映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

希望と現実、それでも僕らはもう君たちのなかにいる(「サラバ、不法に生きるということ」/Peter Heller, Saliou Waa Guendoum Sarr "Life Saaraba Illegal" 2016年)

近所で"Africa Alive 2017"という映画祭が催されており、そこで「サラバ 不法に生きるということ」(Peter Heller / Saliou Waa Guendoum Sarr "Life Saaraba Illegal" DE 2016)を鑑賞。ドイツ人監督Peter Heller とミュージシャンでもあるセネガル人助監督Saliou Waa Guendoum Sarr の協作ドキュメンタリー映画。

セネガルから欧州へ渡る経済難民を扱った決して明るいテーマの作品ではなく、実際に見ていて辛い場面や映像も幾つもあったし、自分自身に関わることも含めいろいろ考えるところもあったのだが、現実に直面しつつも希望を歌うことをやめない人々の姿から、観た後に残った印象は決して暗いものではなかった。上映後には両監督とのトークセッションや、Sarrによるギターパフォーマンスもあり、よい雰囲気だった。

映画は、助監督Sarrの親戚だという二人の兄弟が、セネガルの漁村から経済難民として海を渡りスペインで生きるその様子を、8年にわたって追ったもの。セネガルからヨーロッパへと出稼ぎに行く若者は昔からいるらしく、彼らの親世代にもヨーロッパへと渡った経験を語る者がいる。彼らの生まれ育った村にはよい稼ぎの仕事がないが、ヨーロッパに行けば近代的な生活とよい給料の仕事が待っている、という希望。この希望を追って、前途ある若者たちは、危険を冒して海を渡る。向かう先は、ヨーロッパ。彼らの言葉で「サラバ」と呼ばれる、希望を約束された土地。その地で仕事を見つけ、稼いだ金を故郷で待つ妻子に送り、いつか英雄として故郷に帰る。その大望とともに、彼らはアフリカから「サラバ」へと渡る。

しかし彼らを待っていたのは、希望よりもむしろ現実だった。道中のモロッコではまともに人間扱いをされず、ヨーロッパ行きの船はなかなか見つからない。船が見つかったとしても海上での難破は珍しいことではなく、遺体となって無残に打ち上げられることになるかもしれない。そしてようやく渡ったスペインでも滞在許可を取ることができず、不法滞在者として生きるしかない。不法滞在者として探すことができる仕事は限られている。近年の経済危機以降はそもそも現地の人々の働き口さえ減っている。そのような状況の中で、彼らは辛うじて郊外のプランテーションでの闇労働に就くことができるのみだ。そこにあるのは、希望の土地「サラバ」のイメージからは程遠い、現実。それでも仕事があり、賃金がもらえる。だから彼らは働き続け、そこで稼いだ金を故郷で待っている村へと送金する。少しでもよい未来の礎を築くために。

 

改めて言うまでもなく、今はニュースで「移民」や「難民」という言葉が飛び交っている。私が今住んでいるドイツという国は、そのような議論の真っただ中にある国だ。私の耳や目に入る日本のニュースや日本人の声から判断する限り、ヨーロッパの移民・難民の問題は、日本では相当に否定的に報じられている印象だ。そのなかでも特に、この映画で取り上げられているセネガルの兄弟のような経済難民に対しては、好意的でない意見が目立つように思う。もちろん、多かれ少なかれ、ここドイツでも「迷惑だ」という意見はある。差別云々の話とは別に、ヨーロッパ内でも経済的に困窮した国は多く、自国民でさえ職を見つけるのに苦労するような状況で、ヨソから来た見知らぬ者たちに仕事など与えられない、と考える人は少なくないだろう。セネガルの漁村で、自身もかつてヨーロッパに出稼ぎに行っていたというある老人が語るには、数十年前にはアフリカからの移民の数も多くなく、「みんな私たちのことを敬意をもって扱ってくれたし、労働許可も困難なく取れた」という。だけれども今現在はそうはいかない。セネガルから来た青年たちに、積極的な差別はなされなくとも、法律の壁が立ちはだかる。彼らには、不法滞在として不法労働をする者たち、というレッテルが貼り付けられる。

それでも命を落とさずにヨーロッパまで来れて、低賃金でも働く場所があり、家族に送金ができる。そんな自分は幸運だとスペインに到着した弟は言う。神さまを信じていたから、神さまが幸運を与えてくれたのだ、と。けれど同時に、海を渡る際に命を落とす多くの人々のことを思いつつ、彼は呟く。「でもどうして神さまは、みんなに幸運を与えてくれないんだろうね」。人は生まれてくる場所や国や条件を選べない。たまたま仕事のない漁村で生まれた者は、海の向こうの大陸を希望の場所だと聞き、命を賭してでもそこに向おうとするかもしれない。たまたま仕事のある都市で生まれた者は、命を失う危険を冒してまで船にのって外国に出稼ぎにいくなんて現実的じゃない、と思うかもしれない。彼らが生まれ育った条件というのは、個人の問題ではなく、歴史の過程で何百年、何千年とかけて形成されてしまったシステムの問題だ。郊外のプランテーションで労働する兄弟を映しながら、ナレーションは、「本当に奴隷制度は撤廃されたんでしょうか」と問いかける。たしかに彼らは自分の意志でここに来たわけで、決して奴隷として強制的に連れて来られたわけではない。しかし制度上、経済上の条件からそれ以外に選択肢がないというその意味では、未だにある確固たるシステムがそこにある。漁村で育った彼らは本当は海での仕事をしたかったし、できることなら学校で資格もとってみたいと思っている。けれども、彼らが命を賭して渡ってきた希望の国でも、現実には、不法滞在者の不法労働というレッテルの下でプランテーションでの闇仕事に就くしか選択肢がないのだ。そしてそれでも彼らは、これで以前よりは少しはマシになる、と言う。「不法」なことをする必要がない環境の下で多くの選択肢を提示され、その枠の中で生きてこられた者は、彼らについて、法を犯しているのだから仕事などないのは当たり前で、むしろ早急に退去させるべきだ、と主張するかもしれない。それどころか、法を犯す者が多い特定のグループや出身国を名指しして、そのグループを丸ごと国から排除するべきだ、という法令が施行されるかもしれない。

