映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

スクリーンの上の、あまりにもあからさまで、あまりにも直接的な現実(ジャンフランコ・ロージ「海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~」/Gianfranco Rosi "Fuocoammare" 2015年)

ジャンフランコ・ロージ「海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~」(Gianfranco Rosi "Fuocoammare" IT/FR 2015)を鑑賞。海を渡る難民の姿を追ったドキュメンタリーで、ベルリン国際映画祭で金熊賞をとった作品ということで、気になっていた。

舞台は、地中海、イタリア半島とアフリカ大陸の間に位置するランペドューサ島。その地理的な位置ゆえなのだろうが、数十年前からこの島には、アフリカや中東から難民を乗せた船が頻繁に漂着するのだという。そしてここ数年は、やってくる難民の数も——そして同時に、命を失ってから流れつく亡骸の数も——飛躍的に増えている。この映画は、流れつく難民たちの姿を、島に暮らす人々や子供たちの日常と交差させつつ、伝えている。

この映画の特徴の一つは、ドキュメンタリーでありながら、単なる事実の羅列や解説ではなく、練られたストーリーのようなある種の流れがあるということだ。流れ着いた船からの難民の救助、体調不良者への応急処置。上陸した者たちが施設で受ける身体検査、収容後に興じる唱和やサッカー。島の子供のパチンコ遊び、船上での初めての嘔吐。かつての戦争の日々を想起する島の老婆、リクエストに応えて曲をかけるラジオショー。かつて赤く燃えた海の上に、いまは人々の生が揺らめく。島における非日常と日常とを交錯させながら、あたかも適切な役者と練られた演出のもとで撮影されたフィクションのように、映像が展開されてゆく。

しかしこの映画はあくまでもドキュメンタリーである。そのことを気付かせてくれるのは、島に流れ着く難民が置かれた状況について語るある医師のインタビューだ。島の医師として住民や子供たちの診療に従事する彼は、同時に、流れ着いた難民たちの治療にもあたっている。そして彼はまた、命を失って流れ着いた人々の検死もしなくてはならない。「慣れてくるでしょう、と言われることもあります。だけど、子供や妊婦の死んでいる姿に慣れることなんて、できると思いますか?」この医師のもとには、この島をとりまく日常と非日常が交錯している。この映画中で唯一ドキュメンタリーらしい場面とも言える説明的な彼のインタビューによって観る者は、この映画における日常も非日常も、そのどちらもが現実の映像であることに気付かされることになる。日常のほんの裏側では、多くの人が助けを乞い、船底で衰弱し、時には命を落とし、また時には船とともに海に沈んでいく。

この映画では、乗りこんだ人々が全て亡くなって海上に漂っていたところを発見されたある船の、その内部の映像も提示される。雑然とした船内、散乱して積み重なった服や物、その間にいくつも転がる人間の身体。その独特の湿気と、こもった空気感。ざわめくような静かさ。それらは全て、まるで演出されたもの、作られたもののようにも思えてしまう。だけれども、これは演出ではないはずで、だとすると、やはりこれは、まごうことなき現実の映像なのだ。この映像のなかの光景はかつて現実に存在したものであり、そして今もどこかに、これと同じ現実が誰にも知られぬままに存在しているかもしれない。この日常の裏側で、今も、どこかで。

この映画のなかで提示されている事柄はまた、この島以外のあらゆる場所で、さまざまな仕方で、今もなお、起きていることでもあるだろう。私自身はいま、楽しいことばかりではないにせよ、さしあたり命の危険を感じないように思われる生活をしている(もっとも、最近の情勢を考えると、もはやそれも確実なものではないけれど)。とはいえ今この瞬間に、自らの命を失うか失わないかの瀬戸際にいる人々がどこかにいる。ここにあるギャップと、この映画のなかで描かれる日常と非日常の間のギャップとの違いは、相対的なものでしかない。もちろん頭では、世界のどこかで日々、「なにかしら悲惨な事件」が起きていることは知っている。しかしそれがまごうことなき現実であるというそのことは、映像を通してようやく、ある種の立体感をもって気付かれることになる。助けを求める人々の声を聞き彼らの表情を見ることで、そして彼らの亡骸を見ることで、はじめて、現実が現実としての重さをもって私の前に現われてくる。

私には、この映画を一つの完成された「作品」として享受することができなかった。この映画のなかに「ストーリー」や「あらすじ」を見ることもできなかった。ここで提示されているものは、あまりにもあからさまで、あまりにも直接的な現実の映像だった。そしてまた、劇場のスクリーンを通さないとこの現実を認識することができなかったという、自分の無感覚さと想像力のなさを突きつけられるような思いもした。そこには、ドキュメンタリーという形式でスクリーン上に映写された映像を通してしかあからさまな現実を見ることができない、というある種の欺瞞がある。私はまだここで提示された現実を、その映像を、消化することができていない。しかしおそらく、今後「難民」と呼ばれる人々や彼らにまつわる諸々の諸問題について考えたり、自分が何かを言ったりするそのときには、ここでこの映画を見たということを思い出さずにはいられないだろうと思う。

参加した覚えのないゲームのルールが人生を決してしまうということ(ケン・ローチ「わたしは、ダニエル・ブレイク」/Ken Loach "I, Daniel Blake" 2016年)

ケン・ローチ「わたしは、ダニエル・ブレイク」(Ken Loach "I, Daniel Blake" GB/FR/BE 2016)を鑑賞。

静かで淡々としていて、それでも目を離せない映画だった。一言でいうと、ある初老の男性が社会保障を得るために行政手続きと格闘するという話。ある意味そこにはドラマらしいドラマなどなにもない。どこにでもいそうな一人の人間が、どこにでもありそうな行政手続きの理不尽にぶつかり、どこにでもありそうな苦しみのなかでため息をつく、どこにでもありそうな小さな不幸の物語だ。本来は人間の人間らしさを支えるものであるはずの社会保障や福祉制度の枠組みが、その枠組みにうまくはまることのできない者に対していかに非人間的な様相を呈するか。この映画ではただただこのことが、なまなましくも静かに、苛立たしくも淡々と、描かれる。まるでスポーツやゲームのルールのように、厳しく、機械的に適用される個々の項目が、そのゲームに参加した覚えのない人間の人生を残酷に決してしまうという理不尽。どこにでもありそうなこの小さな不幸の物語が観る者の心を強くとらえるのは、現代の福祉制度のもとに生きる誰しもが潜在的に、この理不尽のなかに落ち込んでいく可能性があるからだろう。

妻に先立たれたダニエル・ブレイクは、かつて大工として働いていたのだが、心臓の病気で医師から職場復帰を止められている。そこで彼は社会保障を申請しようとするのだが、目に見える障害のない彼は窓口の担当者によって「就労可能」であると判定されてしまう。「就労不可能」の判定に必要なのは15点。彼は12点しか取れなかったので、判定は「就労可能」。ゲームよろしく、点をとれなかった以上は失格。いくら待っても、いくら再申請をしても、手ごたえがない。やむなく彼は失業保険を申請しようとするが、今度はその申請のために就職活動をした実績が必要だと言われる。しかもマウスも使ったことがない彼も、オンラインで申請書を提出しなければならないという。「これはあなた自身が決めることですから」という担当者。だけれども実際にはどこにも、彼自身で決めることのできる余地などない。彼は既成のゲームのルールの中で足搔かなければならない。

