映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

映画を通してルターを勉強する、その② 国民の英雄としてのルター像

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前の記事(「映画を通してルターを勉強する、その①」)で書いたとおり、今年2017年は、マルティン・ルターが教会批判の「95ヶ条の論題」を公表した1517年から500周年、つまりは宗教改革の第一歩目から500周年だということのようで、それにちなんで私が普段通っている映画館でもルターに関する映画がいくつか上映されていた。私自身、そこで下の三本のルター映画を観た。

 

・ハンス・カイザー「ルター、ドイツ宗教改革の映画」(Hans Kyser "Luther – Ein Film der Deutschen Reformation" DE 1927)

・クルト・オェテル「従順なる反乱」(Curt Oertel "Der gehorsame Rebell" BRD 1952)

・エリック・ティル「ルター」(Eric Till "Luther" DE/US 2003)

 

興味深かったのは、この三本の映画それぞれにおいて、同じルターという人物がそれぞれ異なった強調点をもって描き出されていたという点だ。このことは、ルターその人がもつ多面性に由来するものでもあるだろうが、同時に時代ごとの文脈や製作者の思惑が反映されたがゆえの事態でもあるだろう。

以下、それぞれの時代の歴史的文脈も考えつつ、私が観ることができたそれぞれのルター映画について印象的だったことや考えたことなどを、書いていきたい。

 

※なおそれぞれの細かいあらすじに関しては、基本的に前回書いたルターの生涯と重なるので割愛する(確認したい方は、前回の記事の「マルティン・ルターという人物、その生涯」という項を参照してほしい)。そのため以下では、映画について考える上で重要な点だけ書いていくこととする。

 

ドイツ国民の信仰のために生きた英雄としてのルター(ハンス・カイザー「ルター、ドイツ宗教改革の映画/Hans Kyser "Luther – Ein Film der Deutschen Reformation" DE 1927)

ベルリンのUfAスタジオにおいて製作されたルターの伝記映画。サイレント映画だが、私が観た上映では生のピアノ伴奏つきだった。"Luther-Filmdenkmal"という団体の寄付によって制作されたとのことだが、「メトロポリス」など同時代の無声映画と比べてもそれほど見劣りしない程度に背景や演出に力が入れられており、二時間にわたる映画には制作陣の労力が感じられる。また同時にこの映画には、そのタイトルに既に示されている通り、二つの大戦間期におけるドイツ民族主義、国家主義の精神も投影されている。

 

※下はトレイラー。これによると今年2017年11月にDVD化されるらしい。宗教改革500周年記念だからなのだろうか。

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この映画中で描かれているのは、雷雨をきっかけにルターが修道院に入るあたりから、彼の考えに触発された市民や農民たちが教会に対して反乱を起こし、そこにルターが姿を現し教えを説くあたりまで。最後半、教会を破壊し尽くそうと息巻く群衆の暴動を鎮めんとして、ルターは、これがあなたたちの信仰だというのか、信仰はむしろ聖書のなかにあるのではないかと語りかける。この言葉が民衆の心を打ち、彼らが暴動の矛を収めルターが賞賛されるところで、映画は終わる。

この映画では、映画中の暴動よりも大規模な暴力行為を招いてしまいルター自身の手に負えなくなったいわゆる「農民戦争」についてや、或いは聖職者としての婚姻についてなど、ルターにおいてしばしば問題とされる点についてはほとんど取り扱われていない。この映画中ではむしろ、人々を導く宗教的リーダーとしての、さらに言えばある種の国民的英雄としてのルター像がことさらに強調されている。

 

国民の英雄としてのルター像、ドイツの国民アイデンティティ形成の先駆けとしての役割

この映画中でとりわけ印象的なのはまさしくこの点、ルターがドイツ国民の英雄として描かれている点だ。画面のなかのルターは実際に、教会や皇帝といった既成の権力に対峙する際に、「ドイツ」(Deutschland)のための、あるいは「ドイツ国民」(das deutsche Volk)のための信仰を主張していた。この描写を素直に受け取るとルターは、ドイツ国民の信仰の自由のために封建的な教会権威と戦った宗教的英雄だとして理解されることになるだろう。

このようなルターの描かれ方は、理由がないものではない。というのも、ルターが聖書を日常言語に訳す際に他ならぬドイツ語を用い、それによって古典語が読めないドイツ語話者の民衆に聖書を読む可能性を開いたのは、紛うかたなき事実であるからだ。そればかりか彼は、「キリスト教界の改善について、ドイツ国民のキリスト教貴族に与う」("An den christlichen Adel deutscher Nation von des christlichen Standes Besserung" 1520)という文章を著してもいる。こうしてみるとたしかにルターは、ドイツ語を話す民衆を念頭においてあるべきキリスト教信仰のあり方を問い聖書をドイツ語に訳したばかりか、実際に「ドイツ国民」(Deutsche Nation)という言葉を用いてさえいたのだ。この意味では確かに、ドイツの国民アイデンティティ形成の先駆けとしての役割は、ルターという人物の一面であるだろう。

 

国民国家時代のナショナリズム的解釈の問題点

ただしここで言われているのが、近代における国民国家としての「ドイツ」と必ずしも同じものではないことには注意が必要だろう。そもそもルターが生きた15世紀から16世紀の当時には、「ドイツ」という統一的な国民国家はいまだ存在していなかった。当時のルターが国としての「ドイツ」を認識することができたのかどうか、あるいは彼がそこに住む国民としての「ドイツ国民」を考えることができたのかという点には、少なからず疑問が残る。ルターが「ドイツ国民」(Deutsche Nation)という言葉を用いたときに、その言葉の内実が20世紀に言われる「ドイツ国民」とどの程度まで重なりどの程度ズレるものなのかは、丁寧に考えられるべき問題なのだ。*1

ここでは本来、歴史的文脈を踏まえること、また繊細なニュアンスや文脈を区別することが必要なのだが、この映画はおそらく意図的にそのあたりの区別を曖昧にしている。そうしてあたかもルターが、1920年代当時には既に存在し人びとのアイデンティティの拠り所になっていた「ドイツ」という国民国家のために、ひいてはそこに帰属するべきドイツ民族の信仰のために戦ったかのように、演出がなされているのだ。だからこそこの映画には「ドイツ宗教改革の映画」というタイトルが与えられているのだろう。

言うまでもなくこの演出は、1927年という時代の産物だろう。ルターの生きた時代にはいまだ存在しなかったはずのドイツという国民国家に与するものとしてルターを描き出すこの映画は、1920年代後半のドイツにおいてキリスト教がナショナリズムの材料にされていたその事実をまざまざと思い知らせてくれる。このことは、第三帝国時代にナチス政権と教会権力とが部分的にではあれど手を結ぶことができてしまったというその歴史的事実を先取りしてもいるだろう*2

キリスト教の宗教的実践というのはもともと、彼岸にいる神にこそ仕えるものであって、国家という此岸の権威とは距離をとったものであるはずだ。そればかりか宗教的実践と世俗的権威の間には、一定の緊張関係があったはずなのだ。実際にルターも、彼が「ドイツ国民」(Deutsche Nation)のための信仰を語るときでさえ、この世の権威である教会があの世での救済を取り仕切っているというその越権行為をこそ問題にしたのであって、だからこそ人々が自分自身の自由な心で信仰に向えるよう聖書を民衆の言葉に翻訳したはずなのだ。

しかし強調点がずらされ、彼岸に属する宗教権威と此岸の国家権威とが結びつけられるときには、民衆の信仰の自由を求めたはずのルターの宗教改革は、ドイツという国民国家のための英雄的自己犠牲へと書き換えられることになる。そして皮肉なことにこのことが、個人の自由よりも国家の権威を高めることに奉仕してしまうのだ。この映画「ルター、ドイツ宗教改革の映画」には、明らかにこのような転倒が読み取れる。

 

活版印刷を用いた世俗的な大衆運動家という側面

ところで、ドイツ国民のための英雄としてのルターの描かれ方とは別に、この映画でもう一つ印象に残った点がある。それは、ルターが超俗的な聖人というよりも、むしろ世俗的な大衆運動家のように描かれていたという点だ。

映画中においてルターは、まずもって音楽を愛する教師として登場し(おそらくこれは史実ではないだろう)、その後も音楽や演説の力で人々を魅了するという描写があった。また彼が自説を展開する際にはドイツ語で——すなわち大衆が読める言葉で——著作を発表したがゆえに、彼の主張は教会人の枠を超えて流布していくことができた。そのようにして彼の教会批判は、ヘブライ語や古代ギリシャ語、そしてラテン語をも解さない人々、つまりは特別な教養を持たない大衆の支持を得ることになった。まさしくこの大衆の支持という点によってルターは、教会権力にとっても無視し難い影響力を持つことになったのだろう。

このようなルター像、教会の聖職者ないしは大学の神学者ではなく、大衆の支持を集め大衆の信仰のために戦ったルター像には、なるほどと思うところがあった。もちろんこの映画には、大衆の支持を集めたがゆえに生じた暴走(「ドイツ農民戦争」)が等閑視されていたり、或いは「ドイツ語を話す大衆のために」というのが民族主義的に「ドイツ国民のために」に読みかえられていたりと、少なからぬ問題があることは既に指摘したとおりだ。しかしルターが宗教改革の上で決定的な人物となりえたのは、教会制度という「上から」の権威に抗する大衆の「下から」の運動に適合する人物であったという点が大きかったということは、ある程度まで史実に即しているのではないかとも思う。

さらに言えば、ルター自身がどこまでそれを自覚していたかはさておき、当時の最新メディアを利用し多くの人々の耳目に触れることを優先してなされた彼の活動は、中世的な封建社会の権威が崩れつつあった16世紀に合致したものだったように思われる。このことは、科学技術の発展やそれに伴う非特権階級の権利意識の増大という別のファクターとも密接に結びついている。ルターの言説もまた、一方では活版印刷技術という当時の最新技術の活用あってこそかくも多くの人々の目に触れることになったのだろうし、他方でそれを読んだ大衆の側でも教会権威を絶対視する必要はもはやないのだという意識が既に強まっていたのだろう。端的に言ってルターは時代の趨勢に適合していたのであり、ルターの宗教改革は、メディアの進歩と市民意識の発達という近代化の流れにおいてこそ本格的な抵抗運動へと展開しえたのだろう。

この意味でルターを、天才的英雄ないし浮世離れした聖人というよりも、むしろ近代化し世俗化しつつある社会においてこそ可能となる大衆運動家の先駆けと見なすこともできるかもしれない。このような意味で彼を、宗教改革の嚆矢としてのみならず、西洋的近代の重要な歩みを象徴する人物としても理解することもできるだろう。 この映画は、間接的にはルターのこのような側面をも描き出していたように思う。

 

長くなってしまったので、残り2つのルター映画についてはまた次の記事で。

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*1:専門家による講演つきの上映だったので、映画後の質疑の際に、そもそも「ドイツ」(deutsch)なる言葉がルターが生きていた当時にどういう意味で用いられていたのか、それが今のような「ドイツ国民」のニュアンスを持ちえたのか、思い切って聞いてみた。解答としては、当時領邦国家だったヨーロッパにおいてはもちろん「ドイツ」という国民国家は存在しないので現在のような意味での国家的アイデンティティとしてのニュアンスはありえないが、同じドイツ語を話す人々という意味での共同体のイメージのようなものはあったかもしれない、という答えだった。またそれとは別の観点として、近代(とりわけ19世紀の国民国家形成期)において、ルターによる聖書のドイツ語訳が「ドイツ」という国民アイデンティティ形成に寄与はしたという事実は大きい、ということも言われた。ちなみに、神学を専門にしている知り合い何人かに、ルターがドイツ国民のための信仰を主張していた映画を観たよ、という話をしたら、一人はそれはありえないでしょと笑っていた。もっとももう一人は、やはりルターの当時においてもドイツ語を話す人々の共通意識はあっただろうし「ドイツ性」(Deutschtum)みたいな意識もあったはずだ、と言っていた。ただまあいずれにせよ、この映画におけるような仕方でルターにドイツ国民の信仰を語らせるのは幾分問題がある話だということのようだ。

*2:もちろん、第三帝国時代にはキリスト者によるナチズムへの抵抗運動も存在していたことは確かだ(いわゆる「告白教会」運動など)。とはいえ当時、ナチズムを黙認するばかりか、積極的にナチズムを支持するキリスト教団体(たとえば「ドイツ・キリスト者」運動)も存在した。彼らがキリスト教信仰の「ゲルマン性」を説きそれをナチス政権の台頭と結びつけるそのやり方は、この映画中のルターの描かれ方と共通するところがある。

