映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

社会の枠のなかでラディカルに自由であろうとすること(アンドレス・ファイエル「ヨーゼフ・ボイスは挑発する」/Andres Veiel "Beuys" 2017年)

アンドレス・ファイエル「ヨーゼフ・ボイスは挑発する〔原題:ボイス〕」(Andres Veiel "Beuys" DE 2017)を鑑賞。5月ごろからヨーゼフ・ボイスに関するドキュメンタリー映画が公開されていることは知っており気になっていたのだが、近所の映画館で監督のトークセッション付きで上映されるということで観に行ってきた。ボイスに関する映画ということで、大いに期待して(自分のなかのハードルを上げて)観に行ったが、期待を裏切らずなかなか楽しめるものだった。勉強にもなったがそれだけではなく、観ながら何度となく声を出して笑ってしまったし、会場も大いに沸いていた。チケットを事前に買っておいたので問題はなかったが、当日は満席で、独特の熱気がある上映と質疑応答だったように思う。

 

死後30年経って、ヨーゼフ・ボイスを映画にするということ

前置きとして、少し私事を書く。

ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys 1921-1986)は、私にとって、長い間どこか得体の知れない存在だった。ドイツ語圏やその周辺の近代・現代美術館に行くと必ずといっていいほどボイスの作品が展示されていて、そのキャプションからは、彼がパフォーマンス・アートやヴィデオ・インスタレーションという現代芸術に不可欠な諸要素の先駆的存在であること、またドレスデン芸術アカデミーにおいてアンゼルム・キーファーやゲルハルト・リヒターら戦後ドイツを代表する芸術家たちの教師であったことを、知ることはできる。また戦後ドイツ文化に関する文章を読んでいるとしばしば、20世紀後半のドイツ語圏文化において彼が単なる芸術家の枠を超えた社会的なスキャンダルを引き起こしたということが書いてはある。けれど私は、これらのことを知識として持つことはできても、美術館に置かれた彼の作品と結びつけて理解することができないでいた。彼の作品は確かに面白い。しかしなぜ、写真のなかでいつもハットとベストを身に着けているボイスというこの人物が、戦後芸術における決定的な転換的となり社会的なスキャンダルになりえたのかということは、今ひとつ腑におちないままでいた。私にとっては、ボイスの作品と彼に関する客観的知識の間には、大きなギャップがあったのだ。

ファイエルのドキュメンタリー映画「ボイス」は、このギャップをある程度まで埋めてくれるものだった。膨大な量の写真や映像資料、またボイス自身の作品や公の場でのインタヴュー映像などを切り貼りして制作されたこの映画は、画面の切り替えや背景音楽の構成などといった編集の仕方も含め全体にあまりキッチュなところがなく、ドキュメンタリーとして洗練されたものだった*1。そして同時に、伝記映画としてボイスの生涯や活動を年代順に正確に伝えるというよりも、ボイスという極めて強烈な個性を観る者に魅力的に提示することに徹しているようにも思えた*2。このことは、私にとってとても好感の持てることであったし、端的にこの映画を観てよかったと思える点だった。というのも、少なくとも私にとっては、ボイスという個人を知ることは、彼の作品と評価との間にあるギャップを埋めることでもあるからだ。

おそらく、ボイスが活動していた当時には、彼の作品を鑑賞するということは同時に彼の強烈な個性や言動を踏まえることでもあったのだろう。そしてそのような空気を肌で感じてきた人々にとっては、この映画で提示されるボイスは既知のものでしかないのかもしれない。しかし彼の死後30年が経って、美術館に丁重に飾られた作品や写真あるいは彼について書かれた文章を通してしかボイスに触れたことがない私のような人間にとっては、個々の作品はもはや彼の残した痕跡でしかない。まさしくこの映画は、これらの作品を生成たらしめたボイスという個性や彼の生きた社会的な文脈を、具体的なイメージとして提示することをしていた。そしてこのことによって、時間の経過によって生まれてしまった個人と作品との間のギャップを埋め、特異かつ魅力的な個性としてのボイスその人を現前化させることを、この映画は試みていた。