役所に通いつめる彼はある日、ある一家と知り合いになる。一人手で子供を育てるシングルマザーのケティと、まだ小さな二人の子供。ロンドンから移り住んで来た彼女たちもまた、ダニエル・ブレイクと違った仕方でではあるが、既成の制度の枠のなかにうまく入ることができずにいる。ケティはうまく仕事を見つけることができず、子供たちはロンドンの友人たちと離れたストレスで不安定になっていく。役所では人間らしく扱われず、取り除くことのできない貧しさは彼女たちの生活を息苦しいものにしてゆく。彼女たちもまた、同意した覚えのないままに、制度の枠のなかで不利な条件に追いやられていく。その不利な条件の中では、生活用品を得る手段も、金銭を得る手段も、限られたものになっていく。

生きるためには誰しも、否が応でも、参加した覚えのないゲームのルールに従わねばならない。ルールに従いさえすればよいのだから簡単じゃないか、ルールに従えないのならばそれはその人間の問題だ、と断じる人もいるかもしれない。しかしそれは、そのルールに不適合な者にとっては、あまりに理不尽な条件だ。現実には、様々な理由から自らをルールに合わせられない者が多く存在する。逆に言えば全ての「例外」を掬い取れるほどルールの網も完全ではない。だからこそ、まずは個々の人間の問題から出発する必要があるのだが、そのためにはまず、目の前の一人の人間の現実に目を向け耳を傾ける必要がある。しかし上からルールを「適用」することは、彼に人間性を捨象することを要求する。これまでの人生や経験を捨てて、ただ目の前にあるルールに身を合わせることを要求する。形式上はいくら公正でも、このことはまったく公正ではないだろう。なぜなら一人一人の人間はそれぞれ違う条件で生きているのであり、既成のルールにうまく適合できるかできないかは人それぞれで異なるからだ。しかしそんな当たり前のことさえ、ゲームのルールの上では考慮されない。それはそうだ。ゲームにおいて一人一人の人間性など考慮できるわけがない。しかし問題は、人々がこのゲームに自らの意志で参加したのではないのに、このゲームのルールが彼らの人生を決してしまうということだ。

制度の理不尽さ。事務手続きの理不尽さ。「枠組み」に身を合わせることができない者を取り巻く理不尽さ。おそらくそれは多かれ少なかれ誰しもが経験したことがあるものだろう。幸いにもそれを経験したことがない者だって、いつどのような小さな偶然の不幸からそこに落ち込むかなんて、わからない。理不尽によってはじき出されたときに、「わたしは、ダニエル・ブレイクだ」と口にすることができるかどうか。それはルールの上では何の意味も持たないどころか、ルール違反として罰せられてしまう行為なのかもしれない。しかしそれでも、誰かが耳を傾けてくれるかもしれないと思って、彼は自分の名前を口にする。この言葉を向けられた者には何ができるだろうか。非人間的な制度の枠のなかで、目の前の人間を、自分の知らぬ一つの人生を歩んできた一人の人間として認めることができるかどうか。彼の表情に目を向け、彼の言葉に耳を傾けることができるかどうか。これは字面ほど簡単なことではないし、もしかしたら究極の意味では不可能な綺麗ごとかもしれない。しかしそれでも、参加した覚えのないゲームのルールのなかで無言のまま息絶えるよりは、誰かに人間らしく扱われることを望むことが許されるような社会であれば、と思う。せめて、それが単なる綺麗ごととして一蹴されないような社会であれば、と思う。

この映画においてダニエル・ブレイクがぶつかる理不尽や苦しみというのは、多くの国の様々な「制度」のなかに生じうるものであるだろう。本来は人間が人間らしく生きることを支えるための法律や制度が、非人間的な枠組みとして人間を拒絶する、という事態。この事態は、多くの所謂「先進国」においてさえ、様々な仕方で見いだされるものだ。私がいま身をおいているドイツでも、そして日本でも。日本においては、生活保護の受給がそれ自体後ろめたいことであるかのように声を大にして主張する者も少なくない。制度の枠を利用した「不正な」受給が望ましくないのは当たり前のことだろうが、けれども同時に、その制度がその制度を必要としている者のために存在しているというのも当たり前のことであるはずだ。このことを口にするのが憚られるような社会であってほしくはない。制度という非人間的な枠組みよりも一人一人の人間のことを考えることがおかしなことと見なされるような、そんな社会であってほしくはない。そんな当たり前のことに改めて思いを致らせてくれるという意味でも、どうやら3月から上映されるようだが、日本でも多くの人にこの映画を観てほしいと思った。

置き換えられ、繰り返されるモチーフが織りなす喜劇(エルンスト・ルビッチ「極楽特急」/Ernst Lubitsch "Trouble in Paradise“ 1932年)

エルンスト・ルビッチ「極楽特急」(Ernst Lubitsch "Trouble in Paradise" US 1932)を鑑賞。

ドイツ出身のルビッチは、1935年にはナチスによってドイツの市民権を剥奪されてしまうのだが、1920年代には既にアメリカ、ハリウッドでの活動を始めている。そしてちょうど彼がドイツからハリウッドへと活動の場所を移していった20年代~30年代前半はちょうど、映画が無声から有声へと変わっていった時代でもある。この映画はちょうど、ルビッチが身をおいたこの二重の移り変わりを、そしてそれに合わせて展開していく彼の映画手法の成熟の過程を、反映している。もちろん映画それ自体もコメディとして完成度の高いものなのだが、個人的には、そのような移行の過程にある作品として観るのも面白いと思った。無声映画で既に名声を博していたルビッチは、台詞や直接的表現ぬきで、役者の表情や振る舞いそして細やかな演出をもって、登場人物の性格や映画中の出来事を無駄なく効果的に表現する術を十分に身に着けていた。この技法の妙はこの映画「極楽特急」においても十分に発揮されているが、同時にまた有声映画という枠の中でさらなる展開をみせてもいる。

舞台はヴェニスとパリ、華麗な詐欺をはたらく泥棒であり恋人同士でもあるガストンとリリー、そして彼らが標的にする大富豪のコレ夫人をめぐる三角関係の物語。直訳すると「楽園でのトラブル」である映画の原題は、アダムとイヴ、そして彼らに知恵の実を与え堕罪へと誘う蛇という聖書における三角関係のモチーフを暗示している。とはいえこの映画のなかで「楽園」に生きるカップルは、罪を知らない無垢な二人ではなく、詐欺でもって金持ちの懐に入っていき盗みを働いている二人だ。そして彼らの楽園を脅かすのは、悪意をもった蛇ではなく、ガストンに騙されながら心を惹かれてしまう貞淑な婦人だ。無垢や純潔からの堕罪という聖書的なモチーフが逆転して、泥棒たちの罪深さが貞淑さによって脅かされるという構図に変じている。この天国から地上へのモチーフの置き換えがすでに、この映画に独特の喜劇性を与えている。

