映画を読む

ドイツ某都市に留学中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

いつ崩れ落ちるともしれないアイデンティティ(フィオナ・タン「歴史の未来」/Fiona Tan "History’s Future" 2015年)

ここのところ映画館に行けていないので、昨年観た映画と、それと関係する展覧会について。

フィオナ・タン「歴史の未来」(Fiona Tan "History’s Future" EN/DE/FR/NL 2016)は、昨年9月末に鑑賞。フィオナ・タンは日本でも何度か個展を開いたことがある芸術家で、この「歴史の未来」は彼女の最初の長編(といっても100分弱だが)映画作品だそうだ。

とにかく強い印象と残響を残す映画だった。基本的には、暴漢に襲われて記憶を失ったある男性が自らのアイデンティティを求めてヨーロッパを放浪する、というモチーフが映画の中心にある。とはいえそれがわかりやすい単線で物語られることはなく、極めて断片的に、現実と心象イメージの境目も曖昧なまま、物語とも言えないような不安定な物語が展開されていく。自分の名前も、生い立ちも、国籍も、自身に関する記憶らしい記憶は全て喪失してしまった男性はもはや「自分」を束ねる紐帯を失っている。それに対応するかのように、この映画にも中心となる線は見当たらない。そして映画を観る者もまた、現実と心象の断片性のなかを漂う彼とともに、自らの中心を失ったような、拠り所を失ったような感覚のなかに突き落とされる。アイデンティティなるものはいつ崩れ落ちるかもしれないものなのだということを、この映画はそれを観る者に追体験させる。そこにこの映画の決定的な残響があった。私自身はこの映画を観た後に、自分が自分の名前を忘れていないかどうか、歩き方を覚えているかどうか、自宅への帰り道を記憶しているかどうか、ひとつひとつ確認せずにはいられなかった。自分もまた、映画の主人公と同じように、自分を束ねる紐帯を失ってしまったのではないかという思いから、なかなか抜け出すことができなかった。後に残ったそのひどく強い残響という点だけでも、個人的には、昨年鑑賞したなかで最も印象に残った映画だった。

ところでこの映画の主人公は、確かに自らのアイデンティティを見失ってはいるのだけれども、同時に全ての手がかりを失っているわけではない。彼はさしあたり、言葉を失っていない。目が覚めた病院で彼は、医師と英語でコミュニケーションをとることができる。映画中では、ドイツ語やフランス語の会話も為される。彼が生きてきた場所はヨーロッパであることはわかる。とはいえ彼は、彼の妻だという女性のことが思い出せないし、彼女と行ったという旅行のことも記憶から呼び出せない。彼の容貌からも確かなことはほとんどわからない。彼はどことなく中央アジアか西アジア系の血を引いているようにも見えなくもないが、とはいえ彼の容貌や振る舞いそのものは、現在のヨーロッパにおいて全く珍しいものではない。英語やフランス語を話す限りでは、彼は誰からも違和感を持たれることはない。彼はヨーロッパにヨーロッパの人間として生きることはできている。だが当の彼自身は、違和感と場違いの感覚から抜け出すことができない。彼は彼が誰なのかわからないのだ。生きてはいける。しかし、やはり彼は、自分が何者であるかというアイデンティティを問わずにはいられない。

 

アイデンティティを見失いつつ問い求める彼のこの姿は、現在のヨーロッパが抱える問題を突き詰めたところで生じるものだろう。つまり彼の姿は、EUの枠のもとで国境が実質無効なものになり、同時に長年にわたる移民や難民の統合、そしてその子孫の定着によって、もはや国家や民族のアイデンティティが希薄なものとなっているヨーロッパの映し絵であるのだ。もちろん今なお、ヨーロッパのなかにはさまざまなナショナル・アイデンティティが存在するし、それぞれの国家や民族と自分自身を同一化して生きている者も未だ多く存在する。しかしもはや少なからぬ者にとって、自らのアイデンティティは一つの民族や国籍とぴったり重なり合うものではなくなっている。そしてそれは、可能性としては、誰しもに生じうる事態なのだ。勿論そこで、「ヨーロッパ」というより包括的で柔軟なアイデンティティを持ち出す者もいるだろう。とはいえやはり理念としての「ヨーロッパ」は、かつてのナショナル・アイデンティティ以上に広く曖昧な概念であり、拠り所としてはあまりに抽象的だ。だからこそこの映画の主人公は、ふらふらと、よろめくように、暴力をかきわけながら、自分が掴まることのできる具体的なアイデンティティを探し続けることになる。

