映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

どろどろしてぬるぬるしたもの、或いはシュールレアリスムの夢(デヴィッド・リンチ「イレイザーヘッド」/David Rynch "Eraserhead" 1977年)

デヴィッド・リンチ「イレイザーヘッド」(David Rynch "Eraserhead" US 1977)を鑑賞。少し前(10日ほど前?)に観たのだが、忘れないうちに感想を書いておく。

デヴィッド・リンチの監督デビュー作。上映プログラムの説明文でも、また上映前の前説のようなものでも、あらゆる解釈を拒絶する悪夢の映画だというようなことが言われていたので、少し構えて観たが、思ったよりちゃんとした筋があり、思ったより楽しめた。粗筋だけかいつまんで言えば、ある青年が少女を妊娠させ子供を産ませてしまい、責任をとって一緒に暮らそうとするが、生まれた赤子の異形の姿やその鳴き声に耐えられず少女が逃げ出し、青年自身も悪夢にうなされる、というような話。とはいえこの映画の見どころは、物語の筋そのものというよりも、それをとりまく世界観の構成の仕方というか、映像イメージの作り方にあると思う。どこまでが現実でどこからか妄想なのか、どこまでが正気でどこからが狂気なのか、その境界線もはっきりしないまま、なにかどろどろとしてぬるぬるとしたものが、画面上に生成し、消えてゆく。食事として出される鶏肉も、青年と少女の間に生まれた赤子も、まるでむき出しの内臓のように生々しくグロテスクな質感をもって、画面上に提示される。青年が暖房装置の隙間を眺めるとフクロウのような頬をした女性が歌い踊り、隣人の女性とベッドの上で液体のなかに沈み、ついには加工された頭が消しゴムの原料になる。そこに確たる意味が見出せない、有機物か無機物かもわからない、どろどろしてぬるぬるしたものが織りなす、イメージの世界が提示される。

見始めてすぐに、これは映画版シュールレアリスムだな、と思った。心に浮かんだイメージを、その意味を問うことも美化することもなく、図像へと定着させるという芸術上の実験。エルンストやダリ、マグリットの絵画に典型的にみられるような、この世のものとは思えないが、しかし人間の無意識のなかに浮かび上がってくる超世界的なイメージの塊に、具象的な形を与える試み。人間が意志せずともアクセスしてしまう現実を超えた何かを、芸術において再現しようとするシュールレアリスムの綱領。「イレイザーヘッド」は、わりと律儀にこのシュールレアリスムのプログラムをなぞって、それを映画という表現手段において実現しようとしているように思えた。そう考えると、この映画中で提示される諸々の事物に確たる意味や解釈を見出そうとするのが困難だということも、説明がつく。シュールレアリスムにおいてはそもそも、一義的な意味づけなど問題にならない。そしてこの映画はたしかに、そのシュールレアリスム的試みをもって、意味や解釈を拒みつつも一定の質感を伴った映像イメージの世界を形成することには成功しているように思えた。

とはいえ同時にこの映画は、シュールレアリスムという芸術上の実験と同じ問題に陥っているようにも思えた。それは、無意識に上る曖昧なイメージに具象的な形を与えようとすると、それは往々にしてどこか陳腐で、滑稽なものになってしまう、という問題だ。言葉で説明しようのない強迫的な異物であり、ときに人の心を内側から脅かす、無意識や非現実の夢の世界。それは確かに経験されることがあるものだし、また時には魅力的に我々をとらえもする。とはいえ、現実を超えたイメージがもつ異質性を、具象として描き図像として定着させようとする際には、結局、この世界の現実の事物に似た造形しか作り出すことができない、という矛盾がある。この映画における赤子も、なにかよくわからないどろどろしてぬるぬるしたものたちも、軟体動物や内臓、微生物や精子といったこの世界の「何か」に類似したものでしかない。そのグロテスクさは確かに異形ではあるが、しかしどこか間の抜けた印象も拭えない。それは本当に、この現実を超えている(という意味でシュールレアリスティックな)ものだろうか。しょせんそれは、この世界において汚いとされたり、気持ち悪いと言われ忌避されるものの再生産でしかないのではないか。

シュールレアリスムの綱領をなぞったこの映画「イレイザーヘッド」も、一定の質を保ちながらも、この問題を抜けきってはいないように思えた。つまるところそれは、現実を超えたイメージの再現ではなく、この現実に存在するグロテスクなイメージの寄せ集めになってしまっているのだ。それは面白いものではあるが、現実を超えているとはいいがたい。この映画のどこか滑稽な印象もまた、それがこの現実から根本的には異質なものになりきれていないという、そのことから来るものと思う。具象的でこの世的な形姿を直接与えることでは、超現実は表現しつくされない。現実を超えたものを描くというシュールレアリスムの夢は、ここではいまだ実現されていない。もしそれが表現されるのだとすれば、直接的な具体化とは違う、別の道を通る必要があるのかもしれない。