モチーフを置き換えつつ繰り返すというこの反復の技術は、ルビッチの映画を観るたびに私の印象に残るものだ。例えば彼は、天国から地上へと三角関係の主題を転換してみせたり、シェイクスピアの劇作品をまったく異なる時代や場所に置き換えたり、ということを見事にやってのける。しかし彼の反復の技法の妙はこういった大きなモチーフの置き換えにとどまらない。映画中でもまた、同じ振る舞い、同じセリフ、同じ動作が反復される。それぞれのモチーフはそれぞれの場面ごとに異なった文脈に置き換えられ、異なったアクセントで繰り返されるので、それが映画に独特のリズムを与えることになる。日本のお笑いの言葉で言えば「かぶせ」というやつなのだろうけれど、ルビッチによるモチーフの多彩な変奏はその至極の好例を見せてくれる。後年の「生きるべきか死ぬべきか」("To Be or Not to Be“ US 1942)において結実するこの反復の技法、置き換えと繰り返しの技術は、無声から有声への過渡期にあるこの喜劇映画において、その興味深い展開の一側面を見せているように感じた。

息ができないほどの非人間性のなかでなおも人間らしさと呼びうるものが存在することができるのか(ネメシュ・ラースロー「サウルの息子」/László Nemes "Saul Fia" 2015年)

久しぶり(といっても10日ぐらいぶり)の映画館。ネメシュ・ラースロー「サウルの息子」(László Nemes "Saul Fia" HU 2015)を鑑賞。

これでもか、というほどに息苦しい映画だった。舞台はナチスドイツによって運営されるアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所。主人公は、同胞をガス室に送りその死体を処理する作業に従事する特殊部隊“ゾンダ―コマンドSonderkommando”の一員であるユダヤ系ハンガリー人のサウル。もっともその歴史的な文脈は冒頭でわずかに示唆されるのみで、映画中ではほとんど、誰がどこで何を何のためにしているのかということの説明は、なされない。ただサウルの顔だけに過度にズームアップした長回しの映像は、不規則に揺れ、ぼやけ、突然に途切れ、また再開する。その映像の中に断片的に映りこむのは、身ぐるみをはがされガス室に押し込まれる人々の狂騒であり、将校の暴力や嘲笑や命令のジェスチャーであり、生気なく行き来する強制労働者の痩せてうつろな表情であり、処理されるべき廃棄物と化し焼却するために引きずられてゆく人間たちの裸の肉体の山だ。エンドロールを除いて一切のバックミュージックもなく、怒号と、叫喚と、警報と、銃声とが、映画中ほとんど絶え間なく響き渡り混ざりあって空間を圧迫している。こういったものの全てが、その一つひとつにフォーカスがあてられることがないままに、サウルという一個人が生きる世界の背景を構成している。そこには一切の装飾もおもねりもない。悲しみや恐れといった感情さえも抱くことができない。まるで観る者を拒絶するかのように、しかし最高度の技術をもって、人間性を排した空間と時間が現出する。このようにして、ほとんど息をすることさえ困難に感じられる非人間的な世界が、観る者の眼前に描き出される。

この非人間性の世界のなかにはしかし、人間らしさを思わせるものが、二つの方向で描かれる。一つは、強制労働者たちのうちで企てられるナチス将校に対するプロテストの動き。彼らは出口のないこの非人間的な閉塞から解放されんとして、時間をかけて秘密裏に、蜂起を計画する。主人公サウルもまたこの抵抗運動への協力者である。このプロテストには、この世において生きるということに徹底的に拘った人間らしさの可能性が賭けられている。もう一つの人間らしさは、ガス室に送られて瀕死となり、最終的に将校に無造作な仕方で絞殺されたある子供の亡骸を、ユダヤ教の儀礼に則って埋葬しようとするサウルの姿のなかに認められる。サウルは、この子供は自分の息子であると主張するのだが、それが本当の話であるのかどうかは判然としない。とにかくサウルは、この子供を適切に弔うというそのことのために、自らに課せられた労働ばかりか抵抗運動のための地下活動をも蔑ろにして、子供の亡骸を解剖や焼却から守り、自らの寝床に隠し、埋葬のために正しい儀礼を施すことができるラビを探し求めようと尽力する。最終的にサウルは、この一人の死者を弔うというそのことを、いまなお生きる多くの者のためのプロテストよりも優先させるに至る。「おまえは、生きている者たちを、死んだ者のために裏切ったんだ」。非人間的な世界のただなかで、この世に生きようとする者の人間らしさと、既にこの世を去った者のための人間らしさが衝突し、相互にきしみあい、不協和音を奏でる。

この映画のほとんど救いようのない息苦しさは、この二つの人間らしさの可能性のどちらもが、閉塞した非人間的な世界のなかでは、もはや純粋に人間的なものであることができなくなってしまう、というところにある。一方で、プロテストという生者の人間性は、焼却され塵埃と化した屍のことを慮ることも、死者を弔い祈ることを望む者を認めることもできない。そのような者は裏切り者か、せいぜい無能な不具者と見做されることになる。他方で、彼岸における救いのために死者の弔いを求める人間性は、まともに息をすることもできない圧迫的な空間のただなかにおいては、もはや狂信的な愚行としか見做されない。それどころか、ともすれば自己満足を求めるエゴイズムと見分けのつかないものにさえ見えてきてしまう。可能性が自由に息をするための酸素のようなものだとするならば、人間らしさを実現するあらゆる希望の可能性が圧殺された世界においては、息を吸うことも、吐くことも、もはや許されなくなるだろう。可能性を欲することも、可能性に祈ることも、もはやそこでは人間的な姿をとることができない。もしそこでなおも人間的であることを願い、歪みなき人間性のなかに留まろうとする者は、ガス室に送られるか、銃殺されるか、どちらかだろう。息ができないほどの非人間性のなかでなおも人間らしさと呼びうるものが存在することができるのか、という問いを、この映画はぎりぎりのところまで先鋭化していく。まともに呼吸をすることもできず、不協和音のきしみを響かせながらも、人間らしさの最後の可能性は、非人間性の世界を描き切るというこの映画の試みのなかに、逆説的に、その希望の痕跡を残しているのかもしれない。

近代化された世界における野生、或いはその滑稽さ(ニコレッテ・クレビッツ「ワイルド、わたしの中の獣」/Nicolette Krebitz "Wild" 2016年)

ニコレッテ・クレビッツ「ワイルド、わたしの中の獣」(Nicolette Krebitz "Wild" DE 2016)は、昨年11月中旬に鑑賞。

地味目で上司にバカにされているOLのお姉ちゃんが、ある日自宅の近くで見かけたオオカミに心を奪われ、捕まえ、心を通わせ、同時に自分の中の野生に目覚めてゆく、と大雑把にまとめるとそんな話。

ありえない話と言ってしまえばそれまでだし、そもそもの設定にリアリティーがないと言えばない(すべてが主人公のお姉ちゃんの頭のなかの出来事と解釈できなくはないけれど)。それでもこの映画が一定のリアリティーのある作品になっているのは、監督のディティールへの拘りと、タイトルにもなっている「野生」というモチーフの一貫性のためであると思う。ストーリーの前半から最後まで、感覚に訴える張りつめた空気が途切れることはなかったし、見逃してはならないと思いつつ緊張感をもって鑑賞することができた。この緊張した感覚性それだけでも、よい映画体験だったと思う。

 

以下、個人的に思った見どころを三つ挙げる。

 