 

「移民」や「難民」について語られるとき、議論されるとき、しばしば忘れられているように思うのが、既に多くの移民や難民が存在していて、彼らは移住先で生活をしている、という事実だ。例えばドイツの難民問題について、メルケルによる難民受け入れの結果としてドイツはもはやドイツではなくなるだろうというようなことが時々言われるけれども、そもそもドイツは長年にわたって労働移民を奨励してきた国だ。もちろんこれは場所によって異なるとは思うけれど、ドイツの都市の大学に行けば、学生も教員も、食堂のスタッフも、色々な肌や髪や目の色をしていて、同じ「ドイツ語」でも色々なイントネーションが聞こえる。この意味では、もはや一義的な「ドイツらしさ」など薄まっているわけだし、観方によってはたしかに「ドイツ」が崩壊しつつあるのかもしれない。いずれにせよ、ドイツを含めたヨーロッパでは既に多くの移民や難民が長年にわたって生活を築いてきているのであり、さらにここ数年の間に難民としてやって来た多くの人々も、少しずつこの地に生活の基盤を持ちつつある。それは紛う方なき事実だ。そして、“日本国には(ほんのわずかの例外を除けば)日本人しか住んでいない”という神話が未だに幅をきかせている日本という国にさえ、既に長年にわたって多数の移民が存在している。これも事実だ。この事実を抜きにしては、本来そもそも移民や難民についての話はできないはずだ。既にその地で生活している「他者」がいること、それどころかその地で生まれ育った「他者」がいること。この事実を前にして、彼らを本当に「他者」と見なすことができるのか。異質な「他者」であるとして排除することが正当なのか。そのことを考える必要がある。

ヨーロッパでも、移民や難民の受け入れに積極的であったドイツでさえ、ここ数年の難民の流入による自国への影響が無視できなくなり、受け入れ制限の方向に政策を切り替え始めた。残念ながら綺麗ごとや理想だけでは動けない、そんな現実の眼差しが前景に出てきはじめた。とはいえ同時に、既に多くの難民や移民と呼ばれる人々が多くこの地で生活していること、或いは既にその道中にいることもまた、無視することができない事実なのだ。映画のあとのトークセッションで、最前列に座っていた一人のアフリカ出身らしい男性が「ドアを閉じることはできるかもしれない。それでも僕らはもう君たちのなかにいるんだ」と、客席に向かって語りかけていた。既にその地に辿りつき生活を営み、彼らの母国語ではない言葉で、その地の人々の話す言葉で、親しげに語りかけてくる人々がいる。彼らを「他者」であるとして、ドアの外へと追い出すことが何を意味するのか。或いはドアの外に追い出すための法律の囲いを作ることが、何を意味するのか。もちろんここで言われているのは綺麗ごとかもしれない。けれども綺麗ごとと紙一重の希望に動機づけられて生きる人々がそこにいることもまた、一つの現実なのだ。

どろどろしてぬるぬるしたもの、或いはシュールレアリスムの夢(デヴィッド・リンチ「イレイザーヘッド」/David Rynch "Eraserhead" 1977年)

デヴィッド・リンチ「イレイザーヘッド」(David Rynch "Eraserhead" US 1977)を鑑賞。少し前(10日ほど前?)に観たのだが、忘れないうちに感想を書いておく。

デヴィッド・リンチの監督デビュー作。上映プログラムの説明文でも、また上映前の前説のようなものでも、あらゆる解釈を拒絶する悪夢の映画だというようなことが言われていたので、少し構えて観たが、思ったよりちゃんとした筋があり、思ったより楽しめた。粗筋だけかいつまんで言えば、ある青年が少女を妊娠させ子供を産ませてしまい、責任をとって一緒に暮らそうとするが、生まれた赤子の異形の姿やその鳴き声に耐えられず少女が逃げ出し、青年自身も悪夢にうなされる、というような話。とはいえこの映画の見どころは、物語の筋そのものというよりも、それをとりまく世界観の構成の仕方というか、映像イメージの作り方にあると思う。どこまでが現実でどこからか妄想なのか、どこまでが正気でどこからが狂気なのか、その境界線もはっきりしないまま、なにかどろどろとしてぬるぬるとしたものが、画面上に生成し、消えてゆく。食事として出される鶏肉も、青年と少女の間に生まれた赤子も、まるでむき出しの内臓のように生々しくグロテスクな質感をもって、画面上に提示される。青年が暖房装置の隙間を眺めるとフクロウのような頬をした女性が歌い踊り、隣人の女性とベッドの上で液体のなかに沈み、ついには加工された頭が消しゴムの原料になる。そこに確たる意味が見出せない、有機物か無機物かもわからない、どろどろしてぬるぬるしたものが織りなす、イメージの世界が提示される。

