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映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

演出された英雄譚、正義の英雄が戦った敵とは誰だったのか(クリント・イーストウッド「アメリカン・スナイパー」/Clint Eastwood "American Sniper" 2014年)

クリント・イーストウッド「アメリカン・スナイパー」(Clint Eastwood "American Sniper" USA 2014)を鑑賞。大学関連の上映会だったようで、学生証提示で無料で観られた。そのことを行くまで知らなかったのだが、支払いしようとしたときに受付のお姉さんが気付いて確認してくれて有り難かった。

 

おおまかな感想、印象

イラク戦争において160人にのぼる敵を撃ち抜き「伝説」として賞賛された実在のスナイパー、クリス・カイル。彼の四度にわたるイラク派遣時の戦闘の様子を、そしてまた彼のアメリカでの生涯をも描いた、伝記的映画。上映時間132分の大半を占める戦闘シーンでは、銃声や爆発音、舞い散る埃と血しぶきというショッキングなシーンを断続的に見せつけられる。しかし衝撃音にまみれたイラクでの戦闘シーンと並行して、祖国アメリカにおけるクリスの生涯も——バーで出会ったタヤと恋愛をし、結婚し、子供を授かり家族を作っていくその過程も——描かれてゆく。戦闘の衝撃音と家庭の穏やかさとのギャップはあまりに大きく、観る者も唖然とさせられるが、それ以上にその狭間を埋めることができないのはクリス自身だ。戦場と日常との往復にともなう隔たりに、彼はやがて心を壊していきPTSDを病むことにもなる。

強靭な英雄であり、また同時に心に傷を負ったクリスという一人のスナイパーに定位したこの映画は、観る者に多面的な見方を許すものだ。つまり、ある面から見るとこの映画は、祖国アメリカのために命を捧げ、心に深い傷を負いながらも家族を守るために打倒されるべき敵と戦い抜いた正義の英雄のプロフィールを描いたものである。しかしまた別の面から見ればこの映画は、正義の英雄として称賛されその名誉に生きた一人の人間が、実際には「敵」であると思い込まされた「敵」と戦ってしまっていたに過ぎないという、英雄譚に潜むある種の欺瞞を映し出したものとしても解釈でできる。そして後者の観点からすると、クリスその人だけでなく、彼の「敵」であると設定されたイラク現地の武装勢力の兵士たちもまた、彼と同じように演出された英雄譚という欺瞞のなかを生きる人々なのではないか、という問いも沸き起こってくる。

この解釈の多面性に対して明確な答えを与えないまま、この映画は、不慮の死によって亡くなった英雄を讃える星条旗の映像をもって閉じられる。星条旗の下に讃えられた「伝説」とは、はたして苦しみに耐え抜いて悪と戦った正義の英雄の悲劇であるのか、それとも演出された英雄譚の上を生かされた人物の悲劇であるのか。このぎりぎりの問いは、開かれたまま、観る者に突きつけられることになる。

 

簡単なあらすじ

幼い頃からカウボーイに憧れ、正義感と愛国心の強かったクリス・カイルは、1998年のアメリカ大使館爆破事件をテレビで見たことをきっかけに海軍への入隊を決意する。厳しい訓練を突破しネイビー・シールズの一員となった彼は、ある日バーで出会った女性タヤと愛し合うようになり、結婚するに至る。その折、2001年に起きたニューヨーク同時多発テロを契機にイラク戦争が起き、クリス自身もイラクへと派兵されることになる。スナイパーとして卓越した才能をもっていたクリスは、一度目の派兵で既に「伝説」と呼ばれるほどの成果を上げる。四度にわたってイラクへと派兵されたクリスは、最後には因縁の相手でもあったイラク現地の過激派のスナイパー「ムスタファ」を射殺することにも成功する。

並行してクリスは、タヤとの間に二人の子供をもうけ父親となり、またアメリカでも伝説の英雄として名を知られていくようになる。しかし同時に戦争で負った心の傷が露呈していくようにもなり、日常生活に支障が出てきてしまう。除隊して精神科にかかりPTSDを治療しながら、医師の勧めで傷痍軍人との交流を通して少しずつ人間らしさを取り戻していくクリスだったが、ある日、突如の事故で命を失ってしまう。祖国のために生きた伝説の英雄の突然の死を悼み星条旗を掲げた人々の映像——実際の葬儀や記念式典の映像——をもって、映画は終わる。

 