見どころの一つ目は、オオカミに具象化された野生性と、それが持つ怖さ。

見た目だけだと大型犬のようで可愛らしくも見えるオオカミだが、そう思うのもつかの間、一瞬で間を詰めて皮膚をかみちぎり吠えたぎる。その瞬間の躍動が持つ迫力が端的に恐ろしく、画面越しでも思わずびくついてしまった。このオオカミはおそらく人間の命も簡単に奪うことができるのだろうな、と思わされる。見ていて「レヴェナント」のクマを思い出したが、この映画のオオカミはCGではなく本物だということで驚かされた。その凶暴な肉体性を一度知ってしまうと、その後オオカミがいくら大人しくしていても、いつ豹変して襲い掛かってくるのだろうという静かな恐ろしさが消えることがない。野生性の象徴であり、手の付けられない原生的な力そのものを体現しており、怖いけれども、引き付けられ、目を向けてしまう。

 

見どころの二つ目は、主人公であるOLのお姉ちゃんがオオカミにいかれてワイルドになっていくプロセス。

序盤で、生肉をほおばったり、膝小僧を擦りむいてそのままにしたり、というのはまだ可愛いもの。中盤、マンションの階段の手すりで自慰をするあたりから、彼女の振る舞いは言うなれば「人間的」なものを逸脱していく。後半、目の前のヒト科のオスが自分のことを綺麗だと言ってくれるだけで交尾をし、机の上に排便し、そこに火をつけて逃げるあたりでは、彼女から獣の臭気が漂ってくるようにさえ感じる。それを醜いと思うか美しいと思うかということを超えて、主演のリリト・シュタンゲンベルク(Lilith Stangenberg)の体当たりの演技は見ごたえがあったし、映画が進むにつれてその表情は目を見張るほど魅力的になっていったように思う。

 

見どころの三つ目は、自らのうちなる野生を発露していく主人公も、近代化された世界のなかでは野生になりきれない、どこか滑稽な存在でしかない、ということ。

彼女は確かに野生に憧憬を抱き、オオカミの野生性と一つになろうと欲し、そしてある程度まで自身の人間性を捨て去ることに成功したように見える。とはいえ、彼女がオオカミを自分のものにするためには工場勤めのアジア人労働者に金銭を払って捕獲を手伝ってもらわねばならなかったし、移動には会社の上司の車を利用しなければならなかった。そして後半で上司がオオカミに噛みちぎられて虫の息になったシーンでも、彼女は救急車を呼ばずにはいられなかった。中盤の野生を表現した(?)ダンスや階段の手すりでの自慰のシーンはどこか滑稽で、都会という近代世界のなかで野生であることのアンバランスさのようなものを感じざるをえなかった。前半で、主人公と同じ車に乗ったカップルが盛り上がっていちゃつくシーンがある。人目を気にせず過度に絡み合う彼らもある意味では都会のなかで自らの野生性を発露させている存在で、その意味では、その行為が「よくあること」であるかどうかを別とすれば、後半で人間性から逸脱して野生と化していく主人公と彼らは本質的には変わらないと言えば変わらないのかもしれない。近代化された世界において自らの野生を解放することは、どこか滑稽で恰好が悪いのだ。

主人公も、結局のところ、近代化された人間社会のなかでは絶対的な野生性を解放することができない。オオカミのように絶対的に野生であるためには、近代的な公共空間を抜け出して、人工物のない原野(のようなところ)に出て行かざるをえない。だからこの映画の主人公もまた、映画の最後で、原野(のようなところ)に出て行き、オオカミとともに泥水で喉をうるおし、分けてもらったネズミを食し、草やぶの間で貪るように睡眠をとる。それをなしとげたあとではじめて彼女は、解放されたような笑顔を見せる。この笑顔はたしかにとても美しくて、魅力的で、映画の最後のシーンを印象的なものにしている。

…とはいえ、近代化された人間が自らの人間性を捨てて野生に戻る、というこのことは物語でしかない。全身に体毛のない主人公のお姉ちゃんは洋服を脱いで原野を駆けずりまわることはできないだろうし、そもそも彼女が出て行った原野もしょせんは原野「のようなところ」でしかない。物語は美しくとも、やはりそこには、近代化された人間が野生に帰るというモチーフが持つ滑稽さが見え隠れする。

これは観ている側の問題でもあるだろう。自分のなかにある野生性ないし肉体性と、都会性ないし近代性。そのどちらも容易に捨てさることはできないものであって、一定の緊張をもってもつれ合っている。監督の意図がこのような緊張を描くことにあったのか、それとも野生性の称揚にあったのか、それともまた別のところにあったのか、それは知らない。しかし少なくとも私にとってこの映画は、自分自身のなかにもある啓蒙された近代性と動物的な野生性との緊張関係を、自覚させるものだった。これらの契機のもつれ合いは、恐ろしいものにも、また時には滑稽なものにも感じられる。この危うい緊張関係を抱えながらどうやって生きていくことができるのかという問題を、この映画は提示しているように思えた。

 

ここ最近のドイツ映画には、直接的な感覚性へと回帰するような傾向・潮流があるという話を聞いた(これを「ドイツ新感覚主義Neue Deutsche Sinnlichkeit」と呼ぼうとしている人もいるようだが、果たしてこの言葉が定着するかどうかはよくわからない)。この映画はそのような傾向の一変奏として観られるとも思うし、怖さと滑稽さとが入り混じった、独特の魅力と緊張をともなった感覚性がそこにあったように思う。その意味で、少なくとも私にとっては、印象的な映画体験だった。

 

(なおこのレヴューは、以前某映画レビューサイトに投稿した文章に加筆・修正したものです)

いつ崩れ落ちるともしれないアイデンティティ(フィオナ・タン「歴史の未来」/Fiona Tan "History’s Future" 2015年)

ここのところ映画館に行けていないので、昨年観た映画と、それと関係する展覧会について。

フィオナ・タン「歴史の未来」(Fiona Tan "History’s Future" EN/DE/FR/NL 2016)は、昨年9月末に鑑賞。フィオナ・タンは日本でも何度か個展を開いたことがある芸術家で、この「歴史の未来」は彼女の最初の長編(といっても100分弱だが)映画作品だそうだ。

とにかく強い印象と残響を残す映画だった。基本的には、暴漢に襲われて記憶を失ったある男性が自らのアイデンティティを求めてヨーロッパを放浪する、というモチーフが映画の中心にある。とはいえそれがわかりやすい単線で物語られることはなく、極めて断片的に、現実と心象イメージの境目も曖昧なまま、物語とも言えないような不安定な物語が展開されていく。自分の名前も、生い立ちも、国籍も、自身に関する記憶らしい記憶は全て喪失してしまった男性はもはや「自分」を束ねる紐帯を失っている。それに対応するかのように、この映画にも中心となる線は見当たらない。そして映画を観る者もまた、現実と心象の断片性のなかを漂う彼とともに、自らの中心を失ったような、拠り所を失ったような感覚のなかに突き落とされる。アイデンティティなるものはいつ崩れ落ちるかもしれないものなのだということを、この映画はそれを観る者に追体験させる。そこにこの映画の決定的な残響があった。私自身はこの映画を観た後に、自分が自分の名前を忘れていないかどうか、歩き方を覚えているかどうか、自宅への帰り道を記憶しているかどうか、ひとつひとつ確認せずにはいられなかった。自分もまた、映画の主人公と同じように、自分を束ねる紐帯を失ってしまったのではないかという思いから、なかなか抜け出すことができなかった。後に残ったそのひどく強い残響という点だけでも、個人的には、昨年鑑賞したなかで最も印象に残った映画だった。

