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映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を書いています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

化けの皮をかぶって、上っ面をひっぺがす(マーレン・アデ「ありがとう、トニ・エルドマン」/Maren Ade "Toni Erdmann" 2016年)

映画

マーレン・アデ「ありがとう、トニ・エルドマン」(Maren Ade "Toni Erdmann" DE/AT/CH 2016)を鑑賞。国内外で色々な賞をとったり米アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたりで、ドイツではそれなりに話題になっており気になっていたが、ようやく観られた。

162分の長丁場のコメディーで、登場人物それぞれの描写に割かれた前半は冗長にも感じたが、中盤から後半にかけてのテンポはとてもよかった。時間的な意味でも空間的な意味でも「間」の使い方がうまく、つぎに何が起きるのかを観る者にうまく期待させ、そして絶妙にその期待を裏切ったり上回ったりしてみせてくれた。役者の演技も印象的で、父親ヴィンフリート役のペーター・ジモニシェック(Peter Simonischek)もよかったが、なによりその娘イネス役のザンドラ・ヒュラー(Sandra Hüller)がよかった。基本的に冷たく無表情な役どころだったのだが、その無表情のなかに様々な感情や心の動きが多彩に表現されていて、こういう演技があるものかと思った。イネスの同僚たちもいいアクセントになっていた。全てが絶妙なリズムと空気感を構成していて、最後の一時間は本当にあっという間に感じたし、驚きと笑いの声が止まらない時間帯もあった。

基本的には、しょうもないイタズラ好きの親父ヴィンフリートと、社会的に成功したキャリアウーマンであるその娘イネスという二人を中心に話が進むのだが、特に面白かったのは、この父娘を軸に物語の空気やものの見え方がひっくりかえっていくそのプロセスだった。それは、しょうもない道化によって社会的に洗練された上っ面がぶち壊されていく爽快感でもあったように思う。その上っ面のぶち壊しが最高潮に極まる後半のパーティーのシーンでは驚きに身を乗り出し、手を叩いて笑ってしまったのだが、そこにはある種のカタルシスさえあって、今観ているのがくだらない喜劇なのか大真面目な感動劇なのかもよくわからないという奇妙な感情になってしまった。多少長く感じた前半もこのカタルシスに向かう助走であると思えば仕方ないように感じたし、あの奇妙なカタルシスの時間帯を笑って過ごせただけでも観てよかったという気になった。

 

以下、おおまかなあらすじ(…とはいえネタバレをしたくないので、特に後半部分はあまり具体的なことを書かないようにする)。

仮装好きでいつもくだらない(しかもあまりお行儀のよくない)冗談を言っている親父ヴィンフリートが、ブカレストで企業コンサルタントとして働く娘イネスのもとを突然の思い付きで尋ねる。イネスは、ピシッとしたビジネススーツを着こなし、小ぎれいなオフィスでタイトなスケジュールで働き、同僚やクライアントとは英語を使いこなして商談を進める、という「デキる」キャリアウーマンを絵に描いたような女性だ。それに対してヴィンフリートは、太っていて装いも小汚く、ヨレヨレの手提げ袋を持ち歩き、英語も簡単な会話くらいしかできず、ビジネスのこともよくわからないみずぼらしく垢抜けないおっさんだ。予定の詰まったイネスは、突然現れた父親を仕方なく仕事関係のレセプションパーティーに連れて行く。構図としては、社会的に「デキる」奴らの集まったビジネスの世界に、突然みずぼらしい挙動不審のおっさんが迷い込んできた、というものだ。イネスの住む「デキる」世界の人々は、おしゃれで洗練されたスーツやドレスを着こなし、おしゃれで洗練されたパーティー会場に集まり、パーティーが終わればお洒落で洗練されたバーに移動して親睦を深める。このとことん外面のよい奴らの集まりに、手提げ袋をぶらさげたヴィンフリートが迷い込んでしまう。外面が何よりも大事で誰も本音など言わないこの世界では、ヴィンフリートのようなみずぼらしい存在も「外見上は」丁重に扱われるが、とはいえ彼はまともに人間として扱われず、彼の冗談に耳を傾ける者もいない。娘であるイネスさえ、彼のことを「外見上は」父親としてもてなすが、しかしそれは事務的でマニュアル通りのものでしかない。冗談の通じない娘の姿に呆然とするように、ヴィンフリットは帰路につく。

ここで物語は転換を迎える。父親が帰り再びビジネスの世界に戻っていったイネスの前に、突然、もしゃもしゃのカツラとガタガタの入歯を身に着け、安っぽいスーツを着て変装した父が「トニ・エルドマン」と名乗って再び現れるのだ。イネスは困惑するが、「エルドマン」はずけずけと彼女の世界へと入り込んでくる。エルドマンは、もはやみずぼらしいおっさんではなく、異様で奇怪な不審人物だ。イネスも彼女の周囲の人物も、彼をどう扱ってよいかわからず冷笑して遠巻きに眺めるが、そのすきに彼はどんどんとイネスの世界に侵入してくる。彼の異様な言動に対して、基本的には見栄えのよい上っ面で対応しようとしていたイネスも、だんだんとその外面を保っておくことができなくなっていく。お洒落で洗練されたスーツに染みがつく。人前で歌を歌わされる。そして最後には、文字通り、上っ面をすべてひっぺがされることになる。滑稽なのは、上っ面をすべて脱ぎ捨てた彼女に対して、同僚たちが「上っ面の」対応をしようとした結果、彼らもまた上っ面を脱ぎ捨てざるをえなくなる、というところだ。社会的な外面ばかりを装っていた人々が、気が付けばその社会的な上っ張りを捨ててしまって、どうしていいかわからずに呆然としている。そこに現われるのは、見栄えのよい上っ面の代わりに化けの皮をかぶった「トニ・エルドマン」だ。彼らが集まったその部屋では、物語の前半を支配していたヒエラルキーがさかさまになっている。社会的には成功者と呼ばれる側に属する者たちが動転し、社会的には軽視される者が場を支配する。上品さや洗練といった上っ面と、下品さやみずぼらしさといったその異物とが、ひっくりかえって入り混じる。世界が転倒する。

 

この映画を特別魅力的にしているのは、物語において転倒される二つの面——下品でみっともない面と、上品な上っ面を着飾る面——その両方の面を私たちが持っているというそのことだと思う。しばしば私たちは、前者を隠し後者を洗練させることを社会的な評価に直結させてしまい、「外面のよさ」を極端なものに高めてしまう。しかしこの「外面のよさ」はしばしば見かけだけのもので、上っ面がそれ自体滑稽なキッチュになってしまって、抑圧して隠していたはずのしょうもない下品さはその隙間からふいに顔を覗かせる。おそらく大事なのは、どちらかに極端に振れることではなく、そのアンバランスを笑い飛ばせるということなのだろう。もしうまく笑えなければ、化けの皮をかぶってもいいし、「トニ・エルドマン」の力を借りたってよいのだ。

私も既にこうしてごちゃごちゃ色々書いてしまったし、さらに諸々の細かい解釈をすることもできるかもしれない。とはいえそれは重要なことではない。なにはともあれこの映画に関しては、「いつでも冗談を忘れるなよ」というトニ・エルドマンの箴言にならって、化けの皮をかぶって上っ面をひっぺがす彼の奮闘を大笑いしながら観るのがいいと思う。