正義の英雄が戦った敵とは誰だったのか?羊と狼と牧羊犬の比喩から

映画の前半にクリスの幼少時代の描写があるのだが、そこでクリスの父が息子たちに「世の中には三種類の人間しかいない。羊と狼と牧羊犬だ」と語りかける一幕がある。曰く、羊は悪いこともしないが臆病で身を守ることができない人々で、狼は彼らに襲いかかる悪い奴ら、そしてこの狼から羊たちを守るのが牧羊犬なのだ、と。だから勇気と力のある数少ない人間は牧羊犬として生きねばならない——父のこの教えを守るかのように、クリスは正義のために、自分の愛する家族を脅かす悪を蹴散らすために、海軍に志願する。そしてブラウン管越しにニューヨークの同時多発テロを見た彼は、そばにいる大事な女性を、そして彼の祖国を守らんという正義を抱いて、イラクへと赴く。

戦地において彼が最初に狙撃したのは、対戦車手榴弾を抱えてアメリカ軍に自爆テロを仕掛けんとする少年とその母親とおぼしき女性だった。年端もいかない少年とその母を射殺したというそのことは彼に良心の呵責を感じさせはするが、しかしそこで狙撃しなければ彼の仲間の血が流れていたのだ。彼にとっては、少年も女性もその見かけにかかわらず悪い狼なのであって、彼らを打ち抜くことが正義だった。たとえそのことが彼の心に傷を残したとしても、彼は羊たちを守る正義の牧羊犬としての職務を全うしたのだ。映画の最後のシーン、彼の突然の死に際して星条旗を掲げて悼む人々は明らかに、そういう正義の英雄の伝説を讃えている。この線を素直にたどったとき、映画は星条旗の下で織りなされた英雄譚の姿をとるだろう。

しかし本当に、アメリカの人々が無垢な羊で、イラクの人々が悪い狼であったのだろうか。そのような単純化した図式がいかに現実に即さないものであるのかを、我々は既にいやというほど知らされている。たしかに2001年の同時多発テロは痛ましい出来事だった。しかしそれさえも、アメリカが一方的な被害者で、一方的な「報復」を語れる立場でなかったということは、とうに露わになっている。中東の過激派には彼らなりの復讐と大義があり、彼らの視点からすればアメリカの方が「悪い狼」であるように見えていた。だからこそこの映画において「悪い狼」の側に立たされた者たちも、彼らから見た「悪い狼」を追い払おうと懸命に戦っているのだ。そしてその根底には結局、そのような善悪の図式とは異なる利害関係が隠れている。自らを正義の牧羊犬だと思い込んだ現場の兵士たちは、そのような利害関係を知ることもないままに、装われた善悪の図式を愚直に信じながら、けしかけられる。お前は正義の牧羊犬だ、無垢な羊を脅かすあの悪い狼をやっつけろ、あの悪い狼をやっつければ、お前は正義の英雄として、伝説として、賞賛されて名誉を受けるのだ、と。

クリス・カイルの「伝説」が、このような作られた図式の上で演出された英雄譚であることが気付かれてしまったとき、この映画は英雄譚とはまったく異なったものとして解釈されることになる。軍人の心の傷も、星条旗の下での称揚も、やるせない疑問符のもとに眺められることになる。はたしてこれら全てはいったいなんのためになされたのか。はたして正義の英雄が戦った敵とは誰だったのか。

 

解釈の多面性、演出された英雄譚の図式への疑問符

この映画「アメリカン・スナイパー」の恐ろしいところは、観る者の信条によって多面的な解釈が可能だというところだろう。

ある意味で不誠実であり、またある意味では一貫しているとも言える点だが、この映画ではアメリカ軍と戦うイラク武装勢力側の視点や主張は一切描かれない。徹頭徹尾アメリカ軍人の視点、他ならぬクリス・カイルの視点から見た戦争だけが描かれるので、同時多発テロはアメリカ市民の命を脅かす理不尽な災厄にしか見えないし、イラクの武装勢力も女子供までをも攻撃手段に用いる恐ろしいテロリスト集団として現れることになる。それゆえイラク武装勢力が「悪い狼」なのだという視点を疑うことがない者の目には、この映画は現代版の愛国英雄譚としてのみ映るかもしれない。