ところでこの映画の主人公は、確かに自らのアイデンティティを見失ってはいるのだけれども、同時に全ての手がかりを失っているわけではない。彼はさしあたり、言葉を失っていない。目が覚めた病院で彼は、医師と英語でコミュニケーションをとることができる。映画中では、ドイツ語やフランス語の会話も為される。彼が生きてきた場所はヨーロッパであることはわかる。とはいえ彼は、彼の妻だという女性のことが思い出せないし、彼女と行ったという旅行のことも記憶から呼び出せない。彼の容貌からも確かなことはほとんどわからない。彼はどことなく中央アジアか西アジア系の血を引いているようにも見えなくもないが、とはいえ彼の容貌や振る舞いそのものは、現在のヨーロッパにおいて全く珍しいものではない。英語やフランス語を話す限りでは、彼は誰からも違和感を持たれることはない。彼はヨーロッパにヨーロッパの人間として生きることはできている。だが当の彼自身は、違和感と場違いの感覚から抜け出すことができない。彼は彼が誰なのかわからないのだ。生きてはいける。しかし、やはり彼は、自分が何者であるかというアイデンティティを問わずにはいられない。

 

アイデンティティを見失いつつ問い求める彼のこの姿は、現在のヨーロッパが抱える問題を突き詰めたところで生じるものだろう。つまり彼の姿は、EUの枠のもとで国境が実質無効なものになり、同時に長年にわたる移民や難民の統合、そしてその子孫の定着によって、もはや国家や民族のアイデンティティが希薄なものとなっているヨーロッパの映し絵であるのだ。もちろん今なお、ヨーロッパのなかにはさまざまなナショナル・アイデンティティが存在するし、それぞれの国家や民族と自分自身を同一化して生きている者も未だ多く存在する。しかしもはや少なからぬ者にとって、自らのアイデンティティは一つの民族や国籍とぴったり重なり合うものではなくなっている。そしてそれは、可能性としては、誰しもに生じうる事態なのだ。勿論そこで、「ヨーロッパ」というより包括的で柔軟なアイデンティティを持ち出す者もいるだろう。とはいえやはり理念としての「ヨーロッパ」は、かつてのナショナル・アイデンティティ以上に広く曖昧な概念であり、拠り所としてはあまりに抽象的だ。だからこそこの映画の主人公は、ふらふらと、よろめくように、暴力をかきわけながら、自分が掴まることのできる具体的なアイデンティティを探し続けることになる。

もっともこのことはもはやヨーロッパや欧米諸国にとどまる話ではない。むしろグローバル化と呼ばれる世界史上のプロセスの帰結として、そこに巻き込まれる誰しもに潜在的には生じうる話であるだろう。この映画の監督であるフィオナ・タンその人の経歴が、このことを静かに証言している。中国人とオーストラリア人の両親を持つ彼女は、インドネシアのスマトラ島、ブカンバルに生まれ、現在はアムステルダムとロサンジェルスで活動しているという。彼女に対して、中国か、オーストラリアか、インドネシアか、それとも「ヨーロッパ」か、アメリカか、そういった一つのわかりやすい大きな固有名詞をもって自らのアイデンティティを表現せよと要求するのは、おそらく無理難題なのだろう(印象的なことに、展覧会のキャプションで彼女の下の来歴欄にはつねに「インドネシアのブカンバルに生まれ、アムステルダムとロサンジェルスで活動している」と書かれていた。通例ここは、ただ一言、出身国を書いて済まされるような欄だ。しかしおそらく彼女にとっては、自分の生きた経歴を伝えるにあたって、これが最小限の説明なのだろう)。おそらくこのような問題に対して、「誰しもが成年になるとともに一つの(或いはせいぜい二つの)ナショナル・アイデンティティを選択しなければならない」と主張する者は一定数いるだろう。さしあたり現在の法律の話としては、この主張は一定の妥当性を持つ。とはいえ法律上のナショナリティが、自らが何者であるかという自己認識としてのアイデンティティと一致「しなければならない」というのは、もはや現時点においても、普遍性のない、現実にそぐわないフィクションでしかない。出生地も、国籍も、使うことができる言語も、その人を構成する一要素ではあってもその人そのものとは一致することがないという事態は、もはやそれほど珍しい事態ではなくなっている。長い間確固たるものであると妄信されてきた理念的な「大きな」アイデンティティは、実はそれほど普遍的なものでもなく、それどころかいつ崩れ落ちてもおかしくないものなのだ。我々の世紀はもはやそのような歴史的境位に入りつつある。反グローバリゼーションやナショナリズムの再燃は、そのような歴史的境位に対する反動ではあっても、ここまでの歴史を逆向きにするものではない。ひびのはいった大きな物語を壊さないように保守することはできるかもしれないが、現実がもはやどうごまかしてもその器に適さないものであるとわかってしまった以上、その物語のなかに全てを入れ込むことはできない。もし無理やりに押し込もうとするならば、破局的な崩壊という代価を払うことになるかもしれない。かつての大きなアイデンティティの物語は、現実に適さない、いつ崩れ落ちるともしれないものであることが明らかになった。そのことをまた、この映画は静かに、しかし決定的に証言している。

 

しかしアイデンティティ喪失の後でも、自分が何者であるかは問われ続ける。大きなアイデンティティの物語が崩れ落ちたときに、そこに残る可能性は、崩れ落ちた破片から成る、小さなアイデンティティの物語だろう。自分が生まれた場所、育った家、仲のよかった友人、旅行した土地、口にした食事、出会った人、観た映画、苦痛、快楽、肌触り、まどろみ、そして忘却のなかに沈んだあらゆるもの。そういった具体的な現実の欠片のすべてから人は、かろうじて自らのアイデンティティの物語を作り直すことはできるかもしれないのだ。とはいえそれもまた、いつ崩れ落ちるかもわからない、小さく脆い、壊れやすいものだろう。記憶の喪失とともに、瞬く間にバラバラに砕け落ちてしまうものだ。とはいえもはや、大きなアイデンティティは、多くの個人にとってはあまりに抽象的なものでしかない。だから結局できることは、砕け落ちたその破片を、もう一度拾い集め、たとえ以前と同じ形ではないにしても、もう一度組み合わせて、必要であれば別の瓦礫も用いて、新しいアイデンティティを作り直すことでしかない。たとえそれもまた、いつどのようにして崩れ落ち、忘却のなかに流れ去るものであるかわからないにしても。そうして、断片を集め直すというこのプロセスそれ自体がまた、一つの断片として、小さな物語の一部になる。だからこの映画の主人公は、何も思い出すことができないままに、それでもかつて自分と関係していた何かを求め歩くのだ。

