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映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

レジスタンスと解放の高揚感、転覆する列車と壁を這う蜘蛛(ルネ・クレマン「鉄路の闘い」/René Clément "La Bataille du rail" 1946年)

ルネ・クレマン「鉄路の闘い」(René Clément "La Bataille du rail" FR 1946)を鑑賞。「ヨーロッパ映画におけるレジスタンス」(Widerstand im europäischen Film)なる上映イベントの一環とのこと。それもあって映画前に専門家によるミニ講演もあった。

 

おおまかな感想、印象

ドイツ占領下のフランス、ナチスの監視下で鉄道の運営を強制されていた鉄道労働者たち。この映画は、彼らの抵抗運動を描いたものだ。もともとドキュメンタリーとして制作が始まったが、撮影過程で劇映画へと変更されていったものだとのこと。そのため、映画の中心となる鉄道労働者たちは、本職の役者ではなく実際にレジスタンスに参加していた労働者たちによって演じられている。この意味でこの映画は、フィクションとノンフィクションの狭間で制作されたものである、ともいえる。

以上の制作背景があり、しかも第二次大戦直後のフランスで制作された映画だけあって、ドイツ軍に抵抗した鉄道労働者たちは、勇猛果敢な英雄たちとして描かれる。彼らはあの手この手でドイツ軍による鉄道輸送を妨害し、交通網を麻痺させ、最後には輸送車両を転覆させることに成功する。映画の最後、占領から解放されたあとで、堂々とフランス国旗を掲げた人々を乗せた列車が走り去るシーン。その車両の最後尾に書き込まれた「フランス万歳!鉄道従業員たちも万歳!」という言葉。この歓喜の言葉は、ナチスドイツからの「解放」を謳う当時のフランスの国民意識の声であるだろう。それは当時の「解放」の高揚感を伝えるものであるが、同時に今の目から見るとどこか距離を欠いた、浮足立ったものにも聞こえなくもない。

無条件に面白いエンターテインメント作品でこそないが、一方では激しい戦闘や列車転覆という大がかりなシーンが、また他方では銃殺される人々の眼前で壁を這う蜘蛛にズームアップするような繊細な描写があり、なによりも映像表現としてなかなか見応えがあるものだった。

 

抵抗と解放の高揚感、「レジスタンス映画」の先駆けとして

映画前の講演では、この映画「鉄路の闘い」が「レジスタンス映画」の先駆けとなったこと、そして実際にその後フランスさらには世界中で製作されたその種の映画の手本になっていったことが、言われていた。

たしかに、この映画のレジスタンスの描かれ方、悪玉たるドイツ軍と秘密裏に抵抗する圧迫された労働者たち、という対比構造はわかりやすい。理不尽な暴力や虐殺にも屈せず、あの手この手を尽くして抑圧者たちに抵抗し彼らに混乱を生じさせ続ける労働者たちのレジスタンス運動は、観る者にある種の爽快感や高揚感を抱かせるものだった。この感情の高まりは、映画の最後のシーン、労働者たちのレジスタンスを讃えながら列車が走り去るシーンに極まっている。占領中はドイツ軍への抵抗の舞台であった列車や鉄路は、今や再びフランスの人々の手に戻り、そこを走る列車から身を乗り出す人々はフランス国旗を堂々と掲げている。ここで画面を占める独特の高揚感は、終戦直後のフランスが抱いたレジスタンスへの賞賛の感、そしてなによりも解放の歓喜の声の極まりとして理解できるものだろう。