映画を通してルターを勉強する、その① 宗教改革500周年とルターという人物の多面性

目次

 

マルティン・ルターと宗教改革500周年

欧米圏の文化について調べたり勉強したりしているときにしばしば予期せず突き当たる名前の一つが、マルティン・ルター(Martin Luther 1483-1546)だ。ルターは、同時代のキリスト教界を聖書に基づく信仰から乖離したものだとして強く非難し、キリスト教改革を先導した。とりわけ、人々の罪を軽減する「免罪符/贖宥状」(Ablassbrief)を発行・販売していた当時の教会を弾劾したルターの「95ヶ条の論題」(95 Thesen)は、しばしば宗教改革の最初の一歩だと見なされる。

ルターがこの論題を著しヴィッテンベルク城教会の扉に張り出したのが1517年であるとされる(もっとも、この逸話は史実としては疑わしいところがあるようだが)ので、今年2017年は宗教改革500周年だということになるようだ。そういうわけでキリスト教圏でありしかもルターを生んだ国でもあるドイツでは、今年、ルターにちなんださまざまな催しが開かれている。

実際、特に神学を専門に勉強しているわけでもない私の目や耳にも、意識しないでもいつも以上にルターの名前が入ってくる。ルターにちなんだ講演会やイベントのポスターがそこらに張られていたり、ラジオを聴いているときにふいにルターの話題が出てきたりする。大学の学食で隣に座った学生のグループが、授業で扱われたらしいルターを話題にしていたということもあった。そしてついには、普段通っている近所の映画館のプログラムの上にまで、ルターにちなんだ映画がいくつか登場してきた。

そこで私は、いっそこの機会に、映画を通してルターを勉強してみるか、という気になった。そういうわけで、自分自身の勉強もかねてルターにまつわるいくつかの映画について書いてみたいのだが、その前にまず、マルティン・ルターという人物について、そして彼がドイツ文化あるいは欧米文化史の上でもつ意義について簡単に概観しておきたい。

 

マルティン・ルターという人物、その生涯

まず、マルティン・ルターという人物について、とりわけ彼の生涯について書いておきたい。あまり細かいことは書かないが、映画のなかでも取り上げられていた基本的なところについては触れておきたい。*1

青年時代に法学を修めたルターは、ある激しい雷雨の日をきっかけに、家族の反対を押し切って修道院に入ることを決意する。エアフルトの聖アウグスチノ修道会の修道僧として信仰とは何かを問い続けたルターは、聖書を通して、怒りによる裁きにではなく愛による慈しみにこそ神の本領があるのだということを悟る。ローマ旅行でカトリックの本拠を自らの目で見たのちにルターは、ヴィッテンベルクで神学博士として教鞭をとるようになる。

そのころルターは、当時の教会の現状を、とりわけ教会が販売する「免罪符/贖宥状」によって罪が金銭で解決できる問題になってしまっていることを非難するようになる。この現状を批判しつつ彼は、聖書に基づく個々人の信仰にこそキリスト教における罪の赦しがかかっているのだと説くようになる。そのためルターは、免罪符の販売を弾劾する「95ヶ条の論題」を著し、聖職者に対して公に論争の場を設けるように求めることになる(上にも書いたように、この論題をヴィッテンベルクの城教会の門に張り出したという逸話それ自体は史実として疑わしいものらしい。とはいえこの逸話が宗教改革の最初の一歩として語られることは多いようだ。実際に私が観た映画のどれでも、ルターが教会の門に論題を張り出すシーンはドラマチックに描写されていた)。

この論題やドイツ語で書かれたルターの著作は印刷されて出回り、教会の内外に激しい論争を引き起こすことになる。著作を公刊することを通して自説を展開し次第に支持者を獲得していくルターはしかし、同時にこれらの行為によって異端の疑いをかけられてしまう。そうしてルターは、マインツ大司教によって1518年にアウグスブルクで審問にかけられたのち、ローマ教皇からも問題視され教会からの破門を宣告されてしまう。さらに1521年にはヴォルムス帝国議会に召喚され自説の撤回を求められるが、ルターは聖書に書かれていないことを認めることができないと撤回を拒否する。これによってついには、ルターの帝国追放と彼の著作の所持禁止という勅令が出されてしまう。

帝国議会後のルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世の庇護をうけてヴァルトブルク城で時を過ごし、そこで新約聖書の翻訳に没頭する。ところがそのころヴィッテンベルクでは、ルターの教会批判に刺激を受けた彼の信奉者たちが、教会の建物を破壊し教会内の書物を焼き払うといった騒動を起こしていた。見かねたルターは群衆の前に姿を現し、暴力を伴った教会への反乱行為を糾弾せざるをえなくなる。しかしルターに触発された人々の暴動は止むことなく各地に広がっていき、その後「農民戦争」(Deutscher Bauernkrieg)と呼ばれる大反乱にまで発展してしまう。その際にルター自身は、領主側について反乱鎮圧を支持する側にまわることになる。

その一方で、ルターの言説それ自体は少しずつ教会側にも認められていく。カトリック教会への抵抗の態度から「プロテスタント」と呼ばれるようになったルター派の人々は、1530年のアウグスブルク帝国議会において「アウグスブルク信仰告白」(Augusburger Bekenntnis)と呼ばれる信条宣言を提出し、皇帝カール5世もこれを認めざるをえなくなる。

またルターは、1525年に、修道女であったカタリーナと結婚している。これは、聖職者の結婚を禁止してきた教会の伝統から逸脱した行為であるのだが、ルターは聖職者の結婚を認める立場をとり、彼自身カタリーナとの間に6人の子供をもうけている。またその後もルターは生涯を通じて旧約聖書の翻訳や執筆活動に精力的に取り組み、1546年に故郷であるアイスレーベンにおいてその生涯を閉じる。

 

宗教改革者であり、文化史上の参照点としてのルター

教会によって販売される「免罪符/贖宥状」への批判、聖書に基づく個人的な信仰の強調、神の裁きへの畏れにではなく神の愛による恩寵にこそ核心を見るキリスト教観、そしてこれらの考えに基づいたルターの「宗教改革」の要求は、その後カトリックに対してプロテスタントが誕生する道を準備することになった。この意味でルターが近代キリスト教の礎を築いた人物の一人であることは、間違いのないことだ。

もっとも、キリスト教という枠組みを離れても、欧米文化におけるルターの意義というのは軽視できるものではない。そもそもの大きな話にはなるが、現在の欧米文化の礎がカトリックやプロテスタントといった諸宗派の緊張関係から成るキリスト教文化から発展してきたものであることに鑑みれば、プロテスタント信仰の道を準備したルターの意義は、ゆうに狭義のキリスト教の問題圏を超えていくことになるだろう。だからこそ、必ずしも神学や宗教学を専門に勉強しているわけでもない私のような人間でさえも、しばしばルターの名前に突き当たるのだ。

具体的な例を挙げれば、ヘブライ語および古典ギリシャ語で書かれ当時教会ではラテン語で読まれていた聖書をルターがドイツ語に翻訳したことには、聖なる書物を、ひいてはそこに書かれた知識を、聖職者による独占から民衆の手へと解放したという側面がある。また、ルターらによって準備されたプロテスタント的な禁欲と勤勉の倫理が、のちに資本主義が発展するための精神的な土台になったというマックス・ウェーバーによる議論も見逃せない(このことが直接ルターに帰せられるべきかというのは考える余地があるだろうが)。ルターによる宗教改革は、狭義のキリスト教の枠を超えて、欧米文化の歴史を考える上では欠かすことのできない重要な参照点の一つなのだ。

さらにドイツにおいてルターは、彼がドイツ語による著作活動を展開したばかりか聖書をドイツ語に翻訳した人物だということもあって、ある種特別な力点をおいて語られることがある。つまり彼はしばしば、必ずしもルターその人のものではない色々な理念を投影されて理解されるのだ。時にはドイツ民族の形成に寄与した国家の英雄として、時には封建的な教会制度と戦った反権威の勇士として、また時にはあるべきキリスト教信仰のあり方を模索した誠実な信仰者として。ルターの生涯やその活動は、どこに強調点をおくかによって、全く異なった仕方で理解されることができる。だからこそ、ルターについての語りもまた、時代や場所、あるいは文化的コンテクストによって、多面性を帯びたものとなる。

 

映画におけるマルティン・ルター

このことは、どうやら映画にもあてはまるようだ。ルターに関する映画は、独語版のWikipediaに掲載されているだけでも、劇映画が19本、ドキュメンタリーが13本製作されている(Lutherfilmの項目を参照。2017年8月11日現在)。私はこのなかから、近所の映画館で以下の三本を観ることができた。

 

・ハンス・カイザー「ルター、ドイツ宗教改革の映画」(Hans Kyser "Luther – Ein Film der Deutschen Reformation" DE 1927)

・クルト・オェテル「従順なる反乱」(Curt Oertel "Der gehorsame Rebell" BRD 1952)

・エリック・ティル「ルター」(Eric Till "Luther" DE/US 2003)

 

興味深いことに、この三本の映画におけるルターの描かれ方には、それぞれの時代の文脈や製作者の思惑のようなものが、それぞれなりの仕方で反映されている。それゆえこれらの映画について考えることは、ルターという人物の多面性を考えることであると同時に、その映画が製作された歴史的・社会的文脈を考えることでもある、と思う。

というわけでこれらの映画について書いていきたいのだが、ここまでの前置き部分でもってかなり記事が長くなってしまったので、映画それぞれについてはまた次の記事で書きたいと思う。

関心のある方は、その②の記事その③の記事もぜひ。

filmreview.hatenablog.com

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*1:言い訳がましいが、専門家でもなんでもなく拙い予備知識しか持たない人間が映画で観たこととインターネットで得られる情報とに基づいて書いていることなので、かなり怪しい記述もあるのではと思う。なので、もし間違いや不正確な部分などあったら指摘していただけると有難い。

苦境の末に偉大なものが訪れるという、空想のなかの芸術家の神話(ヴェルナー・クリングラー「ソリスト、アンナ・アルト」/Werner Klingler "Solistin Anna Alt" 1944年)

ヴェルナー・クリングラー「ソリスト、アンナ・アルト」(Werner Klingler "Solistin Anna Alt" DE 1944)を鑑賞。

この映画の主演女優であるアンネリーゼ・ウーリヒ(Anneliese Uhlig)がつい先日齢99で亡くなったそうで、その追悼の上映であったようだ。ウーリヒは、ナチス体制下のドイツにおいてゲッペルス主導の国策映画への出演を拒否したことから1942年以降ドイツ国内での映画出演が制限され、当時は主としてイタリアで活動していた。戦後はアメリカに移住したが、ドイツの映画やテレビにも度々出演してきたとのこと。本作「ソリスト、アンナ・アルト」はナチス体制下ドイツにおいて彼女が主演した数少ない映画の一つだということだ。

 

おおまかな感想、印象

ナチス体制下のドイツしかも1944年公開の映画だということで、どんなものかなと思って観たのだけれど、思っていたよりもずっと丁寧に作られており、最後まで飽きずに観ることができた。アンネリーゼ・ウーリヒ(Anneliese Uhlig)演じるピアニストのアンナと、ヴィル・クアドフリーク(Will Quadflieg)演じる作曲家ヨアヒム・アルトとの間の愛情と葛藤を軸にした音楽映画で、映画中で何度か為されるオーケストラ付きの演奏会の場面はそれ自体聴きごたえがあるものだった。また両主人公の演技もよく、とりわけ前半の、幸せな結婚生活が二人の才能のズレから少しずつ軋み崩壊していく様は、丁寧に描かれていたように思う。

もっとも、露骨な政治的主張こそなされていないとはいえ、いかにも国家社会主義時代のドイツの映画だな、と思わせるようなモチーフもいくつかあった。それが顕著なのは、後半、苦境を耐え忍べば天啓が訪れ、悪化した事態も宥和するに違いないというある種神話的な理念が、アンナとヨアヒムという二人の芸術家に投影されていた点だ。苦難の末に偉大な作品を生み出す芸術家というこの神話は、1944年に実際にきわめて厳しい歴史的状況に立っていたドイツ国家と重ね合わされて理解されたかもしれない。しかしこの神話は空想の中のものでしかない。そこでは天啓のご都合主義も、また苦境のなかで生じてしまった痛ましい犠牲も、ほとんど等閑視されてしまっている。

 