やがて、辿り直す旅そのものが自らのアイデンティティの一部となる。忘却のなかに沈んだ事物に再び触れるというそのことが、たとえそれによって過去の記憶がそのままに蘇ることがないとしても、ひとつひとつまた新しい具体的な経験となり、物語の材料になる。とはいえこの経験の記憶もいつまた消えるかはわからないので、この試みもやがてまた、寄る辺なく無力なものであることが気付かれる。だからそれに彼が耐え抜くことができるのかということには、疑問符がついたままだ。しかし名前も故郷も失った彼は、大きなアイデンティティというフィクションによってこのような歴史的境位から脱出することもできない。彼が生きる限りは、断片的であろうと具体的な経験という材料をもって、小さなアイデンティティを作り直すことしかできないのだ。それはさしあたりひどく頼りなく、ひどく崩れやすいものに思われる。しかしそもそも、我々一人一人が実際に辿ることのできる現実の生は、壊れやすい、無常さと背中合わせのものだ。だからこそ我々のアイデンティティもまた、個人的なものであろうと集団的なものであろうと、いつ崩れ落ちるともしれないものなのだ。このことが露わになり自覚されざるをえなくなるというそのことが、予感され、既に現れつつある「歴史の未来」なのだろう。だからこそこの映画は、より大きな歴史の進歩などという未来の物語を作り出すことをせず、崩壊とわずかな可能性との狭間で揺れる小さな物語の姿を、おぼつかない不安定な仕方で、描き出しているのだ。

 

…今年になってから、フィオナ・タン「時間、時代の地理学」(Fiona Tan "Geografie der Zeit")展を観に行った。それについても少し書きたい。

この展覧会は、7つのビデオ・インスタレーションから成るもので、それぞれはこの映画ほどの強い印象はなかったが、とはいえ見ごたえのあるものだった。そこで気付いたのだが、彼女の多くのビデオ・インスタレーションは、映画「歴史の未来」と同じ問いを様々な仕方で主題化しているものだった。それはつまり、時間、時代の移ろいのなかで人を「何者か」たらしめているものは何であるか、という問いだ。それはもっと抽象的な言い方をすれば、変化のただなかで同一に見えるものを同一に見せているのは何であるか、という問題でもある。とりわけこの観点において、彼女の作品からは、いくつかの基本的なモチーフが読み取れるように思えた。以下に箇条書きにしたい。

一つには、時間、時代が流れゆくものであり、最終的には消え去るものであるということ。

二つには、その流れと消え去りのなかにはそれでも過渡のなかに辛うじて留まる同一性のようなものがあるが、その同一性それ自体もまた別の緩やかな変動のなかにあり、しかも曖昧で容易に取り違えられるものであること。

三つには、むしろその同一性を同一性のようなものとして際立たせるのは、場所であり、身にまとうものであり、表情であり、そういった移ろいやすく束の間に消え去るがしかし具体的なものであること。

四つには、この消え去りやすい具体的なものは容易に忘れられるが、それらのものが忘却から浮かび上がったときには、それまでとは別の具体性と現実性をもって、自明であったはずの同一性を揺るがし、同一性の見え方を変化させうるということ。

時間は流れ消えるものだという最初のモチーフだけを強くとると、彼女の作品は、ありがちな万物の生々流転説(全ては流れ消え去る、ゆえに空しいものである、というような説)を表現したものに思われるかもしれない。実際彼女の作品群は、ある程度までそのような世界観の上に成り立っているようにも思える。とはいえ私には、彼女の関心はむしろ、そのような「流れ」のなかにある「流れ去らないもの」にこそあるように思えた。より正確に言えばそれは、「流れのなかに一時的にであれ留まるように見えるもの」或いは「流れ去ったように見えて別の仕方で再び現れるもの」だと言えるかもしれない。そしてその「流れ去らないもの」の同一性≒アイデンティティは、逆説的なことに、「流れ去るように見えるもの」によって成り立っている。そしてこの「流れ去るように見えるもの」は、束の間のものとして現われ、過ぎ去り、時間とともに忘却のうちに沈むものである。具体的に言えばそれは消耗品であり、廃棄物であり、打ち捨てられたものである。個人のアイデンティティも、さらに言えば「我々」という集団のアイデンティティが今なお成立するとすればそれもまた、このような打ち捨てられ忘れられたものの集積の上にこそ、はじめて可能なものなのだ。

展覧会には、フィオナ・タンの「幽霊の家々Ghost Dwellings I-III」という三連作のビデオ・インスタレーションがあったのだが、その三作目は、2011年の東日本大震災による原発事故の結果として立ち入り制限区域となった福島の一地域を舞台に、2014年に作成されたものだった。こういう作品があることを全く知らずに、しかもキャプションを読まずに映像を見始めた私は、ある種虚を衝かれた思いだった。日本について、或いはこの事故についてよく知らない者は、キャプションを読むことなしには舞台がその場所であると気付くことさえできないかもしれない。それくらい映像は淡々と、打ち捨てられ放棄された事物を追っていた。このビデオ・インスタレーションの部屋にはあまり人がいなかったし、部屋に入って来ても件の映像を最初から最後まで観ている人は稀だった。それは仕方のないことかもしれない。東アジアの一地方の荒廃した町など、そこに打ち捨てられた廃屋や廃棄物など、中身を明らかにしないまま途方もなく積み上げられた黒いごみ袋の山など、多くの人にとってはそれが何を意味しているのか不明瞭なものでしかないだろう。しかし私にとっては、そういうわけにはいかなかった。それらの事物は、自分が生まれた国やそこに住む人々の生活のなかで生起し、廃棄され、多くの人によって少なくとも日常のレベルでは忘れられたが、しかし今なおそこに存在しているだろうものなのだ。もし我々が今なお、そしてこれからも「日本」や「日本人」という集合的なアイデンティティについて何かを言い、何かを考えることができるとすれば、ここに打ち捨てられたものたちは、そのアイデンティティを可能にする現実の事物でありうるだろう。きらびやかで見栄えのよい理想の物語だけによって作られたアイデンティティでは、現実を掬い取ることができない。むしろ現実の片隅に追いやられ忘れられた何ものかが、過去から現在を成しているものであり、おそらく未来をも成すものであろう。もっともこうして成されるアイデンティティも、しょせんは相対的で、その意味で小さな、いつ崩れ落ちるともしれないものでしかないだろう。それでもアイデンティティを語ることがやめられないとすれば、片隅に捨ておかれた現実は、捨て去ることのできないその一構成物なのだ。

残された者のエゴイズム、傷と嘘を携えて生きること(フランソワ・オゾン「婚約者の友人/フランツ」/François Ozon "Frantz" 2016年)

※2017年10月11日~14日、本記事を加筆修正しました。

 

フランソワ・オゾン「婚約者の友人/フランツ」(François Ozon "Frantz" DE/FR 2016)を鑑賞。

 

おおまかな感想、印象

独仏合作の映画。事前に読んだプログラムに「喪失と、悲しみと、愛が辿る不思議な道をめぐる時代を超えた反戦映画」と書いてあったこともあり、観る前は(もっと言うと観始めて前半の一時間くらいまでは)大戦の反省や独仏の友好といった良くも悪くも記念碑的なテーマを扱ったものだと思っていた。が、ストーリーの展開とともにこちらの先入見への裏切りと驚きが続き、気が付けばしっかりと物語に、そしてその中で動く人物たちにのめりこんでいる自分がいた。もちろん反戦映画ではあるのだろうけれど、それ以上に、人間とその感情を丁寧に描いている作品だったと思う。「戦争による悲劇とそれを乗り越える者たち」という綺麗な構図に甘んじず、戦争を生き残った者たちのエゴイズムを丁寧かつ時には露悪的にさえ表現しようとしていて、そこには作り手の、ある種の誠実さと野心を感じた。それはまた同時に、着想元となったエルンスト・ルビッチの作品で描かれていなかった人間の現実にアプローチする試みでもあっただろうと思う。繊細な映像表現もそこに相まって、端的に観てよかったと思えた映画だった。

