映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

1910年代のサイレント映画に見る、性別の「らしさ」の揺らぎ

先日、近所の映画館で、クロスドレッシングをモチーフにした1910年代の無声映画を三作品まとめて観ることができた(有難いことにピアノによる生伴奏つき)。以下、それについて書きつつ、性別ごとの「らしさ」という固定観念の揺らぎについて考えてみたい。

 

クロスドレッシングというモチーフについて

クロスドレッシング(Cross-Dressing: 異性装)とは、一言でいえば、異性の服装を身に着けることだ。理由や動機はなんであれ——自らに押し付けられた「性」への抵抗のためであれ、慰みや性的興奮のためであれ——男性が女性のものとされる衣服を身に着けたり、女性が男性のものとされる衣服を身に着けたりすれば、それがクロスドレッシングだということになる。もともとは1910年頃から「服装倒錯」(Transvestitismus)という医学用語が同じ意味で用いられていたらしいのだが、1970年代アメリカにおいてその病的なニュアンスを避けたい当事者たちが「クロスドレッシング」ないし「クロスドレッサー」という言葉を使い始め、それが人口に膾炙していったのだという。

もちろん、言葉の歴史とは別に、異性の服を身にまとうことそれ自体は古い歴史を持っている。旧約聖書に異性の服を身にまとうことを禁じる一節があるのだが(申命記22-5:「女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。」)、異性装が禁忌として名指されるということは、逆に言えば当時そのような行為がある程度流布しており問題視されていた傍証でもあるだろう。そして古来、少なからぬ物語や逸話、或いは文学作品や劇作品において異性装のモチーフが見出される。この意味では、クロスドレッシングという言葉は比較的新しくとも、そのモチーフそれ自体は目新しいものではない。

とはいえ、それが「服装倒錯」という医学用語として名指されたことにも見られるように、20世紀初頭のヨーロッパ文化において異性装なる事態がそれまでにない仕方で人々の意識に登ってきたという側面はあるようだ。このことは、第一次大戦前後に顕在化した没落の意識——ヨーロッパ的近代文明はもはや没落しつつあるのだという意識——と無関係ではないだろう。既存の倫理や道徳といった「当たり前」の常識への信頼感が揺らぐその時には、性的な「当たり前」も揺らぐ。そのような文脈において、クロスドレッシングにおけるような既存の性的役割の逸脱は、一方では文明の崩壊を促進する危険な兆候と見做されるとともに、他方ではお仕着せの常識の枠を超えた魅力的なものとして人々の目に写ったのかもしれない。当時にはクロスドレッサーのためのキャバレーのような場所もあったらしく、その様子を描いた版画を以前どこかの展覧会で見たことがあり印象に残っている(詳細は失念してしまったのだが…)。

 

1910年代の無声映画におけるクロスドレッシング

このように見ると、クロスドレッシングというモチーフが1910年代の無声映画のうちに登場してくることは、さほど不思議なことではない。もっとも、当時の映画における男装や女装は、基本的には人々を楽しませ笑わせるための喜劇の一要素でしかなく、それによって何かを問題化しようとか既存の常識に逆らって何かを主張しようとかいう意図はほとんど見られない。そこでは依然として「男性らしさ」や「女性らしさ」という固定観念が前提されていて、異性装はそれを逸脱するものとして笑いの対象になっている。

しかしそれでも、当時の常識の枠のなかで演ぜられる映画のうちに、それぞれの性別に割り当てられた「らしさ」という固定観念が揺らぎ始めていることへの意識を、ある程度まで読み取ることもできるだろう。そしてこの意識は、男性と女性という二分法的な性の枠のうちにあらゆる人間を還元することへの疑問視や、その枠のなかで期待される性的役割をそこに適合しない者に押し付けるような社会的暴力の問題視にも、潜在的には通じているはずなのだ。

例によって前置きが長くなってしまったが、このような観点を意識しつつ、クロスドレッシングというモチーフが登場する無声映画作品について簡単に書いていきたいと思う。私が先日観ることができたのは、次の三作品だ。