見始めてすぐに、これは映画版シュールレアリスムだな、と思った。心に浮かんだイメージを、その意味を問うことも美化することもなく、図像へと定着させるという芸術上の実験。エルンストやダリ、マグリットの絵画に典型的にみられるような、この世のものとは思えないが、しかし人間の無意識のなかに浮かび上がってくる超世界的なイメージの塊に、具象的な形を与える試み。人間が意志せずともアクセスしてしまう現実を超えた何かを、芸術において再現しようとするシュールレアリスムの綱領。「イレイザーヘッド」は、わりと律儀にこのシュールレアリスムのプログラムをなぞって、それを映画という表現手段において実現しようとしているように思えた。そう考えると、この映画中で提示される諸々の事物に確たる意味や解釈を見出そうとするのが困難だということも、説明がつく。シュールレアリスムにおいてはそもそも、一義的な意味づけなど問題にならない。そしてこの映画はたしかに、そのシュールレアリスム的試みをもって、意味や解釈を拒みつつも一定の質感を伴った映像イメージの世界を形成することには成功しているように思えた。

とはいえ同時にこの映画は、シュールレアリスムという芸術上の実験と同じ問題に陥っているようにも思えた。それは、無意識に上る曖昧なイメージに具象的な形を与えようとすると、それは往々にしてどこか陳腐で、滑稽なものになってしまう、という問題だ。言葉で説明しようのない強迫的な異物であり、ときに人の心を内側から脅かす、無意識や非現実の夢の世界。それは確かに経験されることがあるものだし、また時には魅力的に我々をとらえもする。とはいえ、現実を超えたイメージがもつ異質性を、具象として描き図像として定着させようとする際には、結局、この世界の現実の事物に似た造形しか作り出すことができない、という矛盾がある。この映画における赤子も、なにかよくわからないどろどろしてぬるぬるしたものたちも、軟体動物や内臓、微生物や精子といったこの世界の「何か」に類似したものでしかない。そのグロテスクさは確かに異形ではあるが、しかしどこか間の抜けた印象も拭えない。それは本当に、この現実を超えている(という意味でシュールレアリスティックな)ものだろうか。しょせんそれは、この世界において汚いとされたり、気持ち悪いと言われ忌避されるものの再生産でしかないのではないか。

シュールレアリスムの綱領をなぞったこの映画「イレイザーヘッド」も、一定の質を保ちながらも、この問題を抜けきってはいないように思えた。つまるところそれは、現実を超えたイメージの再現ではなく、この現実に存在するグロテスクなイメージの寄せ集めになってしまっているのだ。それは面白いものではあるが、現実を超えているとはいいがたい。この映画のどこか滑稽な印象もまた、それがこの現実から根本的には異質なものになりきれていないという、そのことから来るものと思う。具象的でこの世的な形姿を直接与えることでは、超現実は表現しつくされない。現実を超えたものを描くというシュールレアリスムの夢は、ここではいまだ実現されていない。もしそれが表現されるのだとすれば、直接的な具体化とは違う、別の道を通る必要があるのかもしれない。

スクリーンの上の、あまりにもあからさまで、あまりにも直接的な現実(ジャンフランコ・ロージ「海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~」/Gianfranco Rosi "Fuocoammare" 2015年)

ジャンフランコ・ロージ「海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~」(Gianfranco Rosi "Fuocoammare" IT/FR 2015)を鑑賞。海を渡る難民の姿を追ったドキュメンタリーで、ベルリン国際映画祭で金熊賞をとった作品ということで、気になっていた。

舞台は、地中海、イタリア半島とアフリカ大陸の間に位置するランペドューサ島。その地理的な位置ゆえなのだろうが、数十年前からこの島には、アフリカや中東から難民を乗せた船が頻繁に漂着するのだという。そしてここ数年は、やってくる難民の数も——そして同時に、命を失ってから流れつく亡骸の数も——飛躍的に増えている。この映画は、流れつく難民たちの姿を、島に暮らす人々や子供たちの日常と交差させつつ、伝えている。

この映画の特徴の一つは、ドキュメンタリーでありながら、単なる事実の羅列や解説ではなく、練られたストーリーのようなある種の流れがあるということだ。流れ着いた船からの難民の救助、体調不良者への応急処置。上陸した者たちが施設で受ける身体検査、収容後に興じる唱和やサッカー。島の子供のパチンコ遊び、船上での初めての嘔吐。かつての戦争の日々を想起する島の老婆、リクエストに応えて曲をかけるラジオショー。かつて赤く燃えた海の上に、いまは人々の生が揺らめく。島における非日常と日常とを交錯させながら、あたかも適切な役者と練られた演出のもとで撮影されたフィクションのように、映像が展開されてゆく。