とはいえ、画面に映し出されたこの歓喜の映像には、どこか距離を欠いた、浮足立ったものという印象も受けた。映画の主題である圧迫された者たちのレジスタンスそれ自体にシンパシーを感じることはできても、映画の最後のシーンを支配する勝利の高揚感には、どこか居心地の悪さを感じてしまった。この小さな居心地の悪さは、映画制作と描かれる対象との距離があまりにも近いこと、またそのそれゆえの直接的な肯定感から来ているのではないかと思う。或いはこの歓喜の高揚や肯定のなかで、映画の途中では繊細に描かれていたはずの痛みや嘆き、撤回できないはずの苦しみや傷がほとんどかき消されてしまっているということもあるのかもしれない。現実の戦争をある種の英雄譚へと語り直し、錯綜した歴史的出来事をある特定のグループの勝利や解放の歓喜に還元してしまうとすれば、この歓喜の声はそれ自体どこか国威発揚的な、どこかプロパガンダ的なニュアンスをもって響くところがある。それは、そこに身を合わせないものにとっては、どこか浮足立ったものにも聞こえる。

もっとも、もう少し距離をもった、観る者に戦争の現実を感じさせるようなレジスタンス映画が制作されるには、1946年というのは第二次大戦にあまりに時間的に近すぎるのかもしれない。その意味でこの映画はこの映画で、この時代この文脈だからこそ生じえたある特定の歴史的意識のドキュメントとして鑑賞するのが素直なのかもしれない。そしておそらく、戦後もう少し時間が経ってから、この映画を先駆者としつつ、多彩なレジスタンス映画が製作されていくのだろうとも思う。その意味でも、もう少し後に制作された同じルネ・クレマンのレジスタンス映画「パリは燃えているか」("Paris brûlet-t-il?" 1966)、またその他の監督による様々なレジスタンス映画も、ぜひ観てみたいと思う。

 

大きなものと小さなもの、転覆する列車と壁を這う蜘蛛

この映画において強く印象に残ったのはむしろ、幾つかの映像表現だった。

一つは、列車という大きなものの映像表現。この映画中において、鉄道というのは他ならぬレジスタンスの場であり、その上を動く車両群もまたきわめて緻密な質感をもって表現されていた。鉄の塊が密度をもって動くその様子、蒸気による車輪の回転が高まっていくその緊張感を映し出す映像それ自体が、この映画に一定の説得力を与えるものになっていた。

そして何より印象的だったのは、労働者たちの抵抗運動によってコントロールを失った列車が転覆して大破する場面だった。スピードを増し暴走していく長い車両群は、乗り込んでいたドイツ兵や戦車もろとも、脱線して荒野へと投げ出される。映画を通して圧倒的な質感を放っていた鉄の塊は、その中に積み込まれた生活とともに大破する。ドイツ兵のものであろうアコーディオンが、場違いな音律を立てながら転がっていき、やがて止まる。この場面は、レジスタンス運動の極まりであるとともに、戦争による崩壊の一つの極でもある。どうやって撮影したのか(どこまで本物の車両を用い、どこからが特撮なのか)はわからないが、列車という質量をもった鉄の塊が崩壊していくこの映像は、圧倒的なものだった。

もう一つ印象的だったのが、小さなものを追っていくその執拗さだった。映画としては前半から中盤にかけて、ドイツ軍に捕らえられた数人のレジスタンス参加者が壁に向けて立たされ順番に射殺されていくシーンがある。このシーンでカメラは、徹底して最後に銃殺される一人の労働者に定位し、彼の表情の変化、彼の見るもの、彼の聞く音、彼が触れるものを、しつこいまでに緻密に追っていく。

涙をたたえた表情。壁を這う蜘蛛。汽笛ともに吐き出される蒸気機関の煙の散逸。けたたましい汽笛。握られる手。隣に立つ労働者たちが打ち抜かれていくその銃声。握られる手。閉じられる眼。「打て」という乾いた命令の声。最後の銃声。立ち上る煙。

ここで彼の最期の瞬間それ自体は描かれないのだが、それがかえって、そこに至るまでの密度の高い映像描写と相まって、一人の抵抗者の銃殺というこの事態を忘れがたいものにしている。ディティールへのこの執拗なまでの拘りもまた、この映画がもつ表現の力の一つの極をなしている。

列車の転覆という圧倒的な崩壊と、壁を這う蜘蛛にまで至る執拗なディティールへの固執。この対照的な映像表現こそが、映画の最後を占める解放の高揚感よりも、この映画を印象的で説得的なものにしているものだと思う。