そのような見方からすれば、クリスの心の傷や家族との問題も、英雄が英雄として生きたゆえの苦悩でしかない、ということになるだろう。クリスに対して感情を吐露するタヤが、クリスの心が家族のもとにないことを嘆き、守られるべき家族はいまこの場所にいるのにどうして彼らを置いてまで戦地に行く必要があるのかと問い詰めるシーンでは、たしかに英雄譚の影の側面がはっきりと描かれている。それどころかそこでは、クリスが本当に正義の牧羊犬として羊を守るために戦っているのか、という決定的な疑問さえ提示されている。しかしこの疑問は、少なくともこの映画のなかにおいては、明示的な仕方で突き詰められることもなく、逆向きの視点から補完されることもない。つまり彼ら自身が「悪い狼」でありうるのではないか、彼らが攻撃している相手がむしろ「善良な羊」でありうるのではないか、という疑問は決して提示されない。そこでは依然として、「正義の牧羊犬」クリス・カイルは、自らの幸せな生活を犠牲にしながらも、テロリストという「悪い狼」を抹殺するためにその生涯を尽くした英雄だ、という解釈が可能なのだ。

しかしこのような視点が欺瞞だということを既に知っている者にとっては、或いはイラクの人々の視点をも考慮に入れることができる者にとっては、この映画は別の見え方をしてくるだろう。映画において、この「別の」視点ははっきりと提示されはしないが、それでも示唆はされている。その象徴ともいえるのが、クリス・カイル属するネイビー・シールズと激戦を繰り広げ、最後にはクリスによって射殺されるイラク武装集団側のスナイパー「ムスタファ」の存在だ。映画中において彼は、決して立体的には描かれていない。しかしそれでも壁にかけられた写真を通して、彼がかつて射撃競技のオリンピック選手であったことは伝えられている。卓越した射撃の腕をもってネイビー・シールズを脅かすムスタファが、アメリカ軍の英雄として讃えられるクリスとちょうど同じようにイラク武装勢力側の英雄であり、彼なりの正義をもって彼にとっての悪の狼を追い払おうとする人物であるだろうことには、ほんの少しの想像で達することができる。

このムスタファとの戦闘は、この映画の原作であるクリス・カイルの自伝には出てこないもので、映画における創作であるのだという(ムスタファという人物自体は存在し自伝でも言及されているのだが、クリスが直接戦ったわけではなく、それゆえ彼が射殺したという事実もないという。※なおこの点についてはウィキペディアの記事「アメリカン・スナイパー」を参照した)。この点を重くとるならば、史実を曲げてまでムスタファというスナイパーをイラク武装勢力側においたことに、作り手の何かしらの主張を読み取ってもよいように思えてくる。いずれにせよ、ムスタファもまた、彼らの側の視点に則って、彼らから見た悪者を駆逐しようとしている。こうしてみるならば、正義の牧羊犬であるはずのクリスは、彼らから見ればむしろ悪の狼だったことだろう。さらにいえば、そもそもどこにも、正義の牧羊犬も、悪の狼も、存在しなかったかもしれないのだ。

彼らは彼らそれぞれに与えられた図式でもって、自分がそれだと思い込まされた正義の立場に自分を置き、やはりそう思い込まされた悪の立場と戦っている。そのように思い込まされた「正義」と「悪」の図式の下で自らの生活を、命をも犠牲に捧げる彼らを、もはや手放しに英雄だと呼ぶことができるのだろうか。あるいは、彼らを英雄だと賞賛するために演出された図式そのものにこそ、疑問の目が向けられるべきではないのだろうか。

イラク戦争を描いた映画として大ヒットを記録したというこの映画は、果たして現在のアメリカにおいて、どのように受け止められているのだろう。たまたま先日、森本あんり『反知性主義——アメリカが生んだ「熱病」の正体——』(新潮社、2015年)を読んだのだけれど、映画「アメリカン・スナイパー」を観て思い出したのは、この本におけるアメリカ史上の「英雄」たちの描かれ方だった。この本において扱われていたのはあくまでも宗教的な英雄たちだったのだが、善悪や敵味方を明確に分けたがる彼らの二分法的なものの考え方や行動指針は、この映画における「英雄」観とも重なっているように思えた。そのような「英雄」像が現代のアメリカにおいて未だに支配的なのだとすれば、この映画ももしかしたら、現代における正義の英雄譚としてもてはやされたのかもしれない。実際にこの映画にはそういう解釈の仕方をさせる余地が大いにある。

…ついでに言えば、本作はその制作過程で突然亡くなった実在の一個人——「英雄」として称賛されたクリス・カイル——の伝記的映画であるわけで、その制作にあたっては当然、遺族や彼を讃える人々の目を意識せざるをえなかっただろう。と考えると、本作の愛国英雄譚的な側面の強さには、ひょっとするとそういう人々に対する配慮も影響しているのではという気もしてしまう。もっともこれは単なる憶測にすぎないのだが。…

いずれにしても、本作には単なる英雄譚に汲みつくされない側面がある。この解釈の多面性こそが、そしてそれによって呼び起こされる疑問符こそが、この映画の恐ろしさであるとともに真髄をなしているように思う。