ボイスという人間を映像のなかに現前化させるというそのことは、同時に、なぜ彼が狭義の芸術や美術の枠を超えて、社会的なスキャンダルにまでなったのかということを改めて説明する試みでもある。そしてこの試みに、この映画は成功していたと私は思う。

 

社会の枠のなかでラディカルに自由であろうとすること

映画のなかでは、インタヴューや講演等の映像も多く提示されているのだが、そこでのボイスの様々な発言は、一見すると矛盾しているか、或いは単に支離滅裂なように聞こえるかもしれない。しかしその実ボイスの言動は、社会が持つ既存の枠組みのただなかで、その枠組みのなかに固定されることに抵抗し続けるという点で、一貫した行動原理を持っている。まさしく彼は、社会の枠のなかでラディカルに自由あろうとするというその一点において、一貫していたのだ。

もっとも、社会の枠のなかで自由であるということは、ボイスの場合、目の前の社会に背を向けるということを意味しはしない。彼は決して、人と関わることを拒否して自然のなかに閉じこもることも、或いは自分が属する文化圏とは全く異なった時代や土地に没頭するということも、しなかった。彼は晩年に日本を訪れもしているが、だからといって——多くの芸術家がなすように——日本的な「美」を手放しで賞賛し自分の作品に取り入れるような安易なこともしなかった。むしろ彼は、彼が生まれ育った欧米近代文化の枠組みのなかでこそ活動する。実際に彼は、芸術家として様々な芸術祭に赴き、芸術アカデミーの教員となり、さらには政治家として選挙に立候補しさえする。さらに言えば、彼が好んで口にする芸術や自由、民主主義といった概念それ自体、近代的な社会の理念でさえある。この意味で彼は、近代的社会の枠のただなかで活動した人物だと言える。

しかしボイスは同時に、社会的な常識が期待する「型」にはまり込むことを、巧みに拒否し続ける。作品からして、当時の芸術家に望まれるようなものを作らずに、フェルトや脂質から不定形の異物を作り出し、それをぼとぼとと地面に置いていく。公のスピーチの場において、正装に身を包んだお偉方の前で、ゲップのような呻き声を延々と出し続ける。かと思うときわめて政治的な発言を進んでなし、社会的な彫刻の理念を語るばかりか、政党の立ち上げに携わり自らも候補として立候補する。しかしこれはある意味では、民主主義的な公共性や、個人の自由、芸術表現の自由といった近代的原理をつきつめた一つのあり方でもある。彼の言動は、近代社会の只中で、近代社会の理念に忠実に寄り添いながら、同時に既存の枠をはみだしていく。

掴みどころなくするすると常識的な「型」をすり抜けていく彼の自由な実践は、近代の枠組みのなかではさしあたり「芸術」として理解される。だからこそ彼は「芸術家」と呼ばれはする。しかしボイス自身は「僕は芸術家なんかじゃない」と言う。「でも我々みんなが芸術家だって前提するなら別だよ。それならやっぱり僕も芸術家だってことになる」。彼に言わせれば、「人間は誰しも芸術家なのだ」というのだが、それは誰しもが既存の社会の枠にはまらない、わけのわからないことを、それでも直観や想像に適った何事かを——少なくとも潜在的な可能性としては——なしうるのだということなのだろう。彼にとって重要なのは、既にある「芸術」という枠のなかで「芸術家」として名声を得ることではない。むしろ彼の行動原理は、既存の枠や型のなかに留まらないこと、そしてその意味でラディカルに自由であろうとすることにこそあるのだ。

 

わけのわからないものが動くための場所を開いておくこと

枠や型から自由であろうとすることは、同時にまた、枠や型に当てはまらないものを認め、そのようなものに動く余地を与えるということでもある。そしてボイスの活動は、或いは彼の作品は、まさしくこのこと、既存の枠や型にあてはまらないもの、知識の枠からこぼれ落ちるもの、端的に言ってわけのわからないものが動くための場所を開いておくということに結びついている。

