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映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

1933年のキングコング。美女に殺される怪物よりも恐ろしいものの影(「キング・コング」/"King Kong" 1933年)

ある意味では時代にのって、そしてある意味では時代に逆行して、メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサック「キング・コング」(Merian C. Cooper, Ernest B. Schoedsack "King Kong" US 1933)を鑑賞。ちなみに最新版の「キング・コング」はまだ観ていない。

 

簡単なあらすじ

映画監督と急きょ選ばれた主演女優アンは、撮影のために映画クルーとともに船で伝説の「髑髏島」(Skull Island)へと渡る。髑髏島に上陸すると、島を区切るように築かれた高い壁の前で集まった原住民たちが儀式をしており、壁に設えられた扉に若い女性を捧げ祈っている。その儀式を撮影しようとした映画クルーを見て激怒した原住民たちは、やがて女優アンを捧げものにしようと迫ってくる。いったん船まで退却したクルーだったが、その夜、アンは原住民たちにさらわれてしまう。アンがいないことに気付いて慌てて島の壁へと向かうクルーだが、扉に着いたときに彼らが目にしたのは、髑髏島の主である大猿キング・コングが捧げものにされたアンをご満悦で連れ去っていく姿だった。森のなかに姿を消したコングを追って、クルーたちは島のジャングルへと分け入っていく。

ジャングルのなかでは、太古の恐竜を思わせる巨大な怪物が跳梁跋扈しており、クルーたちは苦戦する。大半が命を落とすなか、アンに恋をしていた船員がコングの住まう谷までたどり着き、命からがらアンを救い出すことに成功する。お気に入りのアンを奪われて激怒し、人里まで下りて暴れまわるコングに対し、映画監督はガス爆弾を投げつけ意識を失わせる。失神した大猿の化け物を見て彼は、ニューヨークまで連れて行って見世物にすることを思いつく。

ニューヨーク、ブロードウェイの劇場、堅牢な手枷足枷をつけられたコングは、着飾った聴衆の前で「キング・コング」として見世物にされる。当初は大人しくしていたコングだが、せわしなく焚かれるフラッシュの光に興奮し、桎梏を引きちぎって脱走してしまう。多くの建物や高速道路を破壊しながらニューヨークの街を暴れまわるコングは、やがて高層ビルのなかに隠れていたアンを見つけ出し、彼女を伴ってエンパイア・ステート・ビルに登る。しかしコングは、かけつけた空軍部隊の射撃によって傷を負い、そのまま地上へと墜落して、命を失う。そこに駆け付けた監督が一言、「怪物を倒したのは銃弾じゃない。怪物を殺したのは美女なのさ」。

 

怪物が美女をさらう、というモチーフ

言うまでもなくこの映画は大猿キング・コングをめぐる怪物譚であるが、ドイツ語のタイトル「キング・コングと白人女性」("King Kong und die weiße Frau)が示しているように、キング・コングが美しき女性アンに恋をし、彼女を島の奥深くへとさらってしまう、というのが話の軸をなしている。この意味でこの「キング・コング」は、怪物譚の王道の一つともいえる「怪物が若い女性をさらう」物語の原型でもあるだろう。

また、先日訪れた展覧会でたまたま知ったのだが、ゴリラそれ自体が19世紀になってようやく正式に「発見」されたものだそうで(まあ例によって欧米の学者からすると、ということなのだろうけど)、その当時からゴリラは野生的男性本能の象徴のような描かれ方をされていたとのこと。この「キング・コング」のイメージは、その一つの結晶でもあるようだ。

それにしても映画中のキング・コングの所作や表情には、その圧倒的な肉体の暴力性にもかかわらず、少なからず愛嬌を感じさせるものがある。泣き叫び気絶するアンを大事そうに手の平につつみこむコングには、どこかいじらしささえ感じてしまう。

もっとも、コングが暴れまわる特撮それ自体は、時代の制約にもかかわらず様々な工夫を持って表現されていて、なかなか迫力あるものになっている(今観ても飽きさせるものではなく、一見の価値があると思う)。その意味で、コングの描かれ方が怖くない、というわけではない。しかしそれにもかかわらず、物語の最後まで美女を追いかけまわしたすえに無残に命を失ってしまうコングは、どこか徹底的に恐ろしいものにはなりきれないような、観る者に同情の気持ちをおこさせてしまうようなところがある。そもそも彼は、暴れるためにニューヨークくんだりまで来たわけではないのだ。