しかしこの映画はあくまでもドキュメンタリーである。そのことを気付かせてくれるのは、島に流れ着く難民が置かれた状況について語るある医師のインタビューだ。島の医師として住民や子供たちの診療に従事する彼は、同時に、流れ着いた難民たちの治療にもあたっている。そして彼はまた、命を失って流れ着いた人々の検死もしなくてはならない。「慣れてくるでしょう、と言われることもあります。だけど、子供や妊婦の死んでいる姿に慣れることなんて、できると思いますか?」この医師のもとには、この島をとりまく日常と非日常が交錯している。この映画中で唯一ドキュメンタリーらしい場面とも言える説明的な彼のインタビューによって観る者は、この映画における日常も非日常も、そのどちらもが現実の映像であることに気付かされることになる。日常のほんの裏側では、多くの人が助けを乞い、船底で衰弱し、時には命を落とし、また時には船とともに海に沈んでいく。

この映画では、乗りこんだ人々が全て亡くなって海上に漂っていたところを発見されたある船の、その内部の映像も提示される。雑然とした船内、散乱して積み重なった服や物、その間にいくつも転がる人間の身体。その独特の湿気と、こもった空気感。ざわめくような静かさ。それらは全て、まるで演出されたもの、作られたもののようにも思えてしまう。だけれども、これは演出ではないはずで、だとすると、やはりこれは、まごうことなき現実の映像なのだ。この映像のなかの光景はかつて現実に存在したものであり、そして今もどこかに、これと同じ現実が誰にも知られぬままに存在しているかもしれない。この日常の裏側で、今も、どこかで。

この映画のなかで提示されている事柄はまた、この島以外のあらゆる場所で、さまざまな仕方で、今もなお、起きていることでもあるだろう。私自身はいま、楽しいことばかりではないにせよ、さしあたり命の危険を感じないように思われる生活をしている(もっとも、最近の情勢を考えると、もはやそれも確実なものではないけれど)。とはいえ今この瞬間に、自らの命を失うか失わないかの瀬戸際にいる人々がどこかにいる。ここにあるギャップと、この映画のなかで描かれる日常と非日常の間のギャップとの違いは、相対的なものでしかない。もちろん頭では、世界のどこかで日々、「なにかしら悲惨な事件」が起きていることは知っている。しかしそれがまごうことなき現実であるというそのことは、映像を通してようやく、ある種の立体感をもって気付かれることになる。助けを求める人々の声を聞き彼らの表情を見ることで、そして彼らの亡骸を見ることで、はじめて、現実が現実としての重さをもって私の前に現われてくる。

私には、この映画を一つの完成された「作品」として享受することができなかった。この映画のなかに「ストーリー」や「あらすじ」を見ることもできなかった。ここで提示されているものは、あまりにもあからさまで、あまりにも直接的な現実の映像だった。そしてまた、劇場のスクリーンを通さないとこの現実を認識することができなかったという、自分の無感覚さと想像力のなさを突きつけられるような思いもした。そこには、ドキュメンタリーという形式でスクリーン上に映写された映像を通してしかあからさまな現実を見ることができない、というある種の欺瞞がある。私はまだここで提示された現実を、その映像を、消化することができていない。しかしおそらく、今後「難民」と呼ばれる人々や彼らにまつわる諸々の諸問題について考えたり、自分が何かを言ったりするそのときには、ここでこの映画を見たということを思い出さずにはいられないだろうと思う。

参加した覚えのないゲームのルールが人生を決してしまうということ(ケン・ローチ「わたしは、ダニエル・ブレイク」/Ken Loach "I, Daniel Blake" 2016年)

ケン・ローチ「わたしは、ダニエル・ブレイク」(Ken Loach "I, Daniel Blake" GB/FR/BE 2016)を鑑賞。

静かで淡々としていて、それでも目を離せない映画だった。一言でいうと、ある初老の男性が社会保障を得るために行政手続きと格闘するという話。ある意味そこにはドラマらしいドラマなどなにもない。どこにでもいそうな一人の人間が、どこにでもありそうな行政手続きの理不尽にぶつかり、どこにでもありそうな苦しみのなかでため息をつく、どこにでもありそうな小さな不幸の物語だ。本来は人間の人間らしさを支えるものであるはずの社会保障や福祉制度の枠組みが、その枠組みにうまくはまることのできない者に対していかに非人間的な様相を呈するか。この映画ではただただこのことが、なまなましくも静かに、苛立たしくも淡々と、描かれる。まるでスポーツやゲームのルールのように、厳しく、機械的に適用される個々の項目が、そのゲームに参加した覚えのない人間の人生を残酷に決してしまうという理不尽。どこにでもありそうなこの小さな不幸の物語が観る者の心を強くとらえるのは、現代の福祉制度のもとに生きる誰しもが潜在的に、この理不尽のなかに落ち込んでいく可能性があるからだろう。