 

・ウアバン・ガーズ「ツァパタ団」(Urban Gad "Zapatas Bande" DE 1914)

・マグナス・スティフター「恋のABC」(Magnus Stifter "Das Liebes-ABC" DE 1916)

・エルンスト・ルビッチ「男になったら」(Ernst Lubitsch "Ich möchte kein Mann sein" DE 1918)

 

以下、それぞれについて簡単に書いていく。

 

スター女優が扮した強盗団首領に、地元娘が恋をする(ウアバン・ガーズ「ツァパタ団」/Urban Gad "Zapatas Bande" DE 1914)

デンマーク出身で無声映画時代のスター女優であったアスタ・ニールセン(Asta Nielsen)が本人役で出演。あるドイツの映画制作チームが、アスタを主演に強盗団の映画を撮影するためイタリアに赴く。しかし彼女らが強盗団の衣装に着替えて撮影をしたりふざけて地元の人々を驚かせたりしている間に、本物の強盗団が現われて彼女らの衣服や金銭をこっそり盗んでいってしまう。強盗団の恰好をしたまま言葉も通じないイタリアの山中に取り残されたアスタと撮影クルーは、地元の人々に助けを求めるも本物の強盗と勘違いされ追い払われてしまう。途方に暮れたアスタはやむなく地主の家に忍び込むのだが、入り込んだ部屋にいた地元の娘は強盗の首領に扮したアスタに恋心を抱いており、彼らに食料を恵んでくれる。やがて撮影クルーは地元の警察に追い詰められ捕まってしまうのだが、地元のドイツ大使館の助けで、最終的に彼らは釈放されることになる。

※YouTubeでは、強盗団に扮したアスタら撮影クルーがふざけて地元の人々を驚かすシーンが見られる。この時に助けられたと思い込んだ地元娘がアスタに惚れてしまう。

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この映画におけるクロスドレッシングのモチーフは、女優が強盗団の首領ツァパタに扮し、それによって地元娘に恋心を抱かれる、というところにある。もっともこの映画中の男装は、強盗団の首領というそれ自体特殊な扮装であるし、今でいうコスプレ的な要素というか、当時の人気女優を面白く披露するためのものという側面が強いような印象を受けた。そのためこの映画のなかに、当時における男性や女性の「らしさ」に関する問題意識のようなものはあまり見て取ることはできない。ただ1910年代当時の映画撮影の雰囲気のようなものの一端が見られるという点で興味深い一作ではある。

 

軟弱男を男らしく仕立てるため、女性が自ら模範的男性を演じる(マグナス・スティフター「恋のABC」/Magnus Stifter "Das Liebes-ABC" DE 1916)

こちらも主演はアスタ・ニールセンで、彼女が良家の娘リースを演じている。ある日リースのもとに、彼女の結婚相手となるべきフィリップがやって来る。しかし髭を蓄えた男らしい紳士を夢見ていたリースの前に現われたフィリップは、なよなよして男性らしさのない軟弱者だった。当初は悲しんだリースだったが、フィリップと話すうちに、自分が彼を男らしい男へと教育していけばいいのだと思い至る。かくしてリースは、フィリップにタバコとキスを教え、さらには叔母を訪ねるのだと家族を騙し、彼をパリまで連れて行く。

パリにおいてリースは、自ら都会的な紳士に扮し、夜遊びを通してフィリップに「立派な男性」を教え込もうとするが、彼女自身が調子にのって深酒をしてしまう。翌日二日酔いでリースがベッドから起き上がれないでいると、そこに彼女の父がやって来る。彼はリースが男装してごまかそうとするのを見抜き、フィリップから事情を聴き出す。最終的にリースの父は、女装した運転手とフィリップの逢引を仕組み、リースにやきもちを焼かせることでもって彼女にお仕置きをする。

