映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

疲れ果てた死神と、この世を離れる門のイメージ(フリッツ・ラング「死滅の谷」/Fritz Lang "Der müde Tod" 1921年)

フリッツ・ラング「死滅の谷」(Fritz Lang "Der müde Tod" DE 1921)を鑑賞。チケットを買おうと並んでいたら、一人のおばさまが余ったらしいチケットを譲ってくれた。どうせ学割で安く買えるのにもらってよいのだろうかと思いつつも、あまり時間もなかったので、有り難く譲ってもらってしまった。

 

おおまかな感想、印象

比較的早い時代の無声映画だが、制約のあっただろうなかで奥行のある物語を映像化しようとするその試みは、見ごたえのあるものではあった。とりわけ自分の職務に疲れた一人の人物としての死神の描かれ方、またこの世を離れる門のイメージが、印象的だった。ただ全体に少し説明過多に感じたのと、イスラム世界やベネチア、古代中国(とおぼしき国)を描く下りについては、ステレオタイプだという印象も抱いてしまった。もっともこれが当時のドイツにおける「東洋」や古代世界のイメージということなのかもしれないし、そういうものとして見る分には楽しめないこともない。映画全体を通した、この世における愛への執着が最終的にあの世での浄福に道を譲るというモチーフは、やや陳腐でかつある種の死の正当化に陥りかねないものではあったけれど、最後まで一定の緊張感をもって描き切られてはいた。同じフリッツ・ラングの「メトロポリス」(1927年)ほどの圧倒的な感想はなかったけれど、過渡期の秀作としては面白く観れた。

 

あらすじ

ある小さな町にやってきた一人の見知らぬ男。彼は墓場沿いの土地を借り受け、そこに窓も門もない高い壁を立てている奇怪な人物だ。この男は町にやって来た一組の若い夫婦に付きまとい、三人はレストランで同じ席に着くことになる。妻が少し席を外したすきに、彼女の夫はこの奇怪な男とともに姿を消してしまう。必死になって行方を捜す妻は、件の墓場沿いの壁にたどり着く。そこで彼女が目にしたのは、半透明の死霊たちが、通り抜けることができないはずの壁の向こう側へと渡っていく姿だった。そしてそのなかには彼女の夫の姿もあった。それを見て彼女は気を失ってしまう。

気を失った彼女は、通りかかった薬剤師に助けられ、彼の家で介抱される。そこで彼女は、偶然目にした「愛は死のように強い」という旧約聖書雅歌の一節に鼓舞され、彼の後を追おうと傍らに置かれた薬を飲みほそうとする。その瞬間、彼女の身体はふたたび墓場の壁の前に移される。あの高い壁に、今は門が開いている。門の中に足を踏み入れるとそこには例の人物——死神——が待っている。「あなたを呼んだ覚えはない」と口にする死神に向って彼女は、愛する人のところに行きたい、と懇願する。死神は彼女を、様々な長さの蝋燭で埋め尽くされた広間へと連れて行き、ここにある蝋燭の灯は全て人の生であり、彼女の夫はそれが尽きたのだ、と説明する。しかしそれでも彼女は食い下がり、愛は死よりも強いと信じているのだと強弁する。その彼女に対して、人々の死の苦しみを見守るのに疲れ果てていた死神は、なかば面白がるように一つの試練を与える。今まさに消えようとしている三つの蝋燭、このなかの一つの灯でも守ることができたならば、亡くなった夫の生を彼女に贈ることにしよう、と。

ここから、それぞれの蝋燭の物語が始まる。詳述はしないが、一つ目は、オリエントの世界で、カリフが自分の妹と恋愛関係にある異教者を処刑しようとする話。二つ目は、ベネチアの世界で、騎士ジロラモが、自分の婚約者の隠れた恋人の命を奪おうとする話。三つ目は、古代中国(Reich der Mitte)の世界で、魔術師たち一行が専制的な皇帝の誕生日を祝うよう命じられ、皇帝に見初められた魔術師の娘がその恋人とともに逃げ出そうとする話。それぞれの物語において女性は命を狙われる男性を助けようとするが、うまくいかず、蝋燭の炎は全て消えてしまう。試練に敗れた女は、それでもなお死神に夫の命を乞い求める。対して死神は、一時間以内に、まだ死ぬ運命にない人間の生を彼女が差し出すことができれば、夫の命をくれてやろうと答える。

ここで再び女の意識は薬剤師の家に戻る。彼女は薬剤師や、路上の物乞い、診療所の老人たちに、自分の夫のためにその命を譲ってくれと懇願して回るが、拒絶され、逃げまどわれる。そうこうしているうちに一人の老婆がランプを倒してしまい、それが原因で診療所が火事になってしまう。人々が逃げ出してから、診療所の二階に生まれたばかりの赤子が取り残されていることが判明する。女は脇目もふらず燃え盛る建物のなかに飛び込み、赤子のもとへ駆けつける。赤子を抱いた彼女の前に、死神が現われ、両手を広げる。ここで手渡せば、夫の生が取り戻せる。しかし彼女は、赤子を死神の手には渡さず、ロープを使って下で待っている人々に手渡す。 そして死神に、彼女自身を夫のもとに連れて行ってほしいと告げる。死神は彼女を、横たわる夫のもとへと導く。診療所は焼け落ちる。死神は二人の魂を、静かな丘の上に連れてゆく。二人は手を取り、身を寄せ合う。

 