あらすじ

音楽学校で知り合ったピアニストのアンナ・アルトと作曲家ヨアヒム・アルトは、音楽大学の卒業時には揃ってモーツァルト賞を受賞し将来を嘱望された音楽家だった。卒業後に結婚し幸福な結婚生活を始めた二人だったが、やがてヨアヒムは構想中の交響曲の作曲がうまく進まないことにストレスを感じ始め、ついには鬱状態になって仕事に手がつかなくなってしまう。アンナは当初内助の功としてヨアヒムを応援したいと考え、自らのピアニストとしてのキャリアを追わずピアノの家庭教師などで収入を得ようとするが、家計は苦しく、ヨアヒムの精神状態も悪化していく。その折、二人の窮状を見かねた音楽大学での恩師ブルクハルト教授は、アンナがソリストとしてコンサートツアーに参加して収入を得られるように取り計らい、ヨアヒムには一人で集中して作曲に取り組むよう勧める。

アンナは持ち前の才能からコンサートツアーで大成功を収めるが、同時に楽団の音楽総指揮者ヴェストベルクに見初められるようになる。それでもアンナは、ヴェストベルクの求愛に対して、自分はあくまでヨアヒムのために活動しているのだと告げる。しかしヨアヒムは、ソリストとしてのアンナの成功やヴェストベルクとの関係への嫉妬から、精神状態をどんどん悪くしていき、ツアーの合間に帰宅したアンナにも拒絶的に振る舞い家から追い出してしまう。アンナが家を出た後、ほとんど精神錯乱状態にあったヨアヒムは突然、交響曲の構想を思いつく。しかし彼はそれを完成させることができなかった。

その折にアンナは、自分が心臓の病を抱えておりもはやコンサートに耐えうる身体でないことを知らされるのだが、それでもヨアヒムのためにとコンサートに出演し続ける。そしてついにアンナは、大盛況のコンサートの直後に倒れ込み危篤状態で病院に運び込まれる。後から病院に駆けつけたヨアヒムは、ずっと付き添っていたヴェストベルクに、命が助かるかわからないこと、また彼女は彼のせいでこうなったのだと叱責される。そこでヨアヒムは、彼の交響曲に欠けていた最後の要素を思いつき、自宅に帰って交響曲を完成させる。そして完成した楽譜をもって病院に向うと、アンナは息を吹き返しており、交響曲の完成を喜んでくれる。こうして付き添っていたヴェストベルクは帰らされ、二人は再び愛を確かめ合う。

 

理想と現実の間の軋み、芸術家に要求される「偉大なものの産出」という神話的理念

既に書いた通り、映画の前半、才能を認められ成功していくアンナと、思うような成果が出せずアンナへの嫉妬や劣等感から精神を壊していくヨアヒムの関係がだんだんと軋んでいき崩れ落ちていくそのプロセスの描写は、とても丁寧で見応えのあるものだった。それは二人が結婚生活のはじめに思い描いた理想と、実際に直面せざるをえない現実との間の軋みでもあるだろう。

映画の最前半でヨアヒムがアンナに、自分が作曲した交響曲が演奏されるときにはその告知に「作曲/指揮 ヨアヒム・アルト、ソリスト アンナ・アルト」と載るんだ、と嬉々として将来の空想を語るシーンがある。しかし現実にヨアヒムはまともな作曲ができないまま、ヴェストベルクの指揮のもとで「ソリスト アンナ・アルト」という告知が掲示されるのを目にしてしまう。これはヨアヒムが理想と現実のギャップを決定的に自覚せざるをえなくなったことを象徴するシーンだろう。自らの才能の限界に突き当たり心を壊していくヨアヒムという人物の描写には鬼気迫るものがあり、端的に見応えがあった。

しかし映画では、劣等感や焦燥感から明らかに精神に異常をきたし始めているように見えるヨアヒムに対して、妻アンナも恩師ブルクハルト教授も一貫して作曲を諦めないように説得する。曰く、芸術家とはそういうもの、つまり破滅か栄光かの岐路のもとで生きる存在であるのだから、ヨアヒムも現在の苦境を耐え抜き作曲家としての成功という目標に邁進しなければならない。そこではまるでヨアヒムという一人の人間などどうでもよい存在であるかのようで、芸術家としての彼が産み出す——と期待される——偉大な作品こそが重要であると言われているかのようだ。自らに押し付けられたこの「偉大なもの産出」という理念にとことんまで追い詰められたヨアヒムは、最愛の存在であったはずのアンナに暴言を吐き、彼女が彼を見放すように家から追い出してしまう。

 

苦境の末にこそ偉大な成果が訪れる、という芸術家の神話

驚くことに、アンナが彼のもとを去りもはやあとは破滅するだけだという状況になったそのときに、突如ヨアヒムのもとに——まるである種の天啓のように——交響曲の構想が思い浮び、彼はそれを一気呵成に完成間際まで書き上げることができるようになる。またその後でも、アンナが心臓の病で倒れ危篤状態にあることを、しかもそれが自分のせいなのだということを知らされたそのときに、ヨアヒムのもとに再び啓示が訪れ、彼は交響曲を完成させることができるに至る。

これではまるで、人生を苦境に陥らせれば自動的に偉大な着想が飛来してくるといったような、自動装置が存在するかのようだ。ここではアンナとの破局も、またアンナの病気や昏倒でさえも、芸術作品という偉大さに奉仕するための道具立てのようなものに変じてしまっている。前半では丁寧に描かれていた彼らの人間性も、後半に至っては全て交響曲という偉大な成果へ奉仕するものへと変じてしまっている。それだからこそ、交響曲が完成した暁には、病床のアンナとヨアヒムは——まるでそれまで彼らのもとに訪れた破滅的な事態をすっかり忘れ去ったかのように——心からの笑顔を見せることができる。こうして映画の後半を、苦境の末にこそ偉大な成果が訪れるのだという芸術家神話が支配することになる。

決して私は、作品を産み出すという作業が苦しみを伴うものであることを、またなにかしらの苦難の極まりがよい作品を生み出す機縁となりうることを否定したいわけではない。先日の記事で書いたヨーゼフ・ボイスの「挑発」概念ではないが、外的な状況への反発から芸術創造のエネルギーを得るということは芸術家と呼ばれる人々においてしばしば生じることなのだろう。しかしこの映画におけるそれは、あまりに図式的で、あまりにご都合主義的で、そしてあまりに犠牲に供されたものへの顧慮が少ないものであるように感じた。明らかに病的な兆候を示していたヨアヒムの精神状態も、再び舞台に立つどころか日常生活に戻れるかもわからないアンナの心臓の病も、交響曲の完成に奉仕することができればそれで清算されてしまったかのようなのだ。

 

歴史的文脈と「自己犠牲」の理念

もちろん、このようなモチーフから直接的に何かしらの政治的プロパガンダを読み取るというのは短絡的に過ぎるだろう。ただそれでも、この映画には明らかに、当時の、1944年のドイツという歴史的場所の時代意識が反映されているように思う。そもそもベートヴェンのようなドイツ文化が生んだ作曲家やその古典的作品の偉大さを臆面もなく賞賛するというそのこと自体が、当時においては否が応でも若干の政治的含意をもってしまうのだが、話はそれに尽きない。というのも、もはや思い描いた理想の遂行が不可能であることが露呈し、決定的な解決策も見いだせず、かといって現実を受け入れて後退することもできない、という歴史的状況にあった1944年の国家社会主義ドイツにおいては、苦境を耐え忍び理念に忠実であれば最終的には天啓の助けによって偉大な成果を得ることができるはずだというこの映画のモチーフは、それなりに魅力のあるものに感じられただろうからだ。

そして実際に映画の登場人物たちは、まるで当時ドイツ国民に求められた「自己犠牲」の理念をそのまま体現したかのような動き方をしている。女性であるアンナは、夫の偉大な仕事のために自らのキャリアを諦め、自らを傷つける夫に忠実に奉仕し貞淑を保ち続け、自分がどんな目に合わされてもそれを忘れて男性の偉大な成果をともに喜ぶ存在だ。そして男性であるヨアヒムは、精神が壊れようと身体が動かなくなろうと、たとえ無為の死という破局が迫っていようとも、偉大な理念の実現を信じて行為し続けなければならない。このような「自己犠牲」の理念を体現していたからこそこの映画は、さほど露骨な政治的プロパガンダを取り入れることがなくとも、当時のドイツにおいて上映されることができたのではないだろうか。*1

 

空想の二面性、現実とのギャップ

この映画における天啓のご都合主義や犠牲の宥和はしかし、空想のなかで思い描かれたものでしかない。現実にないものを空想する力——或いは端的に想像力——というものは、一面では現実を乗り越えて別の可能性に向うことができるものではある。しかし他面でそれは、現実を現実に即さないものと取り違えて、想像による粉飾をもって現実を理想化してしまうことがあるものだ。

この映画におけるような空想のあり方——苦難と犠牲の末に天啓が訪れるに違いないという神話的な思い込み——もまた、それがあくまでも空想された願いに過ぎないということが自覚されてさえいれば、また違った現れ方をするのかもしれない。しかしその空想が現実と取り違えられるときには、事態は少なからずおぞましい様相を呈し、現実に生きる人間の生でさえ容易に犠牲に供されかねない、ということになる。

ところでこの映画のなかでもっとも私の印象に残ったのは、まだ幸福な恋人同士であったヨアヒムとアンナが、二人で住む住居を探してまだ家具もない空のアパートを見学するシーンだった。二人はそこで、将来の二人の生活や成功を夢見心地で語り合いながら、部屋の調度を空想する。ここに箪笥をおいて、そこに棚を、あそこにピアノを、向こうにあなたが座って作曲をして、私は…というように。体を大きく動かしながら空想に耽る二人の幸福そうな姿はとても魅力的なものだったのだが、同時に、何もない部屋のなかで踊るように動き回る二人の空想は、語られたことが未だ現実になっていないこと、それが頭のなかで想像されたものでしかないことを雄弁に物語ってもいた。

ここでは、空想と現実の間にあるズレがはっきりと自覚されていて、二人はそのズレのなかで踊っていた。もしかするとこのシーンは、この映画の後半の神話もまた、空の部屋のなかで思い描かれた空想に等しいものでしかないということを、暗示しているものなのかもしれない。

*1:もっとも、このことがどこまで監督や製作者の意図と合致しているのか、どの程度検閲する当局側の要望が反映されているのか、その点の詳細は私にはわからない。映画「ソリスト、アンナ・アルト」は少なくとも、全面的に国家社会主義当局のお気に召すものではなかったようだ。というのもこの映画は、1944年当時に検閲によって「青少年の鑑賞禁止」(Jugendverbot)という判断を下されているからだ。

笑いとともに、プロパガンダの強張りに入るひび(エルンスト・ルビッチ「ニノチカ」/Ernst Lubitsch "Ninotchka" 1939年)

エルンスト・ルビッチ「ニノチカ」(Ernst Lubitsch "Ninotchka" US 1939)を鑑賞。

 

おおまかな感想、印象

ルビッチらしい、テンポのよい洗練されたラブコメディ。グレタ・ガルボ演じる厳格な共産党員ニノチカが、パリの伯爵レオンとの出会いを通じて変化していく様が印象的に描かれている。もっともこの映画には、当時の国際情勢を背景にした政治的寓意があからさまに織り込まれてもいる。ソヴィエト連邦から来たニノチカは労働者の革命による理想社会の構築を謳う共産圏を、パリの伯爵レオンは個人の享楽を是とする自由主義や資本主義を、それぞれ代表しているのだ。アメリカにおいて制作された本作は基本的には後者の視点に立ち、現実から乖離した共産主義の理念の強張りを笑い飛ばしながら、厳格な共産主義者も結局は資本主義的な享楽の魅力には抗えないだろうことを喧伝する。共産主義社会の理念のための自己犠牲に生きていたニノチカがレオンとの出会いをきっかけに自らの幸福を追うようになるという物語の大筋に、そのことは明らかだろう。この意味で本作を、自由主義・資本主義の側からなされた反共産主義プロパガンダ映画の嚆矢であると見ることもできる。

とはいえ映画「ニノチカ」の真髄は、資本主義陣営による共産圏の誹謗に尽きるものではない。というのもこの映画においては、笑いという内発的な作用が、共産主義の理念だけでなく自由主義・資本主義の側のプロパガンダにもひびを入らせているからだ。レオンによってニノチカが顔を崩すまでに笑うようになるというそのことは、たしかに一方では、理想のために個人を窒息させかねない共産圏の硬直性がひび割れ瓦解することを声高に喧伝している。しかし他方でレオンもまた、ニノチカに触れることを通して、個人の享楽を謳いつつも享楽から疎外された者たちを等閑視する自由主義や資本主義の欺瞞を自覚するに至っている。この映画におけるニノチカとレオンの出会いにおいて生じた「笑い」は、潜在的には、共産主義と資本主義というイデオロギー的な対立関係やそれを前提としたプロパガンダ合戦の強張りそれ自体にひびを入れるような作用を持っているのだ。