※YouTubeでは、まだ見ぬ結婚相手をリースが夢想するシーンが見られる。以下の0:56~2:00あたりまで。

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この映画の中心にあるのは、バーナード・ショーの「ピグマリオン」を逆転したような、女性の方が男性らしくない男性を「立派な男性」に仕立て上げるという教育物語だ。面白いのは、リースが婚約相手フィリップの男性らしさの欠如を嘆くことと、彼女自身が理想の男性を体現するために男装するということが、重なり合っているという点だろう。

一方では、この映画においても模範的な「男性らしさ」が依然として望ましいものとして前提されている。リースにしてみれば、男性は髭をたくわえ、酒や煙草を嗜み、女性を巧みにリードできる存在でなければならないのだ。しかし他方でこの映画は、過剰な「男性らしさ」信奉を笑い飛ばし、皮肉ってもいる。そのことは映画の終盤、自らの理想の男性像を婚約者に押し付けるリースが、彼女の父が仕組んだ異性装によって——使用人を女装させることによって——戒められるという点にも見て取れる。またリース自身、自ら男装して模範的な男性として女性たちを楽しませようと振る舞った後にふと、「立派な男性」であり続けることは大変だと嘆いてもいる。ここでは、性別ごとの「らしさ」を遵守しなくてはいけないことへの懐疑の念が、はっきりと頭をもたげている。

もっともこの映画は、性別ごとの「らしさ」への過剰な信奉を皮肉りながらも、依然としてやはりあるべき性別ごとの役割を前提している。映画は、正式に結婚した二人が新婚旅行に向うシーンで終わるのだが、その際にはフィリップがチケットを購入する。これは映画の中盤でパリに向かう際にリースがチケットを購入していたこととの対比であり、フィリップが「あるべき男性」に一歩近づいたことの象徴であるだろう。男性は、過剰に男性的である必要はないにしても、せめて女性をリードする役割くらいは担うべきなのだ。逆に言うとここで女性は、リードされることを待つべき存在だということになる。

 

男になりたい少女が、男性を演じることを通して男性を知る(エルンスト・ルビッチ「男になったら」/Ernst Lubitsch "Ich möchte kein Mann sein" DE 1918)

主演は、無声映画時代のルビッチ作品ではおなじみのオッシー・オスヴァルダ(Ossi Oswalda)で、この映画でも彼女独特の大げさともいえるほどの表情や身振りの演技が見られる。良家の子女であるオッシーは、お淑やかで上品であってほしいという周囲の願いにもかかわらず、がさつで豪快な性格をしており、酒を飲み煙草を吸いつつ男性たちとカードゲームに興じ、女性家庭教師の手をやかせている。そんな折に新しい後見人として現れたケルステンは、オッシーを女性として厳しく教育しようとする。彼の厳しさに辟易したオッシーは思わず「どうして私は男の子として生まれなかったのかしら」と嘆く。

ある日オッシーは、後見人の目を盗んで、スーツとネクタイを身に着け、男性としてダンスホールへ出かける。そこで後見人ケルステンが女性といるのを見つけたオッシーは、彼の邪魔をしてやろうと話しかけるが、そのうちにケルステンと意気投合して酒を酌み交わし始める。明け方になって酩酊して馬車に乗り込んだ彼らは、運転手の誤解からそれぞれ反対の住まいに送り届けられてしまう。オッシーのベッドで目覚めてあわてて逃げ出そうとするケルステンは、ケルステンの寝室から泣きながら帰ってきたオッシーと鉢合わせる。しかしケルステンは、男装したままのオッシーを昨晩知り合った若者だと思い込んだままで、彼女がかつらを外すことでようやく事の顛末を理解する。そしてそこで彼らは、お互いが好き合っていることに気づき抱き合ってキスをする。幸福の表情のオッシーが「男になんかなりたくない」とつぶやいてケルステンの胸に顔を埋めるシーンでもって、映画は終わる*1