妻に先立たれたダニエル・ブレイクは、かつて大工として働いていたのだが、心臓の病気で医師から職場復帰を止められている。そこで彼は社会保障を申請しようとするのだが、目に見える障害のない彼は窓口の担当者によって「就労可能」であると判定されてしまう。「就労不可能」の判定に必要なのは15点。彼は12点しか取れなかったので、判定は「就労可能」。ゲームよろしく、点をとれなかった以上は失格。いくら待っても、いくら再申請をしても、手ごたえがない。やむなく彼は失業保険を申請しようとするが、今度はその申請のために就職活動をした実績が必要だと言われる。しかもマウスも使ったことがない彼も、オンラインで申請書を提出しなければならないという。「これはあなた自身が決めることですから」という担当者。だけれども実際にはどこにも、彼自身で決めることのできる余地などない。彼は既成のゲームのルールの中で足搔かなければならない。

役所に通いつめる彼はある日、ある一家と知り合いになる。一人手で子供を育てるシングルマザーのケティと、まだ小さな二人の子供。ロンドンから移り住んで来た彼女たちもまた、ダニエル・ブレイクと違った仕方でではあるが、既成の制度の枠のなかにうまく入ることができずにいる。ケティはうまく仕事を見つけることができず、子供たちはロンドンの友人たちと離れたストレスで不安定になっていく。役所では人間らしく扱われず、取り除くことのできない貧しさは彼女たちの生活を息苦しいものにしてゆく。彼女たちもまた、同意した覚えのないままに、制度の枠のなかで不利な条件に追いやられていく。その不利な条件の中では、生活用品を得る手段も、金銭を得る手段も、限られたものになっていく。

生きるためには誰しも、否が応でも、参加した覚えのないゲームのルールに従わねばならない。ルールに従いさえすればよいのだから簡単じゃないか、ルールに従えないのならばそれはその人間の問題だ、と断じる人もいるかもしれない。しかしそれは、そのルールに不適合な者にとっては、あまりに理不尽な条件だ。現実には、様々な理由から自らをルールに合わせられない者が多く存在する。逆に言えば全ての「例外」を掬い取れるほどルールの網も完全ではない。だからこそ、まずは個々の人間の問題から出発する必要があるのだが、そのためにはまず、目の前の一人の人間の現実に目を向け耳を傾ける必要がある。しかし上からルールを「適用」することは、彼に人間性を捨象することを要求する。これまでの人生や経験を捨てて、ただ目の前にあるルールに身を合わせることを要求する。形式上はいくら公正でも、このことはまったく公正ではないだろう。なぜなら一人一人の人間はそれぞれ違う条件で生きているのであり、既成のルールにうまく適合できるかできないかは人それぞれで異なるからだ。しかしそんな当たり前のことさえ、ゲームのルールの上では考慮されない。それはそうだ。ゲームにおいて一人一人の人間性など考慮できるわけがない。しかし問題は、人々がこのゲームに自らの意志で参加したのではないのに、このゲームのルールが彼らの人生を決してしまうということだ。

制度の理不尽さ。事務手続きの理不尽さ。「枠組み」に身を合わせることができない者を取り巻く理不尽さ。おそらくそれは多かれ少なかれ誰しもが経験したことがあるものだろう。幸いにもそれを経験したことがない者だって、いつどのような小さな偶然の不幸からそこに落ち込むかなんて、わからない。理不尽によってはじき出されたときに、「わたしは、ダニエル・ブレイクだ」と口にすることができるかどうか。それはルールの上では何の意味も持たないどころか、ルール違反として罰せられてしまう行為なのかもしれない。しかしそれでも、誰かが耳を傾けてくれるかもしれないと思って、彼は自分の名前を口にする。この言葉を向けられた者には何ができるだろうか。非人間的な制度の枠のなかで、目の前の人間を、自分の知らぬ一つの人生を歩んできた一人の人間として認めることができるかどうか。彼の表情に目を向け、彼の言葉に耳を傾けることができるかどうか。これは字面ほど簡単なことではないし、もしかしたら究極の意味では不可能な綺麗ごとかもしれない。しかしそれでも、参加した覚えのないゲームのルールのなかで無言のまま息絶えるよりは、誰かに人間らしく扱われることを望むことが許されるような社会であれば、と思う。せめて、それが単なる綺麗ごととして一蹴されないような社会であれば、と思う。

この映画においてダニエル・ブレイクがぶつかる理不尽や苦しみというのは、多くの国の様々な「制度」のなかに生じうるものであるだろう。本来は人間が人間らしく生きることを支えるための法律や制度が、非人間的な枠組みとして人間を拒絶する、という事態。この事態は、多くの所謂「先進国」においてさえ、様々な仕方で見いだされるものだ。私がいま身をおいているドイツでも、そして日本でも。日本においては、生活保護の受給がそれ自体後ろめたいことであるかのように声を大にして主張する者も少なくない。制度の枠を利用した「不正な」受給が望ましくないのは当たり前のことだろうが、けれども同時に、その制度がその制度を必要としている者のために存在しているというのも当たり前のことであるはずだ。このことを口にするのが憚られるような社会であってほしくはない。制度という非人間的な枠組みよりも一人一人の人間のことを考えることがおかしなことと見なされるような、そんな社会であってほしくはない。そんな当たり前のことに改めて思いを致らせてくれるという意味でも、どうやら3月から上映されるようだが、日本でも多くの人にこの映画を観てほしいと思った。