 このことは彼の彫刻論からもはっきり読み取ることができる。ボイス曰く、作品を制作するとは、「不定形なものから出発し、動きの要素が加わり、そうして形式となる」(Unbestimmter Ausgangspunkt, Bewegungsmoment und Form)ということだという。このような意味での作品制作に際して適切な素材は、ボイスにとっては脂肪とフェルトであり、実際に彼は——決して「芸術」において主流な素材とは言えない——これらの素材から制作をし続けた。しかし同時に、不定形なものが動き形式になるというこの過程は、狭義の芸術制作にのみあてはまるものではないとも言われる。というのもボイスに言わせれば、人間の思考もまたこのような意味での彫刻作品のようなものであり、そのような意味で世界に働きかけることができるものだからだ。ここに彼の「社会彫刻」(Soziale Plastik)の理念の肝がある。

彼のラディカルな自由の実践は、まさしくこのことのための、不定形のものが動き形式になるための場所を確保するための実践でもある。しかし凝り固まった、既に形骸化してしまった近代の枠組みのなかでは、わけのわからないものが動く場所は、しばしば失われてしまっている。「芸術」という本来自由であるはずの場所においてさえ、あるべきスタイル、あるべき様式、あるべき振る舞いといったものが予め規定された枠となり、その枠からはみ出るものは排除されるか、そうでなくとも冷笑をもって遇されることになっている。かつて不定形のものが運動して生じたはずのいくつかの形式が、今では冷たく凝固した枠組みとして、不定形のものから動く余地を奪ってしまっている。

だからこそボイスは、この不定形なものが動くための場所を確保するために、既に一つの枠になってしまった近代的な「芸術」の在り方を解体しようとする。それも内側から、ある種の「挑発」(Provokation)を通して。彼は芸術家と呼ばれ、芸術家として様々な場所に招かれ、芸術家として芸術家らしい言動をすることを人々に期待される場所に赴く。しかしそこで彼は、一見するとわけのわからない表現や言動によって、彼に期待された定式を裏切っていく。「みんなはあなたをあまり理解していないようですが」というインタヴュアーの問いに対して、ボイスは、「いや、みんなは私のことをよく理解してくれているよ」と切り返す。彼にとっては、わかりやすいカテゴリーによって理解されないということが肝要であり、理解されないということは彼が理解されたということなのだ。このような意味で、彼の作品制作は同時に既存の枠組みの挑発として機能することになる。

まさしくこの「挑発」ということが、ボイスの行動にエネルギーを与え、ときに彼を観る人々の激情を駆り立てもする。だからこそ彼の言動や作品はスキャンダラスなものとなり、近代的な「芸術」概念を、そしてときには近代的な知や社会の構造そのものを、ラディカルな問いの前に立たせることになるのだ。ここにこそ、ボイス特有のスキャンダラスな魅力がかかっている。

 

「芸術家」という枠にはまることへのいくつかの拒否の仕方

ドキュメンタリー映画のなかで扱われていたインタヴューや逸話の全てに触れることはできないので、私にとって特に印象的だった幾つかの逸話についてだけ簡単に書いておきたい。

まず印象的だったのは、5年に一度カッセルで開かれる芸術祭ドクメンタ(documenta)に関する逸話だ。1964年に第5回ドクメンタに参加して以来彼は定期的にドクメンタに招待されているのだが、1972年に参加した際に彼は、展示されるべき作品を持参するだけでなく、「国民投票による直接民主主義のための機構」(Organisation für direkte Demokratie durch Volksabstimmung)と題して、会場に用意された一室で100日間毎日のように参加者たちと討論を行ったのだという。さらに1982年の第7回ドクメンタでは、「都市行政の代わりに都市緑化を」(Stadtverwaldung statt Stadtverwaltung)と題して、市民の募金を元手に7000本の樫の木を実際にカッセルの街に植樹するというプロジェクトを行いもした。芸術家が自らの作品を披露する場としての芸術祭において彼は、芸術家として招かれているにもかかわらず——或いは彼に言わせれば「芸術家」として招かれているからこそ、ということなのだろうが——作品を展示するのではなく、そこで実際に何かを行い、現実の社会に働きかけようとする。もちろん彼は、彼の実践が、現実社会にとってほとんど無力だということも知っているだろう。そしてそれだからこそ彼は、思う存分に、挑発行為ができるのだ。