もっともこのことはもはやヨーロッパや欧米諸国にとどまる話ではない。むしろグローバル化と呼ばれる世界史上のプロセスの帰結として、そこに巻き込まれる誰しもに潜在的には生じうる話であるだろう。この映画の監督であるフィオナ・タンその人の経歴が、このことを静かに証言している。中国人とオーストラリア人の両親を持つ彼女は、インドネシアのスマトラ島、ブカンバルに生まれ、現在はアムステルダムとロサンジェルスで活動しているという。彼女に対して、中国か、オーストラリアか、インドネシアか、それとも「ヨーロッパ」か、アメリカか、そういった一つのわかりやすい大きな固有名詞をもって自らのアイデンティティを表現せよと要求するのは、おそらく無理難題なのだろう(印象的なことに、展覧会のキャプションで彼女の下の来歴欄にはつねに「インドネシアのブカンバルに生まれ、アムステルダムとロサンジェルスで活動している」と書かれていた。通例ここは、ただ一言、出身国を書いて済まされるような欄だ。しかしおそらく彼女にとっては、自分の生きた経歴を伝えるにあたって、これが最小限の説明なのだろう)。おそらくこのような問題に対して、「誰しもが成年になるとともに一つの(或いはせいぜい二つの)ナショナル・アイデンティティを選択しなければならない」と主張する者は一定数いるだろう。さしあたり現在の法律の話としては、この主張は一定の妥当性を持つ。とはいえ法律上のナショナリティが、自らが何者であるかという自己認識としてのアイデンティティと一致「しなければならない」というのは、もはや現時点においても、普遍性のない、現実にそぐわないフィクションでしかない。出生地も、国籍も、使うことができる言語も、その人を構成する一要素ではあってもその人そのものとは一致することがないという事態は、もはやそれほど珍しい事態ではなくなっている。長い間確固たるものであると妄信されてきた理念的な「大きな」アイデンティティは、実はそれほど普遍的なものでもなく、それどころかいつ崩れ落ちてもおかしくないものなのだ。我々の世紀はもはやそのような歴史的境位に入りつつある。反グローバリゼーションやナショナリズムの再燃は、そのような歴史的境位に対する反動ではあっても、ここまでの歴史を逆向きにするものではない。ひびのはいった大きな物語を壊さないように保守することはできるかもしれないが、現実がもはやどうごまかしてもその器に適さないものであるとわかってしまった以上、その物語のなかに全てを入れ込むことはできない。もし無理やりに押し込もうとするならば、破局的な崩壊という代価を払うことになるかもしれない。かつての大きなアイデンティティの物語は、現実に適さない、いつ崩れ落ちるともしれないものであることが明らかになった。そのことをまた、この映画は静かに、しかし決定的に証言している。

 

しかしアイデンティティ喪失の後でも、自分が何者であるかは問われ続ける。大きなアイデンティティの物語が崩れ落ちたときに、そこに残る可能性は、崩れ落ちた破片から成る、小さなアイデンティティの物語だろう。自分が生まれた場所、育った家、仲のよかった友人、旅行した土地、口にした食事、出会った人、観た映画、苦痛、快楽、肌触り、まどろみ、そして忘却のなかに沈んだあらゆるもの。そういった具体的な現実の欠片のすべてから人は、かろうじて自らのアイデンティティの物語を作り直すことはできるかもしれないのだ。とはいえそれもまた、いつ崩れ落ちるかもわからない、小さく脆い、壊れやすいものだろう。記憶の喪失とともに、瞬く間にバラバラに砕け落ちてしまうものだ。とはいえもはや、大きなアイデンティティは、多くの個人にとってはあまりに抽象的なものでしかない。だから結局できることは、砕け落ちたその破片を、もう一度拾い集め、たとえ以前と同じ形ではないにしても、もう一度組み合わせて、必要であれば別の瓦礫も用いて、新しいアイデンティティを作り直すことでしかない。たとえそれもまた、いつどのようにして崩れ落ち、忘却のなかに流れ去るものであるかわからないにしても。そうして、断片を集め直すというこのプロセスそれ自体がまた、一つの断片として、小さな物語の一部になる。だからこの映画の主人公は、何も思い出すことができないままに、それでもかつて自分と関係していた何かを求め歩くのだ。

やがて、辿り直す旅そのものが自らのアイデンティティの一部となる。忘却のなかに沈んだ事物に再び触れるというそのことが、たとえそれによって過去の記憶がそのままに蘇ることがないとしても、ひとつひとつまた新しい具体的な経験となり、物語の材料になる。とはいえこの経験の記憶もいつまた消えるかはわからないので、この試みもやがてまた、寄る辺なく無力なものであることが気付かれる。だからそれに彼が耐え抜くことができるのかということには、疑問符がついたままだ。しかし名前も故郷も失った彼は、大きなアイデンティティというフィクションによってこのような歴史的境位から脱出することもできない。彼が生きる限りは、断片的であろうと具体的な経験という材料をもって、小さなアイデンティティを作り直すことしかできないのだ。それはさしあたりひどく頼りなく、ひどく崩れやすいものに思われる。しかしそもそも、我々一人一人が実際に辿ることのできる現実の生は、壊れやすい、無常さと背中合わせのものだ。だからこそ我々のアイデンティティもまた、個人的なものであろうと集団的なものであろうと、いつ崩れ落ちるともしれないものなのだ。このことが露わになり自覚されざるをえなくなるというそのことが、予感され、既に現れつつある「歴史の未来」なのだろう。だからこそこの映画は、より大きな歴史の進歩などという未来の物語を作り出すことをせず、崩壊とわずかな可能性との狭間で揺れる小さな物語の姿を、おぼつかない不安定な仕方で、描き出しているのだ。