 

あらすじ

※例によって以下はネタバレになるのでご注意を。

ソヴィエト連邦から三人の役人が、かつての貴族から押収した宝石を国庫のために売り払うよう命令され、パリにやって来る。しかし宝石のもともとの持ち主でありパリに亡命していた大公妃が偶然の機会からそのことを聞き知り、彼女の愛人である伯爵レオンは宝石売却を阻止するために動き回ることになる。レオンはあの手この手で三役人を懐柔し、パリでの享楽的な生活でもって彼らが本来の仕事を忘れてしまうように仕向ける。その折、厳格な共産党員ニノチカが、遅延している三役人の仕事を監視するためにパリへと派遣されてくる。

三役人に仕事を言いつけパリの街を一人視察していたニノチカは、偶然のことからレオンと知り合う。レオンからの熱心なアプローチの甲斐もあり、パリの街を観光しながら二人は距離を縮めていくが、やがて彼らはお互いが敵対的な立場にあることに気付いてしまう。それでもレオンはニノチカとの仲を深めようと奮闘し、ついには労働者向け食堂でのちょっとしたやり取りをきっかけに、それまで全く感情を見せることがなかったニノチカが顔を崩して笑うようになる。また同時にレオンも、ニノチカの考えを理解するためにマルクスの『資本論』を読み階級格差の問題について理屈をこねはじめ、彼の使用人から呆れられるようになる。とにもかくにも理解し合ったニノチカとレオンは、二人でパリでの生活を楽しみはじめる。

しかしある日酔い潰れて帰宅したニノチカは、大公妃の使いに件の宝石を盗まれるという失態を犯してしまう。自分の愛人であったレオンがニノチカに執心していることに嫉妬した大公妃は、すぐにソヴィエト連邦に帰国してパリから姿を消すならば宝石を諦めてやるとニノチカを脅迫する。こうしてニノチカは自らの失態を隠すため、レオンに別れを告げることもできないまま、パリでの生活に耽溺していた三人の役人たちとともにソヴィエト連邦へと帰国せざるをえなくなる。

スターリン政権下のソヴィエト連邦に帰国したニノチカと役人たちはよい友人同士となり、隠れてパリでの思い出に耽るようになる。レオンはニノチカに会うためにソヴィエト連邦に入ろうとするが許可されず、彼の手紙も検閲で黒塗りにされてしまう。そんな折、三役人が今度はコンスタンティノープルへと毛皮を売るために赴くことになったのだが、またも彼らの仕事が遅延しているからとニノチカも同地に派遣されることになる。コンスタンティノープルまでやって来たニノチカは、三役人がロシア料理店を開店したことを知り呆れる。そこにレオンが姿を現し、これはニノチカに会うために彼が仕組んだことなのだと告げる。

※こちらは「ニノチカ」のトレイラー。ガルボ演じるニノチカが豪快に笑うさまが見られる。

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共産主義の強張りを笑いとばす資本主義のプロパガンダ

あらすじからして明らかなように、このコメディ映画にはふんだんに政治的寓意が織り込まれている。崇高な国家理念を説き個人の犠牲をも厭わない共産党員ニノチカはソヴィエト連邦を筆頭にした共産圏国家の象徴であるだろうし、パリの街とその楽しみ方を熟知し個人的な享楽や愛を追いかける伯爵レオンはアメリカを筆頭にした自由主義・資本主義国家の価値観を代表している。この意味で映画「ニノチカ」は、戦後の東西冷戦時代を先取りするかのような対照関係を戯画化している。

アメリカ制作で1939年に公開されたこの映画にはとりわけ、共産主義の台頭を危険視する自由主義陣営の当時の意識が明らかに反映されている。というのもこの映画のモチーフは、基本的に自由主義・資本主義の側の視点から、共産主義社会の硬直性を笑い飛ばすということにあるからだ。このことは共産党員ニノチカの描かれ方に顕著で、冗談にくすりともせず、労働者の革命による共産主義の実現という理念を無表情で暗誦し、ショーウィンドーの最新ファッションを軽蔑の眼差しで見つめるニノチカは、生の喜びを知らない非人間的な存在として登場する。ここでは明らかに、現実味のない共産主義社会という硬直した理念が、現実として個々人の幸福を抑圧してしまっていることが示唆されている。

この意味で映画「ニノチカ」は、共産主義の非人間性を皮肉った意識的なプロパガンダ映画としての側面を持っている。スターリン体制下のソヴィエト連邦を皮肉ったコメディ映画としてはアメリカで最初のものであるらしいこの映画は、一面的なステレオタイプをもって、ソヴィエト連邦や共産主義者の問題を笑いとばす。それどころかここではまた、硬直した共産主義さえも資本主義の誘惑には勝てず、個人的な享楽の魅惑に抗えずに瓦解していくだろうことが喧伝されてもいる。

実際にニノチカは、労働者向けレストランでのレオンの失態に顔を崩して笑って以降、パリという街の魅力を享受するようになる。当初は軽蔑の眼差しで眺めていた流行の帽子を自分から購入したニノチカは、レオンの部屋で最新の音楽を聴き、高級レストランの食事とワインを堪能しながら魅力的に笑うのだ。酩酊しながら自らの享楽の罪深さを口にするニノチカが、レオンが開けたシャンパンの音でもって銃殺されたかのように倒れ込む印象的なシーンは、美食という個人的享楽が共産主義の社会的理念を打ち負かしたことをコミカルに象徴しているだろう。そうしてニノチカは、ソヴィエト連邦に帰国してからもなお、パリで購入した衣類を隠し持ち続け、自国のラジオに音楽が流れないことを嘆くのだ。

もっともここには、資本主義や自由主義の側の傲慢も少なからず見て取れる。レオンによって引き起こされた「笑い」以降、ニノチカがあまりにも急速に資本主義文化に染まっていくそのプロセスははっきり言って不自然であるし、豪奢な宝飾やファッションが無条件に人を魅了するはずであるという前提も安易ではある。このような傲慢さを内包しつつ、この映画は、共産主義という非人間的社会もまた資本主義・自由主義における個人的幸福の魅力の前に瓦解せざるをえないのだということを、声高に喧伝している。

 

共産主義の瓦解の象徴として「ガルボが笑う」ということ

共産主義理念の強張りが資本主義的な享楽の前に瓦解するというモチーフは、それまで全く感情の変化を表に出さなかったニノチカがレオンの失態によって顔を崩して笑い転げるというシーンに端的に象徴されている。ところでこのシーンがセンセーショナルなものとなったのは、グレタ・ガルボという女優がこの演技によって自身のそれまでのイメージを壊し、それが「ガルボが笑う」というキャッチフレーズとともに広まったというそれゆえでもある。

冷たく凛とした雰囲気のあるガルボという女優は、それまで基本的にシリアスな役柄ばかりを演じており、コミカルに笑うというイメージがなかったらしい。そこでガルボが所属するMGMスタジオは、冷たい女という彼女のイメージをコメディ映画への出演によって変化させようと考えており、そのタイミングで映画「ニノチカ」の主演が決まった。そういう背景もあって映画「ニノチカ」は、「ガルボが笑う!」("Garbo laughs")というキャッチコピー*1をもって大々的に広告されることになったのだ。

かくしてガルボという女優の冷たさの瓦解と、共産主義の理念の瓦解、その二つのイメージが重なり合ったこの映画は、第二次世界大戦がはじまった1939年に公開され、興業的にも成功を収めることになったのだ。*2

 

「笑い」は、資本主義プロパガンダにもひびを入れる

この映画はしかし、ただただ一方的に共産主義社会の問題点や敗北を誇張して描き出すだけのものでも、一面的に資本主義や自由主義の勝利だけを描くものでもない。もちろん、個人の享楽を前にした共産主義理念の崩壊というモチーフが映画の前面に出てきていること、そしてその意味でこの映画が共産主義世界を笑い飛ばす資本主義プロパガンダとしての側面を持っていることは、疑い得ない。しかしこの映画を注意して観ると、資本主義や自由主義の問題点や欺瞞も——必ずしも直接的な仕方ではないにせよ——描かれているということに気付くだろう。映画「ニノチカ」は、共産主義理念の瓦解を描くのみならず、資本主義陣営のプロパガンダにもひびを入れているのだ。

問題は既に、パリの伯爵レオンという人物それ自体に見て取れる。財産を持ち洗練された振る舞いをする彼は、パリという華やかな街で申し分のない生活を送ってはいる。しかし彼のきらびやかな生活は、爵位という彼の身分によって保証されたものであり、決して自由で平等なものとして資本主義諸国に住む者すべてに分かたれているものではない。また大公妃への彼の態度からは、彼の地位や財産がある程度まで彼女との関係によって保障されているものであることも推察される。共産主義者ニノチカが屈した魅力は、決して資本主義や自由主義に遍在する魅力ではなく、むしろ既得権益によって生きる特権階級の魅力なのだ。大公妃に対する彼の気後れした態度や、贅沢慣れしていない素朴なニノチカへの憧憬は、レオンが自らの欺瞞にどこか居心地の悪さを感じていることを示唆しているのかもしれない。

そして実際に伯爵レオンは、ニノチカの思想に触れることによって、彼自身を取り巻く問題を自覚することにもなる。それが最もはっきりと表れるのは、レオンがニノチカに気に入られようとマルクスの『資本論』を読んで感化されるくだりだ。階級間の不平等や労働者階級の抑圧といった問題を学んだ彼は、マルクスの理屈を振り回し、彼の家の使用人に今まで以上に休みと給与を与え人間的な生活を実現できるように取り計らおうとする。しかし長年彼に仕えてきた老使用人は、突然のレオンの振る舞いに困惑し、自分は今のままでも十分満足しております、と呆れたように言い返す。

この一連のやりとりは、映画においてはきわめてコミカルに描かれており、実際に思わず笑ってしまうようなものだ。そしてそれゆえにこのシーンにおけるレオンの言動は、恋煩いから来る単なる奇行でしかないようにも見える。とりわけ公開当時にこの映画を観たであろうアメリカや資本主義・自由主義諸国の人々の多くはこのシーンに関して、パリの貴族がマルクスにかぶれるなんて馬鹿で滑稽な話だな、という以上の感想を持たなかったかもしれない。しかし実際のところ、貴族は貴族として無条件に財産を持ち続けることができる一方で、労働者階級が疎外された労働のあり方に満足しているという現状は、万事問題なしと言うことができるものだろうか。この老使用人はもしかしたら、社会によって、教育によって、現状に満足していると思い込まされているのではないだろうか。しかし共産主義者ニノチカを魅惑したパリの享楽も——ひょっとしたら映画「ニノチカ」のような大衆的な娯楽さえも——知ることがない人々を等閑視して資本主義や自由主義の魅力を喧伝することには、決定的な矛盾がないのだろうか。

伯爵レオンは——そしてこの映画「ニノチカ」は——はっきりと、たとえ喜劇の枠のなかでであれ、この社会的不平等の自覚へと到達している。だからこそレオンは、ニノチカを追って、それまでの彼ならば決して足を運ぶことがなかった労働者食堂に足を踏み入れ、そこでニノチカだけでなく労働者たちの笑いの的になっても彼らとともにそれを楽しむことができたのかもしれない。ニノチカの変化ほど劇的でわかりやすい仕方でではないが、レオンもまたニノチカとの邂逅によって何かを自覚し、変化を望みさえしたのだ。この目立たない小さな一点は、映画においてそれ以上展開されることはない(あるいは展開したくてもできなかったのかもしれない)。とはいえそれによって、自由主義や資本主義のプロパガンダにも、目に見えない小さなひびが入る。このひびは、その後の時代の経過とともにだんだんと大きくなり、目に見えるものになっていったものだろう。

このように見ると、共産党員ニノチカとパリの伯爵レオンの邂逅はもはや、単なるイデオロギー的な二項対立やそれに基づく勝敗に還元されるものではない。むしろ彼らは、決定的な他者との出会いを通して、自らを反省し、自覚し、変化しているのだ。もちろんこの映画においてその変化は、圧倒的に資本主義の側に有利なように演出されてはいる。しかしここには既に、共産主義と資本主義という冷戦的な二項対立そのものにひびが入り、それぞれの一面的なプロパガンダが瓦解していく可能性が、ほんのわずかながら示唆されてもいるのだ。映画「ニノチカ」が持つ政治的含意の魅力はこの点にこそあると、私は思う。