※この映画は英語字幕版がアップされている。オッシー・オスヴァルダの演技が印象的。

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この映画の前半は、それこそ「ピグマリオン」のような、女性らしさのない少女を淑女へと仕立て上げる教育物語の装いをもってはじまる。しかし物語が進み、オッシーの男装によって単線的な教育物語の様相が崩れていき、最終的にオッシーは、お淑やかさからはかけ離れた奔放で自己主張の強い女性として、後見人ケルステンと愛し合うようになる。この点でこの映画におけるオッシーは、淑やかであるべきだという因習的な「女性らしさ」のアンチテーゼをなす近代的女性の一つの雛形をなしている、と言えるかもしれない。 *2

また同時にここには、「恋のABC」同様、男性らしさを遵守することの困難さもコミカルに描かれている。男装したオッシーがダンスホールへ出かけるためにトラムで移動する際には、彼女は「男性として」女性に席を譲らなければならず、足を踏まれても「男性として」いちいち痛がることができない。またダンスホールでも、「男性として」人込みをかき分け女性を我が物にしようと躍起になる男性たちの姿がどこか滑稽なものとして描かれている。この意味でルビッチは、「男性らしさ」をも相対化している。*3

もっともこの物語全体に、やはり女性は女性として——たとえもはやお淑やかな「あるべき女性」としてではなく、自己主張の強い近代的な女性としてだとしても——男性に愛されてこそ幸せになれる、という前提があることは否めない。少年になりたがっていたオッシーも、最終的に女性として男性に愛されることに幸福を見出し、「男になんかなりたくない」と口にするのだ。これは物語としては綺麗な落ちではある。が、現代のジェンダー理論の観点からすると、この結末は、男性と女性という二分法や異性愛の正当化(潜在的には同性愛の排除)を最終的に強化するようなものに思われてしまうかもしれない。

ただしこの映画には、この観点からして面白いシーンもある。男装したオッシーと後見人ケルステンが酩酊する一連のシーンで、彼らは男同士の友情を語りながら、何度か恋人のようなキスを交わすのだ。物語の上では、単にケルステンが酩酊して男女の区別がつかなくなり、目の前のオッシーの「女性としての」魅力からキスをしてしまっただけだ、という風に理解できなくはない。そしてまたこのことが、彼が再び「女性として」オッシーを認識し直し、彼女にキスをし直すという映画の最後のシーンの伏線にもなっている。その意味でケルステンはホモセクシャルないしはバイセクシャルな人物として描かれているわけではないのかもしれない。とはいえここには——それをどこまでルビッチ自身が意図していたのかはわからないが——もはや二分法的な男女の区分やそれに基づく異性愛を前提しない性のあり方が、一瞬だけ顔を覗かせているのだ。

 

性別の「らしさ」の揺らぎ、笑いの対象からの変化

以上、クロスドレッシングを題材にした1910年代の無声映画に即しつつ、当時における性別の「らしさ」に関する意識について書いてきた。これらの映画はどれも喜劇作品であり、異性装というモチーフも基本的にはその喜劇性に寄与するものとして用いられている。この意味でこれらの映画で扱われているのは、現在のジェンダー理論におけるような因習的な性別のあり方への根本的な問題視とは異なるものであるし、そのような目線から見るとむしろ因習に則ったもの——場合によっては因習を強化するようなもの——にも写ってしまうかもしれない。

とはいえ、100年前後も昔の映画を現代の目から大ナタで断罪してそれで済ましてしまうのも、乱暴な話だ。むしろ古い時代の映画は、当時の意識を——今回の主題で言えば「性別」というものに関する当時の理解や意識を—— 映し出す一種のドキュメントとして観ることもできる。そしてそのような観点から見ると、異性装を主題にしたこれらの無声映画にはたしかに、性別に関する慣習や性別に振り分けられた「らしさ」という固定観念の揺らぎへの意識が反映されている。たとえそこでは未だ、その揺らぎの意識が決定的な問いにまでは先鋭化されていないのだとしても。