 

…今年になってから、フィオナ・タン「時間、時代の地理学」(Fiona Tan "Geografie der Zeit")展を観に行った。それについても少し書きたい。

この展覧会は、7つのビデオ・インスタレーションから成るもので、それぞれはこの映画ほどの強い印象はなかったが、とはいえ見ごたえのあるものだった。そこで気付いたのだが、彼女の多くのビデオ・インスタレーションは、映画「歴史の未来」と同じ問いを様々な仕方で主題化しているものだった。それはつまり、時間、時代の移ろいのなかで人を「何者か」たらしめているものは何であるか、という問いだ。それはもっと抽象的な言い方をすれば、変化のただなかで同一に見えるものを同一に見せているのは何であるか、という問題でもある。とりわけこの観点において、彼女の作品からは、いくつかの基本的なモチーフが読み取れるように思えた。以下に箇条書きにしたい。

一つには、時間、時代が流れゆくものであり、最終的には消え去るものであるということ。

二つには、その流れと消え去りのなかにはそれでも過渡のなかに辛うじて留まる同一性のようなものがあるが、その同一性それ自体もまた別の緩やかな変動のなかにあり、しかも曖昧で容易に取り違えられるものであること。

三つには、むしろその同一性を同一性のようなものとして際立たせるのは、場所であり、身にまとうものであり、表情であり、そういった移ろいやすく束の間に消え去るがしかし具体的なものであること。

四つには、この消え去りやすい具体的なものは容易に忘れられるが、それらのものが忘却から浮かび上がったときには、それまでとは別の具体性と現実性をもって、自明であったはずの同一性を揺るがし、同一性の見え方を変化させうるということ。

時間は流れ消えるものだという最初のモチーフだけを強くとると、彼女の作品は、ありがちな万物の生々流転説(全ては流れ消え去る、ゆえに空しいものである、というような説)を表現したものに思われるかもしれない。実際彼女の作品群は、ある程度までそのような世界観の上に成り立っているようにも思える。とはいえ私には、彼女の関心はむしろ、そのような「流れ」のなかにある「流れ去らないもの」にこそあるように思えた。より正確に言えばそれは、「流れのなかに一時的にであれ留まるように見えるもの」或いは「流れ去ったように見えて別の仕方で再び現れるもの」だと言えるかもしれない。そしてその「流れ去らないもの」の同一性≒アイデンティティは、逆説的なことに、「流れ去るように見えるもの」によって成り立っている。そしてこの「流れ去るように見えるもの」は、束の間のものとして現われ、過ぎ去り、時間とともに忘却のうちに沈むものである。具体的に言えばそれは消耗品であり、廃棄物であり、打ち捨てられたものである。個人のアイデンティティも、さらに言えば「我々」という集団のアイデンティティが今なお成立するとすればそれもまた、このような打ち捨てられ忘れられたものの集積の上にこそ、はじめて可能なものなのだ。

展覧会には、フィオナ・タンの「幽霊の家々Ghost Dwellings I-III」という三連作のビデオ・インスタレーションがあったのだが、その三作目は、2011年の東日本大震災による原発事故の結果として立ち入り制限区域となった福島の一地域を舞台に、2014年に作成されたものだった。こういう作品があることを全く知らずに、しかもキャプションを読まずに映像を見始めた私は、ある種虚を衝かれた思いだった。日本について、或いはこの事故についてよく知らない者は、キャプションを読むことなしには舞台がその場所であると気付くことさえできないかもしれない。それくらい映像は淡々と、打ち捨てられ放棄された事物を追っていた。このビデオ・インスタレーションの部屋にはあまり人がいなかったし、部屋に入って来ても件の映像を最初から最後まで観ている人は稀だった。それは仕方のないことかもしれない。東アジアの一地方の荒廃した町など、そこに打ち捨てられた廃屋や廃棄物など、中身を明らかにしないまま途方もなく積み上げられた黒いごみ袋の山など、多くの人にとってはそれが何を意味しているのか不明瞭なものでしかないだろう。しかし私にとっては、そういうわけにはいかなかった。それらの事物は、自分が生まれた国やそこに住む人々の生活のなかで生起し、廃棄され、多くの人によって少なくとも日常のレベルでは忘れられたが、しかし今なおそこに存在しているだろうものなのだ。もし我々が今なお、そしてこれからも「日本」や「日本人」という集合的なアイデンティティについて何かを言い、何かを考えることができるとすれば、ここに打ち捨てられたものたちは、そのアイデンティティを可能にする現実の事物でありうるだろう。きらびやかで見栄えのよい理想の物語だけによって作られたアイデンティティでは、現実を掬い取ることができない。むしろ現実の片隅に追いやられ忘れられた何ものかが、過去から現在を成しているものであり、おそらく未来をも成すものであろう。もっともこうして成されるアイデンティティも、しょせんは相対的で、その意味で小さな、いつ崩れ落ちるともしれないものでしかないだろう。それでもアイデンティティを語ることがやめられないとすれば、片隅に捨ておかれた現実は、捨て去ることのできないその一構成物なのだ。