといったような、自動装置が存在するかのようだ。ここではアンナとの破局も、またアンナの病気や昏倒でさえも、芸術作品という偉大さに奉仕するための道具立てのようなものに変じてしまっている。前半では丁寧に描かれていた彼らの人間性も、後半に至っては全て交響曲という偉大な成果へ奉仕するものへと変じてしまっている。それだからこそ、交響曲が完成した暁には、病床のアンナとヨアヒムは——まるでそれまで彼らのもとに訪れた破滅的な事態をすっかり忘れ去ったかのように——心からの笑顔を見せることができる。こうして映画の後半を、苦境の末にこそ偉大な成果が訪れるのだという芸術家神話が支配することになる。

決して私は、作品を産み出すという作業が苦しみを伴うものであることを、またなにかしらの苦難の極まりがよい作品を生み出す機縁となりうることを否定したいわけではない。先日の記事で書いたヨーゼフ・ボイスの「挑発」概念ではないが、外的な状況への反発から芸術創造のエネルギーを得るということは芸術家と呼ばれる人々においてしばしば生じることなのだろう。しかしこの映画におけるそれは、あまりに図式的で、あまりにご都合主義的で、そしてあまりに犠牲に供されたものへの顧慮が少ないものであるように感じた。明らかに病的な兆候を示していたヨアヒムの精神状態も、再び舞台に立つどころか日常生活に戻れるかもわからないアンナの心臓の病も、交響曲の完成に奉仕することができればそれで清算されてしまったかのようなのだ。

 

歴史的文脈と「自己犠牲」の理念

もちろん、このようなモチーフから直接的に何かしらの政治的プロパガンダを読み取るというのは短絡的に過ぎるだろう。ただそれでも、この映画には明らかに、当時の、1944年のドイツという歴史的場所の時代意識が反映されているように思う。そもそもベートヴェンのようなドイツ文化が生んだ作曲家やその古典的作品の偉大さを臆面もなく賞賛するというそのこと自体が、当時においては否が応でも若干の政治的含意をもってしまうのだが、話はそれに尽きない。というのも、もはや思い描いた理想の遂行が不可能であることが露呈し、決定的な解決策も見いだせず、かといって現実を受け入れて後退することもできない、という歴史的状況にあった1944年の国家社会主義ドイツにおいては、苦境を耐え忍び理念に忠実であれば最終的には天啓の助けによって偉大な成果を得ることができるはずだというこの映画のモチーフは、それなりに魅力のあるものに感じられただろうからだ。

そして実際に映画の登場人物たちは、まるで当時ドイツ国民に求められた「自己犠牲」の理念をそのまま体現したかのような動き方をしている。女性であるアンナは、夫の偉大な仕事のために自らのキャリアを諦め、自らを傷つける夫に忠実に奉仕し貞淑を保ち続け、自分がどんな目に合わされてもそれを忘れて男性の偉大な成果をともに喜ぶ存在だ。そして男性であるヨアヒムは、精神が壊れようと身体が動かなくなろうと、たとえ無為の死という破局が迫っていようとも、偉大な理念の実現を信じて行為し続けなければならない。このような「自己犠牲」の理念を体現していたからこそこの映画は、さほど露骨な政治的プロパガンダを取り入れることがなくとも、当時のドイツにおいて上映されることができたのではないだろうか。*1

 

空想の二面性、現実とのギャップ

この映画における天啓のご都合主義や犠牲の宥和はしかし、空想のなかで思い描かれたものでしかない。現実にないものを空想する力——或いは端的に想像力——というものは、一面では現実を乗り越えて別の可能性に向うことができるものではある。しかし他面でそれは、現実を現実に即さないものと取り違えて、想像による粉飾をもって現実を理想化してしまうことがあるものだ。

この映画におけるような空想のあり方——苦難と犠牲の末に天啓が訪れるに違いないという神話的な思い込み——もまた、それがあくまでも空想された願いに過ぎないということが自覚されてさえいれば、また違った現れ方をするのかもしれない。しかしその空想が現実と取り違えられるときには、事態は少なからずおぞましい様相を呈し、現実に生きる人間の生でさえ容易に犠牲に供されかねない、ということになる。

ところでこの映画のなかでもっとも私の印象に残ったのは、まだ幸福な恋人同士であったヨアヒムとアンナが、二人で住む住居を探してまだ家具もない空のアパートを見学するシーンだった。二人はそこで、将来の二人の生活や成功を夢見心地で語り合いながら、部屋の調度を空想する。ここに箪笥をおいて、そこに棚を、あそこにピアノを、向こうにあなたが座って作曲をして、私は…というように。体を大きく動かしながら空想に耽る二人の幸福そうな姿はとても魅力的なものだったのだが、同時に、何もない部屋のなかで踊るように動き回る二人の空想は、語られたことが未だ現実になっていないこと、それが頭のなかで想像されたものでしかないことを雄弁に物語ってもいた。

ここでは、空想と現実の間にあるズレがはっきりと自覚されていて、二人はそのズレのなかで踊っていた。もしかするとこのシーンは、この映画の後半の神話もまた、空の部屋のなかで思い描かれた空想に等しいものでしかないということを、暗示しているものなのかもしれない。

*1:もっとも、このことがどこまで監督や製作者の意図と合致しているのか、どの程度検閲する当局側の要望が反映されているのか、その点の詳細は私にはわからない。映画「ソリスト、アンナ・アルト」は少なくとも、全面的に国家社会主義当局のお気に召すものではなかったようだ。というのもこの映画は、1944年当時に検閲によって「青少年の鑑賞禁止」(Jugendverbot)という判断を下されているからだ。