置き換えられ、繰り返されるモチーフが織りなす喜劇(エルンスト・ルビッチ「極楽特急」/Ernst Lubitsch "Trouble in Paradise“ 1932年)

エルンスト・ルビッチ「極楽特急」(Ernst Lubitsch "Trouble in Paradise" US 1932)を鑑賞。

ドイツ出身のルビッチは、1935年にはナチスによってドイツの市民権を剥奪されてしまうのだが、1920年代には既にアメリカ、ハリウッドでの活動を始めている。そしてちょうど彼がドイツからハリウッドへと活動の場所を移していった20年代~30年代前半はちょうど、映画が無声から有声へと変わっていった時代でもある。この映画はちょうど、ルビッチが身をおいたこの二重の移り変わりを、そしてそれに合わせて展開していく彼の映画手法の成熟の過程を、反映している。もちろん映画それ自体もコメディとして完成度の高いものなのだが、個人的には、そのような移行の過程にある作品として観るのも面白いと思った。無声映画で既に名声を博していたルビッチは、台詞や直接的表現ぬきで、役者の表情や振る舞いそして細やかな演出をもって、登場人物の性格や映画中の出来事を無駄なく効果的に表現する術を十分に身に着けていた。この技法の妙はこの映画「極楽特急」においても十分に発揮されているが、同時にまた有声映画という枠の中でさらなる展開をみせてもいる。

舞台はヴェニスとパリ、華麗な詐欺をはたらく泥棒であり恋人同士でもあるガストンとリリー、そして彼らが標的にする大富豪のコレ夫人をめぐる三角関係の物語。直訳すると「楽園でのトラブル」である映画の原題は、アダムとイヴ、そして彼らに知恵の実を与え堕罪へと誘う蛇という聖書における三角関係のモチーフを暗示している。とはいえこの映画のなかで「楽園」に生きるカップルは、罪を知らない無垢な二人ではなく、詐欺でもって金持ちの懐に入っていき盗みを働いている二人だ。そして彼らの楽園を脅かすのは、悪意をもった蛇ではなく、ガストンに騙されながら心を惹かれてしまう貞淑な婦人だ。無垢や純潔からの堕罪という聖書的なモチーフが逆転して、泥棒たちの罪深さが貞淑さによって脅かされるという構図に変じている。この天国から地上へのモチーフの置き換えがすでに、この映画に独特の喜劇性を与えている。

モチーフを置き換えつつ繰り返すというこの反復の技術は、ルビッチの映画を観るたびに私の印象に残るものだ。例えば彼は、天国から地上へと三角関係の主題を転換してみせたり、シェイクスピアの劇作品をまったく異なる時代や場所に置き換えたり、ということを見事にやってのける。しかし彼の反復の技法の妙はこういった大きなモチーフの置き換えにとどまらない。映画中でもまた、同じ振る舞い、同じセリフ、同じ動作が反復される。それぞれのモチーフはそれぞれの場面ごとに異なった文脈に置き換えられ、異なったアクセントで繰り返されるので、それが映画に独特のリズムを与えることになる。日本のお笑いの言葉で言えば「かぶせ」というやつなのだろうけれど、ルビッチによるモチーフの多彩な変奏はその至極の好例を見せてくれる。後年の「生きるべきか死ぬべきか」("To Be or Not to Be“ US 1942)において結実するこの反復の技法、置き換えと繰り返しの技術は、無声から有声への過渡期にあるこの喜劇映画において、その興味深い展開の一側面を見せているように感じた。

息ができないほどの非人間性のなかでなおも人間らしさと呼びうるものが存在することができるのか(ネメシュ・ラースロー「サウルの息子」/László Nemes "Saul Fia" 2015年)

久しぶり(といっても10日ぐらいぶり)の映画館。ネメシュ・ラースロー「サウルの息子」(László Nemes "Saul Fia" HU 2015)を鑑賞。

これでもか、というほどに息苦しい映画だった。舞台はナチスドイツによって運営されるアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所。主人公は、同胞をガス室に送りその死体を処理する作業に従事する特殊部隊“ゾンダ―コマンドSonderkommando”の一員であるユダヤ系ハンガリー人のサウル。もっともその歴史的な文脈は冒頭でわずかに示唆されるのみで、映画中ではほとんど、誰がどこで何を何のためにしているのかということの説明は、なされない。ただサウルの顔だけに過度にズームアップした長回しの映像は、不規則に揺れ、ぼやけ、突然に途切れ、また再開する。その映像の中に断片的に映りこむのは、身ぐるみをはがされガス室に押し込まれる人々の狂騒であり、将校の暴力や嘲笑や命令のジェスチャーであり、生気なく行き来する強制労働者の痩せてうつろな表情であり、処理されるべき廃棄物と化し焼却するために引きずられてゆく人間たちの裸の肉体の山だ。エンドロールを除いて一切のバックミュージックもなく、怒号と、叫喚と、警報と、銃声とが、映画中ほとんど絶え間なく響き渡り混ざりあって空間を圧迫している。こういったものの全てが、その一つひとつにフォーカスがあてられることがないままに、サウルという一個人が生きる世界の背景を構成している。そこには一切の装飾もおもねりもない。悲しみや恐れといった感情さえも抱くことができない。まるで観る者を拒絶するかのように、しかし最高度の技術をもって、人間性を排した空間と時間が現出する。このようにして、ほとんど息をすることさえ困難に感じられる非人間的な世界が、観る者の眼前に描き出される。