*1:これは、ガルボがはじめて出演した有声映画であるクラレンス・ブラウン「アンナ・クリスティ」(Clarence Brown "Anna Christie" US 1930)の広告時に「ガルボが喋る!」("Garbo talks!")というキャッチコピーで宣伝したことのもじりだそうだ。

*2:もっともソヴィエト連邦では上映禁止になり、ドイツでは1948年にようやく、しかも西側に属している州でのみ、上映が許可されたのだという。

1910年代のサイレント映画に見る、性別の「らしさ」の揺らぎ

先日、近所の映画館で、クロスドレッシングをモチーフにした1910年代の無声映画を三作品まとめて観ることができた(有難いことにピアノによる生伴奏つき)。以下、それについて書きつつ、性別ごとの「らしさ」という固定観念の揺らぎについて考えてみたい。

 

クロスドレッシングというモチーフについて

クロスドレッシング(Cross-Dressing: 異性装)とは、一言でいえば、異性の服装を身に着けることだ。理由や動機はなんであれ——自らに押し付けられた「性」への抵抗のためであれ、慰みや性的興奮のためであれ——男性が女性のものとされる衣服を身に着けたり、女性が男性のものとされる衣服を身に着けたりすれば、それがクロスドレッシングだということになる。もともとは1910年頃から「服装倒錯」(Transvestitismus)という医学用語が同じ意味で用いられていたらしいのだが、1970年代アメリカにおいてその病的なニュアンスを避けたい当事者たちが「クロスドレッシング」ないし「クロスドレッサー」という言葉を使い始め、それが人口に膾炙していったのだという。

もちろん、言葉の歴史とは別に、異性の服を身にまとうことそれ自体は古い歴史を持っている。旧約聖書に異性の服を身にまとうことを禁じる一節があるのだが(申命記22-5:「女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。」)、異性装が禁忌として名指されるということは、逆に言えば当時そのような行為がある程度流布しており問題視されていた傍証でもあるだろう。そして古来、少なからぬ物語や逸話、或いは文学作品や劇作品において異性装のモチーフが見出される。この意味では、クロスドレッシングという言葉は比較的新しくとも、そのモチーフそれ自体は目新しいものではない。

とはいえ、それが「服装倒錯」という医学用語として名指されたことにも見られるように、20世紀初頭のヨーロッパ文化において異性装なる事態がそれまでにない仕方で人々の意識に登ってきたという側面はあるようだ。このことは、第一次大戦前後に顕在化した没落の意識——ヨーロッパ的近代文明はもはや没落しつつあるのだという意識——と無関係ではないだろう。既存の倫理や道徳といった「当たり前」の常識への信頼感が揺らぐその時には、性的な「当たり前」も揺らぐ。そのような文脈において、クロスドレッシングにおけるような既存の性的役割の逸脱は、一方では文明の崩壊を促進する危険な兆候と見做されるとともに、他方ではお仕着せの常識の枠を超えた魅力的なものとして人々の目に写ったのかもしれない。当時にはクロスドレッサーのためのキャバレーのような場所もあったらしく、その様子を描いた版画を以前どこかの展覧会で見たことがあり印象に残っている(詳細は失念してしまったのだが…)。

 

1910年代の無声映画におけるクロスドレッシング

このように見ると、クロスドレッシングというモチーフが1910年代の無声映画のうちに登場してくることは、さほど不思議なことではない。もっとも、当時の映画における男装や女装は、基本的には人々を楽しませ笑わせるための喜劇の一要素でしかなく、それによって何かを問題化しようとか既存の常識に逆らって何かを主張しようとかいう意図はほとんど見られない。そこでは依然として「男性らしさ」や「女性らしさ」という固定観念が前提されていて、異性装はそれを逸脱するものとして笑いの対象になっている。

しかしそれでも、当時の常識の枠のなかで演ぜられる映画のうちに、それぞれの性別に割り当てられた「らしさ」という固定観念が揺らぎ始めていることへの意識を、ある程度まで読み取ることもできるだろう。そしてこの意識は、男性と女性という二分法的な性の枠のうちにあらゆる人間を還元することへの疑問視や、その枠のなかで期待される性的役割をそこに適合しない者に押し付けるような社会的暴力の問題視にも、潜在的には通じているはずなのだ。

例によって前置きが長くなってしまったが、このような観点を意識しつつ、クロスドレッシングというモチーフが登場する無声映画作品について簡単に書いていきたいと思う。私が先日観ることができたのは、次の三作品だ。

 

・ウアバン・ガーズ「ツァパタ団」(Urban Gad "Zapatas Bande" DE 1914)

・マグナス・スティフター「恋のABC」(Magnus Stifter "Das Liebes-ABC" DE 1916)

・エルンスト・ルビッチ「男になったら」(Ernst Lubitsch "Ich möchte kein Mann sein" DE 1918)

 

以下、それぞれについて簡単に書いていく。

 

スター女優が扮した強盗団首領に、地元娘が恋をする(ウアバン・ガーズ「ツァパタ団」/Urban Gad "Zapatas Bande" DE 1914)

デンマーク出身で無声映画時代のスター女優であったアスタ・ニールセン(Asta Nielsen)が本人役で出演。あるドイツの映画制作チームが、アスタを主演に強盗団の映画を撮影するためイタリアに赴く。しかし彼女らが強盗団の衣装に着替えて撮影をしたりふざけて地元の人々を驚かせたりしている間に、本物の強盗団が現われて彼女らの衣服や金銭をこっそり盗んでいってしまう。強盗団の恰好をしたまま言葉も通じないイタリアの山中に取り残されたアスタと撮影クルーは、地元の人々に助けを求めるも本物の強盗と勘違いされ追い払われてしまう。途方に暮れたアスタはやむなく地主の家に忍び込むのだが、入り込んだ部屋にいた地元の娘は強盗の首領に扮したアスタに恋心を抱いており、彼らに食料を恵んでくれる。やがて撮影クルーは地元の警察に追い詰められ捕まってしまうのだが、地元のドイツ大使館の助けで、最終的に彼らは釈放されることになる。

※YouTubeでは、強盗団に扮したアスタら撮影クルーがふざけて地元の人々を驚かすシーンが見られる。この時に助けられたと思い込んだ地元娘がアスタに惚れてしまう。

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この映画におけるクロスドレッシングのモチーフは、女優が強盗団の首領ツァパタに扮し、それによって地元娘に恋心を抱かれる、というところにある。もっともこの映画中の男装は、強盗団の首領というそれ自体特殊な扮装であるし、今でいうコスプレ的な要素というか、当時の人気女優を面白く披露するためのものという側面が強いような印象を受けた。そのためこの映画のなかに、当時における男性や女性の「らしさ」に関する問題意識のようなものはあまり見て取ることはできない。ただ1910年代当時の映画撮影の雰囲気のようなものの一端が見られるという点で興味深い一作ではある。

 

軟弱男を男らしく仕立てるため、女性が自ら模範的男性を演じる(マグナス・スティフター「恋のABC」/Magnus Stifter "Das Liebes-ABC" DE 1916)

こちらも主演はアスタ・ニールセンで、彼女が良家の娘リースを演じている。ある日リースのもとに、彼女の結婚相手となるべきフィリップがやって来る。しかし髭を蓄えた男らしい紳士を夢見ていたリースの前に現われたフィリップは、なよなよして男性らしさのない軟弱者だった。当初は悲しんだリースだったが、フィリップと話すうちに、自分が彼を男らしい男へと教育していけばいいのだと思い至る。かくしてリースは、フィリップにタバコとキスを教え、さらには叔母を訪ねるのだと家族を騙し、彼をパリまで連れて行く。

パリにおいてリースは、自ら都会的な紳士に扮し、夜遊びを通してフィリップに「立派な男性」を教え込もうとするが、彼女自身が調子にのって深酒をしてしまう。翌日二日酔いでリースがベッドから起き上がれないでいると、そこに彼女の父がやって来る。彼はリースが男装してごまかそうとするのを見抜き、フィリップから事情を聴き出す。最終的にリースの父は、女装した運転手とフィリップの逢引を仕組み、リースにやきもちを焼かせることでもって彼女にお仕置きをする。

※YouTubeでは、まだ見ぬ結婚相手をリースが夢想するシーンが見られる。以下の0:56~2:00あたりまで。

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この映画の中心にあるのは、バーナード・ショーの「ピグマリオン」を逆転したような、女性の方が男性らしくない男性を「立派な男性」に仕立て上げるという教育物語だ。面白いのは、リースが婚約相手フィリップの男性らしさの欠如を嘆くことと、彼女自身が理想の男性を体現するために男装するということが、重なり合っているという点だろう。

一方では、この映画においても模範的な「男性らしさ」が依然として望ましいものとして前提されている。リースにしてみれば、男性は髭をたくわえ、酒や煙草を嗜み、女性を巧みにリードできる存在でなければならないのだ。しかし他方でこの映画は、過剰な「男性らしさ」信奉を笑い飛ばし、皮肉ってもいる。そのことは映画の終盤、自らの理想の男性像を婚約者に押し付けるリースが、彼女の父が仕組んだ異性装によって——使用人を女装させることによって——戒められるという点にも見て取れる。またリース自身、自ら男装して模範的な男性として女性たちを楽しませようと振る舞った後にふと、「立派な男性」であり続けることは大変だと嘆いてもいる。ここでは、性別ごとの「らしさ」を遵守しなくてはいけないことへの懐疑の念が、はっきりと頭をもたげている。

もっともこの映画は、性別ごとの「らしさ」への過剰な信奉を皮肉りながらも、依然としてやはりあるべき性別ごとの役割を前提している。映画は、正式に結婚した二人が新婚旅行に向うシーンで終わるのだが、その際にはフィリップがチケットを購入する。これは映画の中盤でパリに向かう際にリースがチケットを購入していたこととの対比であり、フィリップが「あるべき男性」に一歩近づいたことの象徴であるだろう。男性は、過剰に男性的である必要はないにしても、せめて女性をリードする役割くらいは担うべきなのだ。逆に言うとここで女性は、リードされることを待つべき存在だということになる。

 

男になりたい少女が、男性を演じることを通して男性を知る(エルンスト・ルビッチ「男になったら」/Ernst Lubitsch "Ich möchte kein Mann sein" DE 1918)

主演は、無声映画時代のルビッチ作品ではおなじみのオッシー・オスヴァルダ(Ossi Oswalda)で、この映画でも彼女独特の大げさともいえるほどの表情や身振りの演技が見られる。良家の子女であるオッシーは、お淑やかで上品であってほしいという周囲の願いにもかかわらず、がさつで豪快な性格をしており、酒を飲み煙草を吸いつつ男性たちとカードゲームに興じ、女性家庭教師の手をやかせている。そんな折に新しい後見人として現れたケルステンは、オッシーを女性として厳しく教育しようとする。彼の厳しさに辟易したオッシーは思わず「どうして私は男の子として生まれなかったのかしら」と嘆く。

ある日オッシーは、後見人の目を盗んで、スーツとネクタイを身に着け、男性としてダンスホールへ出かける。そこで後見人ケルステンが女性といるのを見つけたオッシーは、彼の邪魔をしてやろうと話しかけるが、そのうちにケルステンと意気投合して酒を酌み交わし始める。明け方になって酩酊して馬車に乗り込んだ彼らは、運転手の誤解からそれぞれ反対の住まいに送り届けられてしまう。オッシーのベッドで目覚めてあわてて逃げ出そうとするケルステンは、ケルステンの寝室から泣きながら帰ってきたオッシーと鉢合わせる。しかしケルステンは、男装したままのオッシーを昨晩知り合った若者だと思い込んだままで、彼女がかつらを外すことでようやく事の顛末を理解する。そしてそこで彼らは、お互いが好き合っていることに気づき抱き合ってキスをする。幸福の表情のオッシーが「男になんかなりたくない」とつぶやいてケルステンの胸に顔を埋めるシーンでもって、映画は終わる*1

※この映画は英語字幕版がアップされている。オッシー・オスヴァルダの演技が印象的。

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この映画の前半は、それこそ「ピグマリオン」のような、女性らしさのない少女を淑女へと仕立て上げる教育物語の装いをもってはじまる。しかし物語が進み、オッシーの男装によって単線的な教育物語の様相が崩れていき、最終的にオッシーは、お淑やかさからはかけ離れた奔放で自己主張の強い女性として、後見人ケルステンと愛し合うようになる。この点でこの映画におけるオッシーは、淑やかであるべきだという因習的な「女性らしさ」のアンチテーゼをなす近代的女性の一つの雛形をなしている、と言えるかもしれない。 *2