 

おおまかな(前半の)あらすじ

この映画に関しては、物語の筋が決定的な役割を果たすものと思う。なので、(この作品がはたして日本で公開されるかはわからないが)これから観る人の映画体験を損なわないためにも、以下では詳しいあらすじを控えて、最低限の前置き的説明に留めておくことにする。

時代は第一次世界大戦直後、舞台は青年フランツの故郷であるドイツの小さな町。この町の他の多くの青年たちとともにフランツは、先の大戦のフランス戦線で命を落としてしまった。彼の両親も、彼の婚約者も、まだ彼の死を消化しきれていない。毎日彼の墓を参る婚約者アンナは、ある日、彼の墓にバラを手向けるフランス人の青年アドリアンに出会う。アドリアンは、大戦前にフランツがパリに留学していた際に知り合った友人であるという。フランツのかつての友人を、アンナとフランツの母は歓迎する。しかしフランツの命を奪った戦時の敵国フランスから来た彼を、フランツの父は受け入れることができない。彼の「この人殺しめ」という言葉に、アドリアンは頷き、それでもなおフランツへの思いを語ろうとする。アドリアンの真摯さに、最初はフランス語を聞くことさえ我慢ならなかった父も、少しずつだが、彼の言葉に耳を傾け始める…

というのが、映画の出発点であり、ここから物語が展開していく。これ以上の詳しいあらすじは、さしあたりここには書かない。

 

前半における、追憶からの過去の乗り越え

基本的には、原題の"Franz"が示す通り、戦死したフランツをめぐる物語である。彼はもはやそこにいないのに、話の中心にはいつも彼がいる。「彼のことは忘れて、新しい人生を始めるんだ」と、アンナに求婚する者もいる。だけれどアドリアンは、「フランツのこと忘れられると思う?」というアンナの問いかけに、そんなことはできないと答える。フランツへの追憶を共有する者同士として彼らは、心を寄せ合いはじめる。

やがて残された婚約者アンナは、残された彼の家族と、やはり残された彼の友人とともに、フランツの過去を辿り直しながら、未来に向って、止まっていた人生の歩みを始める。殺し合っていた敵国同士という障害を超えて、喪失の痛みを超えて。フランツの両親は、自分たちからアドリアンを夕食に招待するようになる。最初はフランツとの最後の思い出をうまく言葉にすることができなかったアドリアンも、次第にパリでの思い出を語るようになる。フランツの訃報後はドレスを着ることなど考えもしなかったアンナもまた、アドリアンと夜祭りに出かけ、彼と一緒に笑顔でワルツを踊るようになる。

ここまでは、痛々しくはあれど、その痛みとともに各々が喪失と悲しみを乗り越えていく話だ。コミュニケーションの強張りは緩んでいき、登場人物に明るい表情が増えていく。

 

後半において露呈するおのおののエゴと、思い出に混ざりはじめる傷

ところが、物語が進んで、登場人物のエゴが露わになる。幸せな人生を再開したいというエゴ、許されたいというエゴ、嘘をつくエゴ、そしてせめて、これ以上自分が不幸になりたくはないし、自分が誰かを不幸にすることで苦しみたくはないというエゴ。「もう何も感じたくなかったし、これ以上不幸でありたくなかった。でもそれってエゴイスティックなことだよね。」このエゴと向き合わねばならないということに苦しみ、逃げ出そうとし、懺悔する。思い出は時間とともに傷ついていく。

この映画は基本的にモノトーンなのだが、フランツの思い出が蘇るときにだけ、画面に色彩が戻ってくる。しかしこの思い出の色彩のなかにも、血と暴力の斑痕が混じるようになる。そしてついには、フランツへの思い出が後景に退く瞬間が来る。過去の思い出を抱くことにも、未来の幸福を願うことにも、もはや取り返しようのない傷がつき、ごまかしようのない嘘の影が差す。「もう遅すぎる。」この傷と嘘を捨てて生きることも、死ぬことさえも、もはや不可能になる。

 

最後のシーン、最後の台詞の意味について

映画の最後のシーン。かつてアドリアンがフランツとともに見たというルーブル美術館のマネの絵画の前で、アンナが呟く「この絵を見ると生きる気になるわ」という言葉。私は、映画を観終わったその瞬間から帰り道までずっと、この台詞を、もっと言えばこのシーンをどう理解してよいのかわからず、映画の内容を反芻しながら考えていた。

考えたすえにひとまずは、どうしようもない自分のエゴイズムを、それがもたらす致死的な傷を、その傷の撤回しようのなさを、アンナが凝視することができたからこそこの台詞が口にされたのだと、理解することにした。そうだとすると、アンナは撤回不可能な傷と嘘を携えてなおも生きることにしたのだということになるだろう。

とはいえもしかするとこの台詞は、自分の傷を隠すため、そして他人をこれ以上傷つけないために嘘をつきつづけた彼女の最後の嘘だったのかもしれない。そうだとしても彼女はこの傷と嘘を捨て去ることはできないが、そんな彼女自身の姿をアンナは目の前の絵のなかに見ていたのだろうか。

前者であれば少しだけ救いがあるような気もするが、それも決して、手つかずの無垢な救いではない。

 

…以下、本筋からは逸れるちょっとした感想を箇条書き

・当時のドイツにおけるナショナリズムや反仏感情の描写が印象に残った。フランツの父も当初アドリアンがフランス人だと知るや態度を急変させたし、地元の居酒屋では傷痍兵を含む男連中が大声で祖国を称える頌歌を合唱し、フランス人と親しくなったフランツの父はかつての友人から距離をおかれるようになった(とはいえ一方で若い女の子たちがフランス人に憧れているような描写もあったけれど)。ある程度まで連合国の世界観に乗っかって(或いは乗っからざるをえなくて)ナチズムに根本的な責任を負わせるものの見方をした(せざるをえなかった)であろう第二次大戦後と、そうではなくてあくまで戦争に負けたというだけの第一次大戦後とでは大分トーンが違ったのだろうか。それとも敗戦直後の敵国人に対する態度なんて一般にこんなものなのだろうか。もちろん、映画中の描写がどこまで当時の現実に即しているのか、という問題もあるのだけれど…

・回想でもそれ以外でも何度かルーブル美術館のシーンがあって、そのなかでもマネのある絵画が物語の鍵の一つになっていた。そしてこの映画ではじめて、当時はマネの絵がルーブルに飾られていたのだということを知った。ちなみにその鍵となる絵画は、かの「草上の昼食」の下に展示されていた。これをオルセーで観た人間としては、ルーブルにマネが飾られているのはなんとなく不思議な感じがした。

 

 

※以下の文章は2017年10月11日~14日に加筆。

物語上の重要なネタバレも含むので、まだ観賞していない方はご注意を

 