疲れ果てた死神と、この世を離れる門のイメージ

この映画「死滅の谷」の原題"Der müde Tod"は、直訳すると「疲れた死神」ないし「疲れ果てた死神」であり、実際に死神が映画の中心人物をなしている。まず面白いのは、人々の生の終わりの苦しみを見まもり、人々に憎まれる自らの役回りに死神自身が疲れ果てている、という描かれ方だろう。プログラムの説明文には、この「死神が疲れている」という点に、第一次世界大戦の痕跡という時代批判のモチーフが隠れていると書かれていたが、正直に言えばここからそこまで読み取れるかというとなんとも言えないと感じた。ともあれこのベルンハルト・ゲェツケ(Bernhard Goetzke)演じる擬人化された「疲れ果てた死神」のイメージ、彼のニヒルで無表情ではあるがどこか上品でユーモラスさや優しささえ感じさせる所作は、なかなか印象に残るものだった。そしてこの死神は、自分の職務に倦んでしまっているからこそ、自分の夫の命を返してほしいと懇願する女性の願いに対して、なかば気晴らしに応答してしまうのだ。

 もう一つ印象的だったのは、死すべき者だけが通り抜けることができる死の世界へ抜ける「門」のイメージだった。特に、壁のなかのその門がいまだ見えていない女性の前を、死霊たちが静かに通り抜けていくシーンでは、映像が独特の緊張感と空気感をもっていたように思う。この映画のよいところは、この門の向こう側の死後の世界、つまるところ「あの世」を、そのものとして積極的に描くことをしなかった点だと思う。たしかに主人公の女性は門をくぐって死神に会いに行くのだが、そこで彼女が見たのはあくまでも生が灯る蝋燭の広間でしかない。彼岸の世界そのものは描かれず、あくまでもこの世界を離れるその境界線までしか可視化されていない。だからこそ、この世を離れる門の前で、未だこの世界に生きる女性とこれからこの世界を離れる死霊たちとが交錯するイメージは、一定の緊張感のあるものになる。その境界線の先は、イメージ化することもできないのだ。

この映画において、夫の生を追い求める女性は、あくまでもこの世界の幸福、これまで夫と過ごしてきた、そしてこれからも過ごすはずであった此岸の幸福に固執する。それは物語の後半で、自分には無価値に見える人々の命と引き換えに夫を取り戻そうとする彼女の見苦しいまでのエゴイズムに極まる。とはいえ最後の最後では、これからを生きる赤子の命を前にして、彼女自身はむしろこの世界を離れた彼岸で夫と一緒になることを選択する。最後に死神がつぶやく「自らの生命を投げうつ者こそが、生命を得るのだ」という台詞が象徴するように、ここでは、この世の愛への執着が、彼岸の浄福への願いに道を譲っている。この世での自己犠牲を勝利と見なし称揚するこの種の世界観は、少なからず陳腐なものになりかねないし、場合によってはこの世の悲惨を覆い隠す言い逃れや、理不尽な死の正当化にもなりうる、という点は注意するべきかもしれない。この映画にもその兆候はなくはない。もっとも、ここに見られる現世への諦念や彼岸への願いこそ、そしてそこに読み込まれうるある種の死の正当化さえも、第一次世界大戦直後当時のドイツにおける時代意識の一面をはっきりと反映するものなのかもしれない。 

 

その他感想など

以下、個々の感想、思ったことなどを箇条書き。

・同じラングの「メトロポリス」に比べると、全体に説明過多という印象がぬぐえない。無声映画なので映像間に字幕が入るわけだが、台詞だけでなく、画面いっぱいに状況説明の文章が入れられていた。細かいわりに表示時間が短く、読むのが大変だった(もちろん私の語学力の問題もあるだろうけれど)。より見やすく表現が洗練されていく過渡期だったのだろうなあ、という感想。

・さらに、基本的な字幕がいわゆる「ひげ文字」(フラクトゥール/Fraktur)で、これまた読みにくかった。ひげ文字の文章は何度か読んだことがあるので読めなくはないのだが、やはりすらすらは読めず、読み切れない字幕も多くあった(…ので、あらすじを書く際にはYoutubeにアップされている"Der müde Tod"で何か所か確認もした)。ドイツ語ネイティヴスピーカーならひげ文字もすらすら読めるのだろうか、と疑問に思ったので、映画後、チケットをくれたおばさまにお礼がてら尋ねたところ、やはりひげ文字は読みにくい、と言っていた。デザインとしては時代感もあって面白いのだけどもね。

・三つの世界のシーンでは、それぞれに合わせて字幕の文字デザインが変えられていた。イスラム世界の下りではアラビア文字っぽく、ベネチアでは今一般に使われているようなラテン文字、そして中国世界では漢字っぽいデザイン、というように。これも読みづらいは読みづらかったが、慣れてしまえば割と(ひげ文字より)楽に読めた。この三世界のシーンはステレオタイプ満載という感じで苦笑い半分で観たのが正直なところだが、この文字デザインの変化はなかなか面白いと思った。

・背景音楽は2015年のデジタル復刻版に合わせて新しくCornelius Schwehrによって作曲されたものとのこと。まったく何も知らないのだけど、無声映画の背景音楽の作曲や演奏というのは考えてみるとなかなか面白いジャンルなのではと思う。(今回は録音された音楽だったが)時々、無声映画に合わせてその場で音楽家が生演奏する、というような催しもあって、行くと結構面白い。以前鑑賞した無声映画+生伴奏では、ピアニストが完全にその場の即興で演奏していると言っていた。ああいうのはいったいどういう技術と訓練によってできるものなのだろう。