またデュッセルドルフ芸術アカデミーでの逸話も面白いものだ。自らも同校で学んだボイスは、1961年から彫刻科教授となる。いわば社会的に認められた「芸術家」の枠の中に入っていったわけだ。しかしその際にボイスは、彼の講座に、参加を希望する全ての人を招待すると宣言する。アカデミーに合格しなかった者でさえも。このことは、開放性や自由という本来の芸術の理念には即しているが、とはいえ大学行政の観点から言えば暴挙この上ないことだ。結果、400人もの学生が彼の講座に押し寄せ、警察が介入する騒動になってしまい、最終的にボイスはアカデミーを解雇されてしまう。ここでも彼は、一方では既存の「芸術家」(あるいは「芸術大学の教員」)という肩書を身に着け、しかも既存の芸術の理念に忠実に従いながら、そのラディカルさによって既存の枠組みを挑発し、内側からひび割らせてしまったのだ。

もう一つ印象的なのは、彼の作品「私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」("I like America and America likes Me" 1974)についての逸話だ。この作品は、彼がニューヨークに1週間滞在した際の様子をビデオに収めた映像作品なのだが、なかなかインパクトのあるものだ。というのもその際ボイスは、ニューヨークの空港に到着するやいなや救急車によってあるギャラリーへと輸送され、そこで新聞や干し草、フェルトが置かれた部屋に引きこもりもっぱらコヨーテと時を過ごし、帰りもまた——他のどこに寄ることもせず——空港へと運ばれてそこから真っ直ぐに帰って行ったからだ。国際的な名声のある芸術家であった彼がニューヨークにやってくるということは、本来ならば、現地の芸術家や批評家や画商、場合によっては文化人や政治家などとも交流することが望まれる事態であったはずだ。しかし彼は、その期待には応えず、ただただ一匹のコヨーテと——近代アメリカから疎外された野生的存在の象徴である動物と——時を過ごすのみだった。作品においてアメリカを感じさせるものは、コヨーテが引きちぎり排泄物をこぼすニューヨークタイムスくらいしかない。凶暴なコヨーテと時を過ごしたというそのことだけに注目されがちなこの作品もまた、ボイスならではの近代性への挑発行為であり、近代的な「芸術」なるものの解体作業の一環であったのだ。

 

解体作業のアポリア、あらたな枠が生じること

ボイスのラディカルな自由の実践、そしてそれによる近代性の解体作業にはしかし、独特のアポリアがある。それは、彼が芸術家として認められ、彼の作品や言動が一つの「芸術形式」として権威を与えられることによって、それ自体が再び一つの枠組みに変じてしまう、ということだ。それによって、ラディカルな自由を求めるボイス的な挑発作業さえも、自由な運動を阻害する硬直した常識になってしまうことがある。乱暴な言い方をすれば、ボイスのようなことをしておけば芸術家として理解されうまくいけば権威さえ与えられるということになるのだ。しかしそのように権威づけられ理解されてしまった実践はもはや、理解されがたいわけのわからぬ不定形なものの運動とはまったくもって異なるものに変じてしまっている。

この映画で提示されるボイスの芸術活動の多くは、おそらく当時においては革新的で決定的なものであったのだろうけれども、彼の死後30年が経った現在においては、もはや見慣れたものになってしまっている。社会活動を伴う芸術実践、パフォーマンス・アートやヴィデオ・インスタレーションなどといった芸術形式は、21世紀のコンテンポラリー・アートにおいてはもはやそれ自体ではなんの目新しさもない、典型的な芸術家の活動様式だ。もちろんそのこと自体が悪いことではないが、もしそれが新たな枠になってしまって、何か別の運動の可能性を疎外してしまっているのだとすれば、それはむしろボイスが内側から壊そうとした枠組みと同じものになってしまっているということになる。

