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映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

参加した覚えのないゲームのルールが人生を決してしまうということ(ケン・ローチ「わたしは、ダニエル・ブレイク」/Ken Loach "I, Daniel Blake" 2016年)

ケン・ローチ「わたしは、ダニエル・ブレイク」(Ken Loach "I, Daniel Blake" GB/FR/BE 2016)を鑑賞。

静かで淡々としていて、それでも目を離せない映画だった。一言でいうと、ある初老の男性が社会保障を得るために行政手続きと格闘するという話。ある意味そこにはドラマらしいドラマなどなにもない。どこにでもいそうな一人の人間が、どこにでもありそうな行政手続きの理不尽にぶつかり、どこにでもありそうな苦しみのなかでため息をつく、どこにでもありそうな小さな不幸の物語だ。本来は人間の人間らしさを支えるものであるはずの社会保障や福祉制度の枠組みが、その枠組みにうまくはまることのできない者に対していかに非人間的な様相を呈するか。この映画ではただただこのことが、なまなましくも静かに、苛立たしくも淡々と、描かれる。まるでスポーツやゲームのルールのように、厳しく、機械的に適用される個々の項目が、そのゲームに参加した覚えのない人間の人生を残酷に決してしまうという理不尽。どこにでもありそうなこの小さな不幸の物語が観る者の心を強くとらえるのは、現代の福祉制度のもとに生きる誰しもが潜在的に、この理不尽のなかに落ち込んでいく可能性があるからだろう。

妻に先立たれたダニエル・ブレイクは、かつて大工として働いていたのだが、心臓の病気で医師から職場復帰を止められている。そこで彼は社会保障を申請しようとするのだが、目に見える障害のない彼は窓口の担当者によって「就労可能」であると判定されてしまう。「就労不可能」の判定に必要なのは15点。彼は12点しか取れなかったので、判定は「就労可能」。ゲームよろしく、点をとれなかった以上は失格。いくら待っても、いくら再申請をしても、手ごたえがない。やむなく彼は失業保険を申請しようとするが、今度はその申請のために就職活動をした実績が必要だと言われる。しかもマウスも使ったことがない彼も、オンラインで申請書を提出しなければならないという。「これはあなた自身が決めることですから」という担当者。だけれども実際にはどこにも、彼自身で決めることのできる余地などない。彼は既成のゲームのルールの中で足搔かなければならない。

役所に通いつめる彼はある日、ある一家と知り合いになる。一人手で子供を育てるシングルマザーのケティと、まだ小さな二人の子供。ロンドンから移り住んで来た彼女たちもまた、ダニエル・ブレイクと違った仕方でではあるが、既成の制度の枠のなかにうまく入ることができずにいる。ケティはうまく仕事を見つけることができず、子供たちはロンドンの友人たちと離れたストレスで不安定になっていく。役所では人間らしく扱われず、取り除くことのできない貧しさは彼女たちの生活を息苦しいものにしてゆく。彼女たちもまた、同意した覚えのないままに、制度の枠のなかで不利な条件に追いやられていく。その不利な条件の中では、生活用品を得る手段も、金銭を得る手段も、限られたものになっていく。

生きるためには誰しも、否が応でも、参加した覚えのないゲームのルールに従わねばならない。ルールに従いさえすればよいのだから簡単じゃないか、ルールに従えないのならばそれはその人間の問題だ、と断じる人もいるかもしれない。しかしそれは、そのルールに不適合な者にとっては、あまりに理不尽な条件だ。現実には、様々な理由から自らをルールに合わせられない者が多く存在する。逆に言えば全ての「例外」を掬い取れるほどルールの網も完全ではない。だからこそ、まずは個々の人間の問題から出発する必要があるのだが、そのためにはまず、目の前の一人の人間の現実に目を向け耳を傾ける必要がある。しかし上からルールを「適用」することは、彼に人間性を捨象することを要求する。これまでの人生や経験を捨てて、ただ目の前にあるルールに身を合わせることを要求する。形式上はいくら公正でも、このことはまったく公正ではないだろう。なぜなら一人一人の人間はそれぞれ違う条件で生きているのであり、既成のルールにうまく適合できるかできないかは人それぞれで異なるからだ。しかしそんな当たり前のことさえ、ゲームのルールの上では考慮されない。それはそうだ。ゲームにおいて一人一人の人間性など考慮できるわけがない。しかし問題は、人々がこのゲームに自らの意志で参加したのではないのに、このゲームのルールが彼らの人生を決してしまうということだ。

制度の理不尽さ。事務手続きの理不尽さ。「枠組み」に身を合わせることができない者を取り巻く理不尽さ。おそらくそれは多かれ少なかれ誰しもが経験したことがあるものだろう。幸いにもそれを経験したことがない者だって、いつどのような小さな偶然の不幸からそこに落ち込むかなんて、わからない。理不尽によってはじき出されたときに、「わたしは、ダニエル・ブレイクだ」と口にすることができるかどうか。それはルールの上では何の意味も持たないどころか、ルール違反として罰せられてしまう行為なのかもしれない。しかしそれでも、誰かが耳を傾けてくれるかもしれないと思って、彼は自分の名前を口にする。この言葉を向けられた者には何ができるだろうか。非人間的な制度の枠のなかで、目の前の人間を、自分の知らぬ一つの人生を歩んできた一人の人間として認めることができるかどうか。彼の表情に目を向け、彼の言葉に耳を傾けることができるかどうか。これは字面ほど簡単なことではないし、もしかしたら究極の意味では不可能な綺麗ごとかもしれない。しかしそれでも、参加した覚えのないゲームのルールのなかで無言のまま息絶えるよりは、誰かに人間らしく扱われることを望むことが許されるような社会であれば、と思う。せめて、それが単なる綺麗ごととして一蹴されないような社会であれば、と思う。

この映画においてダニエル・ブレイクがぶつかる理不尽や苦しみというのは、多くの国の様々な「制度」のなかに生じうるものであるだろう。本来は人間が人間らしく生きることを支えるための法律や制度が、非人間的な枠組みとして人間を拒絶する、という事態。この事態は、多くの所謂「先進国」においてさえ、様々な仕方で見いだされるものだ。私がいま身をおいているドイツでも、そして日本でも。日本においては、生活保護の受給がそれ自体後ろめたいことであるかのように声を大にして主張する者も少なくない。制度の枠を利用した「不正な」受給が望ましくないのは当たり前のことだろうが、けれども同時に、その制度がその制度を必要としている者のために存在しているというのも当たり前のことであるはずだ。このことを口にするのが憚られるような社会であってほしくはない。制度という非人間的な枠組みよりも一人一人の人間のことを考えることがおかしなことと見なされるような、そんな社会であってほしくはない。そんな当たり前のことに改めて思いを致らせてくれるという意味でも、どうやら3月から上映されるようだが、日本でも多くの人にこの映画を観てほしいと思った。