この非人間性の世界のなかにはしかし、人間らしさを思わせるものが、二つの方向で描かれる。一つは、強制労働者たちのうちで企てられるナチス将校に対するプロテストの動き。彼らは出口のないこの非人間的な閉塞から解放されんとして、時間をかけて秘密裏に、蜂起を計画する。主人公サウルもまたこの抵抗運動への協力者である。このプロテストには、この世において生きるということに徹底的に拘った人間らしさの可能性が賭けられている。もう一つの人間らしさは、ガス室に送られて瀕死となり、最終的に将校に無造作な仕方で絞殺されたある子供の亡骸を、ユダヤ教の儀礼に則って埋葬しようとするサウルの姿のなかに認められる。サウルは、この子供は自分の息子であると主張するのだが、それが本当の話であるのかどうかは判然としない。とにかくサウルは、この子供を適切に弔うというそのことのために、自らに課せられた労働ばかりか抵抗運動のための地下活動をも蔑ろにして、子供の亡骸を解剖や焼却から守り、自らの寝床に隠し、埋葬のために正しい儀礼を施すことができるラビを探し求めようと尽力する。最終的にサウルは、この一人の死者を弔うというそのことを、いまなお生きる多くの者のためのプロテストよりも優先させるに至る。「おまえは、生きている者たちを、死んだ者のために裏切ったんだ」。非人間的な世界のただなかで、この世に生きようとする者の人間らしさと、既にこの世を去った者のための人間らしさが衝突し、相互にきしみあい、不協和音を奏でる。

この映画のほとんど救いようのない息苦しさは、この二つの人間らしさの可能性のどちらもが、閉塞した非人間的な世界のなかでは、もはや純粋に人間的なものであることができなくなってしまう、というところにある。一方で、プロテストという生者の人間性は、焼却され塵埃と化した屍のことを慮ることも、死者を弔い祈ることを望む者を認めることもできない。そのような者は裏切り者か、せいぜい無能な不具者と見做されることになる。他方で、彼岸における救いのために死者の弔いを求める人間性は、まともに息をすることもできない圧迫的な空間のただなかにおいては、もはや狂信的な愚行としか見做されない。それどころか、ともすれば自己満足を求めるエゴイズムと見分けのつかないものにさえ見えてきてしまう。可能性が自由に息をするための酸素のようなものだとするならば、人間らしさを実現するあらゆる希望の可能性が圧殺された世界においては、息を吸うことも、吐くことも、もはや許されなくなるだろう。可能性を欲することも、可能性に祈ることも、もはやそこでは人間的な姿をとることができない。もしそこでなおも人間的であることを願い、歪みなき人間性のなかに留まろうとする者は、ガス室に送られるか、銃殺されるか、どちらかだろう。息ができないほどの非人間性のなかでなおも人間らしさと呼びうるものが存在することができるのか、という問いを、この映画はぎりぎりのところまで先鋭化していく。まともに呼吸をすることもできず、不協和音のきしみを響かせながらも、人間らしさの最後の可能性は、非人間性の世界を描き切るというこの映画の試みのなかに、逆説的に、その希望の痕跡を残しているのかもしれない。

近代化された世界における野生、或いはその滑稽さ(ニコレッテ・クレビッツ「ワイルド、わたしの中の獣」/Nicolette Krebitz "Wild" 2016年)

ニコレッテ・クレビッツ「ワイルド、わたしの中の獣」(Nicolette Krebitz "Wild" DE 2016)は、昨年11月中旬に鑑賞。

地味目で上司にバカにされているOLのお姉ちゃんが、ある日自宅の近くで見かけたオオカミに心を奪われ、捕まえ、心を通わせ、同時に自分の中の野生に目覚めてゆく、と大雑把にまとめるとそんな話。

ありえない話と言ってしまえばそれまでだし、そもそもの設定にリアリティーがないと言えばない(すべてが主人公のお姉ちゃんの頭のなかの出来事と解釈できなくはないけれど)。それでもこの映画が一定のリアリティーのある作品になっているのは、監督のディティールへの拘りと、タイトルにもなっている「野生」というモチーフの一貫性のためであると思う。ストーリーの前半から最後まで、感覚に訴える張りつめた空気が途切れることはなかったし、見逃してはならないと思いつつ緊張感をもって鑑賞することができた。この緊張した感覚性それだけでも、よい映画体験だったと思う。

 

以下、個人的に思った見どころを三つ挙げる。

 

見どころの一つ目は、オオカミに具象化された野生性と、それが持つ怖さ。

見た目だけだと大型犬のようで可愛らしくも見えるオオカミだが、そう思うのもつかの間、一瞬で間を詰めて皮膚をかみちぎり吠えたぎる。その瞬間の躍動が持つ迫力が端的に恐ろしく、画面越しでも思わずびくついてしまった。このオオカミはおそらく人間の命も簡単に奪うことができるのだろうな、と思わされる。見ていて「レヴェナント」のクマを思い出したが、この映画のオオカミはCGではなく本物だということで驚かされた。その凶暴な肉体性を一度知ってしまうと、その後オオカミがいくら大人しくしていても、いつ豹変して襲い掛かってくるのだろうという静かな恐ろしさが消えることがない。野生性の象徴であり、手の付けられない原生的な力そのものを体現しており、怖いけれども、引き付けられ、目を向けてしまう。