また同時にここには、「恋のABC」同様、男性らしさを遵守することの困難さもコミカルに描かれている。男装したオッシーがダンスホールへ出かけるためにトラムで移動する際には、彼女は「男性として」女性に席を譲らなければならず、足を踏まれても「男性として」いちいち痛がることができない。またダンスホールでも、「男性として」人込みをかき分け女性を我が物にしようと躍起になる男性たちの姿がどこか滑稽なものとして描かれている。この意味でルビッチは、「男性らしさ」をも相対化している。*3

もっともこの物語全体に、やはり女性は女性として——たとえもはやお淑やかな「あるべき女性」としてではなく、自己主張の強い近代的な女性としてだとしても——男性に愛されてこそ幸せになれる、という前提があることは否めない。少年になりたがっていたオッシーも、最終的に女性として男性に愛されることに幸福を見出し、「男になんかなりたくない」と口にするのだ。これは物語としては綺麗な落ちではある。が、現代のジェンダー理論の観点からすると、この結末は、男性と女性という二分法や異性愛の正当化(潜在的には同性愛の排除)を最終的に強化するようなものに思われてしまうかもしれない。

ただしこの映画には、この観点からして面白いシーンもある。男装したオッシーと後見人ケルステンが酩酊する一連のシーンで、彼らは男同士の友情を語りながら、何度か恋人のようなキスを交わすのだ。物語の上では、単にケルステンが酩酊して男女の区別がつかなくなり、目の前のオッシーの「女性としての」魅力からキスをしてしまっただけだ、という風に理解できなくはない。そしてまたこのことが、彼が再び「女性として」オッシーを認識し直し、彼女にキスをし直すという映画の最後のシーンの伏線にもなっている。その意味でケルステンはホモセクシャルないしはバイセクシャルな人物として描かれているわけではないのかもしれない。とはいえここには——それをどこまでルビッチ自身が意図していたのかはわからないが——もはや二分法的な男女の区分やそれに基づく異性愛を前提しない性のあり方が、一瞬だけ顔を覗かせているのだ。

 

性別の「らしさ」の揺らぎ、笑いの対象からの変化

以上、クロスドレッシングを題材にした1910年代の無声映画に即しつつ、当時における性別の「らしさ」に関する意識について書いてきた。これらの映画はどれも喜劇作品であり、異性装というモチーフも基本的にはその喜劇性に寄与するものとして用いられている。この意味でこれらの映画で扱われているのは、現在のジェンダー理論におけるような因習的な性別のあり方への根本的な問題視とは異なるものであるし、そのような目線から見るとむしろ因習に則ったもの——場合によっては因習を強化するようなもの——にも写ってしまうかもしれない。

とはいえ、100年前後も昔の映画を現代の目から大ナタで断罪してそれで済ましてしまうのも、乱暴な話だ。むしろ古い時代の映画は、当時の意識を——今回の主題で言えば「性別」というものに関する当時の理解や意識を—— 映し出す一種のドキュメントとして観ることもできる。そしてそのような観点から見ると、異性装を主題にしたこれらの無声映画にはたしかに、性別に関する慣習や性別に振り分けられた「らしさ」という固定観念の揺らぎへの意識が反映されている。たとえそこでは未だ、その揺らぎの意識が決定的な問いにまでは先鋭化されていないのだとしても。

クロスドレッシングという題材は、その後の映画においても様々な仕方で取り上げられている。私の観たことがある有名どころでは、ビリー・ワイルダーの「お熱いのがお好き」(Billy Wilder "Some Like It Hot" US 1959)が典型的なクロスドレッシング映画だ。彼自身ルビッチの薫陶を受けたワイルダーの映画でも、男性が女性の衣服を着るというモチーフは依然として喜劇の要素として機能している。しかしこれがペドロ・アルモドバルの「オール・アバウト・マイ・マザー」(Pedro Almodóvar "Todo sobre mi madre" ES/FR 1999)になると、もはや異性装はそれ自体で笑いの対象ではなくなり、抑圧的ではない性のあり方を考えさせるものになっている(それどころかアルモドバルのこの映画では、男性と女性という二分法を前提にした「異性装」という概念の妥当性さえ揺らいでいるとも言える)。

21世紀になった現代でも、いまだ男性と女性という二分法的ジェンダー理解は多くの人々によって前提されているし、同性愛や性同一性障害、あるいはトランスジェンダーに対する偏見も根強く、「異性装」もいまだ——公的な場面やメディアにおいてさえ——笑いの対象として機能している。しかし同時に、二分法的な性別ごとの「らしさ」から逸脱するものを笑ってよいのだという前提は、もはや絶対的なものではなくなってもいる。

この意味では、現代において異性装それ自体を笑いの対象にするような映画を撮ることは困難になってきているだろう。ここに窮屈さを見る人もいるかもしれないが、私はむしろ、ここには人の意識の変化がかかっていると思う。かつて支配的な意識はかくかくしかじかであったということ——この場合は異性装が笑いの対象になっていたということ——それ自体を事実として否認する必要はないし、そのような意識のもとで制作された作品を必要以上に糾弾したり排除したりする必要もない(批判的な検討はもちろんなしうるし、場合によってはなされるべきでもあるだろうが)。しかし意識は揺らぎ、変化した。既存の枠にはまりえないものを無条件に笑いの対象にし、それによって抑圧・排除してしまうことの問題性がより広い範囲で自覚されるようになった。そのように変化した意識のもとでも、おそらくまた別の観点での意識の揺らぎが生じてくることになるだろうし、それがまた制作される作品に反映されることにもなるだろう。無理に過去の主題やモチーフを固守する必要はないのであって、むしろ現在だからこそ取り上げうる主題やモチーフがあるだろうと思うのだ。

*1:なお、映画の原題"Ich möchte kein Mann sein"は映画最後の台詞と同じく「男になんかなりたくない」という意味。邦題「男になったら」は、映画の主題を微妙に逸しているような気がして、少し残念に思う。この映画の主軸は、少女が男になってみるというそれだけのことではなく、男になりたがっていた少女が実際に男性になってみて最終的に「男になんかなりたくない」と結論を下すところにこそあるのだ。

*2:映画の前半で、煙草をやめないオッシーに対して「どうしたら女性が煙草を吸うことができるのかしら、まったく理解しがたいわ」と口酸っぱく説教をしていた女性家庭教師が、一人になった途端に取り上げた煙草を味わいにんまりと笑うシーンがある。ここでは、実際には旧習的な「女性らしさ」が女性の生を抑圧してきたことが、コミカルに示唆されている。

*3:ルビッチの「ベルリン生まれのマイヤー」(Ernst Lubitsch "Meyer aus Berlin" DE 1918)においてルビッチ本人が演じるザリー・マイヤーは、明らかに模範的な「男らしい男性」のアンチテーゼとして描かれている。落ち着きがなく精神的に弱々しく体力もないマイヤーは、始終「立派な」男性たちに白い目で見られながら、彼のことを「無害」だと評する気の強いキティに引っ張られて息も切れ切れに山を登るのだ。この映画でのマイヤーの描かれ方に鑑みると、ルビッチが支配的な「男性らしさ」を相対化しつつ、その枠からはみ出てしまうような男性のあり方に一定の関心を持っていたことはたしかだろう。なおこのマイヤーという人物は、単に「男らしい男性」のアンチテーゼというだけでなく、当時盛り上がりつつあった「ドイツ性」なる理念の枠からはみ出るもの(とりわけユダヤ性)の象徴でもあると解釈することもできるようだ。

社会の枠のなかでラディカルに自由であろうとすること(アンドレス・ファイエル「ヨーゼフ・ボイスは挑発する」/Andres Veiel "Beuys" 2017年)

アンドレス・ファイエル「ヨーゼフ・ボイスは挑発する〔原題:ボイス〕」(Andres Veiel "Beuys" DE 2017)を鑑賞。5月ごろからヨーゼフ・ボイスに関するドキュメンタリー映画が公開されていることは知っており気になっていたのだが、近所の映画館で監督のトークセッション付きで上映されるということで観に行ってきた。ボイスに関する映画ということで、大いに期待して(自分のなかのハードルを上げて)観に行ったが、期待を裏切らずなかなか楽しめるものだった。勉強にもなったがそれだけではなく、観ながら何度となく声を出して笑ってしまったし、会場も大いに沸いていた。チケットを事前に買っておいたので問題はなかったが、当日は満席で、独特の熱気がある上映と質疑応答だったように思う。

 

死後30年経って、ヨーゼフ・ボイスを映画にするということ

前置きとして、少し私事を書く。

ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys 1921-1986)は、私にとって、長い間どこか得体の知れない存在だった。ドイツ語圏やその周辺の近代・現代美術館に行くと必ずといっていいほどボイスの作品が展示されていて、そのキャプションからは、彼がパフォーマンス・アートやヴィデオ・インスタレーションという現代芸術に不可欠な諸要素の先駆的存在であること、またドレスデン芸術アカデミーにおいてアンゼルム・キーファーやゲルハルト・リヒターら戦後ドイツを代表する芸術家たちの教師であったことを、知ることはできる。また戦後ドイツ文化に関する文章を読んでいるとしばしば、20世紀後半のドイツ語圏文化において彼が単なる芸術家の枠を超えた社会的なスキャンダルを引き起こしたということが書いてはある。けれど私は、これらのことを知識として持つことはできても、美術館に置かれた彼の作品と結びつけて理解することができないでいた。彼の作品は確かに面白い。しかしなぜ、写真のなかでいつもハットとベストを身に着けているボイスというこの人物が、戦後芸術における決定的な転換的となり社会的なスキャンダルになりえたのかということは、今ひとつ腑におちないままでいた。私にとっては、ボイスの作品と彼に関する客観的知識の間には、大きなギャップがあったのだ。

ファイエルのドキュメンタリー映画「ボイス」は、このギャップをある程度まで埋めてくれるものだった。膨大な量の写真や映像資料、またボイス自身の作品や公の場でのインタヴュー映像などを切り貼りして制作されたこの映画は、画面の切り替えや背景音楽の構成などといった編集の仕方も含め全体にあまりキッチュなところがなく、ドキュメンタリーとして洗練されたものだった*1。そして同時に、伝記映画としてボイスの生涯や活動を年代順に正確に伝えるというよりも、ボイスという極めて強烈な個性を観る者に魅力的に提示することに徹しているようにも思えた*2。このことは、私にとってとても好感の持てることであったし、端的にこの映画を観てよかったと思える点だった。というのも、少なくとも私にとっては、ボイスという個人を知ることは、彼の作品と評価との間にあるギャップを埋めることでもあるからだ。

おそらく、ボイスが活動していた当時には、彼の作品を鑑賞するということは同時に彼の強烈な個性や言動を踏まえることでもあったのだろう。そしてそのような空気を肌で感じてきた人々にとっては、この映画で提示されるボイスは既知のものでしかないのかもしれない。しかし彼の死後30年が経って、美術館に丁重に飾られた作品や写真あるいは彼について書かれた文章を通してしかボイスに触れたことがない私のような人間にとっては、個々の作品はもはや彼の残した痕跡でしかない。まさしくこの映画は、これらの作品を生成たらしめたボイスという個性や彼の生きた社会的な文脈を、具体的なイメージとして提示することをしていた。そしてこのことによって、時間の経過によって生まれてしまった個人と作品との間のギャップを埋め、特異かつ魅力的な個性としてのボイスその人を現前化させることを、この映画は試みていた。

ボイスという人間を映像のなかに現前化させるというそのことは、同時に、なぜ彼が狭義の芸術や美術の枠を超えて、社会的なスキャンダルにまでなったのかということを改めて説明する試みでもある。そしてこの試みに、この映画は成功していたと私は思う。

 

社会の枠のなかでラディカルに自由であろうとすること

映画のなかでは、インタヴューや講演等の映像も多く提示されているのだが、そこでのボイスの様々な発言は、一見すると矛盾しているか、或いは単に支離滅裂なように聞こえるかもしれない。しかしその実ボイスの言動は、社会が持つ既存の枠組みのただなかで、その枠組みのなかに固定されることに抵抗し続けるという点で、一貫した行動原理を持っている。まさしく彼は、社会の枠のなかでラディカルに自由あろうとするというその一点において、一貫していたのだ。

