映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

ほんの束の間だけ、絵画のなかできらめくように(ボー・ウィデルベルイ「みじかくも美しく燃え」/Bo Widerberg "Elvira Madigan" 1967年)

ボー・ウィデルベルイ「みじかくも美しく燃え」(Bo Widerberg "Elvira Madigan" SE 1967)を鑑賞。少し前に近所の映画館でウィデルベルイの懐古特集が組まれており、その枠のなかで観ることができた。

 

おおまかな感想、印象

絵画のなかのような美しき生活を夢見て、逃れられないはずの現実から精一杯逃避した二人の若者の映画。映像に強い拘りをもって制作された映画であることは確かで、草原や森の小道、川や海といった自然の情景が印象派絵画からあからさまに影響を受けた仕方で写し出され、その自然美のなかに19世紀ヨーロッパの富裕層を思わせる洗練された佇まいの美男美女が優雅に時を過ごしている。

身も蓋もない言い方をすれば、ここで演出されている自然美は19世紀市民社会の幻想に過ぎないものだ。もっともその欺瞞がもつ美しさと仮象性を描き切っているという点では、そこに一定の見ごたえはある。とりわけ、その体現者としてのエルヴィラを演じきった女優ピア・デゲルマルク(Pia Degermark)は印象的だった。彼女がこの映画でもってカンヌ映画祭の女優賞を獲得したというのも納得できるし、エルヴィラを演じたのが彼女でなければこの映画全体の空気は大きく異なっていただろうと思う。

またこの映画のなかには、単に美しい印象派絵画の世界が映像化されているだけではなく、絵画的な美のきらめきの仮象性、それが現実との間に持つ緊張関係も刻み込まれている。実際に、物語を通して優雅な情景を堪能し続けようとする二人の若者は、最初から最後まで一貫して現実に——彼らが必死で目を逸らし続ける現実に——追い立てられているのだ。見せかけの美とそれを脅かす現実との間の緊張関係こそが、この映画の魅力を成している。

 

簡単なあらすじ

19世紀末のスウェーデン、王国近衛兵であるシクステンは、サーカスの綱渡りのスターであるエルヴィラと恋に落ち、職務も家族も捨ててデンマークへと駆け落ちする。シクステンとエルヴィラはデンマーク郊外を転々としつつ自然のなかの優雅で幸福な生活に耽溺するが、衣食住に惜しみなく金を使う彼らの手持ちの金銭はすぐに底をついてしまう。

そこで彼らは、優雅な生活そのものは崩さないまま、湖で魚を獲ったり山で茸や木の実を獲ったりしてその場の飢えをしのぐようになる。エルヴィラは小さな居酒屋でダンサーとして日銭を得ようとするが、恋人が男性たちの野卑な目に晒されることに耐えられないシクステンは彼女を責めてしまう。また古い友人が彼らを訪ね元の生活に戻ることを説得しようとしても、彼らはそれを拒否する。

金銭も食料も尽き、エルヴィラが栄養失調でまともに歩くことさえできなくなったある日、二人はなんとかかき集めた食料をバスケットにつめ、優雅な服を身に着け、心中のために草原に向う。*1

 

印象派絵画のなかのきらめくような生活とその仮象性

プログラムの説明にも「印象派絵画から影響を受けたスタイルが世界中の観衆の心を捉えた」とあったが、実際にこの映画ではかなりの質で印象派の絵画の世界が再現されていて、個人的にはここまでするかと少し笑ってしまうほどだった。明るい自然光のなかで散歩をし、森の小道や草原にバスケットを下して食事をとり、陽光きらめく静かな川をカヌーで渡り、日の出がきらめく海岸で語り合う、明るい色を基調としたドレスや服飾を身にまとった優雅な若者たち。19世紀ヨーロッパの富裕層が憧れた自然美のなかでの生活が、登場人物たちによってほとんどそのままに体現される。駆け落ちした二人の男女は、全力を尽くして、自然のなかでのこの素敵な生活を維持しようと努める。まるで、一瞬一瞬を印象派絵画のきらめきのなかで過ごすことが、彼らが果たさねばならない義務であるかのように。加えて、これ見よがしなほどに繰り返され鳴り響くバックミュージックのモーツアルト「ピアノ協奏曲第21番」もまた、彼らが追い求める美しさを構成する一要素になっている。

とはいえ物語の最初から、この美しき生活が刹那的な仮象でしかないことは明らかだ。映像が始まる前、冒頭に流される説明文のなかで既に、彼らの逃避行が心中をもって終わることは暗示されている。そして映画中でも、現実が彼らのかりそめの理想の幸福を容赦なく追い立てていく。優雅な生活ゆえにすぐに底をついてしまう金銭の問題や、それに伴う食事や住まいの問題は絶えず彼らについてまわる。王国近衛兵の規則を破り逃げ出したシクステンは、脱走兵としてスウェーデン兵に追跡されており、いつ彼らの手におちるかもわからない。そのために表に出られない彼に代わってエルヴィラが働きに出はするが、彼女が男たちの野卑な目に晒されることにシクステンは我慢ができない。

仕事も金もない彼らはまともな食事を買えないので(しかも少し金が入るとすぐにレストランでの優雅な食事に使ってしまうので)、しまいには泥棒をしたり野山の木の実やきのこを拾い食いしたりするしかなくなってしまう。しかしそれでも彼らは浪費をやめず、きらめくような生活に固執し、現実に目を向けることを徹底して拒否し続ける。この生活が遅かれ早かれ何かしらの形で破綻するだろうことは、誰の目にも——彼ら自身にとっても——明らかなのだ。