 

見どころの二つ目は、主人公であるOLのお姉ちゃんがオオカミにいかれてワイルドになっていくプロセス。

序盤で、生肉をほおばったり、膝小僧を擦りむいてそのままにしたり、というのはまだ可愛いもの。中盤、マンションの階段の手すりで自慰をするあたりから、彼女の振る舞いは言うなれば「人間的」なものを逸脱していく。後半、目の前のヒト科のオスが自分のことを綺麗だと言ってくれるだけで交尾をし、机の上に排便し、そこに火をつけて逃げるあたりでは、彼女から獣の臭気が漂ってくるようにさえ感じる。それを醜いと思うか美しいと思うかということを超えて、主演のリリト・シュタンゲンベルク(Lilith Stangenberg)の体当たりの演技は見ごたえがあったし、映画が進むにつれてその表情は目を見張るほど魅力的になっていったように思う。

 

見どころの三つ目は、自らのうちなる野生を発露していく主人公も、近代化された世界のなかでは野生になりきれない、どこか滑稽な存在でしかない、ということ。

彼女は確かに野生に憧憬を抱き、オオカミの野生性と一つになろうと欲し、そしてある程度まで自身の人間性を捨て去ることに成功したように見える。とはいえ、彼女がオオカミを自分のものにするためには工場勤めのアジア人労働者に金銭を払って捕獲を手伝ってもらわねばならなかったし、移動には会社の上司の車を利用しなければならなかった。そして後半で上司がオオカミに噛みちぎられて虫の息になったシーンでも、彼女は救急車を呼ばずにはいられなかった。中盤の野生を表現した(?)ダンスや階段の手すりでの自慰のシーンはどこか滑稽で、都会という近代世界のなかで野生であることのアンバランスさのようなものを感じざるをえなかった。前半で、主人公と同じ車に乗ったカップルが盛り上がっていちゃつくシーンがある。人目を気にせず過度に絡み合う彼らもある意味では都会のなかで自らの野生性を発露させている存在で、その意味では、その行為が「よくあること」であるかどうかを別とすれば、後半で人間性から逸脱して野生と化していく主人公と彼らは本質的には変わらないと言えば変わらないのかもしれない。近代化された世界において自らの野生を解放することは、どこか滑稽で恰好が悪いのだ。

主人公も、結局のところ、近代化された人間社会のなかでは絶対的な野生性を解放することができない。オオカミのように絶対的に野生であるためには、近代的な公共空間を抜け出して、人工物のない原野(のようなところ)に出て行かざるをえない。だからこの映画の主人公もまた、映画の最後で、原野(のようなところ)に出て行き、オオカミとともに泥水で喉をうるおし、分けてもらったネズミを食し、草やぶの間で貪るように睡眠をとる。それをなしとげたあとではじめて彼女は、解放されたような笑顔を見せる。この笑顔はたしかにとても美しくて、魅力的で、映画の最後のシーンを印象的なものにしている。

…とはいえ、近代化された人間が自らの人間性を捨てて野生に戻る、というこのことは物語でしかない。全身に体毛のない主人公のお姉ちゃんは洋服を脱いで原野を駆けずりまわることはできないだろうし、そもそも彼女が出て行った原野もしょせんは原野「のようなところ」でしかない。物語は美しくとも、やはりそこには、近代化された人間が野生に帰るというモチーフが持つ滑稽さが見え隠れする。

これは観ている側の問題でもあるだろう。自分のなかにある野生性ないし肉体性と、都会性ないし近代性。そのどちらも容易に捨てさることはできないものであって、一定の緊張をもってもつれ合っている。監督の意図がこのような緊張を描くことにあったのか、それとも野生性の称揚にあったのか、それともまた別のところにあったのか、それは知らない。しかし少なくとも私にとってこの映画は、自分自身のなかにもある啓蒙された近代性と動物的な野生性との緊張関係を、自覚させるものだった。これらの契機のもつれ合いは、恐ろしいものにも、また時には滑稽なものにも感じられる。この危うい緊張関係を抱えながらどうやって生きていくことができるのかという問題を、この映画は提示しているように思えた。

 

ここ最近のドイツ映画には、直接的な感覚性へと回帰するような傾向・潮流があるという話を聞いた(これを「ドイツ新感覚主義Neue Deutsche Sinnlichkeit」と呼ぼうとしている人もいるようだが、果たしてこの言葉が定着するかどうかはよくわからない)。この映画はそのような傾向の一変奏として観られるとも思うし、怖さと滑稽さとが入り混じった、独特の魅力と緊張をともなった感覚性がそこにあったように思う。その意味で、少なくとも私にとっては、印象的な映画体験だった。

 

(なおこのレヴューは、以前某映画レビューサイトに投稿した文章に加筆・修正したものです)