映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

哲学者たちが世界を変えようと思うとき(ラウル・ペック「マルクス・エンゲルス〔青年時代のカール・マルクス〕」/Raoul Peck "Le jeune Karl Marx / Der junge Karl Marx" 2017年)

ラウル・ペック「マルクス・エンゲルス〔青年時代のカール・マルクス〕」(Raoul Peck "Le jeune Karl Marx / Der junge Karl Marx" BE/DE/FR 2017)を鑑賞。こちらでも3月初めに封切られたばかりだが既にそこそこ話題になっているようで、気になっており早速観に行ってみた。

 

おおまかな感想、印象

題名が示す通り、カール・マルクス(1818~1883)の青年時代、とりわけ1848年に彼がエンゲルスとともに『共産党宣言』を発表するに至るまでの日々を追った伝記映画。もっともこの映画では実際には、カール・マルクス一人のみでなく、彼の妻イェニー・マルクス、友人フリードリヒ・エンゲルスとその恋人でありのちの妻メアリー・バーンズ、という4人の人物に焦点があてられている。思想家の伝記映画というとどうしても理屈っぽい堅苦しい映画になりがちで、この映画にもそういう部分があることは否定できないが、それでも彼らの人間らしさを彩りをもって描こうとしているように思え、そこには好感をもった。マルクスとエンゲルスという思想史上の巨人が、何に喜び、何に笑い、何に苛立ち、何に怒り、そして何と闘おうとしたのかが、もちろん少なからぬ脚色はあるのだろうが、生き生きと描かれていた。それは思想家を脱神話化する試みであると同時に、彼らがその思想を育むにあたって一体どういう現実を目の前に見ていたのかを提示する試みでもあるのだろうと思う。

この映画でも触れられるが、マルクスは「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきただけだった。しかし重要なのは、世界を変えることなのだ」というテーゼを立てた。彼が変えようとしたこの「世界」とはいったいいかなるものなのか、なぜその「世界」は変えられる必要があると思われたのか、といったことを、この映画は示そうとしている。そしてそれによってこの映画は同時に、思想は決して抽象的な理論としてだけではなく、ある具体的な歴史上のコンテクストの上でこそ生まれるのだということを、観る者に気付かせてくれる。それは一方ではある思想の限界でもあるが、他方ではまたその思想が生まれた際のエネルギーでもある。世界の変革を説く哲学というのは、それが現実から遊離した理論でしかないときには、あまりに傲慢で、ときには危険なものにさえ聞こえるかもしれない。それどころかそれは実際の歴史において、危険な帰結を引き起こしてしまったものであるかもしれない。しかしそもそも哲学者たちが世界を変えようと思うときに、彼らはその目で何を見、何に抵抗しようとしていたのかというそのことを、この映画は思い出させてくれる。

 

簡単なあらすじ

1843年、ドイツ、ケルンで『ライン新聞』のジャーナリストとして活動していたカール・マルクスは、政治的理由から妻イェニーとともにパリへと亡命せざるをえなくなる。マルクス夫妻はパリで長女をもうける。そしてパリにおいてカール・マルクスはまた、当時既に脚光を集めていた哲学者プルードンと知り合い、さらにはフリードリヒ・エンゲルスとの仲を深めはじめる。資本家の息子であったエンゲルスは当時、イギリス、マンチェスターで彼の父が共同経営する紡績工場で労働者の現状を目のあたりにし、その問題点について著作を発表したところでもあった。またエンゲルスはそこで、のちの妻でもある労働者メアリー・バーンズと知り合ってもいた。パリにおいて意気投合したマルクスとエンゲルスは、友人としても研究者としても次第に関係を緊密にしていく。

その折、1845年に、マルクス夫妻はまたも政治的な理由でフランスからの国外退去を命じられてしまう。そうして彼らはベルギー、ブリュッセルに居を移し、イェニーはそこで次女を出産する。ブリュッセルにおいてマルクスはそれまで以上に——ときには強引な手法もとりつつ——政治活動に取り組むようになり、労働者運動に積極的に参与しないプルードンに対して『哲学の貧困』なる論難の書を出版しもする。その後もマルクスは、エンゲルスとの関係を深めていくとともに、ロンドンの共産主義者同盟との結びつきを強め、また自らの思想を具体化させていく。そしてついには1848年、マルクスはエンゲルスとの連名でもって小冊子『共産主義宣言』を執筆、発表することになる。

 

現実世界との対決のなかで生まれるものとしての思想

いわゆる「マルクス主義」の理念や概念、共産主義革命だとか国際秘密結社だとか、あるいは疎外だとか弁証法だとかいう言葉は、どうも怪しいものか、現実から遊離した抽象的なものに聞こえがちだ。上の簡単なあらすじをまとめるにあたってウィキペデイアを参照しもしたのだけれど、そこに並ぶこういった文字列や理念から受ける印象と、この映画から受ける印象は、大分違ったものだ。映画のなかの若きカール・マルクスは、妻とセックスもするし、酒を飲みすぎて道端で嘔吐もするし、自分の理屈の鋭さにうぬぼれるお調子者という印象も受ける。そこにいたのはあくまでカールと呼ばれる一人の青年であり、彼の思想というのもまた、楽しいことも悩ましいこともある彼の人生の途上で織りなされたものなのだ。