 

迫りくる現実を前にした最期の瞬間

現実から必死に逃げ続ける二人の目の前に、それでも時折、決定的な現実が顔を出す。しかしそれでも彼らは、そこから必死に目を背けんと努める。シクステンの古い友人が彼が残してきた家族の問題を語るのに対して、エルヴィラは耳をふさぎその内容を聞くまいとする。また彼女は森で拾い食いしたキノコのせいで嘔吐してしまうが、自身の吐瀉物をすぐに落ち葉で覆い隠しシクステンに知られまいとする。現実をすべて捨ててきた彼らにとって、現実を見ることはもはや考えられなくなっている。

優雅な生活を維持する可能性がほとんど途絶えたように見えたある日、シクステンとエルヴィラは、なんとかかき集めたパンと卵をバスケットに入れ、精一杯のおしゃれをして、森の小道へと散歩に出かける。エルヴィラは、栄養失調で失神しながらも、頑として絵画のなかのように振る舞い続ける。彼女の最期の瞬間に至るまで。草原のなかに飛び回る蝶を追いかけまわす彼女の最期のきらめきが、この映画における最後の瞬間として静止する。たしかにそれは美しい、絵画のように。まるで迫りくる現実の影など微塵も感じていない裕福で無垢な少女の戯れを描いた、一枚の絵画のように。

 

自由と自然の賛歌か、それとも理想と現実の緊張関係か

この映画をどう解釈することができるだろうか。

一方でこの映画は、人間の自由と自然の光の賛歌として解釈することができるものだ。印象派の絵画が自然のうちの光のきらめきという瞬間の印象をキャンバスの上に描きとめたように、この映画も全てを捨てて自由と自然への愛に生きた二人の若者の瞬間の美を映像に収めたものだとして観ることができる。実際に監督の意図はそこにあったのかもしれないし、自由と自然の賛歌としてもよくできた映画ではある。最後のシーンも含めて、そういうものとして完結はしていると言えるかもしれない。

とはいえ他方では、印象派の絵画のなかの自然がちょうど19世紀市民の理想を反映した演出された自然であるのと同じように、映画のなかで二人が生きる自由や自然も、人工的に演出されたものに過ぎない。シクステンもエルヴィラも、決して動きやすく汚れても構わないような衣服を身にまとうことはしないし、陽光も差さず小道もない森の奥までかき分けて本格的に食料を探すこともしない。言ってしまえば彼らのやっていることはある種のおままごとの枠を出ず、自分たちが憧れていた優雅な生活の枠から出る生々しい自然へと足を踏み入れることは決してない。このことは彼らのほとんど理念的とも言える行動原理となって、それはそれで映画にある種の迫力を与えてはいる。

正直に言うと私自身は、個々の映像を綺麗だと思いはしても、絵画のなかのようなきらめきの世界をただひたすらに見せつけられるのは幾分か冗長に感じたし、自由や自然を賛美する映画としても少なからず退屈なものに感じた。そしてむしろ、物語を最初から最後まで支配している緊張感、理想を求めて捨ててきたはずの現実が再び彼らに迫ってくるというその緊張感にこそ、映画ならではの面白さを感じることができた。まさしくこの緊張感こそが、この映画の物語に一定のリズムと表情を与えているように思えたのだ。

ここには、理想と現実とのコントラストがある。現実を離れて理想の世界に逃げ込む二人の前に、理想をひび割らせてふたたび現実が侵入してくる。シクステンとエルヴィラは、この現実に完全に追いつかれてしまう前に、自らの手でもって理想の瞬間を静止させようとする。このこと自体きわめて人為的な演出なのではあるけれども、たしかにこの最期のシーンは、現実の汚さを拒絶する人間の理想が持つほんの束の間のきらめきの美しさをなんとか静止画にとどめようとするものとして、印象的なものではあった。*2

*1:近衛兵シクステンが綱渡りスターのエルヴィラと駆け落ちしたというこの逃避行それ自体は、19世紀末に実際にあった出来事で、北欧では有名な逸話なのだという。この逸話に関しては映画の冒頭でも簡単に触れられる。興味のある方は、映画のタイトルである"Elvira Madigan"で調べてもらえれば色々記事が出てくると思う。

*2:映画の最後を自然のなかで笑顔になる少女の静止画で終わらせるというその演出の仕方は、以前記事を書いたニコレッテ・クレビッツ「ワイルド」(2016年)のラストシーンと重なるところがある。これもやはり自然賛美の映画だ。もっとも「ワイルド」は、ひたすらに美しい理想的自然というよりもっと生々しく野生であることを模索した映画であり、自然であることの汚さや滑稽さまでも——それはそれで近代文明の憧れを反映したものではあるのだけれども——描かれている。この点で、二つの映画それぞれで自然というものが持つ表情は大きく異なっている。

また詩的かつ絵画的な仮象の美しさが逃れられない現実によって脅かされ、仮象のひび割れから現実がだんだんと顔を出してくるというその側面は、アラン・J・パクラ「ソフィーの選択」(1982年)を思い出させるものだった。もっともこちらの方はアウシュヴィッツといういっそう具体的な歴史上の事態を含みこんだものであるのだが。