クロスドレッシングという題材は、その後の映画においても様々な仕方で取り上げられている。私の観たことがある有名どころでは、ビリー・ワイルダーの「お熱いのがお好き」(Billy Wilder "Some Like It Hot" US 1959)が典型的なクロスドレッシング映画だ。彼自身ルビッチの薫陶を受けたワイルダーの映画でも、男性が女性の衣服を着るというモチーフは依然として喜劇の要素として機能している。しかしこれがペドロ・アルモドバルの「オール・アバウト・マイ・マザー」(Pedro Almodóvar "Todo sobre mi madre" ES/FR 1999)になると、もはや異性装はそれ自体で笑いの対象ではなくなり、抑圧的ではない性のあり方を考えさせるものになっている(それどころかアルモドバルのこの映画では、男性と女性という二分法を前提にした「異性装」という概念の妥当性さえ揺らいでいるとも言える)。

21世紀になった現代でも、いまだ男性と女性という二分法的ジェンダー理解は多くの人々によって前提されているし、同性愛や性同一性障害、あるいはトランスジェンダーに対する偏見も根強く、「異性装」もいまだ——公的な場面やメディアにおいてさえ——笑いの対象として機能している。しかし同時に、二分法的な性別ごとの「らしさ」から逸脱するものを笑ってよいのだという前提は、もはや絶対的なものではなくなってもいる。

この意味では、現代において異性装それ自体を笑いの対象にするような映画を撮ることは困難になってきているだろう。ここに窮屈さを見る人もいるかもしれないが、私はむしろ、ここには人の意識の変化がかかっていると思う。かつて支配的な意識はかくかくしかじかであったということ——この場合は異性装が笑いの対象になっていたということ——それ自体を事実として否認する必要はないし、そのような意識のもとで制作された作品を必要以上に糾弾したり排除したりする必要もない(批判的な検討はもちろんなしうるし、場合によってはなされるべきでもあるだろうが)。しかし意識は揺らぎ、変化した。既存の枠にはまりえないものを無条件に笑いの対象にし、それによって抑圧・排除してしまうことの問題性がより広い範囲で自覚されるようになった。そのように変化した意識のもとでも、おそらくまた別の観点での意識の揺らぎが生じてくることになるだろうし、それがまた制作される作品に反映されることにもなるだろう。無理に過去の主題やモチーフを固守する必要はないのであって、むしろ現在だからこそ取り上げうる主題やモチーフがあるだろうと思うのだ。

*1:なお、映画の原題"Ich möchte kein Mann sein"は映画最後の台詞と同じく「男になんかなりたくない」という意味。邦題「男になったら」は、映画の主題を微妙に逸しているような気がして、少し残念に思う。この映画の主軸は、少女が男になってみるというそれだけのことではなく、男になりたがっていた少女が実際に男性になってみて最終的に「男になんかなりたくない」と結論を下すところにこそあるのだ。

*2:映画の前半で、煙草をやめないオッシーに対して「どうしたら女性が煙草を吸うことができるのかしら、まったく理解しがたいわ」と口酸っぱく説教をしていた女性家庭教師が、一人になった途端に取り上げた煙草を味わいにんまりと笑うシーンがある。ここでは、実際には旧習的な「女性らしさ」が女性の生を抑圧してきたことが、コミカルに示唆されている。

*3:ルビッチの「ベルリン生まれのマイヤー」(Ernst Lubitsch "Meyer aus Berlin" DE 1918)においてルビッチ本人が演じるザリー・マイヤーは、明らかに模範的な「男らしい男性」のアンチテーゼとして描かれている。落ち着きがなく精神的に弱々しく体力もないマイヤーは、始終「立派な」男性たちに白い目で見られながら、彼のことを「無害」だと評する気の強いキティに引っ張られて息も切れ切れに山を登るのだ。この映画でのマイヤーの描かれ方に鑑みると、ルビッチが支配的な「男性らしさ」を相対化しつつ、その枠からはみ出てしまうような男性のあり方に一定の関心を持っていたことはたしかだろう。なおこのマイヤーという人物は、単に「男らしい男性」のアンチテーゼというだけでなく、当時盛り上がりつつあった「ドイツ性」なる理念の枠からはみ出るもの(とりわけユダヤ性)の象徴でもあると解釈することもできるようだ。