もっとも、社会の枠のなかで自由であるということは、ボイスの場合、目の前の社会に背を向けるということを意味しはしない。彼は決して、人と関わることを拒否して自然のなかに閉じこもることも、或いは自分が属する文化圏とは全く異なった時代や土地に没頭するということも、しなかった。彼は晩年に日本を訪れもしているが、だからといって——多くの芸術家がなすように——日本的な「美」を手放しで賞賛し自分の作品に取り入れるような安易なこともしなかった。むしろ彼は、彼が生まれ育った欧米近代文化の枠組みのなかでこそ活動する。実際に彼は、芸術家として様々な芸術祭に赴き、芸術アカデミーの教員となり、さらには政治家として選挙に立候補しさえする。さらに言えば、彼が好んで口にする芸術や自由、民主主義といった概念それ自体、近代的な社会の理念でさえある。この意味で彼は、近代的社会の枠のただなかで活動した人物だと言える。

しかしボイスは同時に、社会的な常識が期待する「型」にはまり込むことを、巧みに拒否し続ける。作品からして、当時の芸術家に望まれるようなものを作らずに、フェルトや脂質から不定形の異物を作り出し、それをぼとぼとと地面に置いていく。公のスピーチの場において、正装に身を包んだお偉方の前で、ゲップのような呻き声を延々と出し続ける。かと思うときわめて政治的な発言を進んでなし、社会的な彫刻の理念を語るばかりか、政党の立ち上げに携わり自らも候補として立候補する。しかしこれはある意味では、民主主義的な公共性や、個人の自由、芸術表現の自由といった近代的原理をつきつめた一つのあり方でもある。彼の言動は、近代社会の只中で、近代社会の理念に忠実に寄り添いながら、同時に既存の枠をはみだしていく。

掴みどころなくするすると常識的な「型」をすり抜けていく彼の自由な実践は、近代の枠組みのなかではさしあたり「芸術」として理解される。だからこそ彼は「芸術家」と呼ばれはする。しかしボイス自身は「僕は芸術家なんかじゃない」と言う。「でも我々みんなが芸術家だって前提するなら別だよ。それならやっぱり僕も芸術家だってことになる」。彼に言わせれば、「人間は誰しも芸術家なのだ」というのだが、それは誰しもが既存の社会の枠にはまらない、わけのわからないことを、それでも直観や想像に適った何事かを——少なくとも潜在的な可能性としては——なしうるのだということなのだろう。彼にとって重要なのは、既にある「芸術」という枠のなかで「芸術家」として名声を得ることではない。むしろ彼の行動原理は、既存の枠や型のなかに留まらないこと、そしてその意味でラディカルに自由であろうとすることにこそあるのだ。

 

わけのわからないものが動くための場所を開いておくこと

枠や型から自由であろうとすることは、同時にまた、枠や型に当てはまらないものを認め、そのようなものに動く余地を与えるということでもある。そしてボイスの活動は、或いは彼の作品は、まさしくこのこと、既存の枠や型にあてはまらないもの、知識の枠からこぼれ落ちるもの、端的に言ってわけのわからないものが動くための場所を開いておくということに結びついている。

 このことは彼の彫刻論からもはっきり読み取ることができる。ボイス曰く、作品を制作するとは、「不定形なものから出発し、動きの要素が加わり、そうして形式となる」(Unbestimmter Ausgangspunkt, Bewegungsmoment und Form)ということだという。このような意味での作品制作に際して適切な素材は、ボイスにとっては脂肪とフェルトであり、実際に彼は——決して「芸術」において主流な素材とは言えない——これらの素材から制作をし続けた。しかし同時に、不定形なものが動き形式になるというこの過程は、狭義の芸術制作にのみあてはまるものではないとも言われる。というのもボイスに言わせれば、人間の思考もまたこのような意味での彫刻作品のようなものであり、そのような意味で世界に働きかけることができるものだからだ。ここに彼の「社会彫刻」(Soziale Plastik)の理念の肝がある。

彼のラディカルな自由の実践は、まさしくこのことのための、不定形のものが動き形式になるための場所を確保するための実践でもある。しかし凝り固まった、既に形骸化してしまった近代の枠組みのなかでは、わけのわからないものが動く場所は、しばしば失われてしまっている。「芸術」という本来自由であるはずの場所においてさえ、あるべきスタイル、あるべき様式、あるべき振る舞いといったものが予め規定された枠となり、その枠からはみ出るものは排除されるか、そうでなくとも冷笑をもって遇されることになっている。かつて不定形のものが運動して生じたはずのいくつかの形式が、今では冷たく凝固した枠組みとして、不定形のものから動く余地を奪ってしまっている。

だからこそボイスは、この不定形なものが動くための場所を確保するために、既に一つの枠になってしまった近代的な「芸術」の在り方を解体しようとする。それも内側から、ある種の「挑発」(Provokation)を通して。彼は芸術家と呼ばれ、芸術家として様々な場所に招かれ、芸術家として芸術家らしい言動をすることを人々に期待される場所に赴く。しかしそこで彼は、一見するとわけのわからない表現や言動によって、彼に期待された定式を裏切っていく。「みんなはあなたをあまり理解していないようですが」というインタヴュアーの問いに対して、ボイスは、「いや、みんなは私のことをよく理解してくれているよ」と切り返す。彼にとっては、わかりやすいカテゴリーによって理解されないということが肝要であり、理解されないということは彼が理解されたということなのだ。このような意味で、彼の作品制作は同時に既存の枠組みの挑発として機能することになる。

まさしくこの「挑発」ということが、ボイスの行動にエネルギーを与え、ときに彼を観る人々の激情を駆り立てもする。だからこそ彼の言動や作品はスキャンダラスなものとなり、近代的な「芸術」概念を、そしてときには近代的な知や社会の構造そのものを、ラディカルな問いの前に立たせることになるのだ。ここにこそ、ボイス特有のスキャンダラスな魅力がかかっている。

 

「芸術家」という枠にはまることへのいくつかの拒否の仕方

ドキュメンタリー映画のなかで扱われていたインタヴューや逸話の全てに触れることはできないので、私にとって特に印象的だった幾つかの逸話についてだけ簡単に書いておきたい。

まず印象的だったのは、5年に一度カッセルで開かれる芸術祭ドクメンタ(documenta)に関する逸話だ。1964年に第5回ドクメンタに参加して以来彼は定期的にドクメンタに招待されているのだが、1972年に参加した際に彼は、展示されるべき作品を持参するだけでなく、「国民投票による直接民主主義のための機構」(Organisation für direkte Demokratie durch Volksabstimmung)と題して、会場に用意された一室で100日間毎日のように参加者たちと討論を行ったのだという。さらに1982年の第7回ドクメンタでは、「都市行政の代わりに都市緑化を」(Stadtverwaldung statt Stadtverwaltung)と題して、市民の募金を元手に7000本の樫の木を実際にカッセルの街に植樹するというプロジェクトを行いもした。芸術家が自らの作品を披露する場としての芸術祭において彼は、芸術家として招かれているにもかかわらず——或いは彼に言わせれば「芸術家」として招かれているからこそ、ということなのだろうが——作品を展示するのではなく、そこで実際に何かを行い、現実の社会に働きかけようとする。もちろん彼は、彼の実践が、現実社会にとってほとんど無力だということも知っているだろう。そしてそれだからこそ彼は、思う存分に、挑発行為ができるのだ。

またデュッセルドルフ芸術アカデミーでの逸話も面白いものだ。自らも同校で学んだボイスは、1961年から彫刻科教授となる。いわば社会的に認められた「芸術家」の枠の中に入っていったわけだ。しかしその際にボイスは、彼の講座に、参加を希望する全ての人を招待すると宣言する。アカデミーに合格しなかった者でさえも。このことは、開放性や自由という本来の芸術の理念には即しているが、とはいえ大学行政の観点から言えば暴挙この上ないことだ。結果、400人もの学生が彼の講座に押し寄せ、警察が介入する騒動になってしまい、最終的にボイスはアカデミーを解雇されてしまう。ここでも彼は、一方では既存の「芸術家」(あるいは「芸術大学の教員」)という肩書を身に着け、しかも既存の芸術の理念に忠実に従いながら、そのラディカルさによって既存の枠組みを挑発し、内側からひび割らせてしまったのだ。

もう一つ印象的なのは、彼の作品「私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」("I like America and America likes Me" 1974)についての逸話だ。この作品は、彼がニューヨークに1週間滞在した際の様子をビデオに収めた映像作品なのだが、なかなかインパクトのあるものだ。というのもその際ボイスは、ニューヨークの空港に到着するやいなや救急車によってあるギャラリーへと輸送され、そこで新聞や干し草、フェルトが置かれた部屋に引きこもりもっぱらコヨーテと時を過ごし、帰りもまた——他のどこに寄ることもせず——空港へと運ばれてそこから真っ直ぐに帰って行ったからだ。国際的な名声のある芸術家であった彼がニューヨークにやってくるということは、本来ならば、現地の芸術家や批評家や画商、場合によっては文化人や政治家などとも交流することが望まれる事態であったはずだ。しかし彼は、その期待には応えず、ただただ一匹のコヨーテと——近代アメリカから疎外された野生的存在の象徴である動物と——時を過ごすのみだった。作品においてアメリカを感じさせるものは、コヨーテが引きちぎり排泄物をこぼすニューヨークタイムスくらいしかない。凶暴なコヨーテと時を過ごしたというそのことだけに注目されがちなこの作品もまた、ボイスならではの近代性への挑発行為であり、近代的な「芸術」なるものの解体作業の一環であったのだ。

 

解体作業のアポリア、あらたな枠が生じること

ボイスのラディカルな自由の実践、そしてそれによる近代性の解体作業にはしかし、独特のアポリアがある。それは、彼が芸術家として認められ、彼の作品や言動が一つの「芸術形式」として権威を与えられることによって、それ自体が再び一つの枠組みに変じてしまう、ということだ。それによって、ラディカルな自由を求めるボイス的な挑発作業さえも、自由な運動を阻害する硬直した常識になってしまうことがある。乱暴な言い方をすれば、ボイスのようなことをしておけば芸術家として理解されうまくいけば権威さえ与えられるということになるのだ。しかしそのように権威づけられ理解されてしまった実践はもはや、理解されがたいわけのわからぬ不定形なものの運動とはまったくもって異なるものに変じてしまっている。

この映画で提示されるボイスの芸術活動の多くは、おそらく当時においては革新的で決定的なものであったのだろうけれども、彼の死後30年が経った現在においては、もはや見慣れたものになってしまっている。社会活動を伴う芸術実践、パフォーマンス・アートやヴィデオ・インスタレーションなどといった芸術形式は、21世紀のコンテンポラリー・アートにおいてはもはやそれ自体ではなんの目新しさもない、典型的な芸術家の活動様式だ。もちろんそのこと自体が悪いことではないが、もしそれが新たな枠になってしまって、何か別の運動の可能性を疎外してしまっているのだとすれば、それはむしろボイスが内側から壊そうとした枠組みと同じものになってしまっているということになる。

彼の死後30年、ボイスのドキュメンタリー映画を撮り、ボイスにあらためて光をあてるということは、まさしくこの点、彼の実践の根本的な衝動が持つ内在的なアポリアに再度目を向けるということでもあるだろう。彼が産み出した諸々の作品、現在——もはやある種の「古典」として——丁重に美術館に飾られている彼の作品という「形式」だけからは、必ずしも彼の衝動は現前してこない。既に書いたことだが、私のようにボイスと同時代に生きたわけではない者にとっては、なおさらのことだ。ボイスの場合、形式が生成する過程に、不定形なものが運動によって一つの形式へと化していくその過程にこそ、表現の核心がある。そしてまたそれは、理解しがたいわけのわからぬものに運動の場所を与えるための、ラディカルな自由の実践でもあるのだ。

そして、ボイスのこのラディカルな自由の実践を考え直すことは同時に、果たして我々が今生きるこの社会、21世紀の社会システムにおいて、どこまでこのような自由のための余地が——ボイスが求めたわけのわからぬもののための運動の場所が——残っているか、ということを考えることでもある。ここにはボイス独特の社会変革のための響きが聞き取れる。ただしボイスは、件の「社会彫刻」の理念によって、新しい形での暴力や抑圧を生み出しうるような別の社会システムを構築することを目指していたわけでは決してない。彼の作品制作にとって肝要なのは、自由な運動や自由な思考のための場所を——あえて言えば「遊び」の余地を——確保しておくことであり、そのために枠組みへの挑発をなすことだった。だからこそボイスは「笑い抜きに革命をしようっていうのですか?」(Wollen Sie eine Revolution ohne Lachen machen?)と問い、そして彼自身も笑うのだ*3。硬直した社会システムのなかで、わけのわからぬもののための場所を、笑うことができる遊びの場所を、確保しておくというそのことを、体現するように。