 

キング・コングよりも恐ろしいもの

映画を観ていてよっぽど恐ろしいものに感じたのはむしろ、コングを捕えて見世物にしようと意気込む映画監督の方だ。自分が連れてきた映画クルーの大半が命を落としているにもかかわらず、ガス爆弾で失神した大猿を見てなによりもまずブロードウェイでのショーのことを考えられる彼の方が、ただ自分が気に入ったものを奪われて暴れるだけのコングよりも、よっぽど残虐で悪徳を感じさせる人物に描かれている。

そして実際にコングは、ただ見世物にされるというそのためだけに檻に閉じ込められ、両手両足に枷を付けられ、聴衆の前に放り出され、フラッシュの閃光に晒される。興奮して脱走し、好いたアンを見つけ大事そうに抱えてエンパイア・ステート・ビルに登るコングは、どこかいじらしく哀れでさえある。そして最終的には空軍の集中砲火をうけて落下し絶命してしまうコング。それを見て「怪物を殺したのは美女なのさ」などとどや顔でのたまうことができる監督の無責任さと無神経さの方が、コングよりもよっぽどおぞましい。特撮フィクションであることを差し引いても、そもそもあなたが連れて来なければ…と苦笑いをしてしまう。

監督のこのおぞましいまでにエゴイスティックな描写は、さすがに意図的になされたものだと思うのだけれど、どうなのだろう。原住民との対峙からコングのショーに至るまで、聴衆に受けそうなものを求めるという彼の一貫した行動原理は、ある意味では映画産業の行動原理を象徴してもいる。この意味で、この「キング・コング」という特撮映画は、映画そのものが孕む暴力性、大衆の耳目を集めるためには犠牲をも厭わない映画産業の暴力性を(おそらくは意図的かつ自嘲的に)可視化しているものなのではないかとも思う。

あるいはまた、キング・コングを、文明化や近代化の手が加わっていない「がゆえに」文明化・近代化された枠組みのなかで賞賛される作られた原始性の象徴だとして理解することもできるかもしれない。さらに言えば、コングが人間の美女にああまで——自分の命を失うまで——執着するこの物語には、原始性もまた文明化された「美」に抗えないだろうという産業文化のナルシシズムが読み取られうるかもしれない。いずれにせよこの映画は、キング・コングそのものの破壊の暴力性よりもむしろ、その描かれ方が印象に残るものだった。

 

さらに恐ろしいものの影

そしてもう一点。物語のクライマックス、エンパイア・ステート・ビルに登って暴れるキング・コングの姿を見ていて、どうしても連想してしまうものがあった。それは2001年のニューヨーク同時多発テロの映像だ。もちろんそこには、ニューヨークの超高層ビルというだけしか共通点がないので、これは私一個人の連想以上のものではないかもしれない。しかし超高層ビルから落下し絶命するコングの姿に、私は無意識に、あの9月11日の映像を重ねてしまった。しかしコングはしょせん、追い立てられるように高層ビルに登りはしたものの、射撃をうけて落下してしまった存在でしかない。むしろ人間の技術の産物である航空機こそが、現実において超高層ビルを崩壊させ、多くの人の命を奪うことになってしまった。おそらくはこの連想も、キング・コングが根本的に恐ろしいものに感じられない理由の一つだったように思う。

ついでに言うと、この映画の公開は1933年、ドイツでかの国家社会主義が政権をとったその年だ。ご存知の通り、それにつづく戦争の月日は、当時における最高度の人間技術をもって、最高度に非人間的な残虐と暴力が展開された日々だった。これも私一個人の連想に過ぎないかもしれない。しかしなんにせよ、現実の破局に比べると、この映画におけるコングの原始的な暴力は、どこか牧歌的なものにさえ見えてしまう。それよりもよっぽど恐ろしいものの影が、映像の内外に、ちらついていたのだ。