彼の死後30年、ボイスのドキュメンタリー映画を撮り、ボイスにあらためて光をあてるということは、まさしくこの点、彼の実践の根本的な衝動が持つ内在的なアポリアに再度目を向けるということでもあるだろう。彼が産み出した諸々の作品、現在——もはやある種の「古典」として——丁重に美術館に飾られている彼の作品という「形式」だけからは、必ずしも彼の衝動は現前してこない。既に書いたことだが、私のようにボイスと同時代に生きたわけではない者にとっては、なおさらのことだ。ボイスの場合、形式が生成する過程に、不定形なものが運動によって一つの形式へと化していくその過程にこそ、表現の核心がある。そしてまたそれは、理解しがたいわけのわからぬものに運動の場所を与えるための、ラディカルな自由の実践でもあるのだ。

そして、ボイスのこのラディカルな自由の実践を考え直すことは同時に、果たして我々が今生きるこの社会、21世紀の社会システムにおいて、どこまでこのような自由のための余地が——ボイスが求めたわけのわからぬもののための運動の場所が——残っているか、ということを考えることでもある。ここにはボイス独特の社会変革のための響きが聞き取れる。ただしボイスは、件の「社会彫刻」の理念によって、新しい形での暴力や抑圧を生み出しうるような別の社会システムを構築することを目指していたわけでは決してない。彼の作品制作にとって肝要なのは、自由な運動や自由な思考のための場所を——あえて言えば「遊び」の余地を——確保しておくことであり、そのために枠組みへの挑発をなすことだった。だからこそボイスは「笑い抜きに革命をしようっていうのですか?」(Wollen Sie eine Revolution ohne Lachen machen?)と問い、そして彼自身も笑うのだ*3。硬直した社会システムのなかで、わけのわからぬもののための場所を、笑うことができる遊びの場所を、確保しておくというそのことを、体現するように。

 

…書きたいことを書いていたらかなり長くなってしまった(本当はもっといろいろ書き留めておきたいことや連想したことはあるのだが、キリがない)。ごちゃごちゃと色々書いてしまって、私の文章からは伝わらないかもしれないが、単に勉強になるというだけでなく、端的にとても面白い映画だった。ボイスという極めて魅力的な題材が、その魅力を損なわないままに、魅力的な仕方で現前化されていたのではないかと思う。監督自身が望んでいたように、この映画で観たことを踏まえてまたあらためてボイスの作品を眺めてみたいし、その上でもう一度またこの映画を観てみたいとも思う。だからというわけでもないが、ボイスという芸術家について改めて考え直すきっかけという意味でも、ぜひ日本でもこの映画が公開されてほしいと個人的には強く思う。

*1:この映画のための資料収集と編集にはおよそ18か月を要したとのことで、監督ファイエルはこれまで制作したどのドキュメンタリー映画よりも時間をかけたのだそうだ。

*2:監督自身、上映の後、ボイスについて十分に描かれていない側面があるという彼の映画に対する批評に言及しつつ、そもそもこの映画ではボイスの全てを過不足なく伝えることを目的にしておらず、むしろこの映画を観て美術館に行ったり彼のことを調べてくれたりしてくれればそれでいい、というようなことを述べていた。

*3:1970年に社会学者かつ哲学者アーノルド・ゲーレンらとなした公開ディスカッション「挑発、社会で生きるための要素」("Provokation - Lebenselement der Gesellschaft")の席上でのボイスの発言。この討論会の様子はYoutubeでも見られるので、以下にURLを貼り付けておく。壇上の5人のうち向って左から二番目がボイス、右から二番目がゲーレン。件の発言は残念ながらここでは見られない。

www.youtube.com