1932年のルビッチ映画と2016年のオゾン映画の比較

この映画「婚約者の友人」を鑑賞し記事を書いてからしばらくして、その着想元となったエルンスト・ルビッチの映画(Ernst Lubitsch "Broken Lullaby" US 1932)も観ることができた。ルビッチの映画そのものについては別に記事(「贖罪と嘘、演出された宥和と人間性の切り詰め」)を書いたのでそちらを読んでいただればと思うのだが、せっかくなので、ルビッチの映画と比較した上で思うところを幾つか加筆しておきたい。

なお以下の文章は、基本的に読む方がオゾンの映画「婚約者の友人」を既に鑑賞しているということを前提に書く。ネタバレに配慮もせず、かつ細かいあらすじの説明もしないので、ご承知おきを。

 

オゾン映画の前半、筋をなぞりつつの視点の逆転

まず言えるのは、本作「婚約者の友人」のとりわけ前半は、かなりの程度までルビッチの映画の筋や描写をなぞっているということだ。登場人物の名前こそ変えられているが、アドリアンとアンナ、そしてフランツの両親が出会い仲を深めていくドイツの町での描写は、かなりの程度までルビッチの映画が再現されている。上の本記事に書いたドイツ人グループの反仏感情の描かれ方にしても、それはほとんどそのまま1932年のルビッチの映画のなかに見いだされるものだった。この時代にあえてモノトーンを基調にした映像作品を作るということには、もしかしたらルビッチへのオマージュという理由があるのかもしれない。

とはいえ全てがルビッチの映画そのまま、というわけではない。両映画の間の重要な相違点として、ルビッチの映画が最初から最後までフランス人青年(1932年版ではポール、2016年版ではアドリアン)に定位したものになっているのに対して、オゾンの映画ではむしろ戦死した青年(1932年版ではヴァルター、2016年版ではフランツ)の婚約者(1932年版ではエルザ、2016年版ではアンナ)の視点が採られているという点だ。ここでは、視点がほとんど逆転されている。

実際、1932年のルビッチ版では、フランス人青年ポールがドイツの町にやって来た本当の理由(自分が戦地で命を奪ったドイツ人青年の家族への贖罪)は、映画のそもそもの最初から観る者に共有されている。だからこちらの映画では、フランス人青年ポールが自分の意に反して嘘をつかざるをえなくなっていくそのプロセスや、そこからドイツ人青年ヴァルターの家族や婚約者と意図せず仲を深めていくことになるそのプロセスにこそ、物語上の軸があると言える。

他方2016年のオゾンの映画では、戦死したドイツ人青年フランツの婚約者であったアンナの視点が採られている。それゆえ映画の前半において、フランス人青年アドリアンはあくまでも婚約者の友人として現われることになるし、彼がフランツの命を奪った張本人であるというその決定的な事実は映画の中盤になってようやく——アドリアン自身がその事実をアンナに告げるその時になってようやく——観る者に知らされることになる。

そのため私のようにルビッチ版を観ていないままオゾン版を観た者にとっては、映画の中盤になって突然、物語の前提が大きくひっくり返ることになる。スクリーンの上のアンナの驚きとともに自分自身も驚かされるというこの映画経験はそれ自体なかなか衝撃のあるもので、今でも印象に残っている(だからこそこの映画の記事を書く際にはいつも以上に「ネタバレ」に配慮した)。

もっとも、ルビッチ版を観ていた者は、オゾン版にそれとは違う楽しみ方を見いだすことができるだろうと思う。というのも、既に物語の大筋やオチを知っていれば、視点の相違やそれによるものの見え方の相違を楽しむことができるだろうからだ。

いずれにしても、着想元であるルビッチ版の筋やモチーフをなぞりつつ視点を逆転するというこのことが、この映画の前半から中盤にかけての魅力をなしているように思う。

 

後半、ルビッチ版において描かれなかった現実のエゴイズム 

もっとも、2016年のオゾン映画において1932年のルビッチ映画の筋やモチーフがなぞられているのは前半まで、より正確に言えばフランス人青年アドリアンがアンナのピアノ伴奏のもとでフランツの家族のためにバイオリンを演奏するそのシーンまでだ。このシーンを境に、オゾンはルビッチ版で描かれなかったその後の現実を描き始める。

このバイオリン演奏は、ルビッチ版では最後のシーンを構成している。そこでポール(=アドリアン)は、真実を知りつつも彼を受け入れた婚約者エルザ(=アンナ)のピアノ伴奏とともに、息子の逝去を嘆く家族のために、ヴァルター(=フランツ)の遺品であるバイオリンを演奏するのだ。この演奏のうちに、ヴァルターの喪失を嘆く家族や婚約者は彼らが負った傷の埋め合わせを見いだしており、彼らに対する贖罪を求めていたポールもある種の自己犠牲をもって宥和のために奉仕することになる。演奏の最後、彼らが見せる柔らかな笑顔は、それぞれが抱いていた問題がある種の宥和に至ったことを象徴しているだろう(この点について詳しいことは、1932年のルビッチ映画について書いた記事を読んでもらえたらと思う)。

しかしながら、この宥和は、演出されたものであり、考えれば考えるほど無理のあるもの、様々な疑問が生じてくるものだ。ポールとエルザはヴァルターの両親に対して真実を隠し続けることができるのか。そもそもポールは、フランスでの彼の生活を捨ててヴァルターの代わりを務め上げることができるのか。もしそれができたとしても、そのとき彼らは家族の幸福のために自己犠牲の苦しみを生きることになってしまうのか。もし彼ら自身がそこに幸福を見いだすのだとしたら、それはもはやヴァルターの記憶を忘れ去ってしまうことではないのか。その根底には、贖罪の皮をかぶった人間のエゴイズムがありはしないだろうか。

2016年のオゾン映画は、まさしくこれらの疑問を、ルビッチ映画における演出された宥和では後景に退いている現実を、描いている。フランス人青年アドリアンは、フランツの両親やアンナが求める代理としての役割を演じきれず、彼自身の婚約者が待つフランスへと帰ってしまう。残されたアンナはというと、婚約者であったフランツの命を奪った当人であるアドリアンに恋心を抱いてしまったことに苦しんだ末、その思いを成就させようとアドリアンを追ってフランスへ向かうが、そこでアドリアンに婚約者がいたことを知ってしまう。二人ともが、フランツへの追憶やその両親への贖罪という綺麗ごとには収まりきらない自分自身の生活の欲望を抱いていることに直面する。そしてそれは全て、フランツの両親への嘘によって成り立っている。

オゾンの映画「婚約者の友人」は、とりわけアンナに定位しながら、彼女が直面せざるをえなかった現実のエゴイズムの軌道を追っていく。ここにこそ、オゾンの映画の本領があるだろう。亡き婚約者への追憶の思いと彼の命を奪ったフランス人青年への思慕の思いとの間に揺れるアンナは、傷を負い、嘘をつき、どうしようもない自らのエゴイズムに直面せざるをえなくなる。ここにはもはや無垢な救いはない。それでもそこに、自らのエゴイズムの前に立ち尽くすアンナのもとに、ひとかけらでも救いがあるかどうか。この問いが、映画の最後において開かれたまま提示される。