このことは、カール・マルクスにのみ当てはまることではない。夫の活動のせいで身体を壊したり身重の身体を引きずって亡命しなくてはならなくなったりするイェニーも、資本家である父の工場での労働者の現状にショックをうけるフリードリヒ・エンゲルスも、彼のことを愛しながら彼の父の資本に頼る生活を拒否する勝気な労働者の女性メアリー・バーンズも、みなそれぞれの現実の生活の問題に直面している人間たちだ。そして彼らが直面した現実とは同時に、その時代を生きる人々のアンバランスな生活の世界でもあったのだ。労働者のあまりにもひどい貧困と搾取の現状、自らの身体と時間を商品として提供しなければ生きられない者の生活条件の過酷さ。それに対する資本家の傲慢さ、自分の身体を汚すことないままに労働者を代替可能な駒として扱い、彼らの生活や健康についてなど一切配慮しようとしない者たちの欺瞞。そしてそれを問題だと論じつつも実際には何も変えようとしない学者や哲学者たち。そういうものを目の前に見、また経験したからこそ、彼らは自分が今そこに生きる現実の世界を変えようとした。抽象的な概念でもって懸命に何がおかしいのかを説明し明らかにしようとしながら、目の前の現実と対決し、それによって現実を変えようとしたのだ。

このエネルギーなしに、彼らの思想も哲学も、生まれようがなかった。それはおそらく、辞典や教科書に書かれた「マルクス主義」とはまったく異なる見え方をする、現実世界との対決のなかで生まれた思考のエネルギーであるだろう。

 

思想の限界、ゆがみ、欺瞞、そしてそれらを自覚してなお思考するために

とはいえこのことは同時に、彼らの思想が一定の限界をもつものであるということでもある。別の言い方をすれば、目の前の現実と格闘しながら織りなされた彼らの思想や哲学を、それ自体として普遍化して、絶対的な教条として掲げるなどというのは、そもそもが無理があることなのだ。

もっともこの種の問題、ある限定された文脈のなかで生まれた変革の理論を絶対的なものとしてしまうという問題は、マルクスやエンゲルスの思想そのものに潜んでいるものだったのかもしれない。この映画中でも、マルクスが自らの革命思想に共鳴しない人々に対して強硬的かつ排他的とも言えるやり方で接している場面がある。このことは後に、いわゆる「共産主義」国家が独裁的な強権政治に変じていき、ときには破局的ともいえる痛ましい帰結を生んでしまったことを思い出させる。自分自身を正義と見做しそれに従わない者や不適合な者を不正義として切り捨てるような思想の在り方は、自らの出自を、その限界を、見失ってしまう。

しかしそもそもはその逆で、自らの目の前の不正義に抵抗するということが、世界を変えようとする哲学の出発点であったはずだ。しかしその「変えられるべきもの」は、歴史的な文脈によって、時代や場所、文化や宗教、或いはその都度の個々の状況によって、異なるはずだ。だからこそ、世界をただ解釈するだけでなく変えようとする哲学は、自らの限界を自覚しつつ、それでも誠実に現実に対峙することから始める必要がある。青年時代のマルクスやエンゲルスが、具体的な問題から彼らの思想を出発させたように。

そして彼ら自身にもまた、欺瞞やゆがみがある。洗練されたジャケットを着て人々の前に立つマルクスやエンゲルスの振る舞いは、彼ら自身が他ならぬ資本家階級、市民階級の価値観を脱せていないことを証している。マルクス家に客人が訪ねてきた際には、カールが何もせず座ったままで、子供のいるイェニーが一人でいそいそと夕食の準備をしていることにも、彼らは何の疑問も抱かない。或いは労働者階級の娘メアリー・バーンズは、資本家の息子フリードリヒ・エンゲルスの実家の資本を「汚い金」だと憎むゆえに、その金に頼って子供を持ち家庭を築くことを拒否しているが、このことは労働者と資本家の間にある埋めがたい溝を象徴している。しかし他方でマルクスとエンゲルスの活動は、まさしくこの「汚い金」に頼ることで成り立っている。さらに言えば、彼らの視点は、主として労働者と資本家という二階級間の問題に向うものであって、人々を圧迫する別の問題群は必ずしも彼らの視界に入ってこない。

彼らは彼らなりの問題を抱えている。だからこそ彼らは何かを変えようとして、世界を変えようとして、そのための思想を紡ぐ。けれどもこの変革の思想は、別の文脈において決してそのまま繰り返されることができないものでもある。世界を変えるための思考の内容は、その具体的なプロセスは、その都度その都度の人々によって、誠実に考えられ、実行されていく必要がある。とはいえ圧倒的な現実に対して抵抗をなしその変化を願った思考のエネルギーを、その実践の軌跡を、参照することはできるだろう。マルクスの思想ではなく、その青年時代の生をこそ描いたこの映画は、まさしく変化を願う思考の熱量をこそ、観る者に提示しようとしているように思えた。