 

…書きたいことを書いていたらかなり長くなってしまった(本当はもっといろいろ書き留めておきたいことや連想したことはあるのだが、キリがない)。ごちゃごちゃと色々書いてしまって、私の文章からは伝わらないかもしれないが、単に勉強になるというだけでなく、端的にとても面白い映画だった。ボイスという極めて魅力的な題材が、その魅力を損なわないままに、魅力的な仕方で現前化されていたのではないかと思う。監督自身が望んでいたように、この映画で観たことを踏まえてまたあらためてボイスの作品を眺めてみたいし、その上でもう一度またこの映画を観てみたいとも思う。だからというわけでもないが、ボイスという芸術家について改めて考え直すきっかけという意味でも、ぜひ日本でもこの映画が公開されてほしいと個人的には強く思う。

*1:この映画のための資料収集と編集にはおよそ18か月を要したとのことで、監督ファイエルはこれまで制作したどのドキュメンタリー映画よりも時間をかけたのだそうだ。

*2:監督自身、上映の後、ボイスについて十分に描かれていない側面があるという彼の映画に対する批評に言及しつつ、そもそもこの映画ではボイスの全てを過不足なく伝えることを目的にしておらず、むしろこの映画を観て美術館に行ったり彼のことを調べてくれたりしてくれればそれでいい、というようなことを述べていた。

*3:1970年に社会学者かつ哲学者アーノルド・ゲーレンらとなした公開ディスカッション「挑発、社会で生きるための要素」("Provokation - Lebenselement der Gesellschaft")の席上でのボイスの発言。この討論会の様子はYoutubeでも見られるので、以下にURLを貼り付けておく。壇上の5人のうち向って左から二番目がボイス、右から二番目がゲーレン。件の発言は残念ながらここでは見られない。

www.youtube.com

ほんの束の間だけ、絵画のなかできらめくように(ボー・ウィデルベルイ「みじかくも美しく燃え」/Bo Widerberg "Elvira Madigan" 1967年)

ボー・ウィデルベルイ「みじかくも美しく燃え」(Bo Widerberg "Elvira Madigan" SE 1967)を鑑賞。少し前に近所の映画館でウィデルベルイの懐古特集が組まれており、その枠のなかで観ることができた。

 

おおまかな感想、印象

絵画のなかのような美しき生活を夢見て、逃れられないはずの現実から精一杯逃避した二人の若者の映画。映像に強い拘りをもって制作された映画であることは確かで、草原や森の小道、川や海といった自然の情景が印象派絵画からあからさまに影響を受けた仕方で写し出され、その自然美のなかに19世紀ヨーロッパの富裕層を思わせる洗練された佇まいの美男美女が優雅に時を過ごしている。

身も蓋もない言い方をすれば、ここで演出されている自然美は19世紀市民社会の幻想に過ぎないものだ。もっともその欺瞞がもつ美しさと仮象性を描き切っているという点では、そこに一定の見ごたえはある。とりわけ、その体現者としてのエルヴィラを演じきった女優ピア・デゲルマルク(Pia Degermark)は印象的だった。彼女がこの映画でもってカンヌ映画祭の女優賞を獲得したというのも納得できるし、エルヴィラを演じたのが彼女でなければこの映画全体の空気は大きく異なっていただろうと思う。

またこの映画のなかには、単に美しい印象派絵画の世界が映像化されているだけではなく、絵画的な美のきらめきの仮象性、それが現実との間に持つ緊張関係も刻み込まれている。実際に、物語を通して優雅な情景を堪能し続けようとする二人の若者は、最初から最後まで一貫して現実に——彼らが必死で目を逸らし続ける現実に——追い立てられているのだ。見せかけの美とそれを脅かす現実との間の緊張関係こそが、この映画の魅力を成している。

 

簡単なあらすじ

19世紀末のスウェーデン、王国近衛兵であるシクステンは、サーカスの綱渡りのスターであるエルヴィラと恋に落ち、職務も家族も捨ててデンマークへと駆け落ちする。シクステンとエルヴィラはデンマーク郊外を転々としつつ自然のなかの優雅で幸福な生活に耽溺するが、衣食住に惜しみなく金を使う彼らの手持ちの金銭はすぐに底をついてしまう。

そこで彼らは、優雅な生活そのものは崩さないまま、湖で魚を獲ったり山で茸や木の実を獲ったりしてその場の飢えをしのぐようになる。エルヴィラは小さな居酒屋でダンサーとして日銭を得ようとするが、恋人が男性たちの野卑な目に晒されることに耐えられないシクステンは彼女を責めてしまう。また古い友人が彼らを訪ね元の生活に戻ることを説得しようとしても、彼らはそれを拒否する。

金銭も食料も尽き、エルヴィラが栄養失調でまともに歩くことさえできなくなったある日、二人はなんとかかき集めた食料をバスケットにつめ、優雅な服を身に着け、心中のために草原に向う。*1

 

印象派絵画のなかのきらめくような生活とその仮象性

プログラムの説明にも「印象派絵画から影響を受けたスタイルが世界中の観衆の心を捉えた」とあったが、実際にこの映画ではかなりの質で印象派の絵画の世界が再現されていて、個人的にはここまでするかと少し笑ってしまうほどだった。明るい自然光のなかで散歩をし、森の小道や草原にバスケットを下して食事をとり、陽光きらめく静かな川をカヌーで渡り、日の出がきらめく海岸で語り合う、明るい色を基調としたドレスや服飾を身にまとった優雅な若者たち。19世紀ヨーロッパの富裕層が憧れた自然美のなかでの生活が、登場人物たちによってほとんどそのままに体現される。駆け落ちした二人の男女は、全力を尽くして、自然のなかでのこの素敵な生活を維持しようと努める。まるで、一瞬一瞬を印象派絵画のきらめきのなかで過ごすことが、彼らが果たさねばならない義務であるかのように。加えて、これ見よがしなほどに繰り返され鳴り響くバックミュージックのモーツアルト「ピアノ協奏曲第21番」もまた、彼らが追い求める美しさを構成する一要素になっている。

とはいえ物語の最初から、この美しき生活が刹那的な仮象でしかないことは明らかだ。映像が始まる前、冒頭に流される説明文のなかで既に、彼らの逃避行が心中をもって終わることは暗示されている。そして映画中でも、現実が彼らのかりそめの理想の幸福を容赦なく追い立てていく。優雅な生活ゆえにすぐに底をついてしまう金銭の問題や、それに伴う食事や住まいの問題は絶えず彼らについてまわる。王国近衛兵の規則を破り逃げ出したシクステンは、脱走兵としてスウェーデン兵に追跡されており、いつ彼らの手におちるかもわからない。そのために表に出られない彼に代わってエルヴィラが働きに出はするが、彼女が男たちの野卑な目に晒されることにシクステンは我慢ができない。

仕事も金もない彼らはまともな食事を買えないので(しかも少し金が入るとすぐにレストランでの優雅な食事に使ってしまうので)、しまいには泥棒をしたり野山の木の実やきのこを拾い食いしたりするしかなくなってしまう。しかしそれでも彼らは浪費をやめず、きらめくような生活に固執し、現実に目を向けることを徹底して拒否し続ける。この生活が遅かれ早かれ何かしらの形で破綻するだろうことは、誰の目にも——彼ら自身にとっても——明らかなのだ。

 

迫りくる現実を前にした最期の瞬間

現実から必死に逃げ続ける二人の目の前に、それでも時折、決定的な現実が顔を出す。しかしそれでも彼らは、そこから必死に目を背けんと努める。シクステンの古い友人が彼が残してきた家族の問題を語るのに対して、エルヴィラは耳をふさぎその内容を聞くまいとする。また彼女は森で拾い食いしたキノコのせいで嘔吐してしまうが、自身の吐瀉物をすぐに落ち葉で覆い隠しシクステンに知られまいとする。現実をすべて捨ててきた彼らにとって、現実を見ることはもはや考えられなくなっている。

優雅な生活を維持する可能性がほとんど途絶えたように見えたある日、シクステンとエルヴィラは、なんとかかき集めたパンと卵をバスケットに入れ、精一杯のおしゃれをして、森の小道へと散歩に出かける。エルヴィラは、栄養失調で失神しながらも、頑として絵画のなかのように振る舞い続ける。彼女の最期の瞬間に至るまで。草原のなかに飛び回る蝶を追いかけまわす彼女の最期のきらめきが、この映画における最後の瞬間として静止する。たしかにそれは美しい、絵画のように。まるで迫りくる現実の影など微塵も感じていない裕福で無垢な少女の戯れを描いた、一枚の絵画のように。

 

自由と自然の賛歌か、それとも理想と現実の緊張関係か

この映画をどう解釈することができるだろうか。

一方でこの映画は、人間の自由と自然の光の賛歌として解釈することができるものだ。印象派の絵画が自然のうちの光のきらめきという瞬間の印象をキャンバスの上に描きとめたように、この映画も全てを捨てて自由と自然への愛に生きた二人の若者の瞬間の美を映像に収めたものだとして観ることができる。実際に監督の意図はそこにあったのかもしれないし、自由と自然の賛歌としてもよくできた映画ではある。最後のシーンも含めて、そういうものとして完結はしていると言えるかもしれない。

とはいえ他方では、印象派の絵画のなかの自然がちょうど19世紀市民の理想を反映した演出された自然であるのと同じように、映画のなかで二人が生きる自由や自然も、人工的に演出されたものに過ぎない。シクステンもエルヴィラも、決して動きやすく汚れても構わないような衣服を身にまとうことはしないし、陽光も差さず小道もない森の奥までかき分けて本格的に食料を探すこともしない。言ってしまえば彼らのやっていることはある種のおままごとの枠を出ず、自分たちが憧れていた優雅な生活の枠から出る生々しい自然へと足を踏み入れることは決してない。このことは彼らのほとんど理念的とも言える行動原理となって、それはそれで映画にある種の迫力を与えてはいる。

正直に言うと私自身は、個々の映像を綺麗だと思いはしても、絵画のなかのようなきらめきの世界をただひたすらに見せつけられるのは幾分か冗長に感じたし、自由や自然を賛美する映画としても少なからず退屈なものに感じた。そしてむしろ、物語を最初から最後まで支配している緊張感、理想を求めて捨ててきたはずの現実が再び彼らに迫ってくるというその緊張感にこそ、映画ならではの面白さを感じることができた。まさしくこの緊張感こそが、この映画の物語に一定のリズムと表情を与えているように思えたのだ。

ここには、理想と現実とのコントラストがある。現実を離れて理想の世界に逃げ込む二人の前に、理想をひび割らせてふたたび現実が侵入してくる。シクステンとエルヴィラは、この現実に完全に追いつかれてしまう前に、自らの手でもって理想の瞬間を静止させようとする。このこと自体きわめて人為的な演出なのではあるけれども、たしかにこの最期のシーンは、現実の汚さを拒絶する人間の理想が持つほんの束の間のきらめきの美しさをなんとか静止画にとどめようとするものとして、印象的なものではあった。*2

*1:近衛兵シクステンが綱渡りスターのエルヴィラと駆け落ちしたというこの逃避行それ自体は、19世紀末に実際にあった出来事で、北欧では有名な逸話なのだという。この逸話に関しては映画の冒頭でも簡単に触れられる。興味のある方は、映画のタイトルである"Elvira Madigan"で調べてもらえれば色々記事が出てくると思う。

*2:映画の最後を自然のなかで笑顔になる少女の静止画で終わらせるというその演出の仕方は、以前記事を書いたニコレッテ・クレビッツ「ワイルド」(2016年)のラストシーンと重なるところがある。これもやはり自然賛美の映画だ。もっとも「ワイルド」は、ひたすらに美しい理想的自然というよりもっと生々しく野生であることを模索した映画であり、自然であることの汚さや滑稽さまでも——それはそれで近代文明の憧れを反映したものではあるのだけれども——描かれている。この点で、二つの映画それぞれで自然というものが持つ表情は大きく異なっている。

また詩的かつ絵画的な仮象の美しさが逃れられない現実によって脅かされ、仮象のひび割れから現実がだんだんと顔を出してくるというその側面は、アラン・J・パクラ「ソフィーの選択」(1982年)を思い出させるものだった。もっともこちらの方はアウシュヴィッツといういっそう具体的な歴史上の事態